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過去編(1990-2000):第二部
夏祭り 2
しおりを挟む――その声で、司はふっと我に返った。
「あ……、ごめん」
「どうした。大丈夫か? いまの雷、近くに落ちたみたいだけど……」
「うん。……平気」
といいながら、けれど一瞬だけ、司は息を飲む。
額に張りつく髪を払って顔を上げると、柚真人が、司の顔を覗き込んでいたから。
だから、視線を宙に漂わせる。
「ちょっと、頭が痛いかなっ……て。うん、それだけ」
「また風邪か? だから言わんこっちゃないんだよ……。ったく」
「うん……」
もう、一瞬の閃光の中で自分が何を思ったか、司にはわからなかった。ただ、少し頭が痛んだような気がした。
司は、頭を振って立ち上がろうとした。
かくん、と腰が抜けたように足許がふらついたのはその刹那。
「あ、おい――」
抱き留める柚真人の手が、転ぶ司の手に触れる。
「うわっ」
「ばかっ、危ない……っ」
その瞬間――柚真人は、うつむく彼女の首筋を流れ落ちていく雨の滴を見ていた。
その唇から洩れる、小さな溜め息に、鳥肌が立つのを意識する。
濡れて走り回って着崩れた浴衣を彼女は気にするふうでもなかったが、よく見ればはだけた胸元に乱れた裾、足は水溜まりを歩き回ったせいで泥だらけだ。
でも、それさえも全然気に掛けないあたりが無頓着な彼女らしいというべきなのだけれど。
「びっ――くりした……」
などと小さく呟いて、彼女は前髪を掻き上げる。首を振ると、飛び散る水滴。
彼女が柚真人を仰ぐと見える、滑らかな頸が、閃光に白く浮き上がる。
彼女に触れている、自分の手が、ぴくりと震えるのを自覚する。
そして。
その刹那――司は。
彼の眼差しを隠す前髪から落ちてくる雨の滴を見ていた。
顔を上げて、深い色彩の瞳を見返す。
けれど、そこに感情は読み取れなかった。でもたぶん、苛立っているか、怒っているか、そのどっちかなのだろう。その内にどんな感情を宿しても滅多なことでは素直に表情にしないのが兄の常だけれど、容貌がべらぼうに端正なのがまた鉄面皮に拍車を掛ける。
「具合悪いなら、おとなしく座ってろ」
といって、彼が嘆息した。声は、少し厳しかった。まっすぐに見下ろされるとまともに目が合って、逃げられないようで少し戸惑う。
「うん。……ごめん」
「……別に、謝ることじゃない」
「あ……うん」
不機嫌そうに瞼を伏せる彼のまなざしに、自由を奪われる。
呼吸が止まりそうになる。甘い痛みが肺を押し潰す。
手を放せない。目が離せない。
何処かで硝子の――。
硝子の砕ける音が――。
自分の中の何処かに、ぴしりとひびのはいった音を、確かに聞いたのは、兄だったのか、妹だったのか。
微かな体温と、微かな吐息。
指先とまなざし。
触れているのはたったそれだけでも。
☆
騒がしい声が聞こえてきたのは、その時のことだった。
「あー、おー、いたいたっ」
雨雲も雷鳴も払い除ける脳天気な声は、橘飛鳥のそれだとすぐわかる。
その時に、安堵したのは柚真人だったのか、司だったのか。
そして同時に、落胆したのはどちらだったのか。
「おーい、つっかさちゃーん。ゆーまとーっ」
ばしゃばしゃと水溜まりを飛び跳ねるように、浴衣姿の少年がやってきた。
といっても、やはり浴衣は着崩れてぐちゃぐちゃだし、帯も緩めているのか解けているのかわからないほどの乱
れようで、おまけに長髪茶髪なものだから、一見すると完璧に怪しい男である。
そんな男が手を振りながら近付いてくる様は、知り合いとわかっていても怖かった。
そのありさまに、柚真人は言葉を失っていたが、飛鳥は二人のそばまで来ると、まるで大型犬のようにぶるぶるぶると水気を払った。
「わっ、――おまえなっ」
「あ、ごめんごめん。やー、探した探した。携帯、忘れるんじゃなかったな」
「ってお前……、緋月はどうした?」
「ああ、お嬢様なら神社の社務所で待ってるよ。家名濫用。同業者の誼」
「……で。お前はこの雷雨の中を走り回っていたと、そいういうわけだ?」
「いやせっかくの雷様じゃない」
「せっかく?」
頷く飛鳥はどこからみでもすこぶる上機嫌で愉しそうであった。
「飛鳥君てさ……雷とか、台風とか、大雪とか、大っ好きでしょ……」
「うん。好き」
「……子供か……」
先刻司にも言った言葉を、今度は飛鳥に贈呈する柚真人である。その様子を見ていたら、こいつなら嵐も雷雨も呼びかねないように思えてくる。
「いやあねっ。君がじじむさいんですよう、柚真人君」
「いってろ……」
「まっ。冷たいわね、本当」
☆
「まあ……。それでそんなにお時間がかかりましたのねえ」
と空調の効いた涼しい社務所の座敷の隅で、抹茶など啜りながら緋月が言った。
おかげで、柚真人と司が宮司に挨拶をすることになって、結局四人ともがタオルを借りたり何だりして迷惑を掛ける始末となった次第である。
緋月が優雅にお茶を楽しんでいる間に、夕立にずぶ濡れた三人が何とか衣服の水気を払い、柚真人が天才的詐欺ぶりでもって大変愛想よく社務所を辞した頃には、大鳥居の向こうに夕日が沈み掛けていた。
「まったく……。散々でしたわね」
涼しい顔で、緋月が言う。
「君がいうなっての。一人で社務所に逃げ込んじゃってさー」
と飛鳥。
「やっぱり今度は二人で行こうねえ、司ちゃん」
「うーん……」
「そうして下さいます? わたくし、疲れましたわ。飛鳥さんて、なんでそう、年中無駄に元気なんですの?」
「失礼な。人を化け物のように言わないでくれる?」
雨を浴びてなけなしの冷気を放つ石畳を歩きながら、参道を下ってゆく四人である。
夜に予定されていた花火大会はやはり中止になってしまったが、参道の両脇では様々な露店が活動を再開し始めていた。店先を覆っていた青や橙のビニールシートが次々と片付けられてゆく。それとともに、祭りの混雑も復活しつつあった。
「焼きそばでも買うかなあ」
のほほんと飛鳥は言う。その両手には既にトウモロコシとタコ焼きと大判焼、口の中にはあんず飴。背中には、わけのわからないビニール製の人形を背負っている。
緋月はりんご飴を、司は青い星形のべっ甲飴を買った。
「あっ、おっにいちゃん。あの五色わたあめ買ってえ」
「……それを! 喰い尽くしてからにしろっ」
このうえさらに食物をねだる飛鳥を、柚真人は一蹴した。
「それと。おれはお前の『お兄ちゃん』じゃ、ないっ」
血色の、夕焼け。
鳥居の向こうのその紅を見つめながら、司はまた軽い頭痛を感じていた。
――嫌だな。
司は、そう思った。
――嫌な、色。
そして、その感触の正体にふいに気付く。
――そう、か。
――これは、あたしの何処かにある、何かの記憶とつながっている色だ。
――あたし、この色を見て何かを思い出しそうになった――?
「司ちゃん?」
「大丈夫なのか。夏風邪は厄介だぞ」
「えっ、なになに、またまた風邪ひいちゃったの? 司ちゃん」
飛鳥と柚真人がぼうっとしている司の横顔を覗き込む。緋月も司を見ていた。
「ううん。違うの。なんでもない」
司は幼馴染みの従兄弟たちに笑顔をつくって見せた。
――そうだ。柚真人は――?
兄なら、兄に訊けば、この記憶の正体がわかるだろうか。
一瞬そう思ったが、なぜかそれはしてはならないことのように思えた。
それだけは絶対に駄目だと思った。否、嫌だと思ったのかも知れない。それは得体の知れない嫌悪感だった。その透明で美しいはずの茜が、わけもなく嫌だった。
――嫌。嫌だ……。嫌い。この色は、嫌い。
嫌だと思う気持ちは自己嫌悪に重なり、駄目だという想いは禁忌に重なる。
赤い色は、血を連想させる罪の色。それに触れると、きっとすべてが崩れ去る。
その時、何処かで確かに、司は理解していた。
覗いてはいけない。見てはいけない。
その記憶を、甦らせてはいけない。
――夕立の閃光の中で見た柚真人の瞳の色。
――触れた指。
――聞いた声。
拘束される。縛られる。
鮮やかに、刻まれる。
消せない。
心臓が踊る。鼓動が乱れる。
泣きそうな気持ちで、唇を噛み締める。息苦しい。
「司、ちゃん……?」
「なんでもないの……」
脳裏をちらつく緋色は不吉で。
それは――確かに何時かの憶い出につながり、その日、司の中の封印には。
確かに、ひびが入った。
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