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第1話 - ①
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──静かな道に、一匹の狼が佇んでいた。
月の光が反射する銀色の毛並みに覆われた、森林の王だ。
ただ此処は本来狼が現れるはずのない、日本の何処にでもあるような住宅街の一角だ。こんな光景は異質でしかない。
何処かの動物園から脱走したわけではなく、ましてや置物や幻覚などでもない。日本ではなかなか見ることのできないであろう、北の大陸に生息する種である狼がコンクリート塀を背に側溝の上で伏せているという光景に、近隣住民達は当然驚き恐怖した。
この狼が一体何処から現れたのかを知る者は当然いない。この狼は一体何なのか。一体何処から現れたのか。深夜に差し掛かるような時間だというのに、住民の一部は家から出てまで狼を見物している者までいるようだ。
「動くなよ……」
近隣住民の通報を受けやって来た老齢の警察官は、突然現れた危険な肉食獣を相手に応援が来るまでの間自分一人でも住民達を守ろうと金属の盾と警棒を手に警戒を続けていた。一般市民の安全を守りたくとも、彼の背後では野次馬が壁となってしまっている。今は大人しいこの獣がいつ動き出すか、警察官は必死に神経を尖らせていた。
応援を呼んでも応答すらなく、自分がどうにかするしかないのではという事実に内心冷や汗をかきながらもそれを気取られてはいけない。
狼は頭の良い獣だと聞く。そんな生物に隙を見せてはどうなるか。
こんな大きな肉食動物に柵もない状況で出会うだなんて、都会育ちだったこの老齢の警察官は経験したことがなかった。襲われればひとたまりもないだろう。
勤続年数三十余年。そろそろ自分も年貢の納め時なのかもしれない。
そんなことを考えている警察官の背後で守られている住民達は恐怖よりも好奇心が強いのか狼という異質な存在に興味津々で、武器になりそうな長物を持っている者達はともかく、若者達は皆携帯電話を取り出し狼を撮影している。SNSにアップする者や興奮気味に電話を掛けている者、果てはネット配信を始める者までいた。警察官の願い虚しく、彼等の放つ騒音は次第に強まりその音で更に人々が増えるという始末だ。
ただ、狼はそんな喧騒に微塵も興味を抱いていないようだった。狼は警察官が通報を受け現場に到着した時から変わらずある一点を見つめ続けている。
狼が見ているのは、何の変哲もない路地だった。街灯の光すら届かない暗闇の先を、金色の瞳はじっと見つめていた。
そんな狼の柔らかい毛で覆われた耳へ、ふと軽やかな鈴の音が届いた。
しゃん、しゃん。
人々にはまだ聞こえないほんの小さなその音は、一定の間隔を開けながら断続的に鳴り続け、そしてその度に狼のいる場所へと近付いて来る。
その音が次第に近付き大きくなるにつれ、狼に意識を向けていた人々の耳にも届き始めた。最初にその音に気付いたのは男子中学生だろうか、小柄な少年だった。
「なあ、何か聞こえねえ?」
少年が隣で写真を撮る友人に声を掛けるのと、狼がその場で勢いよく立ち上がるのは同時だった。彼の声は、群衆の悲鳴にかき消されてしまう。
「う、動いた!」
「気をつけろ、向かってきたら逃げるんだ!」
「おまわりさん、まだ捕まえられないのか!?」
「応援はとっくに呼んでるんだ、いいからあんた達は早く逃げといてくれ!」
そう人間達が驚き次々と叫び出す姿に一瞥すらくれず、狼は路地へ牙を剥き威嚇をした。そこで漸く、人々は狼が自分達以外の何かに意識を向けていることに気が付いた。
淡い藍色の振袖に黒い帯。深い臙脂の衣を頭から羽織った、顔の隠れた女だ。
夜も更けたというのに、暗がりの路地にいるその女の姿ははっきりと人々の目に映る。
だが、それに疑問を抱く者はいなかった。
こんな夜更けに路地裏から着物姿の女が出てくるという異質さにも気付くことすらなく、人々は女の姿を視界に入れるなり、他の何もかもが意識から飛んでしまう。
狼は、この女が現れるのを待っていた。
普段はこんなにも大勢の人々が起きているような時間に街に降りることはなく、人に見つからないようにして生きていた。それなのに、狼は今夜自分を餌に誘き出すために独断で人々の前へと姿を現したのだった。
そんなことをしてでも、この女を待っていた理由はたったひとつ。
この女が狼の敵だからだ。決して人を襲うことのない狼よりも余程危険な、人を喰らう人外の類。
彼女は、夜毎狼が仲間達と共に人知れず倒し続けてきた『鬼』の仲間の一匹だった。
月の光が反射する銀色の毛並みに覆われた、森林の王だ。
ただ此処は本来狼が現れるはずのない、日本の何処にでもあるような住宅街の一角だ。こんな光景は異質でしかない。
何処かの動物園から脱走したわけではなく、ましてや置物や幻覚などでもない。日本ではなかなか見ることのできないであろう、北の大陸に生息する種である狼がコンクリート塀を背に側溝の上で伏せているという光景に、近隣住民達は当然驚き恐怖した。
この狼が一体何処から現れたのかを知る者は当然いない。この狼は一体何なのか。一体何処から現れたのか。深夜に差し掛かるような時間だというのに、住民の一部は家から出てまで狼を見物している者までいるようだ。
「動くなよ……」
近隣住民の通報を受けやって来た老齢の警察官は、突然現れた危険な肉食獣を相手に応援が来るまでの間自分一人でも住民達を守ろうと金属の盾と警棒を手に警戒を続けていた。一般市民の安全を守りたくとも、彼の背後では野次馬が壁となってしまっている。今は大人しいこの獣がいつ動き出すか、警察官は必死に神経を尖らせていた。
応援を呼んでも応答すらなく、自分がどうにかするしかないのではという事実に内心冷や汗をかきながらもそれを気取られてはいけない。
狼は頭の良い獣だと聞く。そんな生物に隙を見せてはどうなるか。
こんな大きな肉食動物に柵もない状況で出会うだなんて、都会育ちだったこの老齢の警察官は経験したことがなかった。襲われればひとたまりもないだろう。
勤続年数三十余年。そろそろ自分も年貢の納め時なのかもしれない。
そんなことを考えている警察官の背後で守られている住民達は恐怖よりも好奇心が強いのか狼という異質な存在に興味津々で、武器になりそうな長物を持っている者達はともかく、若者達は皆携帯電話を取り出し狼を撮影している。SNSにアップする者や興奮気味に電話を掛けている者、果てはネット配信を始める者までいた。警察官の願い虚しく、彼等の放つ騒音は次第に強まりその音で更に人々が増えるという始末だ。
ただ、狼はそんな喧騒に微塵も興味を抱いていないようだった。狼は警察官が通報を受け現場に到着した時から変わらずある一点を見つめ続けている。
狼が見ているのは、何の変哲もない路地だった。街灯の光すら届かない暗闇の先を、金色の瞳はじっと見つめていた。
そんな狼の柔らかい毛で覆われた耳へ、ふと軽やかな鈴の音が届いた。
しゃん、しゃん。
人々にはまだ聞こえないほんの小さなその音は、一定の間隔を開けながら断続的に鳴り続け、そしてその度に狼のいる場所へと近付いて来る。
その音が次第に近付き大きくなるにつれ、狼に意識を向けていた人々の耳にも届き始めた。最初にその音に気付いたのは男子中学生だろうか、小柄な少年だった。
「なあ、何か聞こえねえ?」
少年が隣で写真を撮る友人に声を掛けるのと、狼がその場で勢いよく立ち上がるのは同時だった。彼の声は、群衆の悲鳴にかき消されてしまう。
「う、動いた!」
「気をつけろ、向かってきたら逃げるんだ!」
「おまわりさん、まだ捕まえられないのか!?」
「応援はとっくに呼んでるんだ、いいからあんた達は早く逃げといてくれ!」
そう人間達が驚き次々と叫び出す姿に一瞥すらくれず、狼は路地へ牙を剥き威嚇をした。そこで漸く、人々は狼が自分達以外の何かに意識を向けていることに気が付いた。
淡い藍色の振袖に黒い帯。深い臙脂の衣を頭から羽織った、顔の隠れた女だ。
夜も更けたというのに、暗がりの路地にいるその女の姿ははっきりと人々の目に映る。
だが、それに疑問を抱く者はいなかった。
こんな夜更けに路地裏から着物姿の女が出てくるという異質さにも気付くことすらなく、人々は女の姿を視界に入れるなり、他の何もかもが意識から飛んでしまう。
狼は、この女が現れるのを待っていた。
普段はこんなにも大勢の人々が起きているような時間に街に降りることはなく、人に見つからないようにして生きていた。それなのに、狼は今夜自分を餌に誘き出すために独断で人々の前へと姿を現したのだった。
そんなことをしてでも、この女を待っていた理由はたったひとつ。
この女が狼の敵だからだ。決して人を襲うことのない狼よりも余程危険な、人を喰らう人外の類。
彼女は、夜毎狼が仲間達と共に人知れず倒し続けてきた『鬼』の仲間の一匹だった。
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