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約束の日に私は
しおりを挟む約束をした日の、朝になった。
私は朝起きると、窓を開け、空気を入れ変える。
密閉された空間に溜まり込んだ重々しい空気を、外の青々しい爽やかな空気へと、浄化した。
一口深呼吸すると、凝り固まっていた血液が絆され、サラサラとした血が全身を流れる。
私は、青草の匂いに包まれながら、重い足取りで家を出た。
家を出て直ぐの所にある彼の家へと、重苦しい何かに取り憑かれながら、一歩、また一歩と、進んだ。
彼の家の近くになるに連れ、木々や草花の聞くに耐えないザワザワとした騒音に、心身が苛まれる。
粗悪でヒビが割れている私の器から、溢れ出しす濁りきった淀んだ感情が、今にも私の全てを支配しようと、ジワジワと侵食し、蝕んできた。
「なんか私……朝から息苦しくて、ははは、身体のあちこちが重いや。私、どうしちゃったのかな……?私が、私じゃないみたい。あれ?何で私泣いているんだろう?可笑しいなぁ……私、こんな筈じゃなかったのに…………離れたくないよおおおおおお…………!!」
彼の家に着くと、先程までの凝りはまるで、最初から無かったかのように、消えていた。
部屋の窓の前まで来ると、コンコンと窓を叩いて、部屋の中に居る彼に、私の存在を知らしめる。
ノックをしてから、最初の数秒は優しくするが、ノックが長くなるに連れ、無意識的に力が強くなっていく。
コンコン、と鳴っていた音が、ゴンゴン、という音に変わっていく頃。
彼の顔が窓から出てきて、私の顔の、直ぐ目の前まで寄ってきた。
「きゃあ!!」
いきなり、近くに顔を寄せるものだから、私らしくもない言葉を彼に投げかけては、一歩退く。
ほんの二三秒の間、私と彼は見つめ合った。
私は硬直が解けると、話があるから海辺まで来て欲しいと言い残し、その場から走り去る。
その際に彼が何かを言った気がするが、私が振り返ることはなかった。
海辺の岩に座って水平線を眺めていると、手が左肩に優しく載せられる。
肩に載っている手の甲に、そっと、私は手を添えると、後ろを振り向いた。
そこには、何か覚悟を決めたような、そんな、真面目な顔の彼が居たのだ。
その顔を見た私は、身体の芯が震えるような不安感に襲われた。
何故なら今日が、約束の日だからだ。
──お前はいらない。
──着いてくるな。
──これでお前とは最後だな。
そんなことを言われるのでは?と思ったら、朝の、言葉に出来ないような負の感情が、安らいでいた私の心を、一瞬にして蝕んだ。
光が消え、闇に蝕まれた私の瞳には、何も映らない。
私の代わり様に驚いた彼は、先程の覚悟が無かったかのように唇を震わせ、固く結んだのだ。
私は、こんな彼を見たことがないし、見たくもない。
だけど、彼は強かった。
固く結ばれた唇は解け、私に一言呟く。
「海はいいよなぁ……」
その一言に、何の意味があるのだろうか。
私は考えた。
頭の良い彼だ、何か意味があるに違いない。
海、水平線、大陸、別の世界。
あぁ、そうか、そういうことか。
彼は、世界に憧れている。
海とは即ち、世界を繋ぐ路であり、夢への架け橋だ。
だからこそ、彼はこんなことを言うのだ……。
──嫌だ、そんなのは嫌だ。
──嫌い、私から彼を遠ざけ様とする海が嫌いだ。
──怖い、もう一生会えないって思うと怖いよ。
だからこそ私は、私の心に気づいて貰える様にした。
昔の私に戻ったかの様な、素直な気持ちを伝えて。
「わたしは、こわいわ……」
「え!?昔、あんなに二人で遊んだじゃん!君が僕を海に誘ってくれたから、僕は海を好きになったんだよ?」
彼は大きくて温かいその両手で、小さな私の手を優しく包み込む。
そうだ、違ったのだ。
彼は単純に、海が好きだったのだ。
私と一緒に日が暮れるまで遊んだ、この海が。
自分の悲観的な思考に、嫌気がさした。
しかし、私と彼の思い出の場所を好きだ、と言われるのは、自分の悲観的な思考を打ち消してくれる程に、どうしようもなく嬉しかった。
「そっか……そう言ってくれてると、嬉しい……かな」
「うん、好きだよ。それでぇ?何で海がこわいの?あんなに遊んだのにさ」
(言えないよ。本当は海じゃなくて、貴方と離れるのがこわいなんて……)
私は尻込みした。
どうしても言えなかった。
もし言ってしまったら、もし思いを伝えてしまったら、今までの関係を壊してしまうんじゃないか、と思った。
本当に彼に拒まれてしまったら、重く伸し掛る様な悲しさで、私は私では居られ無くなってしまう。
(でも、言えなかったら後悔する……)
私がウジウジしてる間も、彼は私の手を握って、私の目を真っ直ぐ見てくれていた。
だからこそ、深呼吸をして、冷静に、このどうしようもない想いを、感情的に伝える。
「違うの!私がこわかったのは、貴方と離れること……」
私は、一歩前に出る。
私の顔と、彼の顔が触れそうな距離。
彼の顔と耳が赤くなっていた。
握っている手も濡れてきた。
目が泳いでいるのが分かった。
少しずつ、彼の息が荒くなっていくのが分かった。
──何をそんなに緊張しているの?
──あぁ、私もドキドキしてる。
──彼の匂いがする、安心するなぁ。
──彼なら、我儘言っても大丈夫だよね。
その瞬間、私は心の蟠りを、八切れんばかりの思いを、彼にぶつけた。
「私、貴方と離れたくない!ずっと一緒にいたい!貴方がこの島を出て世界を見てみたいのは知ってる!貴方がこの島に収まる器じゃないのも分かってる!だから……だからせめて、私も連れてって!私、貴方の隣にいたいの!私を貴方の隣に居させてよおぉ……」
今まで溜めていた、十五年分の彼への想いは、涙と共に溢れ出した。
それは、どうしようもなく、身勝手な気持ち。
でも、それが私の本音で、後悔はなかった。
「……!?」
彼はそっと優しく、私を、自分の胸へと抱き寄せた。
「ごめん。他でも無い君に、そんな思いをさせちゃって。僕ね、君には感謝しかないんだ。……身体が悪い僕の手を引いて、外で遊ぶ楽しさを教えてくれてありがとう。お父さんが亡くなった時、悲しくて泣いていた僕の背中を優しく摩って、私がいるから大丈夫だよって慰めてくれて、ありがとう。いつも僕の隣で微笑んでくれて、ありがとう。いつも僕の話を楽しそうに聞いてくれて、ありがとう。君って、僕が大変な時、いつも近くにいてくれるよね。それがね、僕はとっても嬉しいんだよ。だから、ありがとう」
(違う。それは貴方がいつも近くにいてくれたから……)
光の戻った瞳から、涙が溢れて止まらなかった。
そんな風に思ってくれているなんて、これっぽっちも思っていなかったから。
もっと、うざがられているのだと、思っていたから。
「僕といるとき、いつも元気で、いつも笑顔で、いつも楽しそうにしてくれる。そんな太陽みたいな君の隣に、堂々と立てる様な男になりたかったんだ。でもそのせいで、涙が似合わない君を泣かせちゃったね……。僕、この十五年間ずっと言いたかったことがあるんだ」
彼は深く呼吸をすると、真っ直ぐな眼差しで私を見つめて、素直な言葉を紡ぎだす。
女の勘……いや、違う。
彼はずっと、私に対する確かな思いを、言葉と行動で、示してくれていたのだ。
彼は、私のことを……。
「君が好きだ。君がいるから今まで頑張れた。僕の隣には君に居てほしいし、君の隣には僕が居たい。だから……僕と一緒に、来てくれませんか?僕の夢を一緒に叶えてはくれませんか?」
彼が言葉で好きだ、と言ってくれたのが嬉しかった。
私が号泣している間、彼はずっと頭を撫でてくれた。
そこには、私に対する彼の優しさが、詰まっている。
だからこそ、許せなかった。
彼を騙す様な真似をしている、嘘つきな私が。
それでも好きでいて欲しいと思う、卑しい私が。
「私、そんなんじゃないの……。島に商人が来たあの日から私ずっと、言葉にしなかっただけで悲観的なことばかり考えてた。貴方が好きなただ明るいだけの娘じゃないの。私も貴方のことが好き。でも、だから……貴方のことが好きだから……私じゃ貴方にふさわしくないって、私なんかじゃ貴方を支えられないって、貴方の言葉で、貴方の行動で、ここに来てから、そう思ったの……。だから私は、貴方の隣には居られ……」
彼は、何も言わずに聴いてくれた。
私が唇を震わせながら、精一杯振り絞った言葉と涙を、彼は優しく受け止めてくれていた。
だから、嬉しかった。
私が最後に言おうとしていた言葉を、彼の言葉で塗り替えてくれたから。
「僕の隣には居られないなんて、言わせない!君は、自分のことを悲観的だって言うけど、それって僕のことを思ってくれてたからでしょ?そんなの、嬉しくない訳ないじゃん。僕は君の、全部が愛おしいんだよ。それに本当は三年前のあの日から、君に来てもらうつもりだったんだ。商人との約束事で今日まで言えなかった……。ずっと言えなくてごめん。不安にして、ごめん…」
「……………」
私は。
──勝手に勘違いして疑って。
──勝手に落ち込んで。
──勝手なことを言って。
──心配させた。
それでも彼は、私の全部が好きだと言ってくれた。
そんな彼が、どうしようもなく好き。
でも、どうしてかな?
彼のことを好きになる度に、自分が嫌いになるのは。
(もう私は、私のことが何も分からないよぉ……)
私の瞳からは光が再びなくなり、涙が渇いていた。
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