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めめくらげ

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昭和7年10月の手記

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【やはり不安は的中した。茂明がおととい小川町の病院から脱走したとの噂を耳に入れた。事情通のシケ婆さんのいうことには、消灯前には薬を呑まされ大人しく眠っていたというが、昨日の朝には既に寝床には居らず、忽然と姿を眩ませたそうだ。婆さんも人伝てに耳にしただけで細かなことは判らぬと云ったが、しかし事実は父の大迫茂一が世間に隠しているのであって、これは噂などではなく紛うこと無き真実であろう。何故なら悪い予感というものは、これまでいつだって実態を伴い私の前に忍び足で現れてきたのだから。】

数日後の手記
【警察が動いているようだと松林先生が仰った。茂明捜索の聞き込みが来たのだと云う。他言を禁じられているそうだが、彼奴は狂人なので秘匿のままにしておくのはあまりにも危険であると、以前目を付けられた我家に教えに来て下さったのだ。私は先日よりいっそう強く、アラタに一人で一切の外出をせぬようにと云いつけた。】

翌日の手記
【明朝の汽車で、喘息の父の療養もかねて伊豆の高原にある別邸へ総出で赴き、暫く逗留することとなる。決めたのは先日の茂明失踪を聞いてからだ。別邸は長らく使用していなかったので、近くに住む親戚に連絡を入れ多少手を入れてもらうよう頼んでおいた。夏の間に行けなかったのは、私に諸々のつまらぬ用事が重なっていたせいだ。それで大分遅くなったが、今し方切符を取ってきたところだ。これまでも旅行にはアラタを引連れ時折出向いてはいたが、久方振りの遠出で、アラタも目に見えて勇んでおり、何とも微笑ましき姿である。】

翌日の手記
【早朝から警察が我家を訪れ、玄関に立つなり山蕗アラタを出せと迫ってきた。どうされたのかまず御説明下さいませぬかと問うたらば、茂明の逃げた病室の寝台の下から、ヤマブキアラタと幾つも幾つも書かれた紙片が発見されたのだそうだ。ゆえに事情聴取のため、同伴願いたいとのことであった。私は眩暈に襲われ倒れそうになり、強気で迫ってきた署員逹に慌てて肩を抱かれ、しっかりなさいと背中を叩かれた。伊豆へは先に父だけで向かってもらうことにした。病人にあまり心配をかけたくないと云うアラタの意向もある。】

翌日の手記
【捜査の結果、大迫邸の茂明の自室からも同じような紙切れが幾つか見つかり、それ以外にも執心しているらしき女優の写された冊子の頁の切抜き、いつどこで仕入れたのか家族以外の婦人用と見られる襦袢や腰紐、片方だけの革製の手袋や足袋にいたるまでが、隠されることもなく乱雑に床に置かれていたそうだ。更にそこにもアラタの名前を書き連ねた気味の悪い紙片、アラタを模したと思われる少年の裸体のやうな絵、それから・・・ここには到底記すことの出来ぬような下劣きわまりない妄言が添えられていた。
アラタを性的に愛好し、捩じ曲がった己の欲望を自分勝手に吐き出していたナマの痕跡である。私はずっと胸焼けに苦しむが、アラタの苦しみはそれを優に上回るであろう。
だが昨日の聴取はさほどの時間を要さず、狂人による一方的なアラタへの執着であると云うことが今回のことで警察側にも判然となり、寧ろ結果的にそれで良かったとも思えた。両人の間で会話を交わしたことも無く、只不幸にもどこかで狂人がアラタを見つけ、嗅ぎ回ったあげく我が家に辿り着いたのだ。一連の不幸には、心配して駆けつけてくれた松林先生も同情して下さった。】







翌日・最後の手記

【私は改めて伊豆行の切符を買い直し、ようやく今夜の夜行列車で父の元へ向かうこととなった。始めは不躾に思えた警察署員も、事情を知るなり途端に親切心を出したのか、今夜この家から乗場までの警護のために署員一名と車を遣わすと云ってくれ、私とアラタは幾度も頭を下げて一時の安堵に胸を撫で下ろした。
伊豆はまだ暖いだろう。星空がここよりもずっと美しく、空気の澄んだ町で、東京に居るよりかは幾分か父の胸にもいいのだ。
奔放な学生の身の上でありながらも、まだ着手せねばならぬ課題もあるので、できることなら冬を迎える前に一旦引き揚げたひと考えている。然しアラタがもしも伊豆での暮らしを気に入ったのなら、私はそのまま帰らずにずっと伊豆に暮らしてもいいだろう。たとえ厳寒の雪の降りしきる町であったとて、この子が好きというのなら、私はどこであろうとも仕合わせに暮らせるのだ。
この屋敷も、オルガンも、取るに足らぬ私の身の上も、アラタのためならば棄て去れる。
故郷は逃げも隠れもしない。私の生きた証はずっとここにあるのだから、それを思えば私はこの身一つでどこにでも行けるのだ。
しかしひとつ贅沢を望むのなら、未来永劫、アラタが私の傍に居てくれたらいい。

だが無理は云えまい。アラタは男であり、私の好きに生きる人形などでは決してないのだ。きっといつしか善良で全うな相手を見つけ、子を儲けて父となり、私とのこの日々も忙しない日々の中でやがて彼方に追いやられてしまうだらう。それでも、この子が仕合わせに暮らせるのなら、それが私の只一つの僥倖なのだ。
いつかこのように記したことがある。もしこの子が死ぬことがあれば、私もきっと生きては行けぬ。もし私が先に死ぬとすれば、私を忘れて別の仕合わせに身を寄せて生きてほしい。私はアラタを愛している。死んだ母にも、世間に生きる誰れしにもこの慕情を明かすことは出来ぬ。

それでも私は、仕合わせである。】
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