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刀魚 秋

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7, Witch is puzzled,

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 特別、昼休みにやることがあるわけではない。
 あらかたの報告は済ませてしまった。午前中はずっと震えていたスマートフォンも、今は沈黙している。
 既に全体の三割となった充電を睨んでから、エリアナは購買のパンをかじった。
 魔女に食事は必要ない。正確には、人間に必要なエネルギーを摂らずとも、魔術で体を維持できると言った方がいい。さりとて昼食を摂らずに本でも読んでいたのでは、妙な噂の種にされかねない。余計なことに気付く人間というのは、どこにでもいるのだ。
 そういうわけで――彼女はいつものように、無為にパンを食して時間を潰している。
 ルディの方は、授業が終わるなり、慌てた調子で購買へ向かった。既に十分近くが経過しているが、戻ってくる様子はない。
 もっとも、昼時の購買は戦争になる。十分で戻ってこられるなら運がいい方だ。いくら悪魔の身体能力があるといえど、あの混雑ばかりはどうしようもなかろう。
 案の定――。
 うの体といった様子の彼女が戻ってきたのは、昼休みも半分を過ぎた頃合いだった。
 勢いよく扉が開いた音で、クラスメイトの声が一瞬だけ止んだ。詮ないおしゃべりの代わり、戻ってきたのは困惑のどよめきで――その渦中に立つ少女に向けて、エリアナは溜息を吐いた。
「戦争でした! いつもですけど」
 奇異の視線をものともせずに、ルディはエリアナの隣に腰かける。その手から山となったパンたちが零れ落ちた。
 やたらと怯えるくせに、このどよめきは気にせぬのだから、この悪魔というのも分からないものである。
 自身の机の上を覆うパンをつまみ上げ、魔女は金色の目を細めた。思わず口を衝く言葉にも、知らず呆れの色が混ざる。
「それ、全部食べる気?」
「すごくお腹すいちゃって。エリーも食べますか?」
「私はいいわ」
 人間らしいことは好きではない。
 ルディの指先が山の前でさまよう。しばらく唸ってから、ねじれた菓子パンを手に取った彼女は、意気揚々と袋を開けながらふと顔をあげた。
「それで、なんていう人なんですか?」
 ――何の話だ。
 わずかな怪訝は、果たしてすぐに思い当たる。足を組みかえれば、眼鏡の奥の瞳はすぐにエリアナからパンへと移された。
 見る間に空いていく袋に目を遣ったまま、魔女は曖昧な記憶をたどる。
 放課後に呼び出しをかけてきた顔は、すぐに思い出せる。だが名前を――と言われると、すぐには思い当たらなかった。エリアナ以上に気紛れに名を変えるのだ。
 メッセージアプリの名前は確か三つほど前のもので止まっている。いくつか指を折ってから、ようやく思い至った名を、曖昧に口にした。
「今は影宮かげみや月乃つきのとか言ったんじゃなかったかしら」
「あっ、聞いたことあります」
 顔を上げたルディの頬にパンくずがついている。気付いていない様子の彼女に手を伸ばしながら、まあそうだろうな――と思った。
 この清天教女学院の高等部にいて、彼女の噂を聞いたことがない者はないだろう。学院きっての天才少女で、いわゆる重度の電波、、である。
 よく行方の委細が不明になる魔女の中でも、とりわけ神出鬼没の女だ。人当たりは良いが、その素行は人間世界でも魔女世界でも不良にあたる。とりたてて他の魔女に興味がないエリアナですら、いくらかの噂を知っているし――。
 大抵の話は、彼女でさえ閉口するような代物だ。
「無貌の――って、百夜なんかは呼んでるけど。まあ、嵐みたいな女よ」
 おしゃべりに埋もれる程度の声だ。誰も聞いてはいないだろうが、物騒な言葉は濁すこととした。
 取ったパンくずを見る。ゴミ箱に運ぶのは面倒だ。かといって自身の机の上を汚すのはもってのほかだし、一応はそれなりに品性のある娘として地位を築いているのに、床にばら撒くのもいかがなものか。
 しばし考えてから口に運ぶ。慌てるルディを一瞥して、沈黙したスマートフォンを睨んだ。
「あれは本当に気紛れだから。今日の呼び出しも、あてにはならないと思っておいて頂戴」
「はあ」
 曖昧な返事で顔を赤くした悪魔は、ごまかすように再び山を崩し始めた。すでに半分近くが消えているパンと、十分ばかりで鳴るであろう予鈴を天秤にかけながら、エリアナは手にした端末に指を滑らせた。
 やはり既読の文字はついている。返信がないあたり、今日は初陣で混乱しているから明日にしろ――との要請に応じる気はないらしい。こうなれば、後は行った先に姿を現さないことを祈るばかりだ。魔女が祈るというのも滑稽な話だが。
 エリアナの嘆息に目を遣ったルディの顔が引き締まった。気だるげな金に射抜かれて、赤い瞳が心配そうに眉尻を下げる。
「契約は、してるんですか」
「でなきゃ、貴女に喧嘩なんか売らないわ」
「そ、そうですよね」
 パンを口に運びながら、ルディが露出した右腕をさすった。この数時間のうちに、破れた制服に言及されない違和感には慣れたようだが、やはり瞳はせわしない。
「どんな人――人? なんですか、その、契約者さんは」
「ええと、どんなだったかしら。よく知らないのよね」
 再び記憶をたどりながら、時計の針を見た。予鈴までは残り五分ばかりある。
 思い出せるのは仏頂面ばかりだ。よく考えれば声を聞いたことはないし、眠たげにこちらを見る以外の表情を見たこともない。そもそも滅多に出てくることがないのだから、致し方のない話ではある。
 あやふやな輪郭を伝えれば、悪魔の瞳が陰った。いつの間にか残り三つになったパンのビニールを外して、彼女はちらとエリアナを見る。
「魔――エリーたちって、戦うのが好きなんですか?」
 問う声にも不安が滲んでいる。
 まあ。
 確かに、彼女が悪魔としての自覚を得てから出会った魔女の中で、比較的に穏健な発言をしているのは滴だけだ。他のグループが向かうと知っていて天使と戦わせたエリアナや、呼び出しの理由が果し合いの月乃を見れば、戦いに積極的なようにも見えるだろう。
「別に、そういうわけじゃないわよ。っていうか、本当ならあんまり戦いたくはないわね。後が大変じゃない」
「でも、エリーはすぐにしてましたよね」
「あれは私だからよ。私はね、嘘を全部本当だってこと、、、、、、、にできるの」
 幻惑の力は証拠隠滅に向いている。エリアナなら指先一本で済むことも、他の魔女にとっては一苦労だ。自身の能力を駆使するか、得意でもない術式に四苦八苦するか、さもなくば自力で整地をするしかない。
 ますます分からないとばかり、眼鏡の底で眉尻が下がる。
「それじゃあ、どうして」
「さあね」
 あの奔放な女のことなど、エリアナは知らない。
 納得がいかないと告げるように口をつぐんだルディの口に、最後のパンが消えたころ、タイミングよく予鈴が鳴り響いた。
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