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【ゾンビの章】第9幕「愛息の帰還」
【ゾンビの章】第9幕「愛息の帰還」
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【20日前 1月26日 町田】
受話器を握りしめる手が震えていた。
「・・・宮守ですが、」
数秒の沈黙が続く。
耳に当たる受話器が冷たく感じる。ようやく相手が口を開いた。
「横須賀中央署の龍といいます」
秀明の遺体の身元確認をした時、病院の霊安室で会った年輩の方の刑事だった。
「なにか・・・、ありましたか?」
口の中がからからだった。
「なにかあったか、とはどういう意味です」
慌てて言いつくろう。「だって、こんな夜中に刑事さんから突然電話がかかってくれば、誰だってそう思うでしょう」
「いや、すみません。まるで、何かが起きるのを知っていたように聞こえたものですから。刑事の職業病みたいなものです。それに」龍はいったん間を置いてから言った。「実は、あったんですよ」
えっ・・・!私は言葉を飲んだ。
「お話ししにくいことなんですが・・・」
「一体、なにが起きたんです?」
「・・・息子さんの遺体が何者かに盗まれました」
言葉が鼓膜に突き刺さった気がした。
「息子さんの遺体が消えたんです」
「消えたって・・・、どういうことです?」
「気がついたのは、夜になってからです。病院の警備員が見回りの時に見つけたんですよ。地下にある遺体安置室では、一人一人の遺体がロッカーのような縦長の引き出しに入れられているんですが、警備員が部屋に入ると、そのうちのひとつが開いていたというんです。で、中の遺体がなくなっていた。そこに入っていたのが、秀明さんの遺体だったんです」
「それで・・・・」一度、生唾を飲み込む。「秀明は見つかったんですか?」
「いいえ、通報を受けて、我々も周辺をくまなく捜索しましたが、いまだに発見には至っていません。遺体安置室には、秀明さんが事故に遭った時に着ていたスーツも保管してあったんですが、犯人はご丁寧にも、それまで持ち去っているんですよ。さらにですね」
「まだ何かあったんですか?」
「当直の医者が、殺されていました」
医者が殺された・・・。
「28歳の男の医者ですが、ひどい有り様でしたよ。20年以上この仕事をやってますが、あんな凄惨な犯行現場はあまり見たことがありません。首がですね、引きちぎられていたんです。切断じゃありませんよ。文字通り、引きちぎられた感じでした。物凄い力でね。とても人間技とは思えません。おまけに左手まで無くなっていました」
首と腕がない・・。
秀明のマンションにあった「手術室」のことが、脳裏をよぎった。
「首と腕が持ち去られていることから例の連続殺人事件との関連も調べています。捜査本部からも大勢来てますよ。上の方は、犯人が当直室で医者を殺害した後、遺体安置室に忍び込んで、息子さんの遺体を運び出したとみています」
「あの・・」口ごもってから、思い切ってたずねた。「順序が逆ということはないんですか?」
「逆?それはありえないでしょう。息子さんの遺体を抱えたまま当直室まで移動して、医者を殺害するなんて、普通の人間にはできませんから」
確かに『普通の人間』には不可能だろう。
だが、もし、秀明が遺体安置室で蘇り、自分の足で歩いて当直室まで行って、男性医師を殺害し、首と腕を持ち去ったとしたら・・・。
なにしろ事件は、私が「黒い手」に秀明の蘇りを願った直後に起きているのだ。
「それから、殺害された医者の車も消えてます。犯人が乗って逃げた可能性が高いので、そっちの線でも追ってます」
胃がせり上がってきて、吐きそうだった。
「だいじょうぶですか?」
「すみません。ちょっと、気分が悪くなってしまって」
「心中、お察しします。とにかく、息子さんの遺体発見には全力を尽くしますので、安心してください。何か情報が入り次第、また連絡しますので」
龍は自分の携帯の番号を告げてから、電話を切った。私は受話器を耳にあてたまま、身動きできずにいた。
「誰からだったの?」
ソファに座ったままのふみえが声を掛けてきた。
「こないだ病院で会った刑事さんからだ。秀明の遺体が消えたそうだ」
医師が殺されたことは黙っておいた。必要以上にショックを与える必要もなかろう。
「じゃあ・・、もしかして」
ふみえは期待に顔を輝かせた。
私はまだ受話器を硬く握りしめている事に気づいた。受話器を置こうとした時だ。
家中にチャイムの音が鳴り渡った。
誰かが、家の呼び鈴を押している。
こんな真夜中に、一体誰が訪ねて来るというのだ。
チャイムは繰り返し、繰り返し、鳴らされ続けている。
最初は警察の人間かと思った。しかし、チャイムの音色に耳をすませていたふみえが呟いた。
「あなた・・、この鳴らし方・・・」
言われて、私も耳をすます。
「秀明だわ」
ふみえが喜びの声をもらした。
チャイムの音は、最初に普通の音が1回、そして、せかすように連続した音が2回続く。
『ピンポーン、ピンポ・ピンポーン・・・』という感じだ。
確かに、この押し方には聞き覚えがあった。秀明が帰宅した時、私が風呂に入っていたり、ふみえが家事で手が離せなかったりして、玄関のドアをすぐには開けてやれない場合がよくあった。そんな時、せっかちな秀明は、こんな風に呼び鈴を押し続けた。
「間違いないわ!あの子よ!秀明だわ!」
ふみえがソファから立ち上がった。ふらふらと玄関に向かって歩き出した。
私は急に「不安」を感じた。いや、「後悔」と言うべきか。
「黒い手」に死んだ秀明の蘇りを願ったことも。
戯れのつもりでローンの残金2500万円を願ったことも。
そして秀明の犯罪を隠蔽するために被害者達の首を樹海に埋めたことも・・・。
抑えきれない感情が渦を巻きながら、マグマのように心の奥底から噴き上がってきた。
廊下に出た所で、ふみえが一度立ち止まった。チャイムは鳴り続けている。
「ほら、聞いて。やっぱり、秀明が帰ってきたのよ。あたしたちの所へ戻ってきたのよ。願いがかなったのよ」
再び玄関に歩き出したふみえの背中に、私は叫んだ。
「待ちなさい!あれは秀明じゃない!もう、違うものだ!」
だが、私の言葉など、もうふみえの耳には入らなかった。
願いがかなった、だと。
それは、私の願いじゃない。
一度目も、二度目も、私の意にそわない願いだったじゃないか。
私が今、心の底から願いたいのは・・・・、
秀明を安らかに眠らせてやることだ。
再び闇の世界から迷い出てきた秀明の魂を、浄化してやることだ。
不思議なことだが、その時、私の頭の中に浮かんだのは、あの「黒い手」だった。
そうだ。私はまだ、「3つ目の願い」を使ってはいない。
もうひとつだけ、最後の願いを叶えられるチャンスが残っているじゃないか。
私は「黒い手」を求めて走り出した。
「黒い手」は一階奥の和室だ。秀明の蘇りを願った時に、和箪笥の上に放り投げたままになっているはずだ。
和室に飛び込んだ時、玄関の方から「ガチャ、ガチャ」と金属の音が聞こえた。玄関のドアチェーンをふみえが開けようとしている音だった。
急がなければ!
和箪笥の上に手を伸ばす。しかし、箪笥の高さは2メートル近くあった。必死で手を伸ばしたが、「黒い手」の包みにかろうじて指先が当たるだけで、引きづり出すことができない。慌てた弾みで、包みはさらに奥へと入ってしまった。
ドアチェーンを外そうとしている音は、まだ聞こえていた。ふみえも興奮のあまり、手間取っているのだろう。
私は部屋の中央にあった座り机を、箪笥の下まで引きずっていった。その上に飛び乗ると、なんとか「黒い手」を引き寄せることができた。
玄関からドアチェーンが外れた音が聞こえた。続いて、「ガチャリ」と錠が回された音がした。
包み紙を乱暴に引き裂いて「黒い手」を取り出す。それを抱えて、机を飛び降り、玄関へと走った。
玄関の扉は、すでに開け放たれていた。
ふみえが満面の笑みを浮かべながら振り返った。
「ほら、あなた、見て・・・、秀明、帰ってきた」
玄関のドアの向こうに、「それ」は立っていた。
胸から上は影になって見えなかったが、それより下の部分は室外灯にはっきりと照らされていた。
濃紺のスーツを着ていた。この玄関で最後に秀明を見送った時と同じスーツだった。
あの時にはシワひとつなかったスーツが、今は見る影もなかった。ゴミの圧縮粉砕機につぶされた衝撃で布地が至る所で裂け、ボロ雑巾のように垂れ下がっていた。上着の下は素肌だった。スーツの合わせ目からのぞく肌には胸からへその辺りまで縦真一文字に醜い傷が走り、縫い合わされた跡が見えた。
室外灯の光はさらに恐ろしい物を照らしだしていた。右手に何かをぶら下げているのだ。
最初は、網袋にでも入れられたスイカのように見えた。しかし、それが人間の生首だとわかるまでに時間はかからなかった。髪の毛をわしづかみにされた当直医の首だ。首はゆっくりと左右に揺れている。首の端から太い筋肉繊維のような物が何本も垂れ下がっていた。
ふみえが微笑みながら「それ」を手招きした。
「さあ、そんな所に立ってないで。ずぶ濡れじゃないの。早く、お入りなさいな」
言われて、「それ」が左足を引きずるように歩き出した。膝から下が、うまく動かないようだ。おかしな方向にねじ曲がった左足を重そうに動かしながら、ゆっくりと近づいてくる。身体全体の動きもかくかくとして、糸で操った人形を思わせた。左手はだらりと垂れ下がったままだった。こちらも自由に動かせないようだった。事故直後、薄暗い霊安室で龍刑事が言ったことを思い出した。
「左半身が機械に巻き込まれ、左足は複雑骨折でぐしゃぐしゃです。左手も完全につぶれてます。大半の臓器が破裂していて、顔もはたして、判別がつくかどうか・・・・」
近づいてくる「それ」の全身が、初めて玄関の照明に照らし出された。
私は息が止まりそうになった。
口に、人間の腕をくわえていたのだ。
肘の辺りから引きちぎられた当直医の腕だ。右手に当直医の生首を持ち、左手はうまく使えない。それで、口にくわえて、ここまでやって来たのだ。
くわえた腕の指先から雨の滴が、ぽつり、ぽつりと垂れていた。
ホルマリンのような強烈な臭いが漂ってくる。雨に濡れた前髪が顔にかかっているうえに、うつむいているので、顔ははっきりとは見えなかった。
「おかえりなさい」
ふみえが歓喜の声をあげる。相手は答えなかった。
答えられるわけがない。口に人間の腕をくわえているのだから。
布地が垂れ下がったズボンを、ずずっ、と引きづりながら、玄関から廊下へと上がってきた。裸足だった。廊下に泥で汚れた真っ黒な足跡がべったりとついた。
頭を左右に振ると、口から腕を吐き出した。肘の部分を下にして腕が廊下に落ち、気味の悪い音をたてた。
口元が、ゆっくりと動いた。
「ママ・・・、ゴハン・・・・」
ごぼごぼと、どこかから空気が抜けるような声だった。
「まあ、まあ、お腹がすいたのね。わかったわ、母さんがすぐ、何か作ってあげる。チャーハンでいいかしらね」
言葉をしゃべり始めたばかりの赤ん坊に話しかけるような口調だった。ふみえは両手を広げて、「それ」に歩み寄ってゆく。抱きしめようとしているのだ。
「黒い手」を握りながら私の身体は硬直したままだった。もつれる舌で問いかけてみる。
「ひであき・・・、なのか?」
私の声に「それ」が反応した。油の切れたロボットのようにゆっくりと首を回し、こちらを見た。廊下の天井の蛍光灯で、顔がはっきりと見えた。額にも頬にも幾筋もの傷が走り、縫合の跡があった。左半分は見る影もなくつぶれている。
それでも、私にははっきりとわかった。秀明に間違いない。見間違うものか。
秀明の目が、すがるように私を見た。
「パパ・・・、アソボウ・・・」
秀明が幼かった頃の想い出が頭の中を駆けめぐった。
出張のお土産に買ってきたプラレールの新幹線にはしゃぎ回っていた秀明。
初めての海で必死で浮き輪につかまりながら泣きべそをかいていた秀明。
河原での初めてのキャッチボール。
縁日でソフトクリームを買ってやった時、顔中をアイスだらけにして笑っていた秀明。
いつの間にか、私は泣いていた。
もういいよ、秀明。早く、お眠り。
泣きじゃくりながら、私は「黒い手」を頭の上に高く掲げて、叫んでいた。
「黒い手」の神さま、
もう、あなたが何者でもかまわない。
お願いです。
秀明を安らかに眠らせてやってください。
ふみえには、そんな私の声も聞こえていないようだった。こぼれそうな笑顔を浮かべて、今まさに秀明を抱きすくめようとしていた。
秀明が私の方を見た。そして、思うように動かないはずの左手をゆっくりと上げて、ある方向を指さした。
玄関に飾ってあったあの絵だった。赤いターバンを頭に巻いた初老の男の肖像画だ。
口元がゆっくり動く。
声は出さなかったが、私にはこう言ったような気がした。「とうさん、たのんだよ」
不意に秀明の姿が陽炎のごとく揺らめいた。
次の瞬間、無数の羽虫の大群が飛び立つように秀明の体が細かい粒子になって飛び散った。やがて羽虫の群れは霧へと変わって消えた。
目の前から突然、秀明の姿がかき消えてしまったふみえは、何が起きたのか全くわからないようだった。両腕を広げたまま、茫然自失としている。
私は泣きながら、ふみえに近寄り、声をかけた。
「もう、行ってしまったよ」
振り向いたふみえは泣き笑いのような表情を浮かべた。
ふみえは、ついさっきまで秀明が立っていた空間を、両腕で抱きしめた。
そこに秀明の温もりが残っていたのかどうかは、私にはわからない。
もう何もなくなった空間を抱きしめながら、ふみえは声を上げて泣き始めた。
そのままの姿勢で、ふみえはいつまでも泣き続けた。
受話器を握りしめる手が震えていた。
「・・・宮守ですが、」
数秒の沈黙が続く。
耳に当たる受話器が冷たく感じる。ようやく相手が口を開いた。
「横須賀中央署の龍といいます」
秀明の遺体の身元確認をした時、病院の霊安室で会った年輩の方の刑事だった。
「なにか・・・、ありましたか?」
口の中がからからだった。
「なにかあったか、とはどういう意味です」
慌てて言いつくろう。「だって、こんな夜中に刑事さんから突然電話がかかってくれば、誰だってそう思うでしょう」
「いや、すみません。まるで、何かが起きるのを知っていたように聞こえたものですから。刑事の職業病みたいなものです。それに」龍はいったん間を置いてから言った。「実は、あったんですよ」
えっ・・・!私は言葉を飲んだ。
「お話ししにくいことなんですが・・・」
「一体、なにが起きたんです?」
「・・・息子さんの遺体が何者かに盗まれました」
言葉が鼓膜に突き刺さった気がした。
「息子さんの遺体が消えたんです」
「消えたって・・・、どういうことです?」
「気がついたのは、夜になってからです。病院の警備員が見回りの時に見つけたんですよ。地下にある遺体安置室では、一人一人の遺体がロッカーのような縦長の引き出しに入れられているんですが、警備員が部屋に入ると、そのうちのひとつが開いていたというんです。で、中の遺体がなくなっていた。そこに入っていたのが、秀明さんの遺体だったんです」
「それで・・・・」一度、生唾を飲み込む。「秀明は見つかったんですか?」
「いいえ、通報を受けて、我々も周辺をくまなく捜索しましたが、いまだに発見には至っていません。遺体安置室には、秀明さんが事故に遭った時に着ていたスーツも保管してあったんですが、犯人はご丁寧にも、それまで持ち去っているんですよ。さらにですね」
「まだ何かあったんですか?」
「当直の医者が、殺されていました」
医者が殺された・・・。
「28歳の男の医者ですが、ひどい有り様でしたよ。20年以上この仕事をやってますが、あんな凄惨な犯行現場はあまり見たことがありません。首がですね、引きちぎられていたんです。切断じゃありませんよ。文字通り、引きちぎられた感じでした。物凄い力でね。とても人間技とは思えません。おまけに左手まで無くなっていました」
首と腕がない・・。
秀明のマンションにあった「手術室」のことが、脳裏をよぎった。
「首と腕が持ち去られていることから例の連続殺人事件との関連も調べています。捜査本部からも大勢来てますよ。上の方は、犯人が当直室で医者を殺害した後、遺体安置室に忍び込んで、息子さんの遺体を運び出したとみています」
「あの・・」口ごもってから、思い切ってたずねた。「順序が逆ということはないんですか?」
「逆?それはありえないでしょう。息子さんの遺体を抱えたまま当直室まで移動して、医者を殺害するなんて、普通の人間にはできませんから」
確かに『普通の人間』には不可能だろう。
だが、もし、秀明が遺体安置室で蘇り、自分の足で歩いて当直室まで行って、男性医師を殺害し、首と腕を持ち去ったとしたら・・・。
なにしろ事件は、私が「黒い手」に秀明の蘇りを願った直後に起きているのだ。
「それから、殺害された医者の車も消えてます。犯人が乗って逃げた可能性が高いので、そっちの線でも追ってます」
胃がせり上がってきて、吐きそうだった。
「だいじょうぶですか?」
「すみません。ちょっと、気分が悪くなってしまって」
「心中、お察しします。とにかく、息子さんの遺体発見には全力を尽くしますので、安心してください。何か情報が入り次第、また連絡しますので」
龍は自分の携帯の番号を告げてから、電話を切った。私は受話器を耳にあてたまま、身動きできずにいた。
「誰からだったの?」
ソファに座ったままのふみえが声を掛けてきた。
「こないだ病院で会った刑事さんからだ。秀明の遺体が消えたそうだ」
医師が殺されたことは黙っておいた。必要以上にショックを与える必要もなかろう。
「じゃあ・・、もしかして」
ふみえは期待に顔を輝かせた。
私はまだ受話器を硬く握りしめている事に気づいた。受話器を置こうとした時だ。
家中にチャイムの音が鳴り渡った。
誰かが、家の呼び鈴を押している。
こんな真夜中に、一体誰が訪ねて来るというのだ。
チャイムは繰り返し、繰り返し、鳴らされ続けている。
最初は警察の人間かと思った。しかし、チャイムの音色に耳をすませていたふみえが呟いた。
「あなた・・、この鳴らし方・・・」
言われて、私も耳をすます。
「秀明だわ」
ふみえが喜びの声をもらした。
チャイムの音は、最初に普通の音が1回、そして、せかすように連続した音が2回続く。
『ピンポーン、ピンポ・ピンポーン・・・』という感じだ。
確かに、この押し方には聞き覚えがあった。秀明が帰宅した時、私が風呂に入っていたり、ふみえが家事で手が離せなかったりして、玄関のドアをすぐには開けてやれない場合がよくあった。そんな時、せっかちな秀明は、こんな風に呼び鈴を押し続けた。
「間違いないわ!あの子よ!秀明だわ!」
ふみえがソファから立ち上がった。ふらふらと玄関に向かって歩き出した。
私は急に「不安」を感じた。いや、「後悔」と言うべきか。
「黒い手」に死んだ秀明の蘇りを願ったことも。
戯れのつもりでローンの残金2500万円を願ったことも。
そして秀明の犯罪を隠蔽するために被害者達の首を樹海に埋めたことも・・・。
抑えきれない感情が渦を巻きながら、マグマのように心の奥底から噴き上がってきた。
廊下に出た所で、ふみえが一度立ち止まった。チャイムは鳴り続けている。
「ほら、聞いて。やっぱり、秀明が帰ってきたのよ。あたしたちの所へ戻ってきたのよ。願いがかなったのよ」
再び玄関に歩き出したふみえの背中に、私は叫んだ。
「待ちなさい!あれは秀明じゃない!もう、違うものだ!」
だが、私の言葉など、もうふみえの耳には入らなかった。
願いがかなった、だと。
それは、私の願いじゃない。
一度目も、二度目も、私の意にそわない願いだったじゃないか。
私が今、心の底から願いたいのは・・・・、
秀明を安らかに眠らせてやることだ。
再び闇の世界から迷い出てきた秀明の魂を、浄化してやることだ。
不思議なことだが、その時、私の頭の中に浮かんだのは、あの「黒い手」だった。
そうだ。私はまだ、「3つ目の願い」を使ってはいない。
もうひとつだけ、最後の願いを叶えられるチャンスが残っているじゃないか。
私は「黒い手」を求めて走り出した。
「黒い手」は一階奥の和室だ。秀明の蘇りを願った時に、和箪笥の上に放り投げたままになっているはずだ。
和室に飛び込んだ時、玄関の方から「ガチャ、ガチャ」と金属の音が聞こえた。玄関のドアチェーンをふみえが開けようとしている音だった。
急がなければ!
和箪笥の上に手を伸ばす。しかし、箪笥の高さは2メートル近くあった。必死で手を伸ばしたが、「黒い手」の包みにかろうじて指先が当たるだけで、引きづり出すことができない。慌てた弾みで、包みはさらに奥へと入ってしまった。
ドアチェーンを外そうとしている音は、まだ聞こえていた。ふみえも興奮のあまり、手間取っているのだろう。
私は部屋の中央にあった座り机を、箪笥の下まで引きずっていった。その上に飛び乗ると、なんとか「黒い手」を引き寄せることができた。
玄関からドアチェーンが外れた音が聞こえた。続いて、「ガチャリ」と錠が回された音がした。
包み紙を乱暴に引き裂いて「黒い手」を取り出す。それを抱えて、机を飛び降り、玄関へと走った。
玄関の扉は、すでに開け放たれていた。
ふみえが満面の笑みを浮かべながら振り返った。
「ほら、あなた、見て・・・、秀明、帰ってきた」
玄関のドアの向こうに、「それ」は立っていた。
胸から上は影になって見えなかったが、それより下の部分は室外灯にはっきりと照らされていた。
濃紺のスーツを着ていた。この玄関で最後に秀明を見送った時と同じスーツだった。
あの時にはシワひとつなかったスーツが、今は見る影もなかった。ゴミの圧縮粉砕機につぶされた衝撃で布地が至る所で裂け、ボロ雑巾のように垂れ下がっていた。上着の下は素肌だった。スーツの合わせ目からのぞく肌には胸からへその辺りまで縦真一文字に醜い傷が走り、縫い合わされた跡が見えた。
室外灯の光はさらに恐ろしい物を照らしだしていた。右手に何かをぶら下げているのだ。
最初は、網袋にでも入れられたスイカのように見えた。しかし、それが人間の生首だとわかるまでに時間はかからなかった。髪の毛をわしづかみにされた当直医の首だ。首はゆっくりと左右に揺れている。首の端から太い筋肉繊維のような物が何本も垂れ下がっていた。
ふみえが微笑みながら「それ」を手招きした。
「さあ、そんな所に立ってないで。ずぶ濡れじゃないの。早く、お入りなさいな」
言われて、「それ」が左足を引きずるように歩き出した。膝から下が、うまく動かないようだ。おかしな方向にねじ曲がった左足を重そうに動かしながら、ゆっくりと近づいてくる。身体全体の動きもかくかくとして、糸で操った人形を思わせた。左手はだらりと垂れ下がったままだった。こちらも自由に動かせないようだった。事故直後、薄暗い霊安室で龍刑事が言ったことを思い出した。
「左半身が機械に巻き込まれ、左足は複雑骨折でぐしゃぐしゃです。左手も完全につぶれてます。大半の臓器が破裂していて、顔もはたして、判別がつくかどうか・・・・」
近づいてくる「それ」の全身が、初めて玄関の照明に照らし出された。
私は息が止まりそうになった。
口に、人間の腕をくわえていたのだ。
肘の辺りから引きちぎられた当直医の腕だ。右手に当直医の生首を持ち、左手はうまく使えない。それで、口にくわえて、ここまでやって来たのだ。
くわえた腕の指先から雨の滴が、ぽつり、ぽつりと垂れていた。
ホルマリンのような強烈な臭いが漂ってくる。雨に濡れた前髪が顔にかかっているうえに、うつむいているので、顔ははっきりとは見えなかった。
「おかえりなさい」
ふみえが歓喜の声をあげる。相手は答えなかった。
答えられるわけがない。口に人間の腕をくわえているのだから。
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頭を左右に振ると、口から腕を吐き出した。肘の部分を下にして腕が廊下に落ち、気味の悪い音をたてた。
口元が、ゆっくりと動いた。
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ごぼごぼと、どこかから空気が抜けるような声だった。
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「黒い手」を握りながら私の身体は硬直したままだった。もつれる舌で問いかけてみる。
「ひであき・・・、なのか?」
私の声に「それ」が反応した。油の切れたロボットのようにゆっくりと首を回し、こちらを見た。廊下の天井の蛍光灯で、顔がはっきりと見えた。額にも頬にも幾筋もの傷が走り、縫合の跡があった。左半分は見る影もなくつぶれている。
それでも、私にははっきりとわかった。秀明に間違いない。見間違うものか。
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秀明が幼かった頃の想い出が頭の中を駆けめぐった。
出張のお土産に買ってきたプラレールの新幹線にはしゃぎ回っていた秀明。
初めての海で必死で浮き輪につかまりながら泣きべそをかいていた秀明。
河原での初めてのキャッチボール。
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いつの間にか、私は泣いていた。
もういいよ、秀明。早く、お眠り。
泣きじゃくりながら、私は「黒い手」を頭の上に高く掲げて、叫んでいた。
「黒い手」の神さま、
もう、あなたが何者でもかまわない。
お願いです。
秀明を安らかに眠らせてやってください。
ふみえには、そんな私の声も聞こえていないようだった。こぼれそうな笑顔を浮かべて、今まさに秀明を抱きすくめようとしていた。
秀明が私の方を見た。そして、思うように動かないはずの左手をゆっくりと上げて、ある方向を指さした。
玄関に飾ってあったあの絵だった。赤いターバンを頭に巻いた初老の男の肖像画だ。
口元がゆっくり動く。
声は出さなかったが、私にはこう言ったような気がした。「とうさん、たのんだよ」
不意に秀明の姿が陽炎のごとく揺らめいた。
次の瞬間、無数の羽虫の大群が飛び立つように秀明の体が細かい粒子になって飛び散った。やがて羽虫の群れは霧へと変わって消えた。
目の前から突然、秀明の姿がかき消えてしまったふみえは、何が起きたのか全くわからないようだった。両腕を広げたまま、茫然自失としている。
私は泣きながら、ふみえに近寄り、声をかけた。
「もう、行ってしまったよ」
振り向いたふみえは泣き笑いのような表情を浮かべた。
ふみえは、ついさっきまで秀明が立っていた空間を、両腕で抱きしめた。
そこに秀明の温もりが残っていたのかどうかは、私にはわからない。
もう何もなくなった空間を抱きしめながら、ふみえは声を上げて泣き始めた。
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