43 / 59
最終幕
秘苑
しおりを挟むぽつぽつと野営の火が灯る平原を見下ろしながら、赤鱗は適当な草の芽を食んだ。隣でただ沈黙し彫像のように佇む、自分よりも一回りは大柄な黒馬。
赤鱗は月香がどうにも苦手だった。主上が待てというなら大人しくこの朴念仁と共に待っているが、出来ることなら早く話談を終え、天道のような笑顔で撫でて欲しい。月香の機嫌を損ねぬよう、赤毛の馬は小さく鼻を鳴らした。
藪に紛れた闇の中で、暁光は馬を残して来た道を振り返る。内心で赤鱗に詫び、あとで美味い褒美をとらせよう、と瞼を伏せた。
「其方は私を恨むか」
唐突に問いかけられ、暁光は思わず宵君の横顔を見る。そこに陶器の仮面はなく、左側に座る暁光の眼には、ただ美しい月のような男の顔が映った。
そうだ、宵君は月なのだ、と暁光は唇を噛む。決して欠けることのない、優しき光。随分昔に失われた陽を未だ照り返し、忠義の輝きを讃える健気な月。
「恨みなどありません」
「兄弟水入らずを邪魔立てした」
「そうさせたのは、私の落ち度です」
恨み辛み、怒りや憎しみ。暁光にとって宵君は、そのような念を向けるべき相手ではない。彼の如何なる処断も、無慈悲な刃も、すべてはこの京の為振るわれる。その背に負っているものは、幻驢芭当主としての責務だけではない。
十七年前、御所に仕官する公家を中心に多くの犠牲を出した天然痘の大流行。時の御門と后妃さえも、その恐ろしい病の牙に掛かり崩御した。不測の事態が宵君に齎した重圧、絶望は計り知れない。本来根である役目のところを地上へ祭り上げられ、多くの怨嗟と賛美をその身に浴びた。
――何より。
暁光は押し黙った横顔をただ眺め、自らに小さく寄りかかる体温に拳を握る。宵君とて、あの病で死線を彷徨った。御門の崩御を見届けることの出来なかった両眼は罰とばかりにその視力を奪われ、暁光は宵君が壁に手を伝わせて歩む姿を何度も見ている。だが。
『沖去の月詠の君、是人に非ず』
たった一年のうちに、宵君はそのように恐れられた。一年の間、宵君は血を吐きながら愛刀を振るい、無茶な鍛錬を重ねたのだ。智略のみならず武の才にも恵まれ、痕の残るような傷など一切負ったことのなかった身体が、この壮絶な一年で刀傷に塗れ、纏う気配もどこか変わった。宵君という人は、自らが倒れぬよう怪物に成ったのだ。
「貴方が見据えているものは、今この夜露が滴り落ちる瞬間から五百年先までもを超える、膨大な時間と途方も無い深淵です。どうして弟の仇などという些細な理由で、私が貴方を穢せましょうか」
無論人の命は軽くない。洸清の命とて、暁光には己が信念と天秤で釣り合うほど愛しいものだった。しかしそれは、暁光にとってである。
「天の災いに怨恨を燃やしたところで、どうにもなりません。ならば私は、五百年先で私と同じ涙を呑む者がないよう、力の及ぶ限り天を援けましょう」
「はは、其方は我が行いを天災と申すか」
「成る可くして成るもの、という意味では」
さらりとその黒髪に指を通し、もしこの聖者を下賎な人民が害そうなどと企てたならば、必ずこの私が焼き尽くそう、と唇を引き結ぶ。
――どうかこの月が、久遠に沈まぬように。
儚い命が潰えたとしても、その姿だけは、この地に蘇り続けるように。忠誠と祈りを捧げ、暁光は紅い眼を伏せた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる