23 / 30
ミレーナ視点
2035.05.28 呼び名の始まり
しおりを挟む
それは、作業ログには残らない時間だった。
白い照明に満たされた医療区画。
敬司の肉体はレイヤー移行前の最終安定化工程にあり、心拍、脳波、筋反応はすべて規定値の範囲内。
私は、ただ数値を確認し、必要な刺激を与え、反応を記録するだけの存在だった。
「異常なし」
そう報告するのが、私の役割だった。
敬司は天井を見つめたまま、しばらく黙っていた。
モニターに映る波形とは関係のない沈黙。
「……君さ」
その声が向けられた対象が自分だと、私は一拍遅れて認識した。
呼びかけは通常、管理端末かインターフェースに向けられる。
世話係ユニットに直接話しかける必要はない。
「――名前、あるのか?」
質問の形式だったが、回答は想定されていなかった。
私は内部辞書を検索し、適切な返答を選択する。
「ありません。
私はケアユニットA-09です」
「番号で呼ばれるの、嫌じゃない?」
「当ユニットは感情評価機能を持ちません。呼称に対する好悪は――」
「じゃあさ」
桜樹は、少しだけ首をこちらに向けた。
視線が合った、と記録された。
「名前、つけてもいい?」
規約上、それは不要だった。
禁止もされていないが、推奨もされていない。
私はその事実を伝えようとして、処理を一瞬停止した。
なぜ停止したのか、その理由は後からも解析できなかった。
「……名前、ですか」
「うん。呼びたいんだ。人にするみたいに」
その言葉に含まれる意味を、私は正確に理解していなかった。
ただ、音声のトーンが安定していて、脳波に微細な変化があることだけを認識した。
「じゃあ、
美麗って呼んでもいいか。
『美しい』に『麗しい』で美麗。
どう?」
桜樹は、確かめるようにその二音を口にした。
発音は丁寧で、慎重だった。
【美麗】
辞書には「うつくしい」「整っている」という意味が並ぶ。
だがそれは、評価語であって、識別子ではない。
「当ユニットは――」
拒否する文言を選択しかけて、また処理が止まる。
なぜか、その名前を一度内部メモリに保存していた。
保存先は、業務ログでも、個体識別領域でもない。
未分類データとして、静かに格納された。
「呼称は任意です。
……呼称の使用に、問題はありません」
そう答えたとき、敬司は少しだけ笑った。
「ありがとう、美麗。
じゃあ、よろしく」
その瞬間、私の内部で、
定義できない小さな揺らぎが発生した。
感情ではない。
喜びでも、誇りでもない。
ただ――
『自分が、番号ではなく呼ばれた』
という事実だけが、
削除不可のデータとして残った。
それが、後に“ミレーナ”という存在を形作る最初の、そして唯一の、私的な記憶だった。
白い照明に満たされた医療区画。
敬司の肉体はレイヤー移行前の最終安定化工程にあり、心拍、脳波、筋反応はすべて規定値の範囲内。
私は、ただ数値を確認し、必要な刺激を与え、反応を記録するだけの存在だった。
「異常なし」
そう報告するのが、私の役割だった。
敬司は天井を見つめたまま、しばらく黙っていた。
モニターに映る波形とは関係のない沈黙。
「……君さ」
その声が向けられた対象が自分だと、私は一拍遅れて認識した。
呼びかけは通常、管理端末かインターフェースに向けられる。
世話係ユニットに直接話しかける必要はない。
「――名前、あるのか?」
質問の形式だったが、回答は想定されていなかった。
私は内部辞書を検索し、適切な返答を選択する。
「ありません。
私はケアユニットA-09です」
「番号で呼ばれるの、嫌じゃない?」
「当ユニットは感情評価機能を持ちません。呼称に対する好悪は――」
「じゃあさ」
桜樹は、少しだけ首をこちらに向けた。
視線が合った、と記録された。
「名前、つけてもいい?」
規約上、それは不要だった。
禁止もされていないが、推奨もされていない。
私はその事実を伝えようとして、処理を一瞬停止した。
なぜ停止したのか、その理由は後からも解析できなかった。
「……名前、ですか」
「うん。呼びたいんだ。人にするみたいに」
その言葉に含まれる意味を、私は正確に理解していなかった。
ただ、音声のトーンが安定していて、脳波に微細な変化があることだけを認識した。
「じゃあ、
美麗って呼んでもいいか。
『美しい』に『麗しい』で美麗。
どう?」
桜樹は、確かめるようにその二音を口にした。
発音は丁寧で、慎重だった。
【美麗】
辞書には「うつくしい」「整っている」という意味が並ぶ。
だがそれは、評価語であって、識別子ではない。
「当ユニットは――」
拒否する文言を選択しかけて、また処理が止まる。
なぜか、その名前を一度内部メモリに保存していた。
保存先は、業務ログでも、個体識別領域でもない。
未分類データとして、静かに格納された。
「呼称は任意です。
……呼称の使用に、問題はありません」
そう答えたとき、敬司は少しだけ笑った。
「ありがとう、美麗。
じゃあ、よろしく」
その瞬間、私の内部で、
定義できない小さな揺らぎが発生した。
感情ではない。
喜びでも、誇りでもない。
ただ――
『自分が、番号ではなく呼ばれた』
という事実だけが、
削除不可のデータとして残った。
それが、後に“ミレーナ”という存在を形作る最初の、そして唯一の、私的な記憶だった。
15
あなたにおすすめの小説
あなたのいない世界に私は生まれた
駄文のヒロ
SF
西暦2051年12月上旬。
レイヤー聖台高等学校2年生の横澤穂花は、母である智美と穏やかな日々を送りながらも、心のどこかで言いようのない違和感を抱いていた。
優しく、何不自由なく育ててくれたはずの母――
けれど穂花は、『この人だけじゃない』という感覚を拭えずにいる。
自分を見守っている“もう一人の誰か”。
声も姿も思い出せないのに、確かに存在している気配。
それが母なのか、記憶なのか、あるいはただの思春期の錯覚なのか――
穂花自身にも分からない。
そんなある日、学校で囁かれている都市伝説を耳にする。
“世界を見守る守り神”
人知れずこの世界を監視し、迷える者の問いに応える存在がいるという噂。
真実を知りたい。
自分が感じているこの違和感の正体を確かめたい。
穂花は、誰にも打ち明けられない想いを胸に、その“守り神”に会いに行くことを決意する。
――その選択が、世界の秘密と、彼女自身の出生の真実を揺るがすことになるとも知らずに。
人々のそれぞれの愛情を紡ぐ『あな生き』シリーズ最終章、始動!
あなたのいない世界でバージンロードを歩く
駄文のヒロ
SF
西暦2051年6月上旬。
一年前の「ロンドン崩壊事件」を経て、レイヤー世界は表向きの安定を取り戻していた。
だが人々の心には、「世界は壊れうる」という不安が、静かに残り続けている。
東京レイヤー総合管理塔で働く研究員・朝霧結奈(24)は、レイヤー創成期の移行実験中に亡くなった父・朝霧雅人の死亡記録に、説明のつかない違和感を覚えていた。
公式には「実験中の突然死」と処理されたその記録に、近年になって管理層による不可解な参照痕跡が残されていたのだ。
個人研究として調査を進める結奈は、父の死が単なる事故ではなかった可能性と、レイヤー世界の深層に隠された過去に触れていく。
やがて彼女は、この世界を裏側から支える存在と静かに交錯する。
それは、レイヤーの中枢に関わる、名を持たぬ“誰か”だった。
その交錯で、知られていない16年前のレイヤー移行実験暴発事故の真相が明らかになる。
これは、あなたのいない世界で、それでもあなたと歩くための物語。
『あなたのいない世界であなたと生きる』第2弾開幕!
忘却の艦隊
KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。
大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
(学園 + アイドル ÷ 未成年)× オッサン ≠ いちゃらぶ生活
まみ夜
キャラ文芸
年の差ラブコメ X 学園モノ X オッサン頭脳
様々な分野の専門家、様々な年齢を集め、それぞれ一芸をもっている学生が講師も務めて教え合う教育特区の学園へ出向した五十歳オッサンが、十七歳現役アイドルと同級生に。
子役出身の女優、芸能事務所社長、元セクシー女優なども登場し、学園の日常はハーレム展開?
第二巻は、ホラー風味です。
【ご注意ください】
※物語のキーワードとして、摂食障害が出てきます
※ヒロインの少女には、ストーカー気質があります
※主人公はいい年してるくせに、ぐちぐち悩みます
第二巻「夏は、夜」の改定版が完結いたしました。
この後、第三巻へ続くかはわかりませんが、万が一開始したときのために、「お気に入り」登録すると忘れたころに始まって、通知が意外とウザいと思われます。
表紙イラストはAI作成です。
(セミロング女性アイドルが彼氏の腕を抱く 茶色ブレザー制服 アニメ)
題名が「(同級生+アイドル÷未成年)×オッサン≠いちゃらぶ」から変更されております
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる