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シーズン1/第二章
□あくあついんず□②
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「まじ? 今日とんかつなの? やったね!」
キッチンにひょこっと顔をのぞかせた水萌が、そう言って小躍りした。
一ノ瀬家の母親特製、豚こまで作ったチーズインとんかつボールは、何より彼女の好物なのである。水萌はその少年のような笑みを満開にさせたまま、隣に立つ水帆と目を合わせた。
「えへへ、うれしいね」
水帆も、爽やかな笑顔を返す。水萌の好物であるそれは、水帆にとっても同様に好物だった。
「ちょっと二人とも、そんなとこに立ってないで、手伝ってちょうだい」
母がそう言うと、二人は改めて視線を合わせ、そしてコクと頷いた。
すると二人は途端にテキパキと動き出す。食器を用意したり、食卓をきれいにしたり、盛り付けしたり、運んだり――それらの作業を、言葉を交わすことなく的確な連携でこなす。
あっという間に、キャベツの千切りの他、プチトマトも添えられて彩り鮮やかなとんかつプレートと、その他の付け合わせが食卓テーブルに並んだ。……こういったとき、二人の連携力はすさまじいのである。
「まったく、あんたたち。普段はいがみ合ってばかりなのに、こういうときだけはちゃんと協力するんだもの。いつもそうやって仲良くしてくれていたらいいのにね」
母親が、半ば呆れたように娘たちに言う。詰られた双子姉妹は、お互いにふと顔を見合わせ、むう、と複雑そうな顔をした。
ちょうどよいタイミングで父が帰宅し、家族四人で食卓を囲んだ。
丸いとんかつボールをかじり、中からとろりと出てくるチーズの舌触り――そのあまりの甘美さに頬を緩ませる双子姉妹。同じ好物を食して同じように笑顔になる娘たちを見て、中学に上がってもまだまだ子供のままだなと思う父と母。
そんな家族団欒の和やかな空気の中――ぽとり、と、なにか柔らかな物が落ちる音がした。とてもちっぽけな音だったが、実際にそれが落ちるのを目にしていた水萌が真っ先に、ぴく、と反応した。
落下したのは、テレビラックに置かれていたぬいぐるみだった。
「あ、ドラコ……」
カーペットの上に顔面から落ちたそれは、手ごろな大きさのぬいぐるみであった。
既存のキャラクター物でないぬいぐるみの造形として、最もポピュラーなのはくまだろうか。他に犬猫やウサギなんかも多いだろう。……それら王道の物に対して、一ノ瀬家のテレビラックの上に載せられていたそのぬいぐるみはかなり独特なモチーフであると言える。
ドラコ、と名付けられたそれは、ドラゴンのぬいぐるみだ。
赤い体で、羽根と尻尾を生やし、トカゲのような顔だが頭に立派な角が生えている。――一般的なドラゴンの姿かたちを、ゆるキャラのように丸みを強調したデザインにしたようなぬいぐるみだ。
「な、なんで今落ちたの……? 誰も触ってないよ?」
それが落下する瞬間を見ていた水萌が、他三人の家族の顔を窺いながらそう言った。
「別に、そういうこともあるじゃない。なんかバランスが悪かったんでしょ」
おろおろとする水萌に対し、落ち着いた様子で水帆が言葉を返す。
「そんなっ、ちゃんと置かれてたはずだよ?」
「何怖がってるの? ……あー、あれ? なんか心霊現象みたいなやつだと思ってるの? なんていうんだっけな。えーっと……。ああ、だめだ出てこない。もやもやするなあ……」
「ポルターガイスト!」
「あ、それそれ。ありがとスッキリしたよ」
「ありがと、じゃないよ! 私いま目の前でそれ見ちゃったんだよ!」
「あいかわらず水萌ちゃんは怖がりだなあ。そんなの気のせいだよ」
「気のせいじゃないよ実際に落ちてんだから!」
「はいはい」
過剰に怖がる妹に呆れながら、立ち上がってぬいぐるみをラックに載せ直してやる水帆。ふと、そのぬいぐるみを改めて見て、嬉しそうに口を開く。
「懐かしいな、これ。ちっちゃい頃、一緒にクレーンゲームで取ったんだっけ。すっごい苦戦して、やっと取ったんだよね。ね、水萌ちゃん」
テレビラックに載っていて、毎日のように視界に入っていたはずだが、逆に慣れすぎてあまり意識することがなかった。それは長い間そこに飾られている、二人にとって思い入れのあるぬいぐるみなのだ。
あるべき位置に戻ったぬいぐるみの頭を、ぽんぽん、と撫でてやり、水帆は食卓に戻った。そこで、隣に座る水萌の箸が止まっていることに気付く。
「どうしたの水萌ちゃん、せっかくのとんかつなのに、全然食べてないじゃない」
「もう食欲ないよ……」
「ほんと? じゃあもらっていい?」
そう言って、ひょい、と水萌の返事を待たずに皿からとんかつボールをかっさらう水帆。暴挙とも言える行為だが、水萌には怒る気力さえ湧かなかった。
/
翌日。
この日は、三者面談が実施されており、部活が休みになっていた。
水帆が面談に当たっている。学校で一人待ちぼうけになるのはあまり気が進まなかったので、水萌は一人、姉を置いて先に帰宅した。まあ水帆は母と一緒に帰って来るだろう。
家で一人。いつも水帆と一緒に帰宅してくるので、仮に母がパートでいなかったとしても、家で自分一人だけになるというシチュエーションはほとんどあり得ない。
「…………」
さすがに、十三歳。
家で一人留守番をするのが怖いだなんて言っていられない。しかし、昨日の今日で、というのが問題だ。
リビングに入ってすぐ、テレビラックに載ったあのぬいぐるみに目が行った。……昨日、誰も触れていないのにあのぬいぐるみが勝手に落ちた瞬間を目撃してしまった。ポルターガイストというやつだ。
(私のこと怖がりだとか言って来たけど、水帆は見てないからそんなこと言えるんだよ……)
気のせいじゃない。あれは不自然な落下をした。
水萌は、生来の怖がりである。
特に、心霊だとかオバケだとか、そういうジャンルへの耐性が極端に弱い。水帆はそれらに対してはいたって平気なのだが。双子でも差は出るものである。
赤いドラゴンのぬいぐるみ。アクリル素材のその目が、ちょうどこちらを見ていた。つぶらで可愛い瞳の筈だが、この状況ではおぞましい視線を向けられているように感じてしまう。
ぶるっ、と身震いをして、水萌は逃げるようにリビングを出て、二階の自室へと向かった。
学習机の上に鞄を置いて、ひとまず制服から部屋着へと着替えを始める。脇腹の方のファスナーを上げて、あとは頭からすぽんと脱ぎ取る。まだまだ成長期らしい成長に至っていない水萌は、制服も少し大きめで、ぶかぶかだ。それは水帆も同様である。
脱いだ上着をハンガーにかけようと、手を伸ばしたときだった――。
ガタタン、ガタンッ!
「ひっ――!?」
階下の方から、なにか大きな物音が聞こえた。驚いて、思わず声が出る。
(なに!? 何の音……?)
しばらく、そのまま動きを止めて耳を澄ませる水萌。すでに静かになっている。……が、それだけで安心できない。何もいない、ということをこの目で確認するまでは安心できないのだ。
まだ着替えも終えないまま、水萌は部屋を出た。
上半身はまだインナー姿で、胸の前に脱いだ上着をぎゅっと抱くようにした状態で、ゆっくり階段を降りて行く。一段一段、踏む込むたびに軋む音がやけに大きく聞こえる。心臓も、激しく動悸している。
階段の踊り場を折り返した先に、なにか不気味なモノが待ち受けてやしないか、と、ついよからぬ想像をしてしまう。恐々とし、身を固めながら足を踏み出していく。……あまりの恐怖で、左にホクロを持つその瞳に、今にも涙の粒が浮かんでしまいそうなほどだ。
階段を降りきって、廊下を歩く。リビングのドアをゆっくりと開いた。
「――――……」
ごくり、と生唾を呑む。
ゆっくりリビングへ入り、見回す。……何も、いない。
ふう、と息をつく水萌。
ということは、さきほどの音は気のせいだったのだろうか。きっとそうだ。昨日、ぬいぐるみが自然落下する瞬間を見てしまって以来、どうにも神経質になってしまっていたようだ。これでは水帆に馬鹿にされてしまうのも仕方がないかもしれない。
――と、考えていたところ。
「あれ……?」
そこで、ようやく気づいた。
テレビラックの上。40型4Kテレビの隣に、あるはずの物がない。
あの赤いドラゴンのぬいぐるみだ。
昨日、奇妙な自然落下をしたぬいぐるみは、水帆の手で元の位置に戻されていたはずだ。帰宅直後リビングに入ったときも確かにそこにあって、目が合った。
それが、ない。
ラックの上になく、そして昨日のようにその下へ落ちているわけでもない。リビングの中を見回しても、どこにもぬいぐるみの姿がない。
さあああ、と血の気が引いていく水萌。
ポルターガイストどころではない。ぬいぐるみが、独りでに動いてどこかへ行ってしまった……。これはだめだ、怖すぎる。
姉と母親が帰って来るまで、布団にもぐって待とう――そう思い、急いで踵を返し、階段を駆け上がっていく水萌。
自室に駆け込み、乱暴に扉を閉めて、制服を脱ぎ掛けの格好のままベッドに飛び込もうとした、まさにそのとき。
――ベッドの上にあるそれが、彼女の目に入った。
「…………、え?」
赤いドラゴンのぬいぐるみ――それが、ベッドの上にあったのだ。
ベッドの上に、というのは、ベッドの上に乗っている状態で言う『上に』ではない。――ベッドの上に、浮かんでいるのだ。
そういえば、最近英語の授業でそんなことを習った。すなわちこの場合の『上に』は、『on』ではなく、『above』だ。……などと、急にそんなことが思い出されたのは、きっと目の前の光景があまりにも非現実すぎたため。無意識のうちの現実逃避。
それほど頭が真っ白になっている水萌。呆然として腕の力も抜けてしまい、胸の前で抱くようにしていた上着をばさっと落としてしまう。
――すると。
『おっ、やったぜ眼福』
そんな、少年の声が聞こえた。
「へ……?」
突如聞こえた聞き覚えのない声。
……水萌は見ていた。
ぬいぐるみの口がもぞもぞと動いていたのだ。
確かにすぐ目の前から声が発せられたように聞こえたし、――すなわち、どうやら今の声の主は目の前でふよふよと浮かぶこのぬいぐるみらしい……。
「い、今、しゃべっ――!?」
『と思ったけど、なんだ。ほとんどぺったんこじゃねえか。別に嬉しくもねえや』
「……な、な、なにをおおーーーーっ!!」
恐怖と驚愕と混乱の三段重ねで彼女の思考は押しつぶされていた中で、気にしていたこと――同年代の中では圧倒的に発育が遅いうえ、しかも身長などには差がない水帆に対してでさえもわずかばかり劣る『胸の大きさ』を指摘されて、一気に怒りの感情が勝り出た。
勢いのまま、水萌は不躾なぬいぐるみに対してグーパンチを放っていた。
もふっ、と柔らかい感触。
『ちょちょ、ちょっと待て、ミナモ!』
殴られた勢いで吹っ飛び、壁に激突したぬいぐるみだったが……痛みを感じることはないのか、そのまますぐに体勢を立て直し、荒ぶる少女を慌てて宥めた。
「な、なんで、あたしの名前知ってるの? ……いや、ていうかその前になんでぬいぐるみが喋ってるの!?」
『知ってるさ。このぬいぐるみに体を借りて早三日。俺の魂とぬいぐるみがようやく馴染んで、こうして自由に動けるようになったわけだが……それまで、あのリビングでずっと待ちぼうけだったんだからな。会話も聞いてた、名前ぐらい否が応でも憶えらァな』
「た、魂? な、何言って……」
『俺の名前はオスティマ。体はここにはないが……俺は海からやってきた。深い深い海の底……海底帝国・アトランティスからな』
きょとん、とする水萌を後目に、赤いドラゴンのぬいぐるみ――オスティマと名乗った彼は言葉を続ける。
『俺はお前のことをずっと探していた。いや、お前と、双子の姉のミナホもだ。――お前らに力を貸してほしいんだ』
「力を、貸す?」
『ああ。アトランティスには、地上侵略を目論む悪しきテロリストどもがいる。――ミナモ、頼む。やつらと戦ってほしいんだ』
「――へ?」
キッチンにひょこっと顔をのぞかせた水萌が、そう言って小躍りした。
一ノ瀬家の母親特製、豚こまで作ったチーズインとんかつボールは、何より彼女の好物なのである。水萌はその少年のような笑みを満開にさせたまま、隣に立つ水帆と目を合わせた。
「えへへ、うれしいね」
水帆も、爽やかな笑顔を返す。水萌の好物であるそれは、水帆にとっても同様に好物だった。
「ちょっと二人とも、そんなとこに立ってないで、手伝ってちょうだい」
母がそう言うと、二人は改めて視線を合わせ、そしてコクと頷いた。
すると二人は途端にテキパキと動き出す。食器を用意したり、食卓をきれいにしたり、盛り付けしたり、運んだり――それらの作業を、言葉を交わすことなく的確な連携でこなす。
あっという間に、キャベツの千切りの他、プチトマトも添えられて彩り鮮やかなとんかつプレートと、その他の付け合わせが食卓テーブルに並んだ。……こういったとき、二人の連携力はすさまじいのである。
「まったく、あんたたち。普段はいがみ合ってばかりなのに、こういうときだけはちゃんと協力するんだもの。いつもそうやって仲良くしてくれていたらいいのにね」
母親が、半ば呆れたように娘たちに言う。詰られた双子姉妹は、お互いにふと顔を見合わせ、むう、と複雑そうな顔をした。
ちょうどよいタイミングで父が帰宅し、家族四人で食卓を囲んだ。
丸いとんかつボールをかじり、中からとろりと出てくるチーズの舌触り――そのあまりの甘美さに頬を緩ませる双子姉妹。同じ好物を食して同じように笑顔になる娘たちを見て、中学に上がってもまだまだ子供のままだなと思う父と母。
そんな家族団欒の和やかな空気の中――ぽとり、と、なにか柔らかな物が落ちる音がした。とてもちっぽけな音だったが、実際にそれが落ちるのを目にしていた水萌が真っ先に、ぴく、と反応した。
落下したのは、テレビラックに置かれていたぬいぐるみだった。
「あ、ドラコ……」
カーペットの上に顔面から落ちたそれは、手ごろな大きさのぬいぐるみであった。
既存のキャラクター物でないぬいぐるみの造形として、最もポピュラーなのはくまだろうか。他に犬猫やウサギなんかも多いだろう。……それら王道の物に対して、一ノ瀬家のテレビラックの上に載せられていたそのぬいぐるみはかなり独特なモチーフであると言える。
ドラコ、と名付けられたそれは、ドラゴンのぬいぐるみだ。
赤い体で、羽根と尻尾を生やし、トカゲのような顔だが頭に立派な角が生えている。――一般的なドラゴンの姿かたちを、ゆるキャラのように丸みを強調したデザインにしたようなぬいぐるみだ。
「な、なんで今落ちたの……? 誰も触ってないよ?」
それが落下する瞬間を見ていた水萌が、他三人の家族の顔を窺いながらそう言った。
「別に、そういうこともあるじゃない。なんかバランスが悪かったんでしょ」
おろおろとする水萌に対し、落ち着いた様子で水帆が言葉を返す。
「そんなっ、ちゃんと置かれてたはずだよ?」
「何怖がってるの? ……あー、あれ? なんか心霊現象みたいなやつだと思ってるの? なんていうんだっけな。えーっと……。ああ、だめだ出てこない。もやもやするなあ……」
「ポルターガイスト!」
「あ、それそれ。ありがとスッキリしたよ」
「ありがと、じゃないよ! 私いま目の前でそれ見ちゃったんだよ!」
「あいかわらず水萌ちゃんは怖がりだなあ。そんなの気のせいだよ」
「気のせいじゃないよ実際に落ちてんだから!」
「はいはい」
過剰に怖がる妹に呆れながら、立ち上がってぬいぐるみをラックに載せ直してやる水帆。ふと、そのぬいぐるみを改めて見て、嬉しそうに口を開く。
「懐かしいな、これ。ちっちゃい頃、一緒にクレーンゲームで取ったんだっけ。すっごい苦戦して、やっと取ったんだよね。ね、水萌ちゃん」
テレビラックに載っていて、毎日のように視界に入っていたはずだが、逆に慣れすぎてあまり意識することがなかった。それは長い間そこに飾られている、二人にとって思い入れのあるぬいぐるみなのだ。
あるべき位置に戻ったぬいぐるみの頭を、ぽんぽん、と撫でてやり、水帆は食卓に戻った。そこで、隣に座る水萌の箸が止まっていることに気付く。
「どうしたの水萌ちゃん、せっかくのとんかつなのに、全然食べてないじゃない」
「もう食欲ないよ……」
「ほんと? じゃあもらっていい?」
そう言って、ひょい、と水萌の返事を待たずに皿からとんかつボールをかっさらう水帆。暴挙とも言える行為だが、水萌には怒る気力さえ湧かなかった。
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この日は、三者面談が実施されており、部活が休みになっていた。
水帆が面談に当たっている。学校で一人待ちぼうけになるのはあまり気が進まなかったので、水萌は一人、姉を置いて先に帰宅した。まあ水帆は母と一緒に帰って来るだろう。
家で一人。いつも水帆と一緒に帰宅してくるので、仮に母がパートでいなかったとしても、家で自分一人だけになるというシチュエーションはほとんどあり得ない。
「…………」
さすがに、十三歳。
家で一人留守番をするのが怖いだなんて言っていられない。しかし、昨日の今日で、というのが問題だ。
リビングに入ってすぐ、テレビラックに載ったあのぬいぐるみに目が行った。……昨日、誰も触れていないのにあのぬいぐるみが勝手に落ちた瞬間を目撃してしまった。ポルターガイストというやつだ。
(私のこと怖がりだとか言って来たけど、水帆は見てないからそんなこと言えるんだよ……)
気のせいじゃない。あれは不自然な落下をした。
水萌は、生来の怖がりである。
特に、心霊だとかオバケだとか、そういうジャンルへの耐性が極端に弱い。水帆はそれらに対してはいたって平気なのだが。双子でも差は出るものである。
赤いドラゴンのぬいぐるみ。アクリル素材のその目が、ちょうどこちらを見ていた。つぶらで可愛い瞳の筈だが、この状況ではおぞましい視線を向けられているように感じてしまう。
ぶるっ、と身震いをして、水萌は逃げるようにリビングを出て、二階の自室へと向かった。
学習机の上に鞄を置いて、ひとまず制服から部屋着へと着替えを始める。脇腹の方のファスナーを上げて、あとは頭からすぽんと脱ぎ取る。まだまだ成長期らしい成長に至っていない水萌は、制服も少し大きめで、ぶかぶかだ。それは水帆も同様である。
脱いだ上着をハンガーにかけようと、手を伸ばしたときだった――。
ガタタン、ガタンッ!
「ひっ――!?」
階下の方から、なにか大きな物音が聞こえた。驚いて、思わず声が出る。
(なに!? 何の音……?)
しばらく、そのまま動きを止めて耳を澄ませる水萌。すでに静かになっている。……が、それだけで安心できない。何もいない、ということをこの目で確認するまでは安心できないのだ。
まだ着替えも終えないまま、水萌は部屋を出た。
上半身はまだインナー姿で、胸の前に脱いだ上着をぎゅっと抱くようにした状態で、ゆっくり階段を降りて行く。一段一段、踏む込むたびに軋む音がやけに大きく聞こえる。心臓も、激しく動悸している。
階段の踊り場を折り返した先に、なにか不気味なモノが待ち受けてやしないか、と、ついよからぬ想像をしてしまう。恐々とし、身を固めながら足を踏み出していく。……あまりの恐怖で、左にホクロを持つその瞳に、今にも涙の粒が浮かんでしまいそうなほどだ。
階段を降りきって、廊下を歩く。リビングのドアをゆっくりと開いた。
「――――……」
ごくり、と生唾を呑む。
ゆっくりリビングへ入り、見回す。……何も、いない。
ふう、と息をつく水萌。
ということは、さきほどの音は気のせいだったのだろうか。きっとそうだ。昨日、ぬいぐるみが自然落下する瞬間を見てしまって以来、どうにも神経質になってしまっていたようだ。これでは水帆に馬鹿にされてしまうのも仕方がないかもしれない。
――と、考えていたところ。
「あれ……?」
そこで、ようやく気づいた。
テレビラックの上。40型4Kテレビの隣に、あるはずの物がない。
あの赤いドラゴンのぬいぐるみだ。
昨日、奇妙な自然落下をしたぬいぐるみは、水帆の手で元の位置に戻されていたはずだ。帰宅直後リビングに入ったときも確かにそこにあって、目が合った。
それが、ない。
ラックの上になく、そして昨日のようにその下へ落ちているわけでもない。リビングの中を見回しても、どこにもぬいぐるみの姿がない。
さあああ、と血の気が引いていく水萌。
ポルターガイストどころではない。ぬいぐるみが、独りでに動いてどこかへ行ってしまった……。これはだめだ、怖すぎる。
姉と母親が帰って来るまで、布団にもぐって待とう――そう思い、急いで踵を返し、階段を駆け上がっていく水萌。
自室に駆け込み、乱暴に扉を閉めて、制服を脱ぎ掛けの格好のままベッドに飛び込もうとした、まさにそのとき。
――ベッドの上にあるそれが、彼女の目に入った。
「…………、え?」
赤いドラゴンのぬいぐるみ――それが、ベッドの上にあったのだ。
ベッドの上に、というのは、ベッドの上に乗っている状態で言う『上に』ではない。――ベッドの上に、浮かんでいるのだ。
そういえば、最近英語の授業でそんなことを習った。すなわちこの場合の『上に』は、『on』ではなく、『above』だ。……などと、急にそんなことが思い出されたのは、きっと目の前の光景があまりにも非現実すぎたため。無意識のうちの現実逃避。
それほど頭が真っ白になっている水萌。呆然として腕の力も抜けてしまい、胸の前で抱くようにしていた上着をばさっと落としてしまう。
――すると。
『おっ、やったぜ眼福』
そんな、少年の声が聞こえた。
「へ……?」
突如聞こえた聞き覚えのない声。
……水萌は見ていた。
ぬいぐるみの口がもぞもぞと動いていたのだ。
確かにすぐ目の前から声が発せられたように聞こえたし、――すなわち、どうやら今の声の主は目の前でふよふよと浮かぶこのぬいぐるみらしい……。
「い、今、しゃべっ――!?」
『と思ったけど、なんだ。ほとんどぺったんこじゃねえか。別に嬉しくもねえや』
「……な、な、なにをおおーーーーっ!!」
恐怖と驚愕と混乱の三段重ねで彼女の思考は押しつぶされていた中で、気にしていたこと――同年代の中では圧倒的に発育が遅いうえ、しかも身長などには差がない水帆に対してでさえもわずかばかり劣る『胸の大きさ』を指摘されて、一気に怒りの感情が勝り出た。
勢いのまま、水萌は不躾なぬいぐるみに対してグーパンチを放っていた。
もふっ、と柔らかい感触。
『ちょちょ、ちょっと待て、ミナモ!』
殴られた勢いで吹っ飛び、壁に激突したぬいぐるみだったが……痛みを感じることはないのか、そのまますぐに体勢を立て直し、荒ぶる少女を慌てて宥めた。
「な、なんで、あたしの名前知ってるの? ……いや、ていうかその前になんでぬいぐるみが喋ってるの!?」
『知ってるさ。このぬいぐるみに体を借りて早三日。俺の魂とぬいぐるみがようやく馴染んで、こうして自由に動けるようになったわけだが……それまで、あのリビングでずっと待ちぼうけだったんだからな。会話も聞いてた、名前ぐらい否が応でも憶えらァな』
「た、魂? な、何言って……」
『俺の名前はオスティマ。体はここにはないが……俺は海からやってきた。深い深い海の底……海底帝国・アトランティスからな』
きょとん、とする水萌を後目に、赤いドラゴンのぬいぐるみ――オスティマと名乗った彼は言葉を続ける。
『俺はお前のことをずっと探していた。いや、お前と、双子の姉のミナホもだ。――お前らに力を貸してほしいんだ』
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ひっそり静かに生きていきたい 神様に同情されて異世界へ。頼みの綱はアイテムボックス
於田縫紀
ファンタジー
雨宿りで立ち寄った神社の神様に境遇を同情され、私は異世界へと転移。
場所は山の中で周囲に村等の気配はない。あるのは木と草と崖、土と空気だけ。でもこれでいい。私は他人が怖いから。
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