TOKIO

めめくらげ

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ー「そうなんだ…」

「そうですか…」

「……」

静寂の中、優と太一は何ともいえない表情を浮かべる。いつもは気にならない壁掛け時計のチクチクという音がいやに耳についた。

「…兄さんに気づかれないようにやってくれたら良かったのにね。どれだけ酔ってたのか知らないけど」

「なあ」

「……?そーゆー問題か?そんなことより沢尻と未来だぞ?アイツ、あれだけ沢尻のこと避けてたのに…」

「本当はちょっと気になってたんじゃないの?沢尻さん、別に嫌な人ではないんだし」

「むしろ引く手数多の人だろうしな」

「それは絶対ない!奴は未来のタイプとまったく正反対なんだ!」

「じゃあそういう雰囲気に流されたんだろ。お互いフリーなんだよね?」

「案外ここから恋に発展するかもしれないですよ」

「……」

「朝、灰枝くんにちゃんと言っときなよ。するならよそでするか、自分が寝てからにしてほしいって」

「ちょー待て!!なんでそんなドライなんだ!!」

「ドライ?…と言われても…。兄さん、これは灰枝くんと沢尻さんの問題だろ?たしかに兄さんも迷惑被ったかもしれないけど、恋人のいない大人ふたりが合意のもとやってたことに、いちいち首突っ込むもんじゃない」

「だが…」

「何か他に納得いかないことがあるんですか?」

「納得いかないというか…み、未来はもっとちゃんとした人間かと思っていた。好意を持ってない男と、あんなことをするような奴とは…」

その言葉に優と太一は顔を見合わせ、優が時生の腿にそっと手を置いて言う。

「別に悪いことじゃない。それに灰枝くんはちゃんとした人間だよ。兄さんは充分すぎるほど世話になってきただろ?あんまりいろいろなことを灰枝くんに望んだらダメだ。彼には彼の生き方があって、兄さんはただ彼の身の回りの世話をする仕事をしてるだけ」

「……」

「兄さんが巻き込まれて何か被害を受けそうとなったら、そこではじめて対処すべきだ。…悪いけどこんなことでいちいち真夜中に泣きついてこないでくれ。ふたりのセックスを目撃したからって、僕たちにはどうにもできない。僕だってそんな現場見たくないし、兄さんがショックなのはわかるけど…嫌なら明日にでも灰枝くんとの契約を切ってもらうか、もう2度とないように注意するかして、ちゃんと自分で大人の男としての対処をしてくれ」

肩を落とす兄の姿をあわれに思いつつ、優は心を鬼にしてそう告げた。

「助けが必要なら僕から灰枝くんに言うよ。…でも極力自分でどうにかして。僕は兄さんの保護者じゃないんだ」

言葉では突き放しながらも、やさしく抱擁してやる。時生は片手をその背中に回し、めずらしい弟の行動に動揺しつつも歓喜していた。そして優の肩越しに太一を見据え言った。

「それで、優くんはいつこの男を捨てるんだ?」

「たいちゃんは世界でいちばん大事だから捨てない」

「なっ…!」

「今夜はうちで寝ていいから、明日灰枝くんとちゃんと話せよ。じゃ、寝るから出てって」

右肩をポンポンとはたかれ無理やり立たされると、「おやすみ」と強引に廊下に出され、鍵をかけられた。時生は真っ暗な廊下にぽつねんと立ち尽くし、「せ、世界一は俺じゃないのか…?」と涙目でつぶやいた。

だがその晩寝ずに考えていたことは、未来の真意だ。彼はたしかに自分のことを好きだと言ってくれた。嘘とは思えない。もしも嘘なら、毎日そばに置いて、仕事も与えてくれて、赤の他人にこれほど良くしてくれるとは思えないからだ。何より、あの眼差しは…

未来の笑顔を思い浮かべる。目にするたび、チラチラと心の陰から顔を覗かせる、味わったことのない謎の高揚。あの気持ちはいったい何なのだろう。優の笑顔を見たときとは少し違う嬉しさだ。むしろ疼きと言えるかもしれない。

(なぜだ…)

ただ衝動的に飛び出してきたが、静かな部屋でだんだんと心に満ちていくのは、怒りだった。思わぬ感情だ。何に対する怒りかと言えば、未来と沢尻と、自分自身だ。そしてだんだんと、自分のみに向かっていく。何故かと言えば、自分には彼らを怒る資格がないからだ。優の言ったとおり、ああいったことはよそでやってほしいが、それに対してと言うよりも、ふたりの行為を咎める立場にないことが悔しかった。

"その立ち位置"を避けていたのは、まぎれもなく自分自身だ。沢尻を避けていた未来と同様に、自分も未来の好意を交わし続けていたではないか。彼の気持ちに答えてやらなかったのだから、彼が誰と肉体で交わろうと、自分に怒る資格はない。だから腹立たしくて悔しい。自分勝手な感情だ。

もしも明日彼の部屋に戻って、今日からもう来なくていいと言われたら、この感情はどう変貌するのだろう。時生にはそれが想像できなかった。
だがひとつだけ胸をかすめたのは、寂しさだ。親が死んだこととは種類の違う、感じたことのない類いの寂しさであった。
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