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第三章

木枯らし  山王社  風花

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   木枯らし
 
 清洲のお城の朝は早い。右筆御用部屋にはいつも良政が端坐している。いつ寝ているのか、軒下にぶら下がる干柿の如く顔いっぱいに皺を刻み、かさついた肌に白い粉を吹いてじっと動かない。もしかしたら死んでいるのかもしれない。
 牛一は急いでいた。――いや城内でのんびり歩ける者などいない。干柿どのを措いては。
 皺と見紛う目は閉じられていた。そのうえ座敷内の奥に離れて座っている。牛一は静かに摺り足で廊下をすり抜ける。
「こらこら、目の前を素通りとは、ちと水臭い奴」
 座る良政は、寝てはいなかった。横切る牛一を見咎めた。皺目は見開かれていたのだ。
「ささ、こちらへ。座れ。ゆるりとせよ」
 牛一は呼び止められて眉を寄せた。手に持つ扇で盆の窪をほじくった。
「いや、あまり時が......」
 牛一は言い訳がましく口を開くが、良政は構わず話し出す。
「聞いたかや? 一色村のいざこざを、湯起請で解決した話で持ちきりじゃ」
 座ってばかりに見える良政に、不思議と家中の報せがよく入る。ただ、話を盛るきらいがあった。
「しかし、夫婦喧嘩だ、迷い犬だの、借りた米、味噌が多い少ないなどと、埒もない類の話でございましょう」
 気も漫ろに牛一は応えた。
「そうでもないぞ......」
 城内に八つを知らせる太鼓が鳴った。
「おっ、急ぎませぬと。弓の稽古がございます」
 これ幸いと、牛一は話の途中に座を立った。透かさず良政は手を出して牛一の腕を引っ張る。
「お主、良き扇を持っておるではないか」
「あ、これ。差し上げまする」
 伸ばす良政の掌に扇をねじ込むと、素早く一歩後じさった。
 鼻息を飛ばしたが、良政も諦めて扇を広げた。
「おお~、馬か、生きているようだの」
「絵師が申すには毛並みだけで歳を描き分けるとか」
 胡散臭い絵師の顔を思い浮かべて牛一は付け足した。
「老馬の智がよう現れておる」
「ん......わかりますか? いやそれどころではござらぬ」
 牛一は慌てて右筆部屋を出た。
 今日の信長は機嫌が良いようだ。
 慌てて駆け込む牛一を横目に、白い歯を見せた。
 稽古の後、信長は片肌の汗を拭いながら牛一を見ることもなく話し出す。そんな時でも、信長の一語を聞き逃せばえらい目にあう。
「盛んらしいの......神明裁判か。そんなもので事実がわるものかの」
「まったく。そのような些事に、いちいち神の御心を与えるとなれば、神さまも身が持ちますまい」
 牛一は高笑いをした。
信長はいきなり、鋭い一瞥を牛一に投げた。
「大御乳はうつけか? 又助」
「いえ、滅相ものうございます」
 牛一は慌てて応えた。腹の内にあるだろう肝が、干柿のように縮こまった。
 信長は静かに、薄目で牛一を押さえつけながら、
「まあ、よいよい。大御乳さまは単に占い事が好きなのじゃ。火傷をする前に止めれば良いがのう」
 信長は怒ってはいなかった。ほっとしたが、合いの手が出てこない。なるほど湯起請だけに火傷ですか? と頭に浮かんだが、さすがに唾と共に飲みこんだ。一色ノ方との間合いは難しい。
「そう言えば、お屋形さま、元斎が目通りさせろと煩いのでございます」
「誰じゃ? そいつは」
「行く末の天下人には、天下一の絵師が必要だと大口を叩く輩にございます。確かに扇絵を見ても上手く描いておりますが......」
「ああ、狩野法眼ほうげん(元信)の一番弟子との触れ込みの......奴はまだ三十そこそこであろう」
「法眼は今、齢八十と少しの老境にござりますれば、とんだ法螺吹きにございます」
 信長の口元が歪んだ。
「命を掛ける気なら、法螺も許す......」
 幼気いたいけにも冷徹にも聞こえる口振りだ。
と、騒々しい足音が近づいてくる。
「――殿!」
 聞き覚えのある声がする。
(――恒興だ)
 信長も、表情に曇りを浮かべて声のほうへ顔を向けた。すぐに牛一に振り向き、
「面倒じゃ、ゆくぞ」
 駆けだす信長に遅れじと、牛一は後を追った。
 清洲本丸の一番奥の書院へ逃げ込んだ。奥向きの間だ。家中でも遠慮する者が多い。
 信長と牛一がほっとするのも束の間。
「殿~、あれ、こっちか、殿~」
 恒興の声が近づくにつれ、信長の顳かみが震えた。
ばたばたと近づく足音に遠慮会釈もない。
突然襖が開けられた。
 満面の笑みを湛える恒興の顔に牛一は驚いた。苦虫を潰すばかりの信長は、黙って顔を背けた。
 不思議な二人の立ち位置にがぜん興味が湧く。
 慌てたお小姓がようやく追い付いた。恒興に追い越されたらしい。
「あ、いたいた。殿ご無沙汰しております。勝三郎ご挨拶に伺いました」
「おとついも会ったではないか」
 信長は下向いたまま呟いた。
 牛一は急ぎ部屋の隅へ移動しつつ、頭を垂れた。白い歯を見られぬようにだ。
「何用じゃ、かる三郎」
 信長の変な呼びかけに、牛一は顔を上げ恒興を覗き見た。恒興は全く気づいていない。
「雅な茶に凝っておると耳にしまして、京で流行りの青磁の器を持参いたしました」
「ほう。気が利くではないか」
 いつもの顔に戻って、信長は毅然と応えた。
 最近茶器に目覚めた信長は、京で手に入れた青磁と聞いて片眉が上がっていた。
 恒興は、恭しく紫の袱紗を開いて信長に茶器を差し出した。
 しかし、手に取る青磁は偽物だ。厚ぼったい、色だけ似せた蒼白の清水焼と見た。遠目からでもわかる酷い出来だった。
「これを如何ほどで求めた」
 溜息ともつかぬ声音で信長は訊ねた。
「五十貫です」
 恒興は、嬉しそうに相好を崩している。
牛一は金額に驚き、信長を窺うと案の定、呆れ顔を見せた。
 意に介することなく恒興は続けた。
「お茶には甘い菓子がつきもの......」
 脇から無骨な茶紙に包まれた菓子を出した。
「なんと、これは」
 包の中は炙り餅だ。峠の茶店で評判を得ている三串で一文の駄菓子だ。雅な茶の湯に釣り合いは取れぬ。だが信長の好物に違いなかった。大いに喜ぶ信長は五串掴むと、次々に齧りついた。
 一串に親指大ほどの歪な餅がついている。それを見て恒興は嬉しそうに目尻を下げている。
「大義である」
 信長はわだかまりを飛ばす快活な声を上げた。
「はっ、また餓鬼の頃のように、山野に轡を並べて駆け巡りとうございます」
 恒興は恒興で、茶器のことなどお構いなしの受け答えだ。満足げな顔で叩頭した。
 大した会話も用件もなく、慌ただしさを残したまま、恒興は書院を後にした。不思議な御仁だと牛一は遠のく恒興の背をぼうっと見送った。
 横を見ると信長も、その背を薄目で見つめている。
「無駄金を使いおって」
 間を空けて口を開いた。怒気も苛立ちもない声音だった。
「京土産で五十文もあれば買えましょう物に......」
 牛一はすぐさま、青磁の駄物を思い浮かべて応えた。
「あそこで炙り餅を出さずに高価な京菓子を出していたら、怒鳴りつけておったわ」
 信長は右手に持つ青磁に目を落とし、刹那睨めつけ、すぐに茶器を引き寄せると口元を綻ばしながら鼻息を掛けた。
 なぜか、愛おしむ手つきで茶器を畳に転がした。畳の上をころころ転がり三回り目に右へ大きく逸れて、水墨画の襖絵にドンと当たって止まった。ちょうど龍の三爪の足下に押さえつけられた形だ。
 まるで児戯のようにも、お呪いのようにも見えた。
 恒興は、やんちゃな弟のような振る舞いだ。腹は立っても憎い訳ではない。まして実の弟の信勝をやむなく害した昨今であれば......。牛一は信長の複雑な心中を推し量った。
「ところで又助、その後変わった風は吹かなんだか」
 突然矛先が牛一へ向かった。
「あ、いえ。昨日海東郡まで出張りましたが、なにやら山王社で神事か祭礼があったらしく。人出が多く、どこもかしこも落ち着かぬ様子。聞き込みもままならず......また出直す所存にて」
「ふん。まあよいわ。しかし山王社で祭礼とな......」
 信長は顔を宙に向けて目を閉じた。
「はて......聞かぬな。まあよい焙り餅がまだたんとある。茶を持て」
 お小姓に声を掛けると、信長は焙り餅に齧りついた。

 
 庭から木枯らしが吹きつける。
 肌を刺す風が雪を運ぶ日も遠くはない。
 廊下の先から人が出て来た。珍しい顔だ。織田家の吏僚の村井貞勝だ。支配地こおり方の経営を任されていて清洲城内で顔を合わせることは滅多になかった。
 武辺はなくとも格上だ。牛一は脇に避け、会釈して貞勝を見送った。廊下の先には右筆御用部屋がある。良政に所用があったのだろう。
 火鉢の前で、綿入れの羽織を着てゆっくり白湯を飲む良政がいる。寸刻前に人がいた気配は微塵もなかった。一口すすると、しばし動きが止まる。何を考えているのか、ただ休んでいるのかわからない。湯気が立たねば、置物に見えなくもない。
 牛一は歩を進めた。
 暇があるときは尾張の知恵袋さまのご機嫌を窺うに限る。
 良政も気がついたのか皺が刻む影がうごめいた。たぶん顔を綻ばしたに違いない。
「おお、又助か。海東郡大屋村で百姓が争いを始めたぞ」
 良政は気持ち良さそうに口を開いた。
「それはまた、どんな諍いですか」
「堺相論だわ。なぁに、人は所詮欲の皮が突っ張っておるのじゃ。ふぁっふぁふぁ」
 揉め事、争い事、人の噂に首を突っ込みたい料簡は隠せない。
「古文書でも出て参りましたか?」
 声を掛ければ合いの手は何でもよいのだ。良政の話を促すお囃子に過ぎない。
「切っ掛けは下らぬわ。二つの村の百姓の倅の夜這いが搗ち合って、小突き合いから始まった」
 牛一は火鉢の前に腰を落とし、消えかかった火桶の炭を、吐息で赤く熾して灰に戻した。
清洲のお城では一番に右筆御用部屋に火鉢が整えられた。
 見て来たわけでもないのに、良政は大屋村の百姓家の夜這と喧嘩の様子を熱弁で語りはじめた。
「暗がりに動く影、ぶつかる音、火花、呻き声、殴り合い、悲鳴......」
「はあ、よくよくご存じで......」
 牛一はいつものように返事した。
「......そうこうするうちに、親が出てきて名主みょうしゅ沙汰人さたにんが首を突っ込む。誰かが昔の話を穿ほじくり返す訳じゃな」
「うむ。領地の話になれば、年貢に関わりますな。すると士分が出張って大事になると」
 なるほど他愛もない話が大きな話になってきた。
「さよう。一色村の池田方と大屋村の織田造酒丞みきのじょう稲生いのうの戦でも、首級争いでも揉めておった」
 前年に起きた信勝との争いの遺恨話にまで繋がった。なるほど火種は豊富だ。
「その遺恨話は聞いた覚えがあります。只では済みませぬな」
「う~ん、ぬくいな」
 良政は火鉢に手を翳し、目を細め満足声を上げた。
「ところがの、その揉め事をなんと湯起請で解決したとさ。差配したのは一色ノ方さまの妹の子で二十歳の俊英と名高い池田利八郎(恒長)どのじゃ」


   山王社

 顔は白く美しいと評判の池田恒長は、見た目と違い獰猛苛烈と耳にした。
「勝三郎さまとは顔も性格も全然違う。若いがひと癖ある御仁じゃ」
 良政は話題の主の評判を念押しに口にした。
「利八郎どのは、『神慮は下った』と声を上げると、眉一つ動かさず、一刀の下に百姓の首を、ポーンと斬り飛ばしたという。へへへ怖い若造じゃな」
 話が大きくうねって膨らむ一方だ。牛一は想像しようと眼窩に力を入れるが上手くゆかない。
「何ゆえ、首を、首を刎ねたのですか」
 弱い者に刀を振るう憤りが口から噴き出す。
「右筆頭どの、真の話でござりましょうか」
「何を申すか。ほんの一昨日おとついのことであるぞ」
「お、一昨日ですと!」
 一昨日の山王社で、祭礼の人混みの中に牛一は呆然と佇んでいた。
 祭りに集う村人は、叫んでいた。
 笑っていた。
 怒鳴っていた。
 山王社の参道を人々が急ぎ、層を成した。その先に衆人が密集し異質な熱気を醸していた。
 牛一は来る日にちを間違えたと悔やんだ。
 山王社拝殿前を囲むような人だかりは、猿楽芝居の座興だと見えた。
 喚声が聞こえる。血柱が上がった。
 手の込んだ見せ物だと思った。気慰みに片田舎の百姓が集まるのも無理はない。
「なんと......その場におったというのか、又助は」
 遠く群集の声の中から「詐術じゃ~」と唸る声が、たしかに聞こえた。
 顔に返り血を浴びる若武者は、場違いで華美な衣装だった。役者と見紛うたのは無理もない。錦糸の羽織に身を包む池田恒長だったのか。
北風に混じる血の匂いが牛一の脳裏に満ちた。
 御用部屋の火鉢の炭が赤く熾っている。
「又助、ぬかりおったな。お屋形さまにはとても話せぬわ」
 牛一は唾を飲み、拳に力を入れた。手の先から石になっていくように感触がない。気を取り直すと顔を上げた。
 良政は微笑んでいる。
「大屋村は『絡繰釜からくりがま』に違いないと歯噛みし、次は火起請だ! と叫んでおるそうじゃ。俊英とは些か世評のへつらいがあろうがの」
 風鳴りのような笑いを滲ませ、良政は火鉢に手を翳している。
「......熱かろうのう」
 良政の皺々の笑い顔が一層ひしゃげた。
「さあ、汚名返上せよ」
と、又助を見つめている。
「湯起請などと......この時代に、信じられませぬ」
「お屋形さまも、そう思うとるじゃろうな~」
 良政は、ますますけしかけるような目を牛一に向けてきた。
 木枯らしの音が耳元をすり抜ける。牛一は思わず首を擦った。


 翌日、牛一は湯起請の行われた現場へ向かった。
 お屋形さまの名を出されて浮足立つ己も情けないが、本当は自分が知りたいのではないか、干柿どのは......。
 胸の内に呟きながら、晴れ上がった青空に反して足取りは重かった。
 山王社参道は参拝の村人や、物売りの商人、近在の童が賑やかに行き交っている。
 牛一は憂い払うように気合を入れて村人に声を掛けた。
「おはよう。天気が良くて何よりだな」
 村人は怪訝な顔で足早に過ぎた。大人はよそ者に視線もくれない。その先で独楽回しに興じる童だけが手を止め、牛一を見ていた。
「一色村の者かのう。朝早くから精が出るのう」
 気を取り直し、次にやってくる村人に声を掛けたが、眉間を寄せて、牛一を避ける。
「愛想がないのう。この村のもんは」
 清々しい朝が、途端に気鬱な気配を孕んだ。
「お戯れも大概にしてくんろ」
 振り返ると背を丸め、杖をついた白髪の老爺が後ろから憤慨を込めて怒鳴り声を上げた。
 精一杯胸を逸らす姿が滑稽だ。だが、織田家中の猪武者が聞けば、喜び勇んで刀槍の錆にされる危うさだ。
 牛一は男の身なりと、その先の背景を探るようにじっと見据えた。
 つんつん、と袖が突っ張る。
「おじちゃん、何言ってんのさ」
 さっきまで独楽を回していた童が笑って、牛一の羽織の裾を引いていた。
「今、山王社の氏子の大半は大屋村のもんさ、そのうえ先達せんだっての敗訴ではらわたは煮えくりかえるわ、信心が足りないんじゃねえかって、皆、災厄、不浄を取り除くために必死に参詣を増やしてるんだ。ここで一色村の名は禁句なの」
 三日前の神明裁判で勝ったのは一色村池田方。敗訴は大屋村の造酒丞方だ。中立の山王社の大半を取り囲むように大屋村が接していた。
「なるほど、そう言うことか」
「おじちゃんは、なんなのさ」
 敏捷はしこそうな童は、鋭い目つきで捕まえた虫を観察するように牛一を見ている。
「某は、お屋形さまの思し召しで大屋村の領民に大事はないか様子を見に参った者じゃ」
「えっ、尾張のお殿さまがかい」
 童は嬉しげに顔を綻ばし、黒目をくりくり動かした。素直な領民の一人に違いない。
「おおそうじゃ。美味い餅菓子があるのだわ、食うか?」
 無邪気な童は金坊と名乗った。
 気の良さそうな百姓が三人通りかかる。
「おい! 金坊。また悪さしただか」
 のんびりと歯を剥きだして背の高い若造が軽口を寄こした。
「てぇへんだ~。金坊、お侍さまに捕まっちまったな~」
 太っちょの一人は、親しみを込めて揶揄った。
「あほ、ちがわい。......お侍さまが先達ての湯起請は災難だったって、おいら達に同情してくれとったんだわ」
金坊は背高の百姓の前に進み出て、小声で何か言っていた
「ほんときゃ~?」
「ほんとだよ。ねえ」
 金坊は牛一を振り返り、笑みを投げて、餅菓子を鷲掴みに奪い取ると人混みへ消えていった。
 牛一は敏捷い金坊を目で追いかけた。が、大切な取っ掛かりを与えてくれたことに気づいた。
「お、そうじゃ。なにゆえそのような埒もない事態になったのじゃ」
 なにゆえも、埒もないも、口にした牛一はまったくわからなかった。ただ百姓が話し出す切っ掛けにさえなればと、口にした言葉だ。
 三人の百姓は互いに見合わせて、頷きを合わせると三十過ぎの年嵩の百姓が口を開いた。薄汚れているが揉み烏帽子をつけているから律儀な性格が窺い知れる。
「急な話だったな。前の日に、裁きをすると触れが出て、次の日にゃ代官役人と禰宜ねぎ巫女みこ、それに雑役ぞうやくが湯起請の準備に掛かっただな」
「その手際の良さがどうにも怪しいだで」
 いつのまにか顔見知りが寄ってきた。銘々が口を開きざわめきが漏れる。
「不正ありと申すか」
 牛一は、声を張り上げた。途端にざわめきが止まる。牛一は威厳を残しつつ、優しい口調に改めた。
それがしに聞かせて貰えぬかな。そもそも湯起請とは、何をどのように進められたのじゃ」
 牛一の目を見て揉み烏帽子の百姓が話を続けた。
「雑役が差し渡し二尺の鉄釜を、当事者と集まった村人に見せ、柄杓で水を汲み入れただ」
「ほうだわ。それから用意した竈に火を付けると、赤い焔が立ち上がる。雑役の一人が付きっ切りで火の番をしていたな」
 太っちょが堰を切って話を付け足した。
 牛一は頷きながら目を瞑り、三日前の情景の欠片を思い浮かべた。
「湯が湧く間、巫女が平たく楕円に磨かれた拳大の黒御影と白御影の石を捧げて前に出たんだよな、たしか」
「ほうだがや、ほうだがや」 
 太っちょの説明に、うしろから合いの手が上がった。
「黒石が先手、白石が後手となりまする。厳かな中に巫女の甲高い声が響いたな」
「――先に、湯起請に訴えられた大屋村の代表人が色を選びませ」
 後ろから女の声がした。百姓家のおかみさんが抑えきれずに声音を真似た。
「うん。で、何色を選んだのじゃ」
 牛一は透かさず促した。
「村役人と当事者が顔を合わせて相談してよ。白御影を選んだのやったな」
 太っちょが背高に同意を求めた。
「そりゃ、先に手を入れるのは怖かろう。おらも白を選ぶだよ」
 いつの間にか牛一は人だかりに囲まれていた。
「次に誓約書を書かされたのやな......」
 また、誰とも知れぬ声が飛んだ。
「そうか、執り行いを『湯起請を書く』と言うのはここから来ていると言うな......」
牛一は腕組みをして頷いた。
「いったい何を書いたのだ」
 目の前に佇む百姓らも首を捻るばかりだった。
「ちょうど、わっしが持っとりまする」
 黒の頭巾に木蘭色もくらんじきの道服姿の老人が前に出た。裕福な身なりは富裕な商家か武家の御隠居に見える。
まじない代わりに文面を書き写したものを紙入れに、へえ......」 
 いずれにしろ、わざわざ禰宜に頼める立場なのだ。
小さく畳んだ書付を牛一は丁寧に開いた。
「違反せしめば、梵天ぼんてん帝釈たいしゃく・四大天王、総じて日本国中六十余州の大小神祇じんぎ、別して熱田大明神、大社八幡菩薩・摩利支尊天・天満大自在天神の部類眷属の神罰、冥罰みょうばつをおのおの罷り蒙るべきなり」
 御成敗式目、末尾の起請文と同じである。歴史の重みを感じさせるには十分だ。
「一人の巫女は赤く熾った炭を火箸で掴み、もう一人が掲げた護符に近づけて灰にして、それを代表者に呑ませたのには、仰天しました」
 隠居は眩しそうな目をして付け加えた。
「今まで長く生きてきて、湯起請を見るとは思いもよりませなんだ」
 隠居の素直な感想なのだろう。   
「その間じゅう、焔に包まれた釜から気泡が割れる音が、ボコボコと音を立ててたで」
 背高の若造は、掌を使って気泡を表現しながら、ぼこぼこと口ずさんだ。
――ボコボコ。湯の煮立つ音が牛一の脳裏に響く。
 唾を飲み、息を潜める村人らの前にその湯釜が煮え立っている。
「その音に、おら耳を澄ませただ。邪悪な生き物が生まれてくるような音に聞こえただわ」
 老婆が泣きそうに顔を歪めて声を絞り出した。
 ――ボコボコ。
 ちょうどその時禰宜の声が轟いたそうだ。
「もし、手に元々の傷があったならば、検査役の人に見せなさい!」
 だが、二村の当事者はどちらも首を振った。
 湯釜に手を入れ火傷などの変化を見せれば『失』と呼びすなわち敗訴となった。それゆえ『元からあった傷だ』と言い訳させぬ確認だが、村人にはそれどころではない。
「当たりめえだっぺよ、目の前に熱湯だべ、小さな傷などどうでも良いわさ」
青物かごを抱えた百姓の若女房らが話しだす。
「んだよ。胸中、穏やかでなかろうよ。鉄瓶の湯をひと零しで真っ赤に火傷するところ、溢れんばかりの熱湯に手入れるだから」
「しかし、ぐつぐつと煮立った音を上げておったのじゃろう? 鉄釜は」
 牛一は念を押すように廻りを見た。
「へえ、もちろんでさ。禰宜が一色村の代表の名を呼ぶと、男は震えていた。おらたちは皆、生唾を呑んだだに」
 揉み烏帽子の百姓は話を引き取り、その詳細を牛一に語った。
 一色村の訴訟当事者は作左衛門だ。震えた足取りで鉄釜の前に立った。
 手を伸ばすと小刻みに震える腕が、なぜかぴたりと止まった。
「腹から捻り出す悲鳴はもしかすると奴の気合だったのかもしれねえなあ」
 改めて思い出した揉み烏帽子は首を傾げた。
 作左衛門は黒御影の石を掴むと、奥に作られた祭壇に無事奉納した。
「まったく不思議な光景でした。皆が呆気に取られました。茫然と見守る大屋村の太郎兵衛は何を思ったか......」
 隠居の言葉が不思議な現実を引き寄せる。
 大屋村の当事者の太郎兵衛は禰宜に促された。
 まるで水桶に手を入れるような気易さで白御影の石に手を伸ばした。なぜなら、目の前で作左衛門が無事やり遂げたのだから。
「水桶に手を入れる。......そんな素振りでした。皆もそう見えなんだか」
「どうなったのじゃ? まさか水だった訳ではあるまい」
 牛一は堪らず聞き返した。
――ぎゃわあああ~~
 太郎兵衛の絶叫が響き渡った。
「太郎兵衛の真っ赤に焼け爛れた手が、宙をまさぐった」
 怒気を含んだ男の声がした。
「何も殺さなくたっていいじゃにぇーか」
 若女房の声が重なった。
 太郎兵衛は「詐術だ!」と絶叫して拝殿前にいる恒長に縋りついた。
 牛一は自分のこめかみが痙攣するのを感じた。
 縋る太郎兵衛の悲嘆に歪む目をちらりと見た。あの時、牛一の遠目が捉えたのかもしれない。はっきりとは思い出せないが、そんな気がした。
 後ずさる太郎兵衛を一刀の下に切り捨てる男が一町先に立ち、舌先で口唇をぺろりと舐めた。
血飛沫があがった。
 あれは芝居でも何でもなかったのだ。牛一の遠目は結末だけをしっかり見ていた。
 今になって、ありもしない血の匂いが鼻孔の奥に纏わりついている。
「可哀相に」
「あれが、神慮か......とろくせぇ」
 取り囲む声が牛一の耳を刺す。
「だが、別段変わった様子はなかったのじゃな」
 今聞いた話を思い返せば不審な点はなかった。しかし牛一が見回す顔のすべてに不満げな陰が浮かんでいる。
「いや、絶対に、詐術に違いねえ......」
 遠くから弱々しい声が飛ぶばかり。
「糞が! 作左衛門が黒石を奉納に成功すると、禰宜がゆっくりと、嫌味なくらい長々と祝詞のりとを上げたのが腹立たしいわい」
 太っちょが忌々しげに声を荒げた。
牛一は憐れむように村人を見回した。
「お侍さま、狐に摘まれたような話でございます。明らかなまやかしは見出せませんが、皆が納得できないのはお察し下されませ」
 隠居もやり散らかした織物を無理やり風呂敷に詰め込むように話をまとめた。
 話の気鬱さに比して、雲一つない青い空が無性に腹立たしく思えた。


   風花

 その日の夕刻に、牛一は右筆御用部屋に報告に上がった。
良政は気持ち良さそうに、火鉢に手を翳している。
 火鉢の炭が赤々と熾る。
「それは悔しかろうな、大屋村の百姓は」
 赤い炭を見つめたまま、良政は牛一の話に応えた。
「しかし取り立てて怪しい様子はありませんでした。これでは勝ちを得た一色村へ行くまでもないと、ひとまず戻った次第」
「ほう、怪しい様子はない、と。作左衛門は無事で、太郎兵衛は大火傷を負ったのだぞ。いや終いには命まで奪われた」
「しかし」
「ほう、神がおるのか? 信じておるのかの、又助は」
「あ、いえ。そういう訳ではござらぬ」
 牛一は即座に応えた。そんなはずはない。が、話におかしな点はない。考えたまま明確な答えは出なかった。
「お屋形さまに説明がつくなら、わしゃ構わんが」
 意地悪げな細い目の奥の、黒目が牛一を追いかける。
 信長は迷わない。信長の持つ理に合わなければ即座に排除する。恐ろしくをもあり、魅力にも見えた。
対して良政は怪しげな謎に直面して嬉しそうに頬を綻ばした。乾いた白い皮膚に炭火の焔が反射して赤く火照っている。
「まして順番は敗訴した太郎兵衛が決めたというのじゃろ」
 良政は、顔を牛一に向けると手が動き火箸に触れた。
「あちっち~~」
 刹那、良政の顔は鬼の形相に変わった。

 
 お小夜は変わる様子もなく清洲の城の奥向きの奉公に励んでいた。
 ただ、観音堂には出向かなくなり幾日が過ぎた。
 牛一は弓場殿で信長の弓の稽古をつけている。
 牛一の矢は、三十間の距離から的を射抜く。
 信長は牛一を、矢の行方をじっと目で追った。
「見事じゃな。山なりの矢が、何ゆえ当たる」
「風を読みまする。目と頬で感じる風に矢を乗せるだけにございます」
「であるか......」
 疑るような薄目で睨む信長だ。まだ何かが合点がゆかないのか。牛一は次の言葉に知らずに身構えた。
信長の目の奥が光ったように見えた。
「その弓懸ゆがけ、なかなかの拵えじゃな。やはり道具が良いのじゃな」
 信長は牛一の傍らに置かれた、弓を引くための手袋状の物を一瞥した。
「お屋形さま......確かに、その弓懸は良いものですが......」
 弓箭の道は稽古あるのみ。道具立てのせいにされては面白くない。牛一はうっかり抗議の言葉が口に出る。
信長は鼻で笑って相手にしない。
「余にもぜいを凝らして作って参れ」
「畏まってござる」
 今日はもう、弓の稽古に飽きられたようだ。牛一は言葉少なに低頭した。
「そう言えばな又助、大御乳おおちちさまから、奥向きの人手を分けて欲しいと言ってきた」
 信長は、気持ち良さそうに汗を拭いている。
「お珍しいご要望でございますな。人手など、一色村にも大勢おりましょうに」
「そのようなこと、普段なら『良きに計らえ』じゃ」
「如何様さようで。お屋形さまに、そのようなことを。ご中﨟ちゅうろうどのに見繕いさせましょう」
「しかしな、なんでも篠笛の上手い女子じゃというから即座に断った」
「うっ......まさに、ご英断でございます。篠笛上手など、一色村にもおりましょうものを」
 牛一は瞼が裏返りそうになった。 
「大御乳さまの頼みとて、それは聞けぬ」
 信長は高笑いをあげて、濡れ縁に上がった。
「それにしても寒うなったの、熱い煎じものを持て」
 信長は小姓に命じた。
「久しぶりに、清蔵に槍稽古の相手をさせるか......いや奴の遠耳で遊ぶのも良いな」
 と、楽しそうな笑みを零す。
「襖越しの余の呟きを当てさせるか」
 信長は清蔵を買っている。思い出したような信長の呟きを聞いて、牛一は、苦笑いで叩頭した。


 清洲に風花が舞った。
 青空に薄くたなびく雲が少し。はて、これが初雪かと牛一は首を捻った。小さな雪片が風に乗り宙を泳ぐさまは季節外れの花弁はなびらに見えた。遠く恵那山の降雪が木枯らしに乗って運ばれたのか。
 牛一は肩を振るわせ御用部屋へ向かった。そこには火鉢がある。
 前から、大きなくしゃみが聞こえた。村井貞勝だった。上背はあるが、なぜか上体を丸め、襟首を立てて前のめりに歩いてくる。猫背なのだ。そのうえ目をしょぼつかせて、口髭だけは立派だが眠り猫のように頼りなげに見えた。
 案の定、良政は火鉢と一体化した置き物然と座っていた。
牛一の来訪に顔じゅうの皺を動かした。
「また大屋村と一色村に紛議が起こったらしいぞ。しかも、今度は火起請にて解決したと言う話じゃ」
 良政は口角をに~っと引き上げながら呟いた。
「ふー、熱湯どころの過激さではない。鉄火の棒を握るのだぞよ」
 と、良政は赤く熾る炭を火箸で突っついている。
 巷で耳にする火起請とは『鉄火裁判』とも言われ、焔の中の赤く熾った鉄の棒を握ることで神判を得るという。
 牛一にすれば、なおさら信じることなどできなかった。
「長生きはするものじゃな。面白い話は尽きぬものよ......」
 良政の不気味な笑みを見て牛一は唾を飲み込んだ。
 信長が耳にすれば、またとばっちりが牛一に来ると思うと気が気ではない。
「さて、又助。織田家中で生き残りたくば覚悟を決めよ。先を読み行動するのじゃ。お主なら難しい話ではない」
 牛一は、良政の嗾ける目を、恨めしげに見つめていた。
(乗りかかった船と同じ......。途中でやめることはできぬ道理か)
 さっそく、牛一は信長に呼ばれた。
「最近、勝三郎めの領地が騒がしい......」
 信長は、不機嫌そうに牛一を睨んでいる。信長は事件の内容はすっかり掴んでいた。
 叩頭したまま牛一は暫し考えた。ならば覚悟を決め率先して怪しげな謎にぶつかるが吉か。――吉。思わず畳に吉の字をなぞった。話の先を摘まんで信長の考えを引き出そう。
「また、勝三郎さまが勝たれたようで。一色ノ方さまのお陰やら、本当に神の御加護でありましょうか?」
 明らかに不信を募らせる信長に、神の力と勝三郎の名を匂わせた。
 牛一はそっと顔を上げ信長を窺った。
「なにを~。まさか......ありえぬ。詳しく調べよ。この上総介の名において」
 言下に否定すると薄く笑った。
 気短な命令の一言を受けると、牛一は脱兎のごとく書院を下がった。なまじ内容を聞き返さぬがよい。すぐに腰を上げるが良策と、良政に教えられている。
 急ぎ駆けつけ息を切らす牛一。
「ついに密命が下りましたぞ」
「うむ。そろそろ来る頃だと、思っておったところじゃ」
 良政は満足げに目尻を下げた。
 大仰な素振りで、ぴんと背筋を伸ばし、人差し指をねぶって頭上に立てる。
「おお見える。――北西の空に不吉の渦が立ち込めておるようじゃ」
「なるほど、北西でござるか」
 芝居掛かった素振りに牛一は笑いを堪えたが、大袈裟に頷き、北西の方角に顔を向ける。
「北西と言えば、海東郡のことで......」
 牛一は応えた。
「年貢の運び込みが中断して、矢弾やだまを運んでいるらしいぞ」
 さらりと良政が口にする。
「え、何の話でござる?」
 初めて耳にする話に牛一は目を剥いた。
「二度までも顔を潰された造酒丞みきのじょうどのも、さすがにこのまま黙っておる訳にはいくまい」
「何とそのような話しまでお耳に......」
 驚く牛一は、織田家中の行く末を思案した。
 戦国の世に意気地のなさを見せた武者は負けだ。名誉と命は、同等である。家中の者に示しがつかない。ならば戦も辞さずという事態になる。織田と名のつく造酒丞だが、同族ではないからなおさらだ。
「戦ったとて、造酒丞どのには勝ち目はない。動員兵力は、せいぜい百有余名の小領主じゃ」
「しかし、今家中でいさかい起こしている場合ではありませぬぞ」
 信勝を害し、二分した家中をようやく一つにしたところだ。
「では、内蔵助(佐々成政)どの、権六(柴田勝家)どのに諫めて貰うか?」
 牛一は静かに首を横に振った。
 池田家臣団の増長ぶりを横目で見ても、知らぬふりをしてきた。それもこれもお屋形さまとの繋がりのある勝三郎さまに一目を置いていたからだ。
「無理じゃな」
「う~~む。ではどうすれば良いのです」
「お屋形さまは知っておる。家中のたがが緩むのを気にしておられるのじゃ。お主はお屋形さまの耳目となれ、手足となれ。さすればお屋形さまがなんとかするわ」
 信長は人知れず見ている。家臣団の関係を俯瞰できる鷹の目を持てるのが信長の怖いところだ。
 
 
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