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第一章
4月9日(火):図書室にて
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【京一】
『おーい、京一。早く来いよ』
遠くから僕の名を呼ぶ声。陽気な男の子の声である。
首を巡らし、辺りを見回す。
周囲はどこもかしこも緑色と茶色ばかり。雑木林の中、僕は地面に尻をついて座り込んでいた。なぜこんなところにいるのだろう、と、記憶を辿ってみたものの、どうにも頭にもやがかかったような感覚があり、うまく思考が働かない。
『みんな遅いよー』
さきほどの男児の声に続いて、今度は女の子の声が飛ぶ。どちらも声の調子が明らかに幼く、そして立ち上がった僕の目線の高さも幼子のそれであった。
生い茂る草木によって姿が見えないが、どうやら声の主二人は少し離れたところできゃっきゃと騒いでいる様子だ。
『まったく、もう。晃もイブも、急ぎすぎ』
すっ、と僕の隣に少女が立ち並んだ。やはり同じく、幼い。
『クララのことも、ちゃんと待ってあげればいいのに』
呆れたようにそう言う少女の、その傍らには、さらに背の低い少女がもう一人。
『あうう。ごめんなさい。わたしが歩くのおそいから……』
僕の隣に立っているのは、凛。
そして凛の服の裾を片手で掴みつつ、もう片方の手で小さなクマのぬいぐるみを大事そうに抱えているのは、クララだ。ぐす、と半べそを掻いている。
先を行く二人は、晃とイブ。
いかにもやんちゃ少年らしい半そで短パンの少年が、目当ての虫を発見したのか前方の気を指差して駆けていき、その後を少女が追いかける。少女のそのブラウンの髪は、木々の合間から差し込む陽光を受けてきらきらと輝いている。
どうやら僕らはこの雑木林に虫捕りに来たらしい。
昔はよくこの五人で遊んでいた。僕と凛と晃は同い年、イブとクララは一つ下だ。
『私たちも、行こ行こ』
凛がそう言って、後ろ頭に垂らしたポニーテールをふわりとなびかせ、歩き出す。僕とクララも並んで歩く。
風がそよいで、木の葉の触れ合う音が広がる。森の中でいて、それはまるで海岸で聴くさざ波の音のようだった。
爽やかな森の中に、無邪気な子供たちの声が調和する。
とても穏やかな気持ちになった。
いっそ浮遊感さえ伴うほどの、深い安らぎである。
そんな安らぎに身をゆだねていたところ、不意に、視界がぼやけ始める。草木の輪郭線がぼやぼやとして定まらない。さらに、グラデーションのように色彩が沈下していく。次第に何も見えなくなっていく……。
視覚映像が途切れる中、ただ子供たちの楽しげな声だけが耳の奥でこだましていた。
…………
……
/
かくん、と首が揺れて、スイッチが切り替わるように意識が覚醒した。
ゆっくりと、頭を上げた。……呆けた頭が次第に働き始める。
明瞭な輪郭線を得た視界が写したのは、さきほどと一転して、屋内風景だった。
そこでようやく、今さっきまでの情景は夢だったのだと気づく。どうやらうたた寝をしながら幼い時分を夢に見ていたようだった。
ここは図書室だ。
室内は、しん、と静まり返っている。窓の向こうにグラウンドがあり、運動部員の血気盛んな掛け声が遠く聞こえる。閑散とした室内で薄く掛け声が聞こえてくるのが、ちょうど心地よいBGMのようになっていて、なるほど眠くなるわけである。
「あ。小智くん、起きた?」
顔を覗き込むようにして、隣に座る女生徒が声をかけて来る。寝起きの頭にもやさしい、穏やかな声である。
「ごめん。すっかり寝てたや……」
「もう。小智くんってほんとう居眠り多いんだね」
宮本有紗が、詰るようにそう言う。僕が授業中にいつも居眠りこけているのを知って言っているのだろう。
「ま、でも仕方ないよね。座ってるだけだとどうしても眠たくなっちゃうもの」
図書室のカウンターの中で、僕と宮本は二人で並んでパイプ椅子に座っていた。
「図書委員って楽な仕事だと思ってたけど、あんまり退屈なのも考えものだね」
宮本は僕にだけ聞こえるように小さく言って、肩をすくめた。茶色がかったセミショートの髪がふわりと持ち上がる。
立候補だと時間がかかるからという担任教師の意向によって、生徒の担当委員はクジによって決められた。
僕が今こうして宮本有紗と一緒に図書室のカウンターの中で座っているのは、すなわち僕のクジ運がそのとき抜群に冴え渡っていたためである。
宮本はかわいい。いやもう抜群に。
クラスのマドンナという言葉があるが、彼女はまさしくそれである。
同じクラスになってまだ日は浅いが、彼女の魅力はよくわかる。明るい笑顔で周囲を和ませたり、と思えばどこか抜けているような天然さで不意に相手を笑わせたりする。
その柔らかな空気感や、また僕のような者でも例外にせず誰にでも気さくに話しかけるわけ隔てのない優しさから、男子はもちろん女子にも受けがいい。いつもクラスの中心にいる。それが宮本有紗である。
ちなみにマドンナという言葉は聖母マリアを意味し、転じて魅力的な女性を指す言葉になったそうである。なるほど確かに彼女の清廉潔白な笑顔と屈託のない優しさはまさしく聖母のそれである。
クジの結果が発表されたとき、小学校来の腐れ縁の友人が暑苦しく顔を近づけてきて言っていた。
『図書委員ってあれだろ、狭いカウンターの中でずっと二人で並んで座ってるじゃん。宮本と一緒に図書委員なんて、お前それ最高じゃねえか。フラグの一つや二つすぐに立つんじゃねえの』
表示される複数の選択肢を巧みに選び分けることで幾人の美少女を攻略していく類のゲームが大好きな彼は、すぐにそういうことを言う。あほか、とその時は返した。
もちろん僕にも宮本と仲良くなりたいという願望はある。あるのだが、しかし気がつけば宮本の隣でうたた寝をこいていて、ばっちり夢まで見る始末。授業中ならいざ知らず、こんな場面でも居眠りしてしまうなんて僕の睡眠欲の強さには我ながら呆れる。
「あ、もうすぐだ」
壁に掛けられた時計を見て、宮本が言った。つられて僕も時計を見る。もうすぐ、というのは図書室の閉館時間のことだ。
「本当だ。思ったより早かった」
僕がぽつりと言うと、宮本がこちらに顔を向けなおして、「まあね、小智くんけっこう長く眠ってたものね」と、わざと意地悪っぽく言った。
「う、ごめん」
「ふふ、いいよ。誰もカウンターに来なかったし。気持ちよさそうに眠ってたけど、なにかいい夢でも見てたの?」
「え? い、いやそんな、別に大した夢では……」
僕は慌ててそう言った。
さっき見ていた夢というと、幼い頃の自分が友人と虫捕りをして遊んでいた情景……。それを説明するのは妙に気恥ずかしかったし、何より本当に大した夢じゃないと思う。
「えー、そうなの? ……ま、どんな夢見てたかなんて聞かれたら恥ずかしいよね」
そう言って潔く身を引く宮本。察しが良い上に気遣いが出来る、さすがだ。
壁に設置されたスピーカーから、聞き馴染んだチャイムの音が鳴った。
「時間だね」
宮本はそう言って席を立ち、読書をする数名の生徒に退室を促していった。僕も立ち上がり、周囲の簡単な片づけをする。
読書家たちが退室し終えれば、図書委員の仕事は終わりだ。僕らも帰り支度を急ぐ。
「そういえば、」
鞄を背負って歩き出そうとした宮本が、何か思い立ったようにふと足を止めた。
「小智くんって、けっこうかわいい寝顔してるんだね」
「なっ――」
突然、予想外なことを言われて僕は硬直してしまった。
「あ、ごめんね。悪いとは思ったんだけど、つい寝顔を覗き込んじゃって。……えっと、それはホラ、他人が恥ずかしがるトコこそどうしても見たくなっちゃう心理でさ」
宮本は歩みを再開してから、言葉をつづけた。
「でも、委員の仕事中に居眠りする方が悪いですからね。……今度からは覗かれないように、ゆめゆめ、気をつけることだねっ」
くすっと笑ってそう言い、彼女は足早に図書室から出て行った。
優しげな、しかしどこかいたずらっ子でもあるような笑顔。そこには天使と小悪魔を同時に思わせるような怪しい魅力があった。
――やられた、と、思った。
男子みんなの人気を博している宮本に対して、もちろん僕も例にもれず好印象はあった。ただし、さすがに本気の恋をしていたわけではない。確かに可愛いなと思うし、いい子だなと思うし、ある種の憧れもある。でもそれは彼女のような美少女には誰しも普遍的に抱き得るもので、取り立てて恋愛感情の枠には入らないだろう。
……というのは、ついさきほどまでの話。
さすがに、あんな不敵な笑顔を間近で見せられると。
不覚にもときめいてしまった。いやもう、抜群に。
――かくして、僕こと小智京一は、クラスのマドンナこと宮本有紗に惚れてしまったのである。
『おーい、京一。早く来いよ』
遠くから僕の名を呼ぶ声。陽気な男の子の声である。
首を巡らし、辺りを見回す。
周囲はどこもかしこも緑色と茶色ばかり。雑木林の中、僕は地面に尻をついて座り込んでいた。なぜこんなところにいるのだろう、と、記憶を辿ってみたものの、どうにも頭にもやがかかったような感覚があり、うまく思考が働かない。
『みんな遅いよー』
さきほどの男児の声に続いて、今度は女の子の声が飛ぶ。どちらも声の調子が明らかに幼く、そして立ち上がった僕の目線の高さも幼子のそれであった。
生い茂る草木によって姿が見えないが、どうやら声の主二人は少し離れたところできゃっきゃと騒いでいる様子だ。
『まったく、もう。晃もイブも、急ぎすぎ』
すっ、と僕の隣に少女が立ち並んだ。やはり同じく、幼い。
『クララのことも、ちゃんと待ってあげればいいのに』
呆れたようにそう言う少女の、その傍らには、さらに背の低い少女がもう一人。
『あうう。ごめんなさい。わたしが歩くのおそいから……』
僕の隣に立っているのは、凛。
そして凛の服の裾を片手で掴みつつ、もう片方の手で小さなクマのぬいぐるみを大事そうに抱えているのは、クララだ。ぐす、と半べそを掻いている。
先を行く二人は、晃とイブ。
いかにもやんちゃ少年らしい半そで短パンの少年が、目当ての虫を発見したのか前方の気を指差して駆けていき、その後を少女が追いかける。少女のそのブラウンの髪は、木々の合間から差し込む陽光を受けてきらきらと輝いている。
どうやら僕らはこの雑木林に虫捕りに来たらしい。
昔はよくこの五人で遊んでいた。僕と凛と晃は同い年、イブとクララは一つ下だ。
『私たちも、行こ行こ』
凛がそう言って、後ろ頭に垂らしたポニーテールをふわりとなびかせ、歩き出す。僕とクララも並んで歩く。
風がそよいで、木の葉の触れ合う音が広がる。森の中でいて、それはまるで海岸で聴くさざ波の音のようだった。
爽やかな森の中に、無邪気な子供たちの声が調和する。
とても穏やかな気持ちになった。
いっそ浮遊感さえ伴うほどの、深い安らぎである。
そんな安らぎに身をゆだねていたところ、不意に、視界がぼやけ始める。草木の輪郭線がぼやぼやとして定まらない。さらに、グラデーションのように色彩が沈下していく。次第に何も見えなくなっていく……。
視覚映像が途切れる中、ただ子供たちの楽しげな声だけが耳の奥でこだましていた。
…………
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かくん、と首が揺れて、スイッチが切り替わるように意識が覚醒した。
ゆっくりと、頭を上げた。……呆けた頭が次第に働き始める。
明瞭な輪郭線を得た視界が写したのは、さきほどと一転して、屋内風景だった。
そこでようやく、今さっきまでの情景は夢だったのだと気づく。どうやらうたた寝をしながら幼い時分を夢に見ていたようだった。
ここは図書室だ。
室内は、しん、と静まり返っている。窓の向こうにグラウンドがあり、運動部員の血気盛んな掛け声が遠く聞こえる。閑散とした室内で薄く掛け声が聞こえてくるのが、ちょうど心地よいBGMのようになっていて、なるほど眠くなるわけである。
「あ。小智くん、起きた?」
顔を覗き込むようにして、隣に座る女生徒が声をかけて来る。寝起きの頭にもやさしい、穏やかな声である。
「ごめん。すっかり寝てたや……」
「もう。小智くんってほんとう居眠り多いんだね」
宮本有紗が、詰るようにそう言う。僕が授業中にいつも居眠りこけているのを知って言っているのだろう。
「ま、でも仕方ないよね。座ってるだけだとどうしても眠たくなっちゃうもの」
図書室のカウンターの中で、僕と宮本は二人で並んでパイプ椅子に座っていた。
「図書委員って楽な仕事だと思ってたけど、あんまり退屈なのも考えものだね」
宮本は僕にだけ聞こえるように小さく言って、肩をすくめた。茶色がかったセミショートの髪がふわりと持ち上がる。
立候補だと時間がかかるからという担任教師の意向によって、生徒の担当委員はクジによって決められた。
僕が今こうして宮本有紗と一緒に図書室のカウンターの中で座っているのは、すなわち僕のクジ運がそのとき抜群に冴え渡っていたためである。
宮本はかわいい。いやもう抜群に。
クラスのマドンナという言葉があるが、彼女はまさしくそれである。
同じクラスになってまだ日は浅いが、彼女の魅力はよくわかる。明るい笑顔で周囲を和ませたり、と思えばどこか抜けているような天然さで不意に相手を笑わせたりする。
その柔らかな空気感や、また僕のような者でも例外にせず誰にでも気さくに話しかけるわけ隔てのない優しさから、男子はもちろん女子にも受けがいい。いつもクラスの中心にいる。それが宮本有紗である。
ちなみにマドンナという言葉は聖母マリアを意味し、転じて魅力的な女性を指す言葉になったそうである。なるほど確かに彼女の清廉潔白な笑顔と屈託のない優しさはまさしく聖母のそれである。
クジの結果が発表されたとき、小学校来の腐れ縁の友人が暑苦しく顔を近づけてきて言っていた。
『図書委員ってあれだろ、狭いカウンターの中でずっと二人で並んで座ってるじゃん。宮本と一緒に図書委員なんて、お前それ最高じゃねえか。フラグの一つや二つすぐに立つんじゃねえの』
表示される複数の選択肢を巧みに選び分けることで幾人の美少女を攻略していく類のゲームが大好きな彼は、すぐにそういうことを言う。あほか、とその時は返した。
もちろん僕にも宮本と仲良くなりたいという願望はある。あるのだが、しかし気がつけば宮本の隣でうたた寝をこいていて、ばっちり夢まで見る始末。授業中ならいざ知らず、こんな場面でも居眠りしてしまうなんて僕の睡眠欲の強さには我ながら呆れる。
「あ、もうすぐだ」
壁に掛けられた時計を見て、宮本が言った。つられて僕も時計を見る。もうすぐ、というのは図書室の閉館時間のことだ。
「本当だ。思ったより早かった」
僕がぽつりと言うと、宮本がこちらに顔を向けなおして、「まあね、小智くんけっこう長く眠ってたものね」と、わざと意地悪っぽく言った。
「う、ごめん」
「ふふ、いいよ。誰もカウンターに来なかったし。気持ちよさそうに眠ってたけど、なにかいい夢でも見てたの?」
「え? い、いやそんな、別に大した夢では……」
僕は慌ててそう言った。
さっき見ていた夢というと、幼い頃の自分が友人と虫捕りをして遊んでいた情景……。それを説明するのは妙に気恥ずかしかったし、何より本当に大した夢じゃないと思う。
「えー、そうなの? ……ま、どんな夢見てたかなんて聞かれたら恥ずかしいよね」
そう言って潔く身を引く宮本。察しが良い上に気遣いが出来る、さすがだ。
壁に設置されたスピーカーから、聞き馴染んだチャイムの音が鳴った。
「時間だね」
宮本はそう言って席を立ち、読書をする数名の生徒に退室を促していった。僕も立ち上がり、周囲の簡単な片づけをする。
読書家たちが退室し終えれば、図書委員の仕事は終わりだ。僕らも帰り支度を急ぐ。
「そういえば、」
鞄を背負って歩き出そうとした宮本が、何か思い立ったようにふと足を止めた。
「小智くんって、けっこうかわいい寝顔してるんだね」
「なっ――」
突然、予想外なことを言われて僕は硬直してしまった。
「あ、ごめんね。悪いとは思ったんだけど、つい寝顔を覗き込んじゃって。……えっと、それはホラ、他人が恥ずかしがるトコこそどうしても見たくなっちゃう心理でさ」
宮本は歩みを再開してから、言葉をつづけた。
「でも、委員の仕事中に居眠りする方が悪いですからね。……今度からは覗かれないように、ゆめゆめ、気をつけることだねっ」
くすっと笑ってそう言い、彼女は足早に図書室から出て行った。
優しげな、しかしどこかいたずらっ子でもあるような笑顔。そこには天使と小悪魔を同時に思わせるような怪しい魅力があった。
――やられた、と、思った。
男子みんなの人気を博している宮本に対して、もちろん僕も例にもれず好印象はあった。ただし、さすがに本気の恋をしていたわけではない。確かに可愛いなと思うし、いい子だなと思うし、ある種の憧れもある。でもそれは彼女のような美少女には誰しも普遍的に抱き得るもので、取り立てて恋愛感情の枠には入らないだろう。
……というのは、ついさきほどまでの話。
さすがに、あんな不敵な笑顔を間近で見せられると。
不覚にもときめいてしまった。いやもう、抜群に。
――かくして、僕こと小智京一は、クラスのマドンナこと宮本有紗に惚れてしまったのである。
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