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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その三

蹴鞠ノ会次第

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   蹴鞠ノ会次第
   
 山科邸は百坪足らずの質素な佇まいの公家屋敷だった。
 門扉こそ威厳はあるが、木々はくすんで古惚け、足元の石畳はひび割れている。当世、公家の不如意はやむを得なかった。
「修繕の費えが溜まれば、まず門扉、塀を直します。雨漏りなぞは後回しでございますよ。なぜなら、雨漏りなど外からは見えませぬからな」
 豪快に笑う言継を思い出す。  
 牛一は、客間に用意された文机の半紙に向かって蹴鞠ノ会次第けまりえのしだいを書きだした。
 
 一、鞠足まりあし各座の図(信長公記に記載)
 四方に二人ずつの名が記された図が多数ある。
 
 二、出場者名簿(同上)
 出場者――
 東宮      立烏帽子たてえぼし、直衣、色は二藍ふたあい指貫袴さしぬきばかま
         後に着替えて小直衣、色は紅。
         以下は皆烏帽子。
 三条西実枝さねき  直衣、色は白、指貫袴。
 勧修寺かじゅうじ晴右はれすけ  狩衣、色は檜皮、指貫袴。
 飛鳥井雅教   水干、色は紫、葛袴くずばかま
 庭田重保    狩衣、色は萌黄、葛袴。
 甘露寺経元   水干、色は玉虫、葛袴。
 高倉永相    水干、色は紫、葛袴。
 山科言経    水干、色は紫、葛袴。
 庭田重通    水干、色は紫、葛袴。
 勧修寺晴豊はれとよ   水干、色は蜥蜴とかげ、葛袴。
 三条西公明   水干、色は萌黄、葛袴。
 中院通勝なかのいんみちかつ   水干、色は紫、染色、葛袴。
 飛鳥井雅敦   水干、色は玉虫、葛袴。
 烏丸光宣    水干、紫色の紋紗もんしゃ、葛袴。
 竹内長治    水干、萌黄色、葛袴。
 水無瀬親具ちかとも   水干、萌黄色の紋紗、葛袴。
 三条公宣    水干、色は紺、地模様あり。葛袴。
 日野輝資    水干、色は紫、葛袴。
 広橋兼勝    水干、紺地の紋紗、葛袴。
 高倉永孝    水干、金紗、葛袴。
 万里小路までのこうじ充房あつふさ 水干、黄色地に緑青ろくしょうの模様、葛袴。
 中院通勝    冠、束帯。
 すすき以継     素襖すおう
 五辻いつつじ元仲    水干、柳色。
 
 氏名、装束の種類、色、袴の順に参加鞠足二十三名分が書かれている。(注:十二番目に中院通勝。最後から三人手前にも中院通勝の名がある)
 牛一はその都度、目を閉じてその日にあった光景を順番に思い起こして書きつけていた。
 庭田重道、三条西公明、飛鳥井雅敦が蹴鞠をする様子が脳裏に浮かぶ。見かけによらず上手に鞠を蹴る言経も出てきた。
 牛一は書き終えた書付かきつけ(各座の図と出場者名簿)眺めて小首を傾げた。
「おや、なにかがおかしい……」
 違和感と一緒に呟きが出た。牛一は再び書付を読み返した。
「中院通勝……二度書いてしまった……」
 名簿の中の中院通勝を見て違和感の元を知った。
 目を瞑り思い返す牛一の記憶に、二つの違った衣装で蹴鞠をする美しい中院通勝の姿が浮かんだ。まだ十九歳の若者だ。 
「中院夜叉松麿、いみなは通勝……」言継の声がその光景に被った。次の瞬間、通勝は冠に束帯で庭を歩いていた。
「さっそく、ご精が出ますね。今、茶を用意させましたから」
 廊下から顔を見せた言経の声で、牛一は我に返った。記憶の掘り返しに熱中したせいか、言経が襖を開ける音さえ気がつかなかった。
 言経は観察するような目で牛一を見ていた。毛虫のような濃い眉が団栗眼どんぐりまなこの上に載って波打っている。牛一はぞくっとした。
「……いかがなされました?」
「いえ、何も」
 言経が手ずから折敷に煎じ茶を乗せて持ってきた。
「まあ、お茶でも」
 と、言経は楽しげな目をして茶を勧めた。たぶん牛一の独りごとを聞いていたのかもしれない。気さくで優しげな男だ。初めて顔を合わせたが、親子ともども公家特有の高圧的なところはない。さりとて言継が持つ威厳はまだない。下膨れた顔が人の良さを際立たせていた。二十代と見たが、言継の話では今年三十三歳になる独り者らしい。人は、殊に公家は見かけによらぬものだと改めて思う。
「かたじけのうございます」
牛一は背筋を伸ばすと一息ついた。
言経は、びっしり埋まった書付を手に取り嘆息した。
「全てを記憶されておるのですか」
「はい……しかし、記憶を辿ると中院さまが二度出てきてしまいました」
「中院……というと夜叉松麿ですね。夜叉松麿どのは一人なのだから、ただの思い違いで良いではないですか?」
 言経は太い眉尻を下げ無防備な笑みを見せた。
「では、何ゆえ、装束が違うのでしょう」
「というと?」言経は眉を寄せた。
「某の記憶の中では最初は水干、次にかんむり束帯そくたい……」
「途中で、夜叉松麿どのは、わざわざ着替えたということでしょうか」
「うーん」牛一は唸った。「……とするならば、順序は逆でございましょうか」
「はて? 順序ですか」
「装束の順番でございます」
「装束の……」
 と、長松は自分の装束を見回している。
「冠束帯は当世蹴鞠には窮屈過ぎて、皆が敬遠しております。開催の儀に東宮さまに合わせて礼装で臨み、着替えられた方はおいでになります。実際、東宮さまは着替えられたではありませぬか」
「東宮さまは確かに着替えられたが……」
 言経は困っていた。牛一は己の記憶に自信があったが、それだけでなく言継に聞いた話を元に弁明に力を入れた。
「……なぜなら、下襲したがさねきょで蹴鞠なんて難儀ですよね」
 礼装の、後ろに引き摺る長い裾を想像しながら牛一は言葉を続けたが、瞬きを止めた言経の顔を見て、言い過ぎに気づいた。
 玄関辺りにざわめきがしたと思うと、廊下に足音が近づいてくる。
 牛一は居住まいを正した。すっと襖が開くと目があった。
 御所から戻った言継だ。一緒に帰る予定が、急きょ所用ができたと言い、牛一は言経と先に出たのだ。言継はそこにいるはずの牛一を確認すると、ほっと頬の力を緩めたように見えた。
「いやはや、困りましたぞ」
 挨拶代わりの一声は奇異なものだった。言葉と裏腹に言継は笑顔を見せた。
「父上、お帰りなさいませ」
屈託なげに言経は挨拶を返した。
「お帰りなさいませ……いかがなされましたか?」
 牛一は、問い掛けを添えた。
「実はな……」
 思わせぶりの言継の顔に合わせて、牛一はひとりでに身を乗り出す姿勢となった。
 横の言経は澄まし顔のままだが、身体が心持傾き、耳を少し突き出してる風に見える。
「このめでたき日に、宮中内侍所ないしどころの女官が血塗れで倒れていたのよ」
 驚いて腰を引く言経の反応は早かった。
「なんと……」
牛一は眉間に力が入った。遅くなった理由がこれか……。
「何者かに害されたのでしょうか?」
 言経の裏がえる声に言継は黙って睨んで、すぐに牛一に顔を戻した。
「はっはっは。そうではござらぬ。最初は血の海ゆえに、悪党、悪鬼の類による生害事件かと肝を潰したのじゃが……懐妊でござった」
「ご懐妊とな?」
 ますます事態の入り口からわかり難くなった。言継の顔のせいもある。となると、返す言葉や表情にも困るものだ。
 そんな様子を楽しむように言継は続けた。
「急ぎ調べると、血は女の下腹部から出ていたものとわかった」
「ほう、刺し傷、斬り傷の類ではなかったのですな。大量の血と共に嬰児みどりごが流れた訳ですか」
牛一は事実の確認に徹し、相槌を打つ。
「他の女官たちに聞き取ると、『最近、身体の調子がおかしく寝込みがちで、言われてみればあれは悪阻つわりだったかもしれない』などの証言が取れたのじゃ」
「な~んだ。それでは事件ではないですね」
 ほっとしたのか、言経は間延びした声で言葉を挟んだ。大きく動く眉と口がおかしみを添えた。
「馬鹿者! 長松、何を暢気な。血の海に、女官は瀕死の状態じゃ。しかも町屋の話ではない。これは禁裏ぞ。もそっと大局を考えよ。……お主も好い歳なのだから」
「……はい」
 言経は父の小言に小さな返事をし、首を掻きながら下を向いた。
「まあまあ、ごもっともなお話。で、御上おかみの御意向は?」
 牛一は親子の間を取りなすような曖昧な言葉を挟んだ。
「帝はたいそうお嘆きです。『――情けない。宮中の風紀が乱れておると世間様から笑われようぞ』と仰せで、結局その処置をこの言継に下命された」
 牛一は言経と顔を見合わせた。
「なるほど、殿上人の晴れの舞台に起った凶事ということで……いやはや、なんとも……」
言経は頬を膨らました。癖なのか、いちいちおかしみを誘う。
 牛一は特に言葉もなく、興味津津と二人の公家を見るばかり。
「いやはや、困りましたぞ」
 どう見ても、言継は口ほど困っていない。
「ところで又助どの、いや和泉守どのは、弾正忠さまの裏調べなどで、さぞご活躍とか……なるほど、記憶力も人並み以上で頭脳明晰とは、然もありなん」
 言継の鋭い視線が牛一に刺さった。
「知恵をお貸し下され、和泉守どの」
「はぁい~? いや裏調べなどとは畏れ多い」
 公家の耳聡さは常々聞いていたが、よく知っておると驚いた。信長の気まぐれに調べを命じられたことは少なくない。裏調べとは膨らませ過ぎだ。牛一は言継の微笑みの裏にあった事情を勘ぐった。
いつの間にか、言継の目つきが哀願調に変わっている。
「わかり申した。権大納言さまのお頼みは断れませぬ。それがしにでき得ることなら……あと、官名はおやめ下さい。又助でようござる」
 見る間に言継の顔に安堵の笑顔が戻った。甘い炙り餅を前に泣きやむ童のような変わり身の早さだった。
「さすが又助どの。さては一盞いっさん
 言継は手を叩き雑掌に酒肴の用意を言いつけた。一盞とは酒盛りのことで、言継の口癖だった。六年前の尾張下向の頃は毎晩聞いた言葉だ。
「では後ほど。追っ付け清蔵どんも顔を出すはず」
 笑顔で部屋を出る言継の背を、牛一と言経が見送った。
「早や、ひと仕事終えたようなお顔でしたぞ」
牛一は言経に言葉を掛けた。
「いや、ただただ、御酒ごしゅを飲みたかっただけかもしれませぬ。では後ほど呼びに参ります」
 いつもの振る舞いだと言うふうに、笑顔を残して言経は部屋を出て行った。
  
  ○

 ひと仕事終えた夏の宵はまだ明るい。
 呼びに来た言経と共に奥座敷に向かった。廊下の板敷は黒光りの中に木目を浮かべ、言継同様の年季を感じさせた。
 濡れ縁を通ると庭に茄子や胡瓜が植えてあり、その脇に露草の青がほんのりと色を添えている。庭園と呼ぶ代物ではなかった。奥に生える緑の草叢くさむらは雑草に見えるが、きっと家伝の薬草の類かもしれない。公家風の庭などここにはないのだと知ると、また一つ親しみが増した。
 奥に鎮座する恵比寿顔の言継に挨拶をして、牛一は座に就いた。
 見慣れぬ料理が載った本膳と二の膳が四つずつに、不釣り合いに大きな酒樽が用意されていた。なるほど主役は酒に違いなかった。
「何もございませんが」
「なんの。伏見の酒があれば十分でございますよ」
 牛一には充分な肴だと思ったが、公家からすれば少ないのか。本膳に載った芳ばしい匂いを気にしながら酒好きに敬意を表してお愛想を入れた。
「まずは一盞」言継の声に合わせて三人は盃を交わした。
「公家と言うても、内実は日々の糧に追われる有様で。天下を睥睨へいげいする織田家中の口には粗末な肴でございましょう」
「何の、某は尾張の田舎者でござる。京の料理など、なかなか口にする機会もございません」
と、牛一は膳から珍しそうにきじ焼を摘みあげた。芳ばしい香りの元だ。
「これでも山科家は、ましでござる。伝来の職務のお陰で鳥供御人とりくごにんから時おり届けられます」雉焼きと牛一を交互に覗いて言継が言った。
「……鳥供御人?」牛一は疑問と雉焼きを順番に口にした。
「代々内蔵寮頭くらのりょうのかみを世襲し、食材供御人を――、供御人とは、朝廷の供御、つまり帝の食糧貢進こうしんを任務とする集団です。鳥ばかりではなく、生魚供御人、菓子供御人など様々で、その管理監督をしているおかげで地子銭じしせんほか様々な食料が届けられるのです」
 親切にも、言経がすぐに説明してくれた。
 なるほど、帝と同じ物を口にしているのか、と思うほどに旨味が口中を満たした。
「結構なお味でございますな」
「最近は少なくなったが、そのお陰で貧乏公家の山科は都落ちもせずに、京に踏み留まれたのじゃ。公家仲間のやっかみも多いがな」
 楽しそうに笑う言継に釣られて牛一も頬を綻ばした。
「六年前の美濃下向を思い出しまする」
 牛一は、苦労を笑いに換える言継の顔を見てその昔を思い出した。公家の困窮を恥ずかしげもなく、場合によっては自虐を込めて口にする言継を。
「思い出さずともよいよい。先帝十三回忌法会の金が足らずに弾正忠さまにお願いに上がった話など。儂はよくよく織田家とご縁がある訳じゃな」
「まあ、そんな訳で今日は久方のご馳走ですよ」
 雉焼きを前に目を輝かす言経は童に見える。
「戴き、ま~す」舌舐めずりにかぶりついた。
 そんな言経を、言継は渋い顔で見ている。
「こら長松! 金はなくとも品位を保て。われらは公家ぞ」
 言経は、首を竦めて目を歪める。小動物のしなを思い出す。牛一は憎めぬ言経に小さな援軍を送った。
「権大納言さまはもちろんのこと、長松さまの心安さもまた、失礼ながら他の公家とは違いまする。それゆえ酒が美味いこと」
「まあ、そういうことじゃ。ささ、もっと召されよ、又助どの」
 遠慮のない弾むような大きな足音が聞こえた。廊下の踏み板を抜かぬか心配になる。
「来なすったな」
 言継の声に歓喜が滲む。あの猪武者を心底歓迎している顔だ。
 襖が勢い良く開き、清蔵が顔を出す。丁寧に開けぬかと牛一は歯噛みする。間違いなくお主より年長の絵襖だ。軋む木枠に冷や汗が出た。
「遅れて申し訳ござらぬ」
「なんの、弾正忠さまのご近習なれば畳を温める暇も中々ござるまい。いや、よう参られた」
「ささ、御酒を」
透かさず瓶子を差し出す言経は気が利いている。
「ほんに良かったわ、首と胴体が繋がったままのとっつぁんに会えてよ~」
   口は悪いが清蔵は嬉しそうに笑った。
「清蔵どん、何を大袈裟な」
「まあ無事に終わったから良いようなものの、あの相国寺での招請には肝を潰しましたわ」
 清蔵はひと月も前の話を持ち出した。
「無理をする歳ではありますまいに。あの時は私も、横で冷や汗を掻きました」
 言経は呆れ顔で、清蔵の話に飛びついた。信長の御前である。相等肝を冷やしたに違いない。
「まさか、自分のよわいをお忘れではないか?」
清蔵は声を出して笑うと、杯の酒を一気に飲み干した。
「ははは。ところがじゃ、一難去ってまた一難と来た」
 負けじと言継は楽しそうな笑い声を上げれば、釣られて清蔵も顔を綻ばした。
「えっ、何がありました?」
 清蔵の興味を示す問いに、言継はただ鼻を鳴らすばかり。
「……今日の催しの最中に血塗れの女官が倒れていたのだ」
 結局、言継と言経親子の四つの目で促された牛一が応えた。
 清蔵は勢いよく酒を噴き出した。
「……ふしだらで尾籠びろうな話だわ」言継が付け加えた。
 清蔵は、やにわに脇に置いた刀に手を伸ばす、
「拙者が、その不埒者をひっ捕らえ、首刎ねましょう~ぞ」
 狂言風の言い回しに怖がる言経が仰け反った。
 まだ酔うほど飲んでおらぬに。と牛一は呆れた。
「馬鹿者。なんでも刀槍で片をつけようとするな」
 何が嬉しいのか、言継は手を叩いて喜んでいる。
「まあまあ清蔵どん。内々に関わりのある者を探して灸を据える。が、武家方のような苛烈な仕置きをする積りはないのじゃ」
「そこで、又助さまにお知恵の拝借を、お願いをした次第で……」
 言経は如才なく牛一の関わりに触れた。
「清蔵、権大納言さまのお頼みだ。お主も手伝え」
「いや、拙者は明日、お屋形さまの命で大坂へ出張らねばならぬのだ」
 牛一は憮然と酒を口にする。信長の名が出れば何も言えない。人使いが荒い上に、何の脈絡もないから文句を言う隙もない。今日の蹴鞠ノ絵に清蔵が顔を出した意味すらわからなかった。
「忙しい御身には、山科家伝の秘薬がござる。帰りに持って参られよ」
 家伝とは言うが、凝り性の言継自身がその裾野を広げた丸薬作りだ。
 禁裏六町の町衆にも喜ばれていると言うから、まんざら効かぬ訳ではないらしい。
「懐かしや、あの滋養強壮に良いという『百草黒焼き薬』ですね。まだ続けておられますか」
 牛一は思い出しながら口にした。
「あたりまえだ。家伝じゃからな。なんか最近、長松が興味を持ってな」
 すぐに言経に視線を向けた。否定はしないが引き攣った笑顔を見て、後継者の興味のほどが知れた。
「ほう、後を継ぐ者がいて良かったではないか、とっつぁん。拙者より、明日から難事を背負う又助どのに処方してやってくれ」
揶揄からかいはよせ。某はすでに疲れて参ったぞ」
「それでは、今貰え、すぐ飲め、たんと飲め!」
 清蔵は高笑いを上げながら酒を呷った。
 牛一は救いの目を言継に向けた。
「ぼちぼち参ろう」言継は頬を染めて目を瞬き、独り合点に頷いた。
「まあ、心当たりはある……」
 消え入る囁きが気になって、牛一は盃を置いた。それでも目星はあるらしい。であれば、牛一は織田信長の威厳を見せ、公正中立な立会人として身を任せればよいのかもしれない。言継の落ち着きぶりを見ると平仄ひょうそくが合う話だ。
「下の方がだらしない。猪武者のような公家がいるのですよ」
 横から言経が口を挟んだ。己の下半身を見て下卑た笑いをしている。
 猪武者ならここにおると視線を送れば、清蔵は瓶子を鷲掴みに直接酒を飲んでいた。
「あいつに違いありませぬ。絶対……ヒック」
 言経も充分に酔っているようだ。
 その様子を、眉を顰めて見る言継が口を開いた。
「やめなはれ! 証拠もないのに口の端に載せるのは。体面に関わることゆえ、軽々には申すまい。我らは帝に仕える公家なのじゃ」
「はい。申し訳ありませぬ」
言経は素直返事をして下を向いた。それほど酔っている訳ではなかった。
「又助どの、まあ明日詳しい話を致しますゆえ御所にお越しくだされ」
 宴は夜半まで続き、清蔵と牛一は山科邸で仮眠を取り、早朝、相国寺へ戻った。
 
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