TOKIO

めめくらげ

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ー「に、20ある…?嘘でしょ…?全部1万円札だよ…」

翌月の15日に未来から手渡された茶封筒には、何度数えても20万ぴったりの札が納められており、優は口元をひくひくと痙攣させ「何のバイトしてるの?!」と兄に詰め寄った。

「だから、月曜に家事をまとめて片付け、メシを作り、土曜まで犬の散歩をしている」

「それでこれはおかしすぎるだろ!!ちょっと電話」

封筒の置かれたテーブルを人差し指でコツコツと小突き、未来に連絡を入れる。するとスピーカーから「もしもーし」と気の抜けた声がした。

「灰枝くんお給料間違ってるよ、全部千円札ならわかるけど20万はもらいすぎだって」

『間違ってないよ?だって相応の働きをしてもらってるもん』

「家事と散歩だけさせてるんだよね?ほかに何かさせてる?」

『ううん』

「こんなにもらえない。ダメだよ」

『でも税金払ったら月の平均の手取り16、7万ってとこだよ。妥当でしょ。1年続けてくれるならだけど』

「おい優くん税金ってなんだ、こっから税金取られるのか」

「…まあ申告は義務だぞ、とは言っておく」

『これを機に扶養からも抜けて、自立の第一歩を踏み出せばいい』

「ふよおって何だ」

「ちょっと兄さんは黙ってて。灰枝くん、気持ちはとてもありがたいけど、そこまで甘えられないよ。第一キミのとこの仕事がいつまで続けられるかも定かじゃないんだ」

『まあ確かに俺も不安定っちゃ不安定だからな。でもそれまでは出来る限りたくさんのお金をもらえるに越したことはないだろ?悪いなんて思わなくていい、時生さんの働きぶりを見た上で、俺が自分の意思で決めた額だから』

「評価が甘すぎない?」

『…優さん、大丈夫。でもお金の使い方はきっちり教えてやりなよ』

「じいちゃんに言ったら心臓発作起こすかも」

『じゃあ10万って言っときな』

「リアルにそうする」

「なあ優くん何食いたい?そーだ、明日朝イチで市場に行って、優くんの大好きなウニをあるだけ買い付けてくるか」

「兄さんの意思で買い物するのは禁止」

「は?」

「お金は僕が預かる。欲しいものがあったらその都度僕に言え。いいと判断したらその分の額を渡すから」

「おい何だその謎ルール!」

「金を持たせたら明日市場にあるだけのウニを買ってくるんだろ?そんな奴に1円たりとも持たせられるか。いい?これを守れないなら、僕は明日にもこの家を出てたいちゃんの部屋で暮らすから」

「なっ…」

『たいちゃん?』

「彼だよ」

『ああ、太一さん』

「どーする兄さん」

すると時生は困惑と動揺の色を浮かべつつ、無言で封筒に札をきれいにしまい直し、両手で優の胸元に差し出した。

「よろしい」

『あはは、お年玉もらった小学生みたい』

「みたいじゃなくてそのまんまだよ。お小遣いしか持ったことないから使い方知らないんだ。…灰枝くん、本当にありがとう。お願いだから無理だけはしないでくれ。切るってなったら遠慮なく切ってくれていいから」

『心配しないで。…俺、君たち兄弟が好きだから別にいいんだ』

「嬉しいよ。僕も灰枝くんのこと人として大好き。明日からもよろしくね」

『こちらこそ』

「未来、また明日な」

『・・・ッ・・・う、うん、またね』

「友達かお前、よろしくお願いしますだろ」

「よろしくお願いします」

『い、いいよ、フツーにしててくれ。じゃあ』

「おやすみ」

「み」

通話を切ると、優はテーブルの上にずりずりと崩れ落ち、手を伸ばして突っ伏した。

「はーーーー・・・灰枝くんさあ、なんか兄さんのことすごく特別扱いしてるよね」

「そうは思わんが」

「いやしてるよ。…なんかあるの?ふたり」 

「俺には優くんのような趣味はない。未来もないだろ」

「だよねえ。ていうか未来って呼んでるの?なんかずるーい」

「ずるいって何だ?未来が未来と呼んでほしいといったからそう呼んでるだけだ」

「え、何それ」

「?おかしいか」

「おかし…くはないけど。灰枝くんって兄さんにもすごくフレンドリーなんだね」

「引きこもってる割には社交的だな」

「見習えよほんと。はあ、お風呂入ろ」

「俺も」

「来るなよ!」

「なあ、アイツとは風呂入ったりするのか?」

「…よく兄弟にそんな生々しいこと聞けるね」

兄を蔑みの目で見下ろし、優はさっさと風呂に向かった。
それにしても、自分が好きでもない男に弟が抱かれることは、兄として不本意でならない。優には子供を持ち幸せな家庭を築いてほしかったが、それを未来にぽろりと漏らすと幸せの形は人それぞれだと言われ、おまけにいくら兄弟であれど大人になったらもう他人だから、めったなことでは恋愛事情に口出ししてはいけないとも言われた。納得がいかないが、未来はしっかりした大人なので、きっと正しいことを言っているのだろう。



ー「俺たちはもう他人にならなきゃいかんのか」

「だから入ってくるなって!!」

優が湯船に足をつけた瞬間に時生が入ってきて、出てけと言われても気にせず頭を洗い始めた。

「なんでいい歳こいた兄弟ふたりで入浴してんだ…もーほんとやだ、鬱陶しすぎ。早くお金貯めて出てって」

「優くんは俺のこと嫌いか」

「嫌いじゃないけどもう少し大人としての分別とかを持ってほしい」

「俺はもう大人だ。20万も稼げたんだから、立派な大人だ」

「それは灰枝くんがおかし…太っ腹だからです」

「なあ優くん」

「なに」

「未来はいい奴だな」

「…んん?…うん、そうだね。…今さら気づいたの?」

「初めはもぐらみたいに引きこもりの頼りない兄ちゃんだと思ってたが、俺のことを悪く思ったりせず、素直な心で受け入れている。あと、忙しすぎてメシを食う暇がない日もあるが、俺が何を言っても面倒がらずに、いつも向き合って会話を交わしてくれる」

「…そう。それが灰枝くんの、人としてもっとも素敵な部分だよ。いい人に出会えてよかったね、兄さん」

「優くんのおかげだ」

「そうだね。…でも僕たちの救世主なのは間違いないよ。明日にはあっさりクビにされたとしても、永遠に頭が上がらない存在だ。…それより兄さんが人のことそんなふうに言うの初めてだね」

「こんなふうにいろいろ言えるほど付き合いのある人間はいないからな」

「…悲しいこと言うなよ。最近友達も来なくなったし。でもまあ、よく考えたらみんな仕事と子育てで忙しいんだもんな」

「ヒトシのガキは4月に小学校に上がるぞ」

「ひー…まあそうだよなあ、ヒトシくん子供産まれたの早かったし。でももう小学生って…信じらんない。兄さんの頭の中もいまだに小学生だってのに」

「俺にも優くんは小学生のまんまだ」

「小学生じゃできないこと、たいちゃんといーっぱいしてるけどね」

「なっ…」

「自分から生々しいこと言われるのは嫌がるんだな。兄さんはそこが子供」

「……」

「上がろ」

「相変わらずカラスのぎょーずいだ」

「ていうか一緒にお風呂なんてやだもん。じゃ、ごゆっくり」

細い腰と形のいい尻を眼前で眺め、(アイツはこれにコーフンしてるのか…とんだ変態だ)と苦々しい気持ちでいっぱいになる。だが次の瞬間には(優くんに腹いっぱいウニを食べさせてやりたいなあ)という願望に切り替わった。
幼いころ塩ウニのビンをこっそり持ち出して、スプーンですくって口に運んでやったときの笑顔がずっと脳にしみついている。まだ小さかったので限度を知らず、ほしがるままに食べさせて空にしてしまい、あとで母親にこっぴどく叱られたがいい思い出だ。だがあのビン詰めをうまそうに食べていただけで、その後も彼がウニを好んで食べていたかと言えばその記憶はないし、彼が自ら好きだと言ったこともないような気がする。ともかくあの笑顔だけが、あまりにもかわいくて忘れられないのだ。

(しょーじき俺は何も欲しくないし何もしたくない)

ただこのままの暮らしを死ぬまで続けていたい。それが時生のただひとつの望みである。しかし当然ながらいずれ祖父も死ぬし、自立した弟の世話になり続けるわけにもいかない。理容免許を取って一緒に働くならいてもいいと言われたので、最後の手段としてそれは一応頭にはあるが、とにかく何もせずに優のそばで小さく生き、小さく死にたいのだ。以前それを本人に言ったら「じゃあ今すぐ死ね」と予想通りのセリフが返ってきただけだった。だがそれだけが時生の願いであり生きる道であった。
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