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めめくらげ

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十(二)

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「お前、匂うぞ。気をつけろ。」

パソコンと向き合っているとおもむろにけっこう手痛い注意を受け、パッと顔を上げると顔をしかめた社長が脇に立っていた。

「え・・・すいません、匂いますかね?」

何の匂いだろう?パーカーの袖に鼻をつけて嗅いでみる。だが、よくわからない。俺は家に帰れなくても、サウナに行くなりして風呂にだけは絶対に入っている。「海辺の夜間警備」から帰ったらなぜか調子のよくなってたシャワーも昨日ちゃんと浴びたし、昨夜は酒など飲んでないし、ラーメンも焼肉も食べていない。

2日間着続けのこのパーカーのせいか?自分の汗の匂いだからよく分かっていないのだろうか。いや、俺はそこまで鈍感じゃない。汗臭かったら自分ですぐにわかる。さっき1本タバコを吸ったが、社長も喫煙者だから、タバコの匂いで……ってこともないだろう。

「何の匂いっすか?」

おずおずと尋ねると、社長はフンと鼻を鳴らしながら言った。

「生臭いんだよ。」

「生臭い……?」

「魚の匂いだ。」

「魚なんて食ってないのになあ。」

「海で変なもんでも拾ってきたんじゃないのか。」

俺は思わずどきりとした。社長のくせに意外なことを言うものだ。この人は「その手のこと」など信じちゃいない男のはずだが……。

「何か憑いてるってことっすか。」

「ああそうだ。呪われたに決まってる。」

「社長、それマジのトーンで言ってます?」

「大マジだよ。」

丸めて持っていた旅行会社のパンフレットで頭をポンとはたかれる。そして「俺3時からちょっと出るから、あとよろしく。」と言い残して去っていった。……やっぱり冗談か。奴はスーパーリアリストだ。街中の道祖神なんかも平気で蹴っ飛ばせるようなタイプの人間だろう。呪いなんて口だけで、奴の頭の辞書には載っていない。

あれから3日。まだ3日だが、何故かもっと前のことに感じる。俺はたぶん、あの場所で何か強烈なモノを宿したのだ。「神様」によって……。
こんなこと社長に言えるわけがない。言っても信じないだろう。だが、なるほど、魚の匂いか。神様がくれた力のおかげだろう。あるいは、神様の一部が俺と一体化したのかもしれない。

あの晩、俺たちはまたたくさん食材を買い込み、神様仏様と言わんばかりにあの海のオバケに庇護を願ったのだ。遠い空を覆う灰色の雲から生まれ落ち、やがて海から這い上がってくる何かの気配……俺たちは朝からそれに脅かされていた。

結論から言うと、あの晩俺たちが見たのは、魔物だった。いや、単にそう呼んでるだけで実態というのはわからない。神様と呼んでたあのオバケの正体だってよくわかっていないのだ。

だが、たとえばあの海のオバケを神様とするなら、あの晩やってきた異なる何かはまさしく「死神」のようなものだった。感覚としての話だ。曖昧な定義だが……ともかく、あれは魔物としか呼べない。
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