【完結】婚約者を譲れと言うなら譲ります。私が欲しいのはアナタの婚約者なので。

海野凛久

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1巻

1-1

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   プロローグ


「マリーアンネお姉さま、わたしに王太子妃の座を譲ってちょうだい」

 にぎやかなパーティー会場から、少し離れて。
 伯爵家以上の令嬢が使う休憩室で、わたしの妹――エリアーナ・クラリンスは華やかな笑みを浮かべてそう言った。
 ゆるくウェーブがかかった金の髪に、青空を落とし込んだような美しい青の瞳。
 社交界の妖精とうたわれる妹が、かねてから王太子殿下を狙っているのは知っていた。

「マリーアンネ、すまない。私は……」

 妹と並んでも見劣りしない、美しいはちみつ色の髪を持つ青年が、申し訳なさそうに、アイスグリーンの目を細めてわたしを見下ろす。けれどその手は妹の手をしっかりと握って離さない。

(結論は、もう出ている……ということなのね)

 でも、わかっていたことだ。
 いつかこんな日が来るであろうことは――
 わかっていたからこそ、わたしは最後に打たなければならない。


「そんな、どうして……」

 準備していた悲しげな言葉。
 準備していた泣き出しそうな表情。
 うばわないで。
 行かないで。
 わたしの愛しい婚約者。
 その感情が言葉にせずとも伝わるように。
 そしてこのふたりの恋情を更にあおり立てるように。

「ふふっ、そんなに落ち込まないでお姉さま。わたしが殿下と婚約してしまうと、お姉さまの婚約者がいなくなると思って、ちゃんと代わりの婚約者を用意したわ」
「代わりの……?」

 涙に濡れた瞳で見上げると、妹はこれ以上ないほどの極上の笑みを浮かべていた。

「そうよ、お姉さまはわたしの婚約者と婚約するの。今日からわたしの代わりに、ハロルド・メイヤー公爵の婚約者になるのよ!」

 あぁ、全て予想通り。
 エリアーナのやり口はいつもそう。
『自分が欲しいもの』と『自分が持っているもの』を交換するの。
 なんて哀れでおろかで馬鹿な子なのかしら。
 わたしから全てをうばわなければ気が済まないアナタが。
 わたしにとって代わりたいと願うアナタが。
 今、わたしが一番欲しいものを、自ら差し出してくれるなんて。
 たった一筋、わたしの瞳からこぼれた涙が、喜びの涙だと気がついた者は、誰ひとりいなかった――



   第一章


「お姉さまと婚約者を交換することにしたの! いいでしょ? お父さま、お母さま」

 パーティーの翌朝。
 食後のお茶が運ばれて間もなく、エリアーナは待ちきれないとばかりに爆弾を投下した。
 妹には甘い父と母も、さすがに今回ばかりは固まっている。
 問い詰めるような視線だけが、お茶を楽しむわたしに突き刺さった。
 けれどわたしが口を開くより早く、エリアーナがとして昨夜の出来事を話し出す。

「王太子殿下とわたし、少し前から想い合っていたの! それでね、殿下がお姉さまじゃなくわたしと婚約したいって言うから、お姉さまに頼んだの。婚約者を交換しましょうって♪ ね、いい考えでしょう?」

 実に名案だ、と言わんばかりの妹の笑顔に、両親は見たことがないほど青ざめている。
 それもそうだろう、妹は──このエリアーナという少女は、王太子の婚約者になるのがどういうことなのか、わかっていないのだから。

「い、いや……待ってくれ、エリィ……エリアーナ。今回のことは、そんなドレスを交換するようにはいかないんだよ」
「そうよ、エリィ。王太子妃は、遊ぶ間もないくらい忙しいのよ? あなたには大変じゃないかしら? ……ねぇ、マリーアンネもそう思うでしょう?」

 お茶を飲み終え、席を立とうとしていたわたしの手を母の細い腕が掴み、貴婦人とは思えないほどの強い力で引き留める。

(仕方ないわね……)

 少しでも円満に、とどこおりなく望みを叶えるには、外堀もきちんと埋めなくてはならない。
 手を抜けば後々後悔することになる、と外交術の先生も言っていた。

「父上、母上……わたしにはどうにもできませんわ。王太子殿下も、エリアーナとの婚約を望んでいるようでした……殿下がお望みである以上、わたしは身を引くしかありません……」

 そう言って手近にあったナプキンで目元をぬぐってみせれば完璧だろう。
 普段、ほとんど感情をあらわにしないわたしの涙に、両親はそれ以上言葉が出ないようだった。

「と、とにかく、王家とメイヤー公爵家にお伺いを立てなければならん!」
「えぇそうね、メイヤー公爵はエリィをとても可愛がっていたし、婚約者の交換に同意してくださるかしら……」

 母のなにげない言葉に、胸の奥がズキリと痛む。

(……そう、メイヤー公爵はエリアーナを愛している)

 ずっと見てきたからわかる。
 あの方の視線が、ずっとエリアーナを追っていたこと。
 そして、わたしに向くことがないことも。
 でも、だからこそ、わたしはエリアーナに彼の隣にいてほしくない。
 エリアーナはあの方の想いに応える気などさらさらないのだから。

(もし本当に神がいらっしゃるならお願いです……)

 お気に入りのドレスも、両親の愛情も、婚約者も、わたしが譲れるものは全部エリアーナに譲りましょう。

(だからどうか、ハロルド・メイヤー公爵だけはわたしにください)

 胸の中で強く祈りながら、わたしは悩ましい空気が満ちるダイニングルームをあとにした。


「マリーアンネお嬢様……大丈夫ですか?」

 エリアーナとは違う、父譲りの銀色の髪をブラシで丁寧ていねいにとかしながら、わたし付きのメイド――ルリカは鏡越しに心配そうな表情を向けてきた。
 わずかにほほんでうなずいてみせるけれど、ルリカの表情は変わらない。

「……大丈夫よ、ルリカ。本当に」
「それなら、いいのですが……」

 このクラリンス侯爵邸で、わたしの本当の想いを知っているのは、ルリカだけだ。
 そして、どれほど長い間、わたしがこの想いを封じようと努力してきたかを知っているのも彼女だけ。
 だからこそ、ルリカは今の不安定な状況をわたし以上に心配しているのだろう。

(中途半端な希望ほど、残酷なものはないものね……)

 まだ手に入るかわからない希望。
 届くかもわからない想い。
 叶わなかった時のことを考えると胸が張り裂けそうになるけれど、それでも一度指先が触れてしまえば、手を伸ばさずにはいられない。
 不安で不安で、本当は叫び出してしまいたい。
 けれどそうしないのは、少しでも確実に、あの方のそばへ行けるようにするため。

(人から見れば、馬鹿げた望みかもしれないけど……それでも、わたしは彼の……メイヤー公爵のそばにいたい)

 そのために、今必要なことをしなければ。

「ルリカ、今日の日程はどうなっているの?」
「はい、午前中はダンスのレッスンと、外国語の授業です。それと午後は王妃様から委任されている政務と外交のお仕事がございます。しかし、事情が事情です、本日はお休みされても……」

 不愉快そうに顔をしかめるルリカを、片手を上げて制する。

「いいえ、やるわ。正式な手続きがなされるまで、わたしはまだ王太子の婚約者だもの。それに、我が家の事情で王妃様の政務をとどこおらせるわけにはいかないでしょう」

 エリアーナが欲しいものをあきらめたことはないし、なんだかんだ言いながら、両親はエリアーナの望みを叶えるために奔走ほんそうするだろう。
 そうなれば、きっとこの授業や公務をこなす日々は無駄になる。けれど、手を抜くわけにはいかない。
 わたしが、実際は王太子との婚約に乗り気ではないとさとられるわけにはいかないから。

「お嬢様、おたくが整いました」
「ありがとう」

 立ち上がると同時に、丁寧ていねいにブラシをかけられた髪がサラサラと音を立てて肩からこぼれ落ちる。
 エリアーナと比べて、華やかさに欠けると言われる銀の髪。
 瞳の色だって黒に近い藍色で、美しい宝石にたとえられるエリアーナの瞳とは全然違う。
 社交界の妖精に照らされなければ輝けない、月のような令嬢。
 その評価を、好意的に受け取ってくれる人もいるけれど、ほとんどの人の目はエリアーナにうばわれる。
 でも、たとえ幾十、幾百の瞳がエリアーナを見つめても、婚約者の瞳でさえ、エリアーナにうばわれたとしても、それでもいい。
 ただひとり、あの方がわたしを見つめてくれるなら。

(だから、のがすわけにはいかないの……)

 あの方の瞳に映ることができるかもしれない、最後のチャンスを――


   ◆ ◆ ◆


 朝から屋敷の中がそうぞうしかった。
 普段、主人が眠っている間は物音ひとつ立てることがない使用人たちが、その日に限って慌ただしかったせいだろう。
 その証拠に、いつも控えめなノックをする執事でさえ、今朝はどこかかすように扉を叩いた。
 そんなことはこのメイヤー公爵家において、しかも主人である俺――ハロルドの私室において、起こったことがない。

「旦那様、お目覚めでいらっしゃいますでしょうか?」
「……あぁ、今起きた。入れ」
「失礼いたします」

 重厚なドアを開け、スルリと身をすべり込ませる執事の身のこなしは、いつ見てもすきがない。
 けれど今朝に限って言えば、わずかに狼狽ろうばいしているように見える。
 長年ともにいるが、彼のこんな姿を見るのは初めてだった。

「どうした、なにかあったのか?」
「はい。お話しするより、まずこちらを……」

 差し出されたのは一通の封筒。
 封蝋ふうろうの印は、よく見慣れたクラリンス侯爵家のものだった。

「エリアーナ嬢からか」

 自分より一回り以上年下の十八歳の少女は、年頃の令嬢らしく自分磨きに余念がない。
 いつも手紙には、ドレスや最新の化粧品、話題のさいのアクセサリーなど、『欲しい』とは言わないまでも、それをにじませた内容が書かれていた。
 三十を過ぎた男との婚約を、文句も言わずに受けてくれたのだ。彼女の希望は、行きすぎない程度に叶えてやっている。

(またなにか欲しいものでもあるんだろうか? それとも、今人気の舞台見物でもしたくなったか……)

 しかしそれだけの内容なら、我が家の執事がここまで狼狽ろうばいするはずがない。
 まして言葉をにごすことなどありえない。
 徹夜明けでかすみがかっている頭を軽く振って眠気を飛ばし、俺は手紙の封を切った――


   ◆ ◆ ◆


 午前の授業を終えて一息入れていると、屋敷内がにわかに騒がしくなった。

「なにかあったのかしら?」
「ただいま見てまいります」

 すかさず様子を見に行ったルリカは、すぐに戻ってきた。
 それも、どこか慌てた様子で。

「ルリカ? どうかしたの?」
「お嬢様、早くお召し替えを」

 わたしが『どういうこと』と問う前に、ルリカがテーブルにあったベルを鳴らす。
 本来なら、わたしがルリカを呼ぶ時に使うものだけれど、今はルリカ以外のメイドたちが、待ち構えていたかのように部屋に入ってきた。
 そして丁寧ていねいに、けれど有無を言わさぬ強引さで、ルリカたちはわたしのたくを整えていく。

「ルリカ、なにがあったの? 誰かいらっしゃったの?」

 華美ではないけれど、洗練されたベイビーブルーのドレスにそでを通しながらたずねると、慌てた、というより少し興奮した様子で、ルリカは耳元へ口を寄せた。

「実は……メイヤー公爵がいらしておいでです」
「……それでどうしてこんなに慌てているの?」

 今朝、両親が公爵家と王家に婚約の件で連絡を入れていた。
 エリアーナひとりが騒いでいるだけならまだしも、今回は王太子殿下まで関わっているから、連絡しないわけにもいかなかったのだろう。
 だから公爵が、事情を知るために当家を訪れたとしてもなんの不思議もないはずなのだが、ルリカの興奮は冷めない。

「ただいらしただけではないのです。公爵は、お嬢様に会いにいらっしゃったのですよ!」
「……え?」

 思いのほか間の抜けた声は、昼の温かな空気に溶けて消えた。


「ル、ルリカ……本当に変なところはない?」
「えぇ、お嬢様。とてもお美しいです」

 応接室の扉の前で繰り返された質問に、ルリカは少しあきれたように言って笑った。

「お嬢様、緊張なさるのはわかります。けれど、これ以上お客様をお待たせするのはよくありません」
「そ、そうね……」

 胸に手をあてて、深呼吸をする。
 騒がしい鼓動が収まることはなかったけれど、少しだけ肩から力が抜けた。
 それを見計らったように、ルリカが応接室の扉を開けてくれる。
 その瞬間、この家のものではない、けれどよく知った香りがただよってきた。
 甘いけれどすっきりとしたその香りに、無意識のうちに胸が苦しくなる。

「お待たせして申し訳ございません、公爵。クラリンス侯爵家長女、マリーアンネでございます」

 ドレスのすそをつまんで、身に染みついた淑女の礼を取る。
 長年の教育のたまものか、どうしようもないほど緊張している時でさえ、完璧な礼ができるのだから、自分でも驚いてしまう。
 けれど、そんな気持ちは押し隠して、ゆっくりと顔を上げようとした時だった――

「ハロルドさまぁ~!」

 甘く甘く、頭が痛くなりそうなほど甘いその声は、緊張に高鳴っていた胸をわしづかみにする。

(どうして……)

 金の髪を綺麗にい上げて、年頃の少女らしいローズピンクのドレスをまとったエリアーナが、わたしのわきを通り過ぎて応接室へ入っていく。

「ハロルドさま、会いに来てくださるなら連絡をくださればよろしいのに。急にいらっしゃるから驚きました♪」

 甘えるようなエリアーナの声を聞きながら、わたしはふたりのほうを見られずにいた。

(どうしてかしら、こんなの見慣れているはずなのに……)

 これまでずっと笑顔で受け流してきた光景なのに、あの方の瞳がエリアーナを映していると思うと、耐えられない。
 そんなわたしの想いを知ってか知らずか、エリアーナはいつもと変わらない笑顔で、小さく首をかしげた。

「あらお姉さま、そこでなにをしているの?」
「エリアーナ、今日は……」

 わたしが公爵に呼ばれたのよ――
 そう言葉にする前に、エリアーナは公爵の腕に自分の腕を絡ませて歩き出そうとする。

「ハロルドさま、せっかくですから今日は、お姉さまと三人で一緒にお茶にしましょう? 庭のキンモクセイが咲きはじめて、とてもいい香りなのよ」
(どうしてなの……?)

 公爵ではなく王太子と婚約すると言っておきながら、どうして前と変わらぬ態度で公爵と接することができるのか。実の妹ながら、わたしには理解できない。
 凛とした姿勢で立つ背と、きっちり整えられた白に近い金色の髪を視界の端に確認しながら、浅い呼吸を繰り返す。
 行かないで。
 ここにいて。
 そう言えたらいいのに、あまりに宙ぶらりんな立場と状況が、想いを言葉にすることを許さない。
 きっといつものように、震える両手を握り、去っていくふたりを見送ることしかできないのだろう。
 そう、思っていた――

「エリアーナ嬢、今日は君の姉上に……マリーアンネ嬢に会いに来たのだ。だから、少し席を外してくれないか?」

 公爵の言葉に、わたしは息をするのも忘れそうになった。
 だって今この瞬間、彼が、妹よりもわたしを優先してくれたのだ。
 エリアーナが甘え声でなにかを言っていたけれど、わたしには全く耳に入らない。
 代わりに、こちらを振り返った彼の瞳に釘づけになった。
 今までエリアーナしか映していなかった、彼のエメラルドグリーンの瞳に、今日はわたしが映っていたから――
 使用人たちが、一緒にいたいとねばるエリアーナを応接間から連れ出してくれたあと、わたしは再度挨拶をし、妹の非礼を謝罪して、ようやく公爵の対面の席についた。

(ど、どうしましょう……思ったよりも緊張するわ)

 柄にもなくソワソワしてしまうのは、公爵への想いを自覚してから、ふたりきりになるのが初めてだからだろう。
 いつもはエリアーナが彼の隣にいたし、わたしの隣には王太子殿下がいたので、『ふたりきり』というのはなかった。
 それに加えて、今は状況が状況だ。
 たとえ言葉に詰まったとしても、責められるようなものでもないし、どちらかと言えば突然やってきた公爵のほうが礼をしっしている。けれど、それでもやはり今のわたしの態度は客人をもてなす側の人間としては合格点をもらえるものではないだろう。
 なんとも言えない沈黙の中、紅茶だけが順調に減っていく。
 一杯目の紅茶を飲み終わる頃、ようやく話の口火を切ったのは公爵のほうだった。

「今日は、突然訪問して申し訳ない。しかし、どうしても貴女あなたに聞きたいことがあってな」
「なんでございましょう?」
「今回のこと、貴女あなたは承諾しているのか?」
「今回のこととは、その……婚約者交換のこと、ですよね?」
「あぁ」
(なんと答えるのが正解なのかしら……)

 事実を言えば、こうなるように仕向けたのはわたし自身だ。
 けれどそんなことを言えば、エリアーナを可愛がっている公爵に嫌われてしまうかもしれない。
 それに、ここで間違えばせっかくそれたエリアーナの興味が、殿下から公爵に戻ってしまう可能性もある。
 理由はわからないけれど、わたしが殿下の婚約者になってから、あの子はわたしのモノをなんでも欲しがるようになった。
 誕生日に、両親からもらったドレス。
 王太子から頂いたお気に入りのアクセサリー。
 幼い頃から仕えてくれて、とても信頼していたメイド。
 果ては、婚約者まで。

『お姉さまのってとても素敵よね。わたしのと交換してくれないかしら?』

 いくら断っても、この一言で、エリアーナはわたしが大事にしているモノをうばっていくのだ。

(今回は、そうならないためにも……)
「承諾している……というよりは、もう殿下の中で決定事項のようでしたので……」

 覚悟はしていたけれど、少しの罪悪感に胸が痛んで、思わず目をせる。
 そんなわたしの心中など知らない公爵は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「なるほど、私のおろかなおいが、要らぬ迷惑と心労をかけてしまったようだ」

 この方の低く心地いい声は、状況なんて関係なく、わたしの胸を高鳴らせるらしい。
 今、この笑みを向けられているのは自分で、彼の視線を独り占めしているのも自分。
 そう気がついた瞬間、逃げ出したくなるほどの気恥ずかしさがせり上がってきた。

「い、いえ迷惑だなんて……そんなことは……」

 気の利いた返しをすることすらままならず、もっとなにか言いたいのに、喉の奥が詰まってしまったように言葉が出ない。

「しかし、貴女あなたには災難な話だろう? 年の近い王太子ではなく、私のような三十を過ぎた男と婚約なんて。エリィとの婚約の時も申し訳ないとは思ったが、あの子は私をしたってくれていたから……」
(いや、やめて……)

 愛おしげに、寂しげに『エリィ』とささやく公爵の表情を見ていたくない。
 まるで、わたしには望みがないのだと、公爵の心の一欠けらだって、わたしのものにはならないのだと、言われている気がする。

(こんなにも胸の内が騒がしいなんて……恋なんて、するものじゃないわね……)
「マリーアンネ嬢? どうかしたか?」

 思わず自嘲の笑みをこぼして黙り込んだわたしを、公爵が心配そうにのぞき込む。
 たったそれだけのことなのに、自分の中にあったドロドロした感情が晴れていく気がする。

(あぁ、わたし本当に……)

 この人が好きだ。
 わかっている。
 この想いが実を結ぶのか、まだわからない。
 それどころか、婚約者交換の件もまだどうなるか不透明だ。
 それでもこの想いは、自分でもどうしようもない。
 あの日、公爵に初めて出会った日に、わたしの心はこの方にうばわれてしまったのだから──


 現国王陛下の年の離れた弟にして、王太子殿下の叔父にあたるハロルド・メイヤー公爵と初めて出会ったのは八年前。
 わたしが十二歳、公爵が二十四歳の時だった。
 この時まだわたしは殿下の婚約者候補のひとりで、数多あまたいる令嬢たちと同じように、時折殿下と交流するため、王宮を訪れていた。
 ――あの日も、わたしは王太子殿下に会うためひとりで王宮に足を運んでいたのだ。

「マリーアンネ嬢、申し訳ございません。王太子殿下の授業が長引いておりまして、今しばらくお待ちください」
「構いません。きっとわたしが早く着きすぎてしまったのでしょう」
「お気遣いありがとうございます。よろしければ、本日も庭園を散策なさってお待ちください。殿下の授業が終わり次第、お知らせに参ります」
「えぇ、ありがとうございます」

 こんなやり取りはいつものことだった。
 王太子殿下――クロード様は、お勉強がことほか苦手で、しょっちゅう授業から逃げ出している。
 そのせいで、予定よりも授業が長引くのだ。
 未来の国王がそんなことで大丈夫なのだろうかと思わないこともないけれど、国王の唯一の子息である以上、誰も文句は言えない。

(それに、そんな王太子を支えるために、王太子妃がいるのだし……)

 現在、王太子妃の候補になっているのは侯爵家・伯爵家から選ばれた総勢五人の令嬢だ。
 候補に選ばれたからといって、この五人のうちの誰かが必ず王太子妃になるというわけではないけれど、候補となった令嬢たちは、それぞれ王太子妃になるべく厳しい教育を受けているだろう。
 特にわたしは、家柄と年齢からいっても最有力候補として見られている。
 そのせいで、こうして王宮に来る時以外のほとんどは、礼儀作法やダンス、周辺諸国についての勉強など、分刻みのスケジュールで様々な授業を受ける羽目になった。
 そんな生活を続けているせいか、家にいると就寝時でさえ気が休まらない。

(皮肉なモノだわ、家よりも王宮の庭のほうがずっと落ち着くなんて……)

 気が休まらない原因の根源である王宮が、今のわたしには一番居心地がいい。


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