信長座☆座付作家 太田又助  《火起請の巻》

亜月文具

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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その一

源氏物語

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   序文

 時を経て天正三年(一五七五)の『信長公記』にも蹴鞠の会の記述がなぜか詳細にある。
 牛一の好みかもしれない。人一倍の記憶を活かし、各々の装束は元より、鞠足の立ち位置の図説まで添えて記述してある。
 だが、まてよ? 何ゆえ中院通勝なかのいんみちかつだけ二度書かれているのか……


   源氏物語
   
「又助どの、高楼の足場は拙者に任せろ。片鎌の槍に懸け一兵たりとも寄せ付けぬ。ここを先途に矢を射まくれ」
 伊東清蔵の頼もしい声を背に受けて、太田牛一ぎゅういちはゆっくり頷いた。
 永禄八年(一五六五)、秋も深まる九月も半ばのことだ。
 美濃攻めの足掛りとして味方につけた加治田城を守るため、織田信長が陣頭に立ち打って出た。信長は尾張を統一したのち、木曽川を北に越え、東美濃の一端にある同洞どうほら城に執りかかった。
 天下への第一歩を踏み出したのだ。負けられぬ戦だった。
 風が運ぶ湿った土の匂いが鼻腔の奥を刺激し、色づく木々が不気味に揺れると戦場の血煙を連想させた。
 東美濃で織田の強さを見せつけねば、日和見を決める国衆もそっぽを向いたままだ。牛一は山から吹き込むつんとした冷気を吸い込み、「ふん」と鼻を鳴らして親指で弾いた。
 織田家近習に身を置く者として、常にある死地に慣れると、思索がすっと停止した。
 戦乱の露と消えるも時の定め。三十九年の春秋を過ごした己の想いとは別の意志である。すると、牛一の眼下に蠢く小さき獲物は、生を感じぬただの的になった。
「清蔵どん、死なば諸共でござる。後は任せた」
「委細承知!」
 清蔵は片鎌の槍を振るい、二ノ丸高楼の屋根瓦への道を確保した。
 牛一はうつぼから矢を三本抜くと、重籐しげとうの弓弦を引き絞り矢継ぎ早に的を射る。二十間から半町先の敵兵を正確に倒す。牛一はもはや後ろを振り向かない。弓に集中すると一切の喧騒は聞こえなかった。
 防護柵を打ち破った味方が、石段を登ると乱戦になった。味方同士の合間に見える敵兵を見つけ出し、狂いもなく矢を通した。
「うへ~、上手えものだわ。また一人、あ、また一人倒れた。ここから見ていると、とても命が消えていく修羅場には見えぬ」
 後ろから清蔵の暢気な声が響いた。敵兵が後退し一段落ついた様子だ。牛一はようやく振り向いた。
「うわっ、血だ」
 牛一は叫び声を上げた。
 顔を真っ赤に染めた清蔵が立ち尽くす。白い目と白い歯が赤い染付の中で不気味に笑った。
「織田家近習弓の者として鳴らす又助どの……、ふふ、血が怖いとは恐れ入る」
「怖くなどはない。ないが、血の匂いがちょっとな……」
 鼻息を吹くと同時に、牛一は再び鼻先を指で弾いた。気を取り直すとすぐに胸元からまっさらなさらし木綿を出し清蔵の前に掲げた。
「いいから早く血を拭け」
 清蔵は、憎らしげに微笑んで晒を掴み取った。
 可愛げがないと、八つ歳下の清蔵を睨んだが、間違いなく牛一の後顧の憂いを断った盟友に違いなかった。
「おお、さっそく殿の御出座しなるぞ」
 居住まいを正し、目礼する清蔵の視線を牛一は辿った。五間ほど先の軒下に甲冑姿の信長がいた。
 右筆頭の明院良政みょういんりょうせいを伴う攻城視察だ。その様子からすでにその場にいて、盛んに下知を飛ばしていたようだが、牛一はまったく気づかなかった。
「お~殿、南門の敵が引き始めましたぞ」
 良政のしゃがれた声が聞こえた。若い頃からいくさ目付めつけとして戦場を駆け回り、すでに還暦を二つ三つ過ぎているはず。有能な人材を決して手放さず使い倒す織田家は人使いが荒い。牛一は腹の中で独りごちた。
「見事である。あの強弓つよゆみのお陰よ!」
 信長の軍扇が牛一を指した。その斬り込みの手振りを避けるように牛一は顔を逸らした。
「ややー、なんと又助がか?」
 頓狂な声に、牛一は思わず目を向けた。良政は、手を眉庇まびさしに翳してこちらを覗きこんでいる。良政から牛一は見え難かろうが、牛一には驚きに歪む良政の皺の一つ一つがよく見えた。
「ふふ、諦めろや」
「うーむ。じゃが、又助の学識は捨てがたし」
 二人の言い合う声が聞こえたが、牛一は敢えて聞こえぬ振りをした。
 にやついた顔を隠しながら、清蔵が牛一に近づいてきた。
「またやっておりますよ、右筆頭どのは。又助どのの引き抜きを……。しかし、そう言われると素直に渡す殿じゃない」
 清蔵は槍を待たすと鬼神の働きだが、手を休めるとたちまち戯言をほざく。牛一は関わるまいと無視を決め込む。
「しかし右筆頭どのは、あの皺々顔に粉を吹かせて、ますます干柿に似てきてござるとは思いませぬか?」
「馬鹿者、声がでかい」
 清蔵は小さい声で話していたかもしれないが、牛一は気が気ではない。変なとばっちりを恐れて用心の声を上げた。
「右筆の後継者は他を当たれ。又助は使い出がある」
良政を睨んで歯を零す信長の声が聞こえる。牛一はちらと横目に盗み見た。
「奴は、儂の手許で存分に使う」
信長と良政は、牛一がいる屋根瓦を仰ぎ見ながら近づいてきた。
良政は苦虫を潰した顔を牛一に向け、聞えよがしに声を張り上げた。
「……殿、近々源氏物語の上物が都より届きますれば、せめて又助の手を借りても宜しゅうございますかな?」
「好きに致せ」
 信長は機嫌良さそうに良政に応えた。ときどき二人の遣り取りに「ひやっ」とさせられるが、さすがは年の功の良政だ、当意即妙の間合いを心得ている。
 牛一は、まだしばらく死地を駆け巡らねばならぬ向後を想像した。
 
  ○
 
 清洲の屋敷の書院には、うずたかく積まれた『源氏物語』五十四じょうの豪華本が威を放ち鎮座している。
 昨日、牛一と良政は、京より送られてきた源氏物語の確認、整理をし、改めて信長の前に披露目をする手筈を整えた。
「儂は行かぬが、くれぐれも織田家の当主に相応しい学識を、殿には身につけて貰わねばならぬのじゃ……」などと言いたいことを言って、良政は牛一に押し付けた。
「お主の学識を見せてやれ……弓なぞ持たせるのは宝の持ち腐れじゃと」
 買い被りだ。牛一は素直に感謝したが、同じ言葉を口にできるはずなどなかった。
「又助……講授じゃと? この儂に読み聞かせをするというのか、こんなにあるぞ」
信長は源氏物語の綴じ帳を見渡し、何冊か手に取った。
 古典講授を、と言ってみたものの、素直に応じる歳ではない。その昔、織田家に仕官した当初ならいざ知らず。信長は嫌そうに目を細め、瞼を歪めた。
 やむなく牛一は話柄を変えた。
「それにしても殿、よくぞ、完本にてこれだけお集めなされました」
「うむ。流行りじゃからな。武将の間で……」
 信長は笑顔を見せたが、自分で言ってすぐに首を捻った。
「だが、誰も読んでなどおらん」
 信長は、手にした綴じ帳をぽーんと床に放った。
「しかし、みな形ばかりよのぅ。必死なのだ。上杉、最上、北条、毛利……都から遠い田舎大名は。……文化の庇護者たるものが、天下の支配者と考えてか、はたまた、我が身を光源氏の再来と夢想し、うじを源氏に結びつけたいがためか……」
 信長の炯眼けいがんは鋭い。天下に割拠する戦国大名の息づかいを即座に言い当てた。牛一は改めて天下に立つ男の顔を仰ぎ見た。
「だが、殿は違いまする」
「なにを~」眦を上げる信長の目は人を射竦める。
「風雅な王朝文学を学び、行く末のための教養を、お身につけなされませ」
「えっ、儂がか……」
急に眉尻を下げ嫌々、綴じ帳を手に取った。
「これか、それともこれか」
 信長が手に取る表紙には『夕顔』とある。
「あ、それは四帖の『夕顔』でございますか。夕顔の出会いと突然の別れの話でございますな」
 牛一の説明を上の空に聞き、信長はやる気なさそうに、パラパラと捲った。
「……心あてに それかとぞ見る 白雲の 光そへたる 夕顔の花」
 急に目を留めると、信長は歌を詠じた。
「それは、夕顔が光源氏に送った歌。目を瞑ると、苦しい夕顔の恋心が忍ばれまするな……」と口にした牛一は顔を曇らせた。
「どうした。又助」
「畏れながら、白雲は、白露の読み違いかと、いえ已むを得ませぬ、虫食いの穴が三つほどありましたゆえ」
 信長は不思議そうに覗き込むと、手にした綴じ帳に虫食いが三つあった。
「本当じゃ、虫喰いがある」信長は顔を上げた。
「なぜ知っておる?」
「見たからでございます」澄まし顔で応えた。
「いつじゃ? これは昨日都から届いたばかりではないか」
 信長の目が薄く閉じかかる。人を凍りつかせる目だ。
「いや、ですから昨晩、整理の時に、パラパラと」
 少し慌てた牛一の口が早くなる。
「パラパラと……? 覚えたのか?」
「はい」と牛一は頷く。
「全部? これ全部か!」
 片眉が上がり信長の声が大きくなった。
「いえ滅相ものうございます。全部などとは、さすがに時が足りのうございます」
 勢いに圧されて、牛一は額ずいた。
「だよな」信長の声が落ち着きをみせた。
「まだ五十帖ほどでございます」
「なに……」
 牛一の応えに信長は目を剥いた。牛一を睨みつけたままに、信長の手が綴じ帳の上を泳ぐようにまさぐると、源氏物語の山が崩れ落ちた。
「おおこれは、三十四帖、若菜上わかなじょうにございます」
 崩れた山の一番上に覗く綴じ帳を、牛一は摘まみ上げる。
「都には、蹴鞠けまりという雅びな遊びがあるそうでございます。ご存じでございましょうか?」
「知っておる」
 無表情に、だが鼻をぴくっと広げて信長は応えた。牛一は知らぬ間に粗相をしたかと、背筋を凍らせた。
「いつか、見とうございます」正直な気持ちを呟くと牛一は顔を伏せた。
「そこに、……書いてあるのだな」
 小さな、穏やかな声を頭上に受けて、牛一は再び顔を上げた。
 信長は、何かを思い出したかのように笑みを零している。
 牛一は固まったまま、信長の顔を仰ぎ見た。
「同洞城の高楼で、阿修羅のような武者振りと同じ者なのか? のう、又助よ」
「もちろんでございます。某はいささか遠目と、見覚えが利きまする」
「だから弓か」
 信長はひとり納得するように頷くと、弓を引く真似をした。
「半町の隔たりをものともせず。敵味方を即座に見分ける目を持つ者。そして雅びな王朝文学を写し取るように記憶する者。……又助は面白いのう。気に入ったぞ。何か褒美を取らせよう」
 寸刻前の同じ人物かと見紛うほどに、人懐こい目をして牛一を見た。
「では殿……」
「何じゃ」
「殿の天下統一ののち、世に戦がなくなりましたら是非、京の都で幾多の書物を読み耽りとうございます」
「わかった、わかった。その時は儂の足跡を後世に残せ」
「有り難き幸せ」
「うむ」
「この太田又助、日ノ本一の武将、織田上総介さまの足跡を余すところなく後世に伝えることをわが誉と致しまする」
 
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