【短編】猫の哲学

喜太郎

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「しゅれでんがー?」
「シュレディンガー」

「なあにそれ、ぱぱ?」
 わたしは、おとうさんに聞きました。


「『シュレディンガーの猫』。おまえにはまだむずかしい話だな。うん、そうだな……、それは、とある実験の話なんだ」

「じっけん?」

「そう。猫をね、箱の中に入れるんだ。箱にはしかけがあって、二分の一の確率でどくのガスが出るんだ。二分の一、わかる? 出るかどうか、半分ってこと」

「どくのガス? たいへんだよ、ねこがしんじゃう!」
 わたしはねこが好きだ。だから、猫がしんじゃうなんてかわいそうだと思って、おとうさんにそう言いました。
 そんなわたしの頭を、おとうさんは、やさしい笑顔でなでてくれます。


「心配いらないよ、これはほんとうにあった実験じゃないんだ。思考実験っていうんだけど、……ようするに、うその実験。ほんとうに猫をそんな箱には入れたりしていないよ」

「なあんだ」

「猫がかわいそうだって思ったんだね。おまえは、やさしいね」
 おとうさんがわたしをほめてくれました。うれしい。


「でも、じゃあそのじっけんはどうなったの?」

「ああ。思考実験だから、想像の話なんだけどね。箱の中に、二分の一の確率で毒ガスが出るんだ。箱はふたが閉められているから、毒ガスが出たかどうかは外からは分からない――猫は、箱の中で生きているか死んでいるか、どっちだと思う?」

「え? そんなの、わかんない。だって箱の中は、箱の外から見えないもの。猫が生きてるか、死んじゃってるか……わからないよ」

「そう。わからないんだ。箱を開けてみるまではね」

 おとうさんは、わたしの頭をなでていた手をそっとはなして、言います。


「生きてるか死んでるか分からない。それはね、にんげんが箱を開けて中を見るまで、その猫は生きてもいるし死んでもいる、ってことなんだ」

「生きてもいるし、死んでもいる? どういうこと?」

「さあ。どういうことかは分からない」
「うー?」


 どういうことかを聞いたのに、おとうさんはどういうことかわからないと言います。
 それじゃあ、しつもんの答えになっていません。

 でも、そういうものなんだよ――って、おとうさんは、ことばをつけ足します。


「生きてもいるし、死んでもいる。生きながら死んでいる、そんな猫って、いったいどういうことだろう? って考える実験ってことだよ。ほんとうにそんな猫はいるのかな、いたら、いったいどういうふうになっているのかな、ってね」

「ふうん……」

 たしかに、おとうさんが言ったとおり、むずかしい話でした。


 生きてもいるし、死んでもいる。

 その猫がいったいどんなふうになっているのか、なんて、わたしにはよくわかりません。
 でも、わたしが気になったのは、そんな猫がほんとうにいるのか、とか、どんなすがたなのか、ということじゃありませんでした。


 その猫はいったいどういうことを思うのだろう。

 じぶんは生きているけど、死んでいる。
 じぶんは死んでいるのに、生きている。


 猫は、そんなじぶんをどう見て、なにを思うのだろう。
 わたしは、それが気になって、そしてそれを考えると、なんだか、とてもせつない気持ちにもなりました。


        /


 お父さんがいなくなると、家はとてもしずかになった。

 わたしはいつも家に一人だ。
 けっこう大きな家なのに、わたし一人しかいない。
 広いリビングで、一人、朝ごはんを食べていると、大きな空間の中でわたしという人間の小ささがまざまざと感じされられる。同じ学年の子たちの中でもとりわけ体が小さいぐらいなのに、その体がよりいっそう小さくなっていくみたいに感じられるのだ。

 朝なのに、日が沈んだ夜みたいに、とっぷりと、くらい気持ちになってしまう。

 お母さんが夜きんのときは、わたしは一人でおきて、一人で朝ごはんを食べて、一人で学校のじゅんびをして、一人で家を出る。ぜんぶ、ひとりだ。


「にゃあ」

 道を歩いていると、とつぜん、猫のなき声が聞こえた。


 わたしは、はっとして、いそいで周りを見回した。
 わたしは猫が好きだ。
 近くにいるなら、あの、あいくるしい姿を見せてほしい。――そう思って一生けんめい周りを見るけど、猫の姿は見えない。
 もう、どこかへ行ってしまったみたいだ。
 ざんねんだ、わたしはがっくりと肩をおとした。
 でも、そんな自由気ままな一面も、猫のすてきなところだと思うけれど。

 猫、見たかったな。

 通学路を歩くわたしの足どりは、またいっそう、おもくなってしまう。



 わたしが教室に入ると、いっしゅん、ときが止まった。

 でもすぐにみんな、おしゃべりに戻る。たのしそうに笑い合うクラスメイトの中、わたしはうしろの方の席に向かって歩いていく。

 とちゅう、いつもクラスの中心にいるあかるい女子の近くをとおった。
 彼女は仲よしグループで集まっておしゃべりをしていたけど、わたしがとおるとき、はた、と話しをとめて、わたしの方を見た気がした。
 気のせいかもしれない。
 またすぐにおしゃべりに戻った様子を、とおりすぎたあとに背中で感じた。


 わたしが席についたあと。どっ、と、その女子のところで笑いがおこった。
 どきりとした。
 もしかして、わたしのことで笑っているのかもしれないと思った。でも、話の内ようは聞こえない。

 気のせいかもしれない。
 でも気のせいじゃないかもしれない。

 どちらか分からないから、胸がきゅってする。



 一日の授業がおわって、家にかえる。空はすっかり夕やけ。くつを探していたから、おそくなってしまった。

 じぶんの部屋に入って、ランドセルをつくえの上におく。
 そのまま、ぽふん、とベッドの上にたおれこんだ。
 いつも、かえってくると、こうやって、一気に体の力をぬいて、やわらかい布団の上にダイブするのだ。なんとなく、そうしたくなる。それで、そのまましばらくじっとしていたい。
 早いうちにしゅくだいをしようと思っていたけど、なんていうか、動くのがおっくうだ。

 そのしせいのまま、顔をよこに向けた。
 なんとなく目線を向けた先には、鏡。部屋のまんなかの丸テーブルに、小さい鏡を立てたままだった。

 鏡に、わたしの顔がうつっている。

 わたしは、鏡が好きじゃない。

 ううん、鏡が嫌いなわけじゃない。でも、鏡は、いつもきまってわたしの顔をうつすから。わたしは、わたしの顔が好きじゃない。

 ううん、顔が嫌いなわけじゃない。顔のほかも、ぜんぶ、好きじゃない。


 わたしはすぐに体をおこして、鏡をパタンとふせた。



 まどの向こうは、まっくらだ。

 わたしはリビングの真ん中の、ローテーブルのうえにノートと問題集を広げていた。しゅくだいだ。
 じぶんの部屋に勉強机はあるけど、じぶんの部屋でも、リビングでも、おんなじだ。だって、ひとりだから。

 チャイムがなった。玄関のとびらを開けると、出前の人が立っている。
 おかあさんは、夜がおそいときは出前をたのんでくれている。
 やさしそうなおとこの人が、出前をわたしてくれた。出前をわたしてくれる人はいつもちがう人だけど、どの人も、みんなやさしそうだ。つめたい人はあんまりいない。

 学校でも、そうだといいのにと思う。


        /


 どうしてわたしが教室の中でひとりぼっちなのかとかんがえてみたけれど、すぐに答えはでなかった。
 答えがわからないんじゃなくて、一つにしぼれないから。

 くらいから。自分は、それがとても大きいと思う。わたしはくらい。他人とおはなしするのがあんまり得意じゃない。

 顔がきもちわるいから、っていうのも一つ。わたしのことをそう言っているのが聞こえてきたことがある。
 くさい、とも。
 見た目やにおいで、まわりの人に迷惑をかけてしまっているのだ。わたしがわるいのだから、わるく言われるのは当然だ。


 授業で発表をするときも、おどおどしてうまくしゃべれないし、声がちいさくておこられるし、体育でも、てつぼうも飛び箱もうまくできたためしがない。

 みんなより、ダメな子どもなのだ。

 どうしてわたしは、みんなよりも劣っているんだろう?
 自分の中で問いかけてみたけれど、わからなかった。
 わたしがダメなのは、わたしがダメだから、っていうことでしかないと思う。質問の答えになっていない気がするけど、でも、きっとそういうものなんだ。


 生まれたとき、赤ちゃんだったころは、みんなおなじだったんじゃないかと思う。
 それなのに、成長してから、ぜんぜんちがう風になっていくのはどうしてなのだろう。

 みんなを見ていると、とても楽しそうだな、と思う。
 それなのに、わたしは、とても苦しい。
 だれもいなくて一人きりのお家と、いっぱい人がいるけど一人ぼっちの学校と、行ったり来たりしているだけ。それに、どんな意味があるんだろう。

 大人になったらなにかが変わるんだろうか。それともずっと、このまま?

 だったら。

 これからもずっとこんなに苦しいんだったら……。


 さんすうの授業、問題をまちがえてわらわれた。
 とてもはずかしくてイヤな気分になったけど、それとは別に、そんなのいつものことだからなんとも思わない、っていう気持ちもあった。

 わたしが問題をまちがえたのがおかしいから、みんなわらってる。
 そんなの当然のことだ。

 ――はずかしくて顏があつくなっていくのに、心の中にはそんなおちついた気持ちもあった。二つが、同時にあった。
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