花浮舟 ―祷―

那須ココ

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最終幕

花雨

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 広大なる草原を挟んで総勢四十万の大軍勢が対峙したのは、しくも如月の明朝であった。

 沖去軍十万に対し、嘉阮の軍は粗く見ても三十万強といったところで、やはり勝利への道筋はとざされている。誰もが、宵君と后妃、その御子さえ生き延びて下されば、とひとひらの希望を胸に、異様な圧を放つ嘉阮軍を睨んでいた。騎兵の手綱を握る手は、不安と怯れに震えている。


「まことに、宵はここまで来ぬのだな?」

 嘉阮本陣の天幕では、黄金で飾られた甲冑を纏う皇帝が落ち着かない様子で将軍に詰め寄っていた。佳凛かりんから宵君は戦に出ぬと聞いていたのに、今しがた伝令が沖去の本陣に宵君の馬が居ると告げたので、酷く混乱している様子である。ご心配召されますな、と若い将軍は絵地図に指を滑らせ、目を細めた。

「いくら稀代の傑物けつぶつといえど、病床の身で我が軍を抜くのは不可能。仮に前線が抜かれたとしても、この本陣を護るは王宮直属の精鋭部隊。その上俺の軍略は完璧です。どうぞ安心して、この蘇芳すおうにお任せを」

 不敵な笑みを浮かべる男に、皇帝はようやく頷いた。赤い眼が盤上にある沖去軍の本陣を捉え、眉を顰める。

 ――まことに宵君が本陣に居るのなら、こんなにも分かり易い砦に天幕を張るだろうか。この本陣は囮か? 否、あれほどの体躯の黒馬が他に居るだろうか。戦場で馬が主の傍を離れるはずもない。

 妙だ、と思わず呟いた声は、皇帝には届いていないらしい。先ほどまでの怯えっぷりはどこへ行ってしまったのか、既に御簾の裏で約束を守るよう釘を刺す佳凛を宥めている。蘇芳は溜息を噛み殺し、沖去の布陣に抱いた違和感に対する思考に集中した。


 沖去軍本陣。暁光は宵君の居る天幕の前に立ち止まり、肚の中を巡り続ける不快感に耐える。

 宵君が折を見て腰を上げ、月香に跨れば、黙って見送らなければならない。将も兵も、皆それぞれが王と崇める宵君だけは生かす心づもりで臨んでいるのだ。それはある種の救いである。唯一全て明かされている暁光には、その救いを抱くことも許されなかった。

「暁光」

 すぐ近くから、金木犀が薫る。隣を見上げるとそこには、陶器の仮面と、黒い甲冑、鈍い金の髪飾りと耳輪。過去の戦と変わらぬ出で立ちの宵君が居た。どれほど本陣の前に立ち尽くしていたのか、いつの間にか両軍が一切動かぬまま日が傾きかけていた。よくなめされた革の手套が、暁光の肩に掛けられる。


出陣る」


 暁光はその場に頽れるのを拝礼して誤魔化した。月香の鼻を撫で、鞍に脚をかける音が霞む。しばらく見上げることができなかったが、この目に焼き付けねば後悔する、と自分を叱咤し暁光は顔を上げた。


 それは酷く果敢無はかなく、美しい背中だった。



 ゆっくりとした脚取りで、月香はいくつもの天幕の間を通る。野営の支度に就いていた者達が慌てて跪く。淀みなく前線へ向かう後姿を呆けて見詰めながら、陛下直々にげきを授けに参られるのだろうか、しかし、護衛も伴わずに、とささめく声が波紋のように広がった。


「今宵は、良い月だ」

 のう、月香。呟く声に、月香は脚を止めた。それ以上、宵君は月香に何も語らなかった。

 ――宵闇に生まれた天命なれば、宵闇のうちに果たそう。


 陛下、それ以上前に出られては、矢の射程に入ります。恐る恐るかけられた声に、宵君は振り返らず、あぁ、と答えた。どうかお下がり下さい。その声を聴き終える前に、宵君は姿を消した。


 時に、月香という馬は、正に宵君の為に生まれた馬といえるだろう。美しい黒い毛並みに絹のようなたてがみ。並の馬では太刀打ちできぬ膂力と、その巨体に似合わぬ疾さ。何より、宵君と深く繋がる、強く繊細な精神を持っていた。


「隊長! 陛下が、陛下が!」

「見ていた! 我らも追うぞ、何をお考えなのだあの御方は……!」

 前線に敷かれていた布陣は、宵君の出陣より数瞬遅れて大騒動となっていた。宵君と言葉を交わしていた歩兵が、自分の見間違いであると信じてしばし目を凝らしていた為だ。報告を受けた部隊長も初めは酒に酔って不敬な戯言を、と罰しようとしたが、大勢の雑兵達が天幕に雪崩れ込み皆口々に同じようなことをいうので、ついにその眼で認めたのだ。敵陣に一騎で駆ける宵君の姿を。

「無理です、月香の脚に追いつける馬など……」

「赤鱗ならどうだ! すぐ将軍にお伝えせよ!」

「その必要はない」

 耳が割れる程に騒然とする兵達を黙らせたのは、暁光の声であった。その姿を見るや否や、集まっていた部隊長達は跪くことも忘れてその身に縋りつく。

「将軍! このようなところで何をされているのですか!」

「早う陛下をお護りせねば……しかし我々の馬ではとても追いつきません、将軍、我々も全力で追いますゆえ、どうか陛下を――」

「聞こえなかったのか」

 既に歩兵、騎兵の中には、慌てて己の陣を飛び出し後を追うものもあった。指の隙間から砂が零れるように、続々と草原へ散らばる。

「その必要はない、と言った」

「意味が……分かりませぬ」

「私が号令を出すまで、陛下を追ってはならぬ」

 暁光の言葉に、誰もが言葉を失った。その時、遠く響く怒号、喚声かんせいに気づく。自陣の喧騒に掻き消されていた嘉阮軍の咆哮に将達は青ざめ、雑兵の群れを踏み倒して前線に飛び出した。

「まさか……」

 陛下が敵陣に届いたのか。ではこの喚声は? 陛下がお一人で戦っておられるのか? 固唾を飲んで、暗闇の中に無数に灯る篝火に目を凝らす。



 宵君襲撃の騒ぎは、ほどなく嘉阮本陣まで届いた。報告を聞き、皇帝よりも先に佳凛が身を乗り出す。

「宵君が?」

「は、現在前線の部隊が奮戦しております」

「なんてこと……」

 紅顔の頬が青褪め、唇を戦慄かせる。さっと皇帝を振り返り、寝台の下に跪いた。

「陛下、今すぐに宵君への攻撃をやめさせて下さんし! お約束して下さったではありんせんか、宵君を私に下さると!」

 皇帝は気まずそうに唸り、しかしのう、と口元を歪めるばかりである。佳凛には分かっていた。皇帝が約束を守るつもりがないこと。仮に約束通りに宵君の生け捕りを試みたところで、今、宵君を傷つけるななどという命令は、いくら皇帝の勅命であったとしても兵が聞くとは限らないこと。

「宵様……」

  佳凛は天幕から飛び出そうとするが、衛兵に容易く留められてしまう。佳凛は唇を噛み、その場に泣き崩れた。

 ――なにゆえ、貴方様はいつも、私の指をすり抜けて行かれる。


 夕餉に使う塩の壺を覗き込んでいた嘉阮の兵は、突如背筋に走った寒気に顔を上げた。黒い。思考する前に、男の肩を鉄のような蹄が押し潰し、砕く。不恰好な呻きに振り返った別の兵が、その黒い巨大な影の下に横たわる男が死んでいることに気づき、みるみる顔を強張らせた。

「てっ……」

 敵襲、と叫ぶ前に、無残にも首を刈り取られる。しかし誰が叫ばずとも、その騒ぎは瞬く間に軍内に広がり、宵君の周りには無数の兵が集まった。薄皮の如き最前線の中央だけでもこの数か。

 恐れ、引き攣る呼吸。単身で奇襲をかけた敵の正体が宵君であると悟り、これ以上ない武功に胸を躍らせる気配。後者の類は殺すのは惜しいと思ったが、次々と襲い来る敵を差別する余裕などなかった。


 愛刀、丹桂の刃が鈍くなってきた、と宵君の背に汗が伝う頃、嘉阮本陣から思わず駆け出した蘇芳が、初めて間近で敵国の王君を見た。

 清らかな信仰を集める光の君、と聞いていた印象とは全く異なり、禍々しい鬼のようだと息を呑む。一対の角が目を引く不気味な仮面と、どろりとした液体に汚れた黒い武具、恐ろしい形相の黒馬。


 篝火にゆらゆらと照らされるその脚元に、夥しい骸が折り重なっていることに気づいた。蘇芳自身、少数の精鋭部隊を率いて同じような奇襲に及んだ経験はあるが、宵君の周りに沖去の兵の姿はない。まさか、たった一人で?
 視線を合わせたまま動かぬ両将に、雑兵達は自然と二人の間から避け、円形の人の柵を作った。




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