花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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最終幕

久遠

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 沈黙した室内に、二人分の呼吸のみが微かに鳴る。揺るがぬ宵君とは対照的に、隠そうともせず暁光の眼は狼狽に染まった。昼間の喧噪けんそうの中であれば、己が耳の聞き間違いと思えただろう。或いは、意識が朦朧とするほどの陽炎の中であれば、白昼の悪夢と思えたかもしれない。

「……その様子を見るに、私が寝室で天寿を全うするのを待てと申しておるわけではないと伝わったらしいな」

「それだけは……それだけはなりません」

 思わず宵君の肩を掴み、暁光はかぶりを振った。これほどまで、宵君の意がめねば良かったと願ったことはない。

「先陣は私と月香げっかの一騎のみで。其方の本陣を中心に九つの隊を成し、私の死を確かめ次第、平地の右方から斜め掛けに全軍出陣せよ。右翼の将は京宵に。あれはいずれ、必ず皇帝に届く」

「……従えません」

「従え」

「嫌です」

 縋っていた宵君の肩が軋む。諭すように柔く手を添えられても、暁光は両手の力を緩めなかった。脳髄が沸き立ち、指先が氷のように冷める。視界を滲ませる恐れを堪えることもできず、暁光は唇を噛んだ。

「貴方は、京で最も、戦場で死んではならぬ御方です。私どもが全て滅びたとしても、貴方だけは死なせてはならない。誰もが深く、そのような忠誠を刻んで生きております。皆、この戦の勝算に絶望し、密かに貴方にお逃げ頂く策を練っておりました。私の指示ではありません。彼らの判断です」

 暁光の声は震え、ついには手に籠める力の加減さえ忘れてしまったので、宵君は無理矢理それを引き離す。しかし、衰えぬ膂力りょりょくを目の当たりにしたところで暁光は怯まなかった。

「そんな彼らに、私に、貴方に御自おんみずから先陣を切らせるばかりか……たったお一人で戦わせ、その最期をただ眺めていろと仰せか」

「……先に約定やくじょうたがえた嘉阮などの為に、『私が死ぬまで貴国に対し武力を向けぬ』などという誓いを守ってやる筋合いはない。かといって、門番の忠義と誇りも、私の滅びなど望んではいない」

 宵君は静かに、自らの右頬を撫でる。

「つまり、義理立てや弔いの類ではないのだ」

 行燈あんどんの灯が揺らめく。
 如何に王が愚かであろうと、嘉阮の歴史は、その惨憺さんたんたる道程は偽りではない。後任の将軍の列国に対する猛攻、その国土の拡がりも尋常ではないと聞く。本来、嘉阮には沖去など敵ではないのだ。実のところ、宵君を過剰に恐れているのは、嘉阮国内で皇帝ただ一人である。

「私は元より、京のにえである。京を愛し、京に愛され、民に崇められる光の柱。京と民に不可避の災厄が降りかかるとき、私の天命は果たされる」

 常に優しく、強く照らしてくれた光を、神聖なるただひとつの王を失った民は、兵はどうなるか。烈火の如き怒り、嘆きの濁流となり、歩兵の一人一人さえ、理性を失くした獣、修羅へと変貌するだろう。

「其方は現在の兵の士気が極限であると申したが、それは違う。沖去軍の士気が、猛威が極限となるのは出陣の瞬間である。恐らく私が死ぬより先に、末端は雪崩れ込むであろうが」

 宵君を討たれた将達は、己が立場さえ忘れて仇討ちと殉死の精神を胸にひた走り、その後には約十万の軍勢が続く。最早それは人の行軍などにあらず、十万の殺戮の鬼の群れである。

「人の情念に勝る軍略など存在し得ぬ。そしてそれほどの心を動かせる存在は、この京にひとつしかない。この身に負い続けた天命を果たすときが来た」

 ふらりと立ち上がり、膝を折る暁光に、宵君は決して声を荒らげなかった。こんなにも早く宵君が死んでは、京の為に弟の命を差し出した暁光があまりに報われぬことを承知の上で苦痛を強いている為だ。

「案ずるな。恭也きょうや清高きよたかの妻が伴侶を亡くして尚その遺志を強く掲げ、子を守り生き続けるように、京も私を失った程度で倒れはせぬ。それにのう、暁光」

 その肩に手を添え、宵君は暁光の頭を撫でた。吉祥丸きっしょうまる、と無邪気な笑顔を褒めた昔日と同じように、大きく優しい手が金糸の髪を梳く。

「死んではならぬのは私ではない。后妃とその子である。二人さえ生きていれば、この京は息絶えぬ」

 やがて静かに頷き、暁光は宵君を見上げる。その慈愛は、決して底に足がつかぬ沖のように深く、去り行く宿命は覆せない。「ならばせめて」と絞り出した声に、宵君は何だ、と優しく答えた。

「后妃に、貴方との別れの時間を。貴方の御霊がまだ御身に居られるうちに、宵君のお討死を叫ばせましょう。貴方が逝かねばならぬことは理解できましたが、遺体が無残に弄ばれる事態だけは、如何どうしても我慢がなりません。どうか私の我儘を、お許し下さい」

「……相わかった。其方に任せる」

 此度こそ、后妃は京を背負わねばならない。暁光、京宵の支えはあるものの、宵君の存在はあまりに大きく、その喪失も京の安寧の為といえど高すぎる対価である。そんな京を、民を再び興さねばならない后妃には、暁光達の存在以上の支えが必要だった。

「今宵は休め。明日も軍議に明け暮れねばならぬ」

 夏の雨の香りが、木枠の丸窓から舞い込む。暁光は宵君の寝室の扉を閉ざし、一歩歩み出たところでくずおれそうになる下肢を何とか押し止め、千里にも思える廊下を見上げた。


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