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第4章
まるで、ピエロじゃないか(22P)
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芳子は実兄の家を抜け出すと、神戸港に直行し出港直前の汽船に飛び乗った。
日華連絡船は定期便が増え、港には活気が溢れていた。”蛍の光”が流れ、紙テープを握った人々が、別れを惜しんで手を振っている。
ボー ボー ボー
出港を知らせる汽笛が鳴った。その音を聞いた芳子は、船室を抜け出し甲板に出た。海を見下ろすと、波が舷側を洗い白く砕けて散っていく。
逃げ切れた―――船旅を楽しもう。
甲板には、パラソルが並びカフェがしつらえてあった。
芳子は、珈琲を飲みながら、山家に二千円を届ける算段をしていた。
隣のテーブルに座っていた背広姿の青年が、芳子に、ちらり、ちらりと視線を送る。目が会うと微笑みかけた。
「どこかで、お会いしました?」と聞く。髪をオールバックにして、歌舞伎役者のような顔だ。
「キミは、だれ?」
芳子は、その男をじろりとにらみつけた。
「いや、これは失礼しました。私は、帝国物産の社員で金子と申します」
男は、うやうやしく名刺を差し出す。見ると会社は、上海の租界地にある。
「おもしろそうな所で働いているじゃないか。ボクは、川島芳子だ」
「やはり、そうでしたか。新聞に載っている写真より、ずっとお奇麗ですね。
こんな所で、お会い出来るなんて光栄だな。おっしゃるように、上海はおもしろい所ですよ。よろしかったら、ご案内しましょう」
金子は、ひとあたりのいい笑みを浮かべた。
そこへ、二人連れの将校がやって来た。
「おっ!金子君じゃないか。綺麗なお嬢さんを独り占めとは、許さんぞ。紹介したまえ」
カーキー色の軍服に緋色の徽章がひときわ目立つ男が言う。
「こちらは、川島芳子様です」
「おお!清朝の姫君ではないか!自分は――」
皆まで言わせず、もう一人の黒縁メガネの男が芳子に話しかけた。
「川島さん、山家大尉をご存知ですか?
彼から、あなたの思い出話を聞いたことがあるのです」
芳子は、あまりの偶然に驚いた。信じられない。からかわれているのではないか。
松本新聞のスキャンダルな記事を読んだ人なら、山家の名前ぐらいは、知っているだろう。
「ほんとうに?」
「自分は山家大尉と同じ報道部であります。彼は北京語も上手いし、英語も出来る。なにより、日本語が、上手い。
ははは。日本語は、冗談ですよ。彼は口説き文句が、じつにうまい。うらやましいかぎりです。
あ、つい余計な事を!これは失礼」
「山家さん、お元気?」芳子は、思わず腰を上げ身を乗り出した。
「はい。はい。そりゃもう、順風満帆――」
黒縁メガネの男は、次の言葉をためらったが、思い切って「結婚しました」ときっぱり言った。
「えっ!どなたと?」
「資産家のお嬢さん。父親は、新聞社関係の人です」
芳子は、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。資産家の娘なら、借金がある山家には、”渡りに船”の結婚だったに違いない。逃げるように、ふらふらと歩き出した。
「川島さん――」
金子が後を追い、慰めるように話しかけた。
「申し訳ございません。ああいう連中は、信用なさらないほうがよろしいです。じつは、会社主催の夜会があるのですが。川島さん?いらして下さいませんか?夜会は、明後日でございます」
「お断りします。どなたとも、お話したくありません」
「お話など、なさらくてもよろしゅうございます。京劇の役者も呼んでおりますから、ゆっくりと、ご覧になれます。それにダンスも出来る。楽しい事をして、嫌なことは忘れて下さい」
「いいんだ。ほっておいてくれたまえ」
「わかりました。急にお誘いして、失礼しました。お忙しい方にご無理を申し上げたようです」
「いや…ボクは忙しいわけじゃない。大連に急いで帰るつもりだったのだが。その、必要はなくなった」
二千円を工面した私は、まるでピエロじゃないか。自分で自分を笑ってやろう。
「では、是非、上海をご覧ください。上海は、すごいエネルギーがありましてね。世界中から人が集まってくるから、それはもう、賑やかなのです。それに、租界地の治安はいい。百貨店も、銀座より品揃えが豊富ですから、お買い物も、楽しいです」
金子は口に手をあてて笑った。女みたいな男だが、芳子は、彼の話を聞いて気が楽になってきた。誘われるままに、金子の紹介する上海のホテルに滞在する事にした。
日華連絡船は定期便が増え、港には活気が溢れていた。”蛍の光”が流れ、紙テープを握った人々が、別れを惜しんで手を振っている。
ボー ボー ボー
出港を知らせる汽笛が鳴った。その音を聞いた芳子は、船室を抜け出し甲板に出た。海を見下ろすと、波が舷側を洗い白く砕けて散っていく。
逃げ切れた―――船旅を楽しもう。
甲板には、パラソルが並びカフェがしつらえてあった。
芳子は、珈琲を飲みながら、山家に二千円を届ける算段をしていた。
隣のテーブルに座っていた背広姿の青年が、芳子に、ちらり、ちらりと視線を送る。目が会うと微笑みかけた。
「どこかで、お会いしました?」と聞く。髪をオールバックにして、歌舞伎役者のような顔だ。
「キミは、だれ?」
芳子は、その男をじろりとにらみつけた。
「いや、これは失礼しました。私は、帝国物産の社員で金子と申します」
男は、うやうやしく名刺を差し出す。見ると会社は、上海の租界地にある。
「おもしろそうな所で働いているじゃないか。ボクは、川島芳子だ」
「やはり、そうでしたか。新聞に載っている写真より、ずっとお奇麗ですね。
こんな所で、お会い出来るなんて光栄だな。おっしゃるように、上海はおもしろい所ですよ。よろしかったら、ご案内しましょう」
金子は、ひとあたりのいい笑みを浮かべた。
そこへ、二人連れの将校がやって来た。
「おっ!金子君じゃないか。綺麗なお嬢さんを独り占めとは、許さんぞ。紹介したまえ」
カーキー色の軍服に緋色の徽章がひときわ目立つ男が言う。
「こちらは、川島芳子様です」
「おお!清朝の姫君ではないか!自分は――」
皆まで言わせず、もう一人の黒縁メガネの男が芳子に話しかけた。
「川島さん、山家大尉をご存知ですか?
彼から、あなたの思い出話を聞いたことがあるのです」
芳子は、あまりの偶然に驚いた。信じられない。からかわれているのではないか。
松本新聞のスキャンダルな記事を読んだ人なら、山家の名前ぐらいは、知っているだろう。
「ほんとうに?」
「自分は山家大尉と同じ報道部であります。彼は北京語も上手いし、英語も出来る。なにより、日本語が、上手い。
ははは。日本語は、冗談ですよ。彼は口説き文句が、じつにうまい。うらやましいかぎりです。
あ、つい余計な事を!これは失礼」
「山家さん、お元気?」芳子は、思わず腰を上げ身を乗り出した。
「はい。はい。そりゃもう、順風満帆――」
黒縁メガネの男は、次の言葉をためらったが、思い切って「結婚しました」ときっぱり言った。
「えっ!どなたと?」
「資産家のお嬢さん。父親は、新聞社関係の人です」
芳子は、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。資産家の娘なら、借金がある山家には、”渡りに船”の結婚だったに違いない。逃げるように、ふらふらと歩き出した。
「川島さん――」
金子が後を追い、慰めるように話しかけた。
「申し訳ございません。ああいう連中は、信用なさらないほうがよろしいです。じつは、会社主催の夜会があるのですが。川島さん?いらして下さいませんか?夜会は、明後日でございます」
「お断りします。どなたとも、お話したくありません」
「お話など、なさらくてもよろしゅうございます。京劇の役者も呼んでおりますから、ゆっくりと、ご覧になれます。それにダンスも出来る。楽しい事をして、嫌なことは忘れて下さい」
「いいんだ。ほっておいてくれたまえ」
「わかりました。急にお誘いして、失礼しました。お忙しい方にご無理を申し上げたようです」
「いや…ボクは忙しいわけじゃない。大連に急いで帰るつもりだったのだが。その、必要はなくなった」
二千円を工面した私は、まるでピエロじゃないか。自分で自分を笑ってやろう。
「では、是非、上海をご覧ください。上海は、すごいエネルギーがありましてね。世界中から人が集まってくるから、それはもう、賑やかなのです。それに、租界地の治安はいい。百貨店も、銀座より品揃えが豊富ですから、お買い物も、楽しいです」
金子は口に手をあてて笑った。女みたいな男だが、芳子は、彼の話を聞いて気が楽になってきた。誘われるままに、金子の紹介する上海のホテルに滞在する事にした。
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