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めめくらげ

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7-5

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ー(ああ)

目覚めてまず襲った焦燥は、夜中にやるべき仕事を手付かずのままにしてしまったことだ。

(やってしまった)

その次に後悔が襲う。となりに眠っている、気のない男と肉体関係を持ってしまったこと。

(どうしよう)

そして時生のこと。ぼんやりとした記憶だが、事が起こったのはおそらくまだ彼が片付けをしている最中のことだ。気づかれていないわけがない。

「…沢尻さん」

泥のように眠る彼の身体を揺らすと、彼は仰向けに寝返りを打ち、カーテンの隙間から差す光線がダイレクトに眼に刺さったせいで「うっ」と呻いた。

「…おはようございます」

「沢尻さん、昨日のこと忘れてください」

「……」

「ただの興味本位でした。…あなたの気持ちに応えたわけではありません」

沢尻は目元を腕で覆って黙っていたが、やや置いて「コーヒー飲みませんか」とかすれた声で言った。


ー「いただきます」

ルイにエサをやり、顔だけ洗ってからソファーに掛ける沢尻に、インスタントのコーヒーを出す。「お仕事平気なんですか?」と問うと、「打ち合わせがあるんで、8時までにはここを出て、一旦帰宅します」と返された。時計を見ると8時までは20分を切っていた。

時生の部屋を覗いたが彼は居らず、ランニング用のスニーカーは玄関にあったのでどうやら走りに行っているようでもない。しかしサンダルは無いので、きっと実家に帰ってしまったのだろう。金はあってもホテルやネットカフェなどにひとりで行けるような男ではないから、寝泊りするのは実家しかないのだ。
小さくため息をつき、もう起きているであろう優に連絡すべきか迷った。しかし事情を知られていたとしたら非常に気まずい。

それにこういった形での「帰省」が、この短い期間でまたしても起こってしまった。どちらも自分のせいであり、今回のことでいよいよ時生に愛想を尽かされているはずだ。他人の、それも同性同士のセックスを、彼はおそらく目撃したのだ。時生が普通の神経の持ち主なら、精神的苦痛を与えた雇用主として、訴えられてもおかしくはない。

(もうダメだ…さすがに終わった…)

キッチンで意気消沈し、黙々とエサにがっつくルイの後頭部を見下ろす。好きだと迫るくせにあっさり違う男…それもこれまでずっと撥ねつけていたような男に股を開く人間など、世界でいちばん信用できない人種だ。浮世離れした時生でも、それくらいの感覚は人並みに持っているだろう。

「俺たちはこれで終わりなんですか?」

カップを置き、沢尻が静かに問う。しばらく悶々としていた未来はハッとして顔を上げるが、その顔を見ると、心中には罪悪感と自責の念が火事の黒煙のようにもくもくと充満し、息苦しくなった。

「…なんて、一度身体を知ったくらいで、そんなつまらないこと聞いちゃダメですね」

沢尻が昨日よりもさらに濃くなった髭面で、自嘲気味に、そしてどこか寂しげに笑う。
ただの過ちだと切り捨てようにも、彼の気持ちを汲んだ上での交わりだ。酔っていたが互いにしっかり意識はあった。そっとキスを迫られたときに振り払っていれば、決して起こり得なかった行為だ。それなのに、彼の背中に腕を回したのはまぎれもなく自分自身であった。

誰かの体温が恋しい夜というのは、久しく訪れていなかった。長らく仕事が忙しかったからというより、若さが削られるごとにそういう渇望が麻痺していく気もする。それに時生と毎日暮らしていたから、孤独感としての寂しさは紛れていたのだろう。だがその時生に応えてもらえない虚しさが蓄積し、叶わぬ恋への渇望が行き場を失い、即席の欲求と化して沢尻に向けられたのかもしれない。対象外だが彼はめげずにまっすぐ自分を好いてくれる。ただそれだけで、彼を受け入れてしまった。

「…沢尻さんに悪いところなんか何も無いんですけど…でも、どうしても恋愛感情は抱けません」

「そうですか。…そうですよね。何しても靡かないんだから」

「俺なんかとっとと見限って、違う人にそのエネルギーを使ってください」

「…あの、くだらないことひとつ聞いていいですか?」

「どうぞ」

「俺とのセックス、どうでした?」

「えっ…?あ、ああ、そうですね…」

思わぬ質問だが、常に客観視と自己分析を怠らない彼には最も気になる部分だろう。いちいちどこがいいのか聞いてくる男は大嫌いだが、彼は最中でなく後でまとめてアンケートをとるタイプであるようだ。いずれにせよやめてほしい悪癖だが、未来はかろうじて覚えている部分を一所懸命に思い起こした。

「うーん…俺乳首あんまり感じないから、ずっと舐められるのはちょっとくすぐったかったのと…」

「ふんふん」

「沢尻さんのあそこ、ふつうと逆に反ってますよね?大体の人ってたぶん上向きだけど、沢尻さんのはこう…」

手で山なりを描くと、「そうなんですよ」と沢尻が渋い顔をしながら、"正解!"とでもいうかのように指をさした。

「でも俺、たぶんそういう形の方が…あの、なんか…バックのときちょうどいい感じに当たるというか…だからそれはすごく良かったです」

朝からいったい何を口走っているのかと思いつつ、沢尻が真剣な顔で聞くので未来も真面目に答えた。

「なるほど…じゃあ大きさは?」

「可もなく不可もなく」

「理想の大きさは?」

未来が両手の人差し指で長さをあらわす。

「ほかに気になる点は?」

「ほか…ああ、フェラとかは、シャワー浴びてからじゃないとちょっと。…俺は全然そのままいきますけど、自分のは嫌ですね」

「ふむ…俺も好きなら全然気にならないんだけどな…わかりました」

「沢尻さんはセックスも沢尻さんらしいです」

「どういうことです?」

「…ううん、言葉にはできないですけど」

8時5分前となり、コーヒーを飲み終えるとちょうど配車サービスで呼んだタクシーがマンションの下についたようで、沢尻が「それじゃあ」と立ち上がる。

「夕飯ごちそうさまでした。もう朝ですけど」

「いえ、なんのお構いも…ってのはちょっと違うか」

「灰枝さん」

「…はい」

「…いえ、やめときます」

昨日よりもずっと、この無精髭にまみれたやさぐれ感が板についている。朝の彼は良いと思った。

「時生さんが帰ってこなかったら、また来ます」

「そんな不吉なこと…はあ、でもその可能性大です」

そう言うと沢尻がクスリと笑い、「さよなら」と部屋を出て行った。
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