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第四章
5月3日(木):待合室にて
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【凛】
父は検査入院することになった。
朝、今日はもう体を休めて――と私が訴え、父が折れてくれた。
急な欠勤はきっと仕事場に迷惑をかけてしまうだろうけど、父の仕事場での立場よりも父の体の方が心配だ。それは私の意思であって、父を想ってのことだとかは関係ないわけである。
すなわち父は、私のわがままを聞いてくれたのだ。
父の入院に際して、京一のお母さんが色々と手伝ってくれた。とても助かった。
病院に、京一も一緒に来てくれていた。たぶん、おばさんに連れられてきたのだろう。
面倒くさがりな京一が、自分からわざわざ同行するとは思えない。でも、出不精な息子を引っ張り出してきたおばさんはさすがだ。
その采配も含めて、助かった。
京一がいなければ、手続きなどをしている間、私は一人で待つことになっていたから。この歳になって何を言っているのかとい思うが、正直、一人では……心細かったと思う。
病院の待合室。京一と二人。
彼といたから、心細さはいくらか紛れたのだ。
そうした安堵から、少し、気が緩んでいたかもしれない。――私はつい、どうしても胸の内に沸く不安を彼に対して吐露してしまったのだ。
「これでよかったのかな」、と。
ここ数日胸の中にどんよりとわだかまっていた気持ちを吐き出し、父に言えたのは良かったが、しかしだからといって晴れ晴れとした気分にはなれない。
――私が、もっと早く父に言っていれば、入院まですることにはならなかったはずなのだ。
先んじて、一日でもゆっくり体を休めていれば、ここまで疲労を溜め込むことはなかっただろう。そうするべきだと、父に訴える機会はいくらでもあった。
それなのに、いよいよ疲労で倒れそうな寸前ほどにまで至ってようやく「休んで」と言った、――それでどうして気が晴れよう。私がもっとしっかりしていれば、この事態にはならなかった。
俯いて、自分の足元に視線を向けながら、私はそんな想いをぽつりと漏らしたのだ。
でも彼は言う。
「凛は悪くないよ」
「え……?」
「というか別に大ごとでもないだろ、ただの検査入院だしさ。そりゃもっと早く言ってれば入院までしなくても良かったかもしれないけど、でも凛が最後まで何も言わなかったらおじさんはあのまま無理を続けて倒れてたかもしれない。『もしも』の話をするんなら、わざわざ悪い方だけ考えなくてもいいんじゃないか」
「…………」
ふわり、と、身が浮くような心地だった。
意味なく前向きというわけでなく、慰めとかそういうのでもなく、もっと自然で暖かい言葉だ。
京一が、そんな言葉をくれるなんて、思いもしなかった。
不意をつかれたような感じ。同時に、ぎゅっ、と、――心臓を掴まれたような感覚。
「……あ、……」
どうしても喉元につかえて出づらいが、私はなんとかその言葉を言った。
「…………ありがと」
何より今の私が一番欲しいような、心が安らぐ言葉を言ってくれた。
はたして彼に、私の心を優しく包んでやろうなどという明確な意図があったのかは不明だ。特に思慮を巡らしたわけでもなく、ただ口を衝いて出た言葉かもしれない。いっそその方が彼らしい。
ただし、だからこそ心地よい。
だから、礼を言った。
しかし私は言った途端に恥ずかしくなって、つい顔を背けてしまう。……だめだな、私はまだ弱い。
/
その日は小智家で夕食をごちそうになった。
お父さんが入院のため、私が家で一人になるのを見かねて、京一のお母さんが誘ってくれたのだ。いつも父は帰りが遅いので一人での夕食なんて文字通り日常茶飯事だ、別にわざわざお呼ばれされるようなことじゃない。
私は遠慮したのだけど、しかしあまりの強引さに負けてしまった。
あの京一の母親とは思えない。
でも、来てよかった。
とても楽しい食事になった。
夕食後、家に帰り、ふう、と一息ついたところで、――朝からどうしても気になっていたことが改めて大きな違和感として象形化される。
今朝、目が覚めてから、ずっと妙な感覚があった。
なぜかは分からないが、子供の頃の記憶が不意に蘇って、それが頭から離れないのだ。
いつ頃のことだったか。ある日、京一と、その兄の和哉と散歩をしていたときだ。
突然、野良犬に遭遇した。
私はすっかり怯えてしまって身動きが取れなくなった。そんな私を、和哉が庇ってくれたのだ。壁際で私を覆い隠すようにして。
私はそのとき、和哉の勇敢な姿に見惚れてしまったものだった。
初恋の瞬間である。
彼の背中越しに見える背景が、キラキラと輝いて見えたのを覚えている。
どうして急にそんなことを思い出したのだろうか、分からない。
さらに妙なことに、脳裏に張り付いているその場面にじっと意識を向けると、その画が、なぜかゆっくりと変わっていくのだ。
和哉の姿が、なぜか次第に京一にすり替わっていく――……。
あのとき、京一は何をしていただろう。
和哉に夢中になってしまっていて、詳しく覚えていない。でも、気がついた時には野良犬はいなくなっていた。
もしかしたら、和哉の背後で、京一が追い返してくれたのではないか。
私を庇う和哉が、京一に変わる。
幼い頃の姿の京一が、私に、「大丈夫か」と問う。
その背中越しの背景には、キラキラと光の粒が舞うのだ――。
父は検査入院することになった。
朝、今日はもう体を休めて――と私が訴え、父が折れてくれた。
急な欠勤はきっと仕事場に迷惑をかけてしまうだろうけど、父の仕事場での立場よりも父の体の方が心配だ。それは私の意思であって、父を想ってのことだとかは関係ないわけである。
すなわち父は、私のわがままを聞いてくれたのだ。
父の入院に際して、京一のお母さんが色々と手伝ってくれた。とても助かった。
病院に、京一も一緒に来てくれていた。たぶん、おばさんに連れられてきたのだろう。
面倒くさがりな京一が、自分からわざわざ同行するとは思えない。でも、出不精な息子を引っ張り出してきたおばさんはさすがだ。
その采配も含めて、助かった。
京一がいなければ、手続きなどをしている間、私は一人で待つことになっていたから。この歳になって何を言っているのかとい思うが、正直、一人では……心細かったと思う。
病院の待合室。京一と二人。
彼といたから、心細さはいくらか紛れたのだ。
そうした安堵から、少し、気が緩んでいたかもしれない。――私はつい、どうしても胸の内に沸く不安を彼に対して吐露してしまったのだ。
「これでよかったのかな」、と。
ここ数日胸の中にどんよりとわだかまっていた気持ちを吐き出し、父に言えたのは良かったが、しかしだからといって晴れ晴れとした気分にはなれない。
――私が、もっと早く父に言っていれば、入院まですることにはならなかったはずなのだ。
先んじて、一日でもゆっくり体を休めていれば、ここまで疲労を溜め込むことはなかっただろう。そうするべきだと、父に訴える機会はいくらでもあった。
それなのに、いよいよ疲労で倒れそうな寸前ほどにまで至ってようやく「休んで」と言った、――それでどうして気が晴れよう。私がもっとしっかりしていれば、この事態にはならなかった。
俯いて、自分の足元に視線を向けながら、私はそんな想いをぽつりと漏らしたのだ。
でも彼は言う。
「凛は悪くないよ」
「え……?」
「というか別に大ごとでもないだろ、ただの検査入院だしさ。そりゃもっと早く言ってれば入院までしなくても良かったかもしれないけど、でも凛が最後まで何も言わなかったらおじさんはあのまま無理を続けて倒れてたかもしれない。『もしも』の話をするんなら、わざわざ悪い方だけ考えなくてもいいんじゃないか」
「…………」
ふわり、と、身が浮くような心地だった。
意味なく前向きというわけでなく、慰めとかそういうのでもなく、もっと自然で暖かい言葉だ。
京一が、そんな言葉をくれるなんて、思いもしなかった。
不意をつかれたような感じ。同時に、ぎゅっ、と、――心臓を掴まれたような感覚。
「……あ、……」
どうしても喉元につかえて出づらいが、私はなんとかその言葉を言った。
「…………ありがと」
何より今の私が一番欲しいような、心が安らぐ言葉を言ってくれた。
はたして彼に、私の心を優しく包んでやろうなどという明確な意図があったのかは不明だ。特に思慮を巡らしたわけでもなく、ただ口を衝いて出た言葉かもしれない。いっそその方が彼らしい。
ただし、だからこそ心地よい。
だから、礼を言った。
しかし私は言った途端に恥ずかしくなって、つい顔を背けてしまう。……だめだな、私はまだ弱い。
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その日は小智家で夕食をごちそうになった。
お父さんが入院のため、私が家で一人になるのを見かねて、京一のお母さんが誘ってくれたのだ。いつも父は帰りが遅いので一人での夕食なんて文字通り日常茶飯事だ、別にわざわざお呼ばれされるようなことじゃない。
私は遠慮したのだけど、しかしあまりの強引さに負けてしまった。
あの京一の母親とは思えない。
でも、来てよかった。
とても楽しい食事になった。
夕食後、家に帰り、ふう、と一息ついたところで、――朝からどうしても気になっていたことが改めて大きな違和感として象形化される。
今朝、目が覚めてから、ずっと妙な感覚があった。
なぜかは分からないが、子供の頃の記憶が不意に蘇って、それが頭から離れないのだ。
いつ頃のことだったか。ある日、京一と、その兄の和哉と散歩をしていたときだ。
突然、野良犬に遭遇した。
私はすっかり怯えてしまって身動きが取れなくなった。そんな私を、和哉が庇ってくれたのだ。壁際で私を覆い隠すようにして。
私はそのとき、和哉の勇敢な姿に見惚れてしまったものだった。
初恋の瞬間である。
彼の背中越しに見える背景が、キラキラと輝いて見えたのを覚えている。
どうして急にそんなことを思い出したのだろうか、分からない。
さらに妙なことに、脳裏に張り付いているその場面にじっと意識を向けると、その画が、なぜかゆっくりと変わっていくのだ。
和哉の姿が、なぜか次第に京一にすり替わっていく――……。
あのとき、京一は何をしていただろう。
和哉に夢中になってしまっていて、詳しく覚えていない。でも、気がついた時には野良犬はいなくなっていた。
もしかしたら、和哉の背後で、京一が追い返してくれたのではないか。
私を庇う和哉が、京一に変わる。
幼い頃の姿の京一が、私に、「大丈夫か」と問う。
その背中越しの背景には、キラキラと光の粒が舞うのだ――。
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