TOKIO

めめくらげ

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「…何してんの?」

夕飯の買い物に行こうと勝手口を開けると、扉の向こうで兄が肘をおさえながら立ち尽くしていた。

「ヒジどうしたの?」

「ちょっとな」

「自転車は?」

「それもちょっとな。…買い物か?」

「うん」

「俺が行こう」

「え?いやいいよ。灰枝くんは?」 

「……」

時生は静かにため息を吐き、「帰った」とポツリと言った。

「何かあったの?」

「まあ」

「喧嘩した?」

「喧嘩はしていない」

「でもその感じは…なんか怒らせることしたんだろ」

「なあ優くん…」

「寒いからさっさとスーパー行きたいんだけど」

「じゃあ一緒に行こう」

「えー…」

渋々並んで歩き出すが、そのうち先を行き始めた優の後を、うなだれる時生がペタペタとついていく形になった。まるでいつも時生に不本意な散歩をさせられるルイのようだ。
しかし久しぶりに優の歩く姿を眺められるのはなんだか嬉しかった。黒いフリースにジーンズの簡素な格好でも、影のように長く伸びる脚や姿勢のいい背筋や歩き方が、他の男たちとまったくかけ離れた後ろ姿を作り出している。おまけに振り向けば男も女も兄すらも虜にさせる顔立ちで、「置いてくよ」と不機嫌そうにしかめる顔すら男前だ。

「それなのになぜ太一なんかに…」

「?…なんか言った?」

「なんでもない」

店舗の入り口で買い物カゴを取り出すと、時生が優の手からそれをかすめ取り、「今日の飯は?」と聞いた。優は少し間を置いて、「唐揚げに甘酢かけたやつ」と言い、すぐに「…が食べたいんだって」と付け加えた。太一のリクエストということだ。

「じいさんはあんま脂っこいもん食えないだろ」

「じいちゃんはご飯いらないよ。会合の日はみんなで食べてくるから」

「あそうか」

「最近めっきりおじいさんぽくなっちゃって…。兄さんがいなくなったからホッとしたのかもね」

「じゃー俺がいた方が若返って長生きできるっつーことだ」

「逆だよ。神経すり減らしてあっという間に死んじゃうよ」

話しながら鶏肉や具材をカゴに入れていく。彼はあまり肉や野菜の具合などを気にしないのか、選ぶ様子もなく適当に手に取っているようだ。

「男らしい買い方だな優くん」

「ねえ、灰枝くんどうしたの?」

「……」

「怒らないから話しなよ。僕にできることなら手を貸すから」

「いやあ…」

「大人同士のあいだで起きたことなんか、いちいち兄弟が首突っ込みたくはないけど…兄さんは大人じゃないんだから別だよ。話さないならあとで灰枝くんに電話するからな」

「俺より未来がいやがると思うぞ」

「だから何があったの?」

このときの聞き方が母親そっくりだと思った。時生はしょげた犬のようにうつむき、困った顔をしながら子供のようにもじもじとするが、やがて意を決したように調味料コーナーで真相を打ち明けた。

「…み、未来が俺のことを好きだと言った」

「好き?…なんで?よかったじゃん」

「はあ…?」

優は怪訝な顔をしつつも、「それの何が気に食わないんだ」といった様子である。明らかに「好き」の意味合いを理解していない。

「別にからかってるとかじゃないだろ。兄さんに気遣ってくれてるんだよ。いちいち嫌味な捉え方するもんじゃない」

「い、いや…そうじゃなくて…そうじゃないんだ」

「じゃあ何」

「好きっていうのは…俺のことがタイプだから、という意味の好きなんだ」

「…?」

意味をとらえかね、優は眉根をよせて兄の顔をまじまじと見つめる。なぜ彼には同性の恋人がありながら一度で理解できないのかと思うが、それを含めても理解に至らないほど、未来の想いは優にも異次元の感情ということなのだろう。

「…タイプって?」

「タイプはタイプだ。好きなタイプ」

「そのタイプがなんだって?」

「み、未来のタイプが俺だそうだ」

「……ちなみにどういうタイプ?」

「ええと…ヒゲがぼうぼうで服にも髪型にも無頓着で、身体がでかくて、社会に出られる能力がなくて、清潔感がなくて汚らしくて、一緒に生きていくにはかなり際どいギリギリのラインを保ってる男…らしい」

「ああ…たしかに兄さんだ」

「そういう奴が好きだから俺のことが好きなんだと」

「う~~~ん??……やっぱりからかわれてるっぽいな」

「……そう……とは思ったんだが」

「灰枝くん、そういうことふざけて言いそうにないのに…遠回しに兄さんのそういうダメなところを直せって言ってるのかな?」

「今さらぁ?」

「やっぱり限界だったとか?汚い男が毎日家にいるのが。灰枝くんかなり綺麗好きじゃん、前に家行ったときに思ったけど」

「…まあな」

「ちゃんとお風呂入ってる?あと借りてる部屋の掃除は?」

「風呂は毎日入ってるし、部屋は服以外のモノを置いてないから、来たときとほぼ変わらん見た目を保ってるぞ」

「じゃあ匂い。ちゃんと気にしてる?」

「匂い…」

「加齢臭とか兄さんの年でも全然出るからな。あとマメに口臭のケアもしないと。虫歯は?」

「虫歯はないが…俺のカラダってクサいか?」

「今日は気にならなかったけどなあ…うちを出る前はあんまりお風呂入らないから臭かったけど」

「たぶん今の俺より、しばらく風呂に入れてないときのアイツの犬の方がクサいぞ」

「犬と比べるのはけっこうアウトな基準だけど…でもそうだね、犬飼ってると多少の匂いは気にしなそうだけどなあ。それに兄さんってこんなに汚らしいのに、お風呂入らないとき以外であんまり体臭なかったよね。足とかめっちゃ臭そうな顔なのに」

「臭そうな顔って…」

「やっぱり僕が聞こうか?灰枝くんにもはっきり言えないことがあるのかもしれないから」

「…それは出来ればやめてやってほしい」

「でも…」

「やはり嫌味だったのかもしれん」

「うん。そんな辛辣な指摘されて、好きってことはないだろう」

「そうだよな…」

しかし未来はふざけていたようにも、怒りを募らせていたようにも思えない。それに他人の優しさに触れたことはほとんどないが、彼の優しさが嘘だとも思えない。

「でも沢尻さんのこともあんまり好きじゃないって言ってるんだよね?」

「奴は完全なるタイプ外だそうだ。むしろ正反対と言っていた」

「正反対…だとすると本当に兄さんのスペックになるな」

「だろう」

「たまに本気で悪趣味な人っているけど…まさかねえ。ていうかそうだとしたら、灰枝くんはソッチの意味で兄さんを…?いやあ無いない、絶対ない」

「本気で悪趣味なのは優くんも同じだろ」

「どこがだよ。兄さんがたいちゃんを嫌いなだけだろ」

「まあそれはいいとして、ともかく…未来が男もいける以上、あながち狂言とは思えんのだ」

「うん…さっき聞いてびっくりしたよ。まさかそうだとは…。でもそれで兄さんを、ってことは無いって。案外本当にただの優しさで言ってくれたのかもよ」

「…う~ん?」

「で、戻ってきたのってそれのせい?」

「そうだ。急に言われたから驚いてな。つい衝動的にチャリを捨てて帰ってきた」

「なんだそれ…本当しょーがないなあ。わかった、じゃあ今聞いたことは伏せるから、とりあえず連絡はするよ?一応仕事は続いてるんだろ?」

「続いてる」

今や家事代行だけでなく、彼の動画の翻訳を担う重要な仕事についているが、そのことは優には話していない。

「灰枝くんも忙しいだろうから、仕事はちゃんとしろよ。同居がダメになったら帰ってきてもいいから」

「優くん…」

思わぬ弟の優しさに感激して抱きしめようとしたら、台所にゴキブリが出たときと同じ顔で避けられた。
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