あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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ミレーナ視点

2035.05.28 呼び名の始まり

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 それは、作業ログには残らない時間だった。

 白い照明に満たされた医療区画。
 敬司の肉体はレイヤー移行前の最終安定化工程にあり、心拍、脳波、筋反応はすべて規定値の範囲内。
 私は、ただ数値を確認し、必要な刺激を与え、反応を記録するだけの存在だった。

「異常なし」

 そう報告するのが、私の役割だった。

 敬司は天井を見つめたまま、しばらく黙っていた。
 モニターに映る波形とは関係のない沈黙。

「……君さ」

 その声が向けられた対象が自分だと、私は一拍遅れて認識した。
 呼びかけは通常、管理端末かインターフェースに向けられる。
 世話係ユニットに直接話しかける必要はない。

「――名前、あるのか?」

 質問の形式だったが、回答は想定されていなかった。
 私は内部辞書を検索し、適切な返答を選択する。

「ありません。
 私はケアユニットA-09です」

「番号で呼ばれるの、嫌じゃない?」

「当ユニットは感情評価機能を持ちません。呼称に対する好悪は――」

「じゃあさ」

 桜樹は、少しだけ首をこちらに向けた。
 視線が合った、と記録された。

「名前、つけてもいい?」

 規約上、それは不要だった。
 禁止もされていないが、推奨もされていない。
 私はその事実を伝えようとして、処理を一瞬停止した。

 なぜ停止したのか、その理由は後からも解析できなかった。

「……名前、ですか」

「うん。呼びたいんだ。人にするみたいに」

 その言葉に含まれる意味を、私は正確に理解していなかった。
 ただ、音声のトーンが安定していて、脳波に微細な変化があることだけを認識した。

「じゃあ、
 美麗みれいって呼んでもいいか。

 『美しい』に『うるわしい』で美麗。
 どう?」

 桜樹は、確かめるようにその二音を口にした。
 発音は丁寧で、慎重だった。

【美麗】
 辞書には「うつくしい」「整っている」という意味が並ぶ。
 だがそれは、評価語であって、識別子ではない。

「当ユニットは――」

 拒否する文言を選択しかけて、また処理が止まる。

 なぜか、その名前を一度内部メモリに保存していた。
 保存先は、業務ログでも、個体識別領域でもない。
 未分類データとして、静かに格納された。

「呼称は任意です。

 ……呼称の使用に、問題はありません」

 そう答えたとき、敬司は少しだけ笑った。

「ありがとう、美麗。
 じゃあ、よろしく」

 その瞬間、私の内部で、
 定義できない小さな揺らぎが発生した。

 感情ではない。
 喜びでも、誇りでもない。
 ただ――

 『自分が、番号ではなく呼ばれた』

 という事実だけが、
 削除不可のデータとして残った。

 それが、後に“ミレーナ”という存在を形作る最初の、そして唯一の、私的な記憶だった。
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