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しおりを挟む時生はこれを特異能力と自覚することなく過ごしてきたが、両親は幼いころからこの才能に大きな期待を寄せていた。話すことはできなくとも、読めさえすれば立派な翻訳家にはなれる。その上英語以外のいくつもの言語を吸収し習得しているのだから、いずれは日本を代表する翻訳家になれるかもしれない。
しかし元来の無気力のせいかその能力を仕事とするまでの情熱には到底及ばず、生前の両親と祖母、祖父と優がどんなに勧めても頑としてそれを職にすることはなかった。そして彼の性質を思えば、仕事になった途端やらなくなるのも目に見えていた。
彼は学生時代いつも授業そっちのけで過ごしていたが、黒板を見ずに一心不乱に目を通すものがいずれも外国語の辞書だったせいか、教師もどう突っ込んでよいのかわからず、ノートを取れと軽く注意をするだけでほとんど放置されていた。
テストの点数が1ケタばかりでも「そういう子だから」とマイルドに腫物のような扱いを受け、中学に上がっても同様に生ぬるく遠巻きに見守られたおかげで、高校で単位不足による留年が決まって中退するまでには、10ヵ国語もの単語をマスターできた。家でだらだらと過ごすようになってからの習得数は増えていないが、覚えたものを忘れることもなかった。
単語だけでなく熟語や特殊な構文も理解しているが、本人もそれをどのように学んだのかはわかっていない。とにかく辞書のあらゆる文字や文章を眺めて没頭するのが好きだっただけだ。文字に限ったことではなく、没頭さえすれば見たものはだいたいすぐに脳内に記録できる。暇つぶしに読んだ犬の図鑑も、暇ゆえにほかに考えることがなかったからこそ集中できたのだ。ただし基本的に動物には興味がないので内容を網羅することはないだろう。大事なのは興味関心と執着なのだ。
ー「つかぬことを聞いていいですか」
「なんだ」
むしゃむしゃとケーキを頬ばり、「これもう1個食いたいなあ」と言うと、未来はすかさず「すみません、ケーキ同じやつ追加で」とカウンターの店主に注文し、向き直って改まったように尋ねた。
「日本語以外…たとえば英語から他の言語に変換することはできます?つまり、英語をロシア語やポルトガル語に訳すとか」
「できる」
「なるほど」
未来は考えた。いま更新中の動画は英語字幕しかつけていないが、英語に次いで使用人口の多い中国語やアラビア語やスペイン語をつけたら、内容的にも視聴者数が倍になってもおかしくはないはずだ。英語だけなら自力でやれたが、他の言語はお手上げである。しかしここにいる中卒のアラサー童貞ニートは、世界の主要な言語を文字だけでも完璧に網羅している…
(今よりさらにめちゃくちゃ収入が増えたら、時生さんはおとなしく俺に養われてくるかもしれない。この人が本気で一生働かなくてもいいくらいのお金を稼げたらだけど)
下心と野心がむくむくと湧き上がり、表情こそ崩さぬが頭の中はよくわからない期待でいっぱいに膨れ上がる。彼に対する未来の慕情は日毎に増え、関係性はみじんも変わらぬのに、今の生活は彼なしではいられなくなっていた。それは食事の世話や家事だけではない。いつも彼が来てくれることが未来の唯一の拠り所であり、救いだったのだ。だらしなくて無力で厭世的で見た目どおりにひねくれたところに惚れているが、与えられたことを淡々とこなす犬のように従順な面と、猫のように無関心なところにさらに惹かれている。
(この人は海底に眠る財宝そのものだな…。誰にも見つからず錆びて朽ちていくだけだなんて…何とロマンがある人なんだろう。ああ今すぐ抱かれたい。殴られてもいいし首しめられてもいいからめちゃくちゃにしてほしい…)
「おい」
「へっ…」
「俺を見つめながら意識を飛ばすな」
「…ご、ごめんなさい」
「このケーキって犬用か?いやに美味いな」
「…それはちゃんと人間用ですよ」
「お前はケーキ食わんのか」
「1個はいらないんですよね。ひと口ちょこっとつまむくらいでジューブンです」
「じゃあ」
時生が口に運びかけたケーキを、未来の口元に差し出す。
「……」
「要らんのか?」
彼の思わぬ気遣いに未来はまたも目を丸くして頬をカッと熱くさせた。
(たとえ子供でも男同士じゃ絶対やらないことを平然とやってきた…たぶん人との正しい距離感とかわからないんだ…この分じゃ初対面の女の子にもへーきで同じことやるんだろうな…そんなクリームと唾液まみれのフォークで赤の他人にケーキ食べさせようとしてくるなんて…嫌がらせでも冗談でもなく超まっすぐな目してるし…)
「…美味しい」
芋虫を食わされる雛鳥のようにケーキを口に入れ、未来の心は麻薬を決めたのと同等の多幸感に満ちあふれた。ときめきが邪魔をして味覚などにぶっているのに、今食べたケーキは人生で味わったどの甘味よりも甘くて美味かった。
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