花浮舟 ―祷―

那須ココ

文字の大きさ
40 / 59
最終幕

久遠

しおりを挟む
 沈黙した室内に、二人分の呼吸のみが微かに鳴る。揺るがぬ宵君とは対照的に、隠そうともせず暁光の眼は狼狽に染まった。昼間の喧噪けんそうの中であれば、己が耳の聞き間違いと思えただろう。或いは、意識が朦朧とするほどの陽炎の中であれば、白昼の悪夢と思えたかもしれない。

「……その様子を見るに、私が寝室で天寿を全うするのを待てと申しておるわけではないと伝わったらしいな」

「それだけは……それだけはなりません」

 思わず宵君の肩を掴み、暁光はかぶりを振った。これほどまで、宵君の意がめねば良かったと願ったことはない。

「先陣は私と月香げっかの一騎のみで。其方の本陣を中心に九つの隊を成し、私の死を確かめ次第、平地の右方から斜め掛けに全軍出陣せよ。右翼の将は京宵に。あれはいずれ、必ず皇帝に届く」

「……従えません」

「従え」

「嫌です」

 縋っていた宵君の肩が軋む。諭すように柔く手を添えられても、暁光は両手の力を緩めなかった。脳髄が沸き立ち、指先が氷のように冷める。視界を滲ませる恐れを堪えることもできず、暁光は唇を噛んだ。

「貴方は、京で最も、戦場で死んではならぬ御方です。私どもが全て滅びたとしても、貴方だけは死なせてはならない。誰もが深く、そのような忠誠を刻んで生きております。皆、この戦の勝算に絶望し、密かに貴方にお逃げ頂く策を練っておりました。私の指示ではありません。彼らの判断です」

 暁光の声は震え、ついには手に籠める力の加減さえ忘れてしまったので、宵君は無理矢理それを引き離す。しかし、衰えぬ膂力りょりょくを目の当たりにしたところで暁光は怯まなかった。

「そんな彼らに、私に、貴方に御自おんみずから先陣を切らせるばかりか……たったお一人で戦わせ、その最期をただ眺めていろと仰せか」

「……先に約定やくじょうたがえた嘉阮などの為に、『私が死ぬまで貴国に対し武力を向けぬ』などという誓いを守ってやる筋合いはない。かといって、門番の忠義と誇りも、私の滅びなど望んではいない」

 宵君は静かに、自らの右頬を撫でる。

「つまり、義理立てや弔いの類ではないのだ」

 行燈あんどんの灯が揺らめく。
 如何に王が愚かであろうと、嘉阮の歴史は、その惨憺さんたんたる道程は偽りではない。後任の将軍の列国に対する猛攻、その国土の拡がりも尋常ではないと聞く。本来、嘉阮には沖去など敵ではないのだ。実のところ、宵君を過剰に恐れているのは、嘉阮国内で皇帝ただ一人である。

「私は元より、京のにえである。京を愛し、京に愛され、民に崇められる光の柱。京と民に不可避の災厄が降りかかるとき、私の天命は果たされる」

 常に優しく、強く照らしてくれた光を、神聖なるただひとつの王を失った民は、兵はどうなるか。烈火の如き怒り、嘆きの濁流となり、歩兵の一人一人さえ、理性を失くした獣、修羅へと変貌するだろう。

「其方は現在の兵の士気が極限であると申したが、それは違う。沖去軍の士気が、猛威が極限となるのは出陣の瞬間である。恐らく私が死ぬより先に、末端は雪崩れ込むであろうが」

 宵君を討たれた将達は、己が立場さえ忘れて仇討ちと殉死の精神を胸にひた走り、その後には約十万の軍勢が続く。最早それは人の行軍などにあらず、十万の殺戮の鬼の群れである。

「人の情念に勝る軍略など存在し得ぬ。そしてそれほどの心を動かせる存在は、この京にひとつしかない。この身に負い続けた天命を果たすときが来た」

 ふらりと立ち上がり、膝を折る暁光に、宵君は決して声を荒らげなかった。こんなにも早く宵君が死んでは、京の為に弟の命を差し出した暁光があまりに報われぬことを承知の上で苦痛を強いている為だ。

「案ずるな。恭也きょうや清高きよたかの妻が伴侶を亡くして尚その遺志を強く掲げ、子を守り生き続けるように、京も私を失った程度で倒れはせぬ。それにのう、暁光」

 その肩に手を添え、宵君は暁光の頭を撫でた。吉祥丸きっしょうまる、と無邪気な笑顔を褒めた昔日と同じように、大きく優しい手が金糸の髪を梳く。

「死んではならぬのは私ではない。后妃とその子である。二人さえ生きていれば、この京は息絶えぬ」

 やがて静かに頷き、暁光は宵君を見上げる。その慈愛は、決して底に足がつかぬ沖のように深く、去り行く宿命は覆せない。「ならばせめて」と絞り出した声に、宵君は何だ、と優しく答えた。

「后妃に、貴方との別れの時間を。貴方の御霊がまだ御身に居られるうちに、宵君のお討死を叫ばせましょう。貴方が逝かねばならぬことは理解できましたが、遺体が無残に弄ばれる事態だけは、如何どうしても我慢がなりません。どうか私の我儘を、お許し下さい」

「……相わかった。其方に任せる」

 此度こそ、后妃は京を背負わねばならない。暁光、京宵の支えはあるものの、宵君の存在はあまりに大きく、その喪失も京の安寧の為といえど高すぎる対価である。そんな京を、民を再び興さねばならない后妃には、暁光達の存在以上の支えが必要だった。

「今宵は休め。明日も軍議に明け暮れねばならぬ」

 夏の雨の香りが、木枠の丸窓から舞い込む。暁光は宵君の寝室の扉を閉ざし、一歩歩み出たところでくずおれそうになる下肢を何とか押し止め、千里にも思える廊下を見上げた。


しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

処理中です...