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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その四
虎ノ間 松虫
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虎ノ間
清涼殿西側に回廊で繋がる書院造の建物があり、その中の公卿の間の一つが言継の御用部屋だった。水墨淡彩に描かれた虎の障壁画が牛一を睨んだ。
「虎ノ間と呼んでおりますが、味気がないですやろ」
「いえ、枯淡の味わいかと……」
「旨い事を申す。だが儂は、花鳥風月が良いのじゃがの」
鶯色の水干を垂り頸に着込んだ気軽さで、言継が扇子で風を送っていた。縁側から鳥の羽ばたきが聞こえてくる。
牛一は静かに言継に向かって座っていた。尻の穴がむず痒くなるのは織田家中とあまりに風気が違うせいだ。目に触れる人の振る舞いも、時の流れさえも違うのか落ち着かなかった。無駄な音などしない。耳を澄ませば小川のせせらぎが聞こえてきそうだ。
「今、関わりがある者を呼びに行かせていますので、話をお聞きくだされ」
「はい。お任せ致します」
最初は女官担当の地下役人だ。昇殿を許されない六位以下の下級貴族と聞いたが、身なりも立派で、目つきは完全に牛一を見下していた。形ばかりに取り繕った慇懃さは忘れない。
牛一は文机に書付を置き、役人と向かい合う。言継は気を使ったものか、詮議には興味がないのか離れて座って坪庭を向き、綴じ帳を見ていた。
「話をお聞かせ願います」と牛一が促した。
「……特に怪しい様子はありませんでした」
地下役人の上目づかいの目が泳いだ。
「むしろこうなる前に勤めを辞退してほしかったですな」
続けざまに口にする役人は忌々しげに応えた。その不快な顔が誰に向いているのか、牛一には分からなかった。
「名は、女官の名は何と申す」
「名? 名など、たかだか女孺の一人ですよ」
聞き返すと、女孺とは女官の中でも最下層の役職らしい。牛一は独りでに目が険しくなるのがわかった。
「その女官は今、いずこに」
「さあ?」と応える役人の表情は癪に障るほど涼しげだ。
「……これでは話になりませぬ」
と、牛一は奥に控える言継に視線を送った。
「うむ、どうした」
言継の気のない声に、役人はすっと額を床に付けるばかりに平伏していた。
○
何事もなかったような素ぶりで役人が御用部屋を下がった。言継が穏やかに佇む風情に触れると、気が急く己を戒める気持ちになる。苛立ちを唾の塊と共に呑みこんだ。
「よしよし任せておきなされ」
笑顔で言継が請け合った。慌てる様子は微塵も見せない。
言継が部屋を出てしばらくすると、身なりの艶やかな女官を連れてきた。女孺の上司である掌侍だという。
「この者ならば女官のことを何でも知っておる。はずじゃ……」
応えてから揺れる視線をすうっと掌侍へ送った。
「これは、かたじけのうござる」
消えかかる語尾が気になりながらも、牛一は言継に礼をした。
改めて掌侍に向き合うと、金糸を使った打掛の紋様が雅びを強調している。襟元から覗く細く白い首筋に目がいくと牛一は慌てて目を逸らした。
「ほほほ、お恥ずかしい限り……」
と、扇で口を隠すと下を向く。高貴な女性の振る舞いだ。
「子を孕むなど、禁裏に勤める女官にあってはならぬこと」
「名は……まさか知らぬなどとは……」
牛一は、一抹の不安の中で同じ問いを口にした。
「たしか、名は香鈴と申します」
掌侍の応えに、牛一はほっとした。
「ご容体はいかがでございますか」
「大事はございませぬ。養生させたのち、暇を取らせまする」
「ほう、命に別条はござらぬか、それはようございました」
掌侍は終始、牛一と目を合わさない。それが都の女の嗜みか、と思っていた牛一だったが……。書付を認めながら、不意に目を上げると、半眼に切れ長な目尻を上げ、吸いつくような瞳にかち合った。玉響のことだが牛一の背筋が凍えた。
「結構でございます」
牛一は頭を下げ、掌侍を廊下まで見送った。
引き摺る打掛の裾が不意に止まった
「山科権大納言さまの御声がかりなれば出向きましたが、いらぬ詮索は返り血を浴びることもございましょうに」
帰り際のこと、身を捩る掌侍の口から打ち砕かれた氷の破片のような言葉を投げられた。
牛一は言葉を呑み込み、出ていく掌侍の背を見つめた。
奥から様子を窺っていた言継が、
「……? なんぞ言っておったかの」
「あっ、いえ別に……」
宮中の仕来たりに慣れぬ牛一は口を噤んだ。が、すぐに不粋な切れ間を言葉で埋めた。
「……外部の者の仕業とは考えられませぬか」
「では、門番を呼ぼう」
言継は屈託なげに応えた。
言継の明るさが牛一の気分を引き戻した。まずは女孺の名がわかっただけでも前進だ。
(やれやれ、命に別条はないらしい)
○
青い衣袍を着た門番が牛一の前に畏まる。眼つきの鋭い屈強の若者だ。装束を見ると巷で称される青侍と思われた。
「昨日は、むろん怪しき者は蟻一匹とて通しておりませぬ」
毅然と応える様は武士に近い。
「では、凶行は内部の者と」
牛一は無表情に言葉を返したが、その問いに門番はいきなり震えだした。
「滅相ものうございます。決してそのような意味ではあらしまへん」
姿形はでかいがよく見ると陶磁器のような頬を赤らめた。まだ十代も半ばあたりか。
「相わかった。怪しいものは見ておらぬ訳じゃな。帰ってよろしい」
「へい」焼けた砂浜を裸足で歩く足取りで、門番はバタバタと部屋から出ていった。
「ふ~」
牛一は溜息をつき、自分の肩を叩きだした。
言継が部屋に顔を出し微笑んだ。笑っている場合ではないと思った。無理して合わせる牛一の顔は引き攣り気味になる。
「捗っておりますかな?」
「いやはやなんとも……」
牛一は言葉が出ない。
思わせぶりの言継は後ろを振り向き、「さあ、入りなされ」と声を掛けた。
小袖の女が入って来た。
「掌侍に言って、同輩の女孺を連れて来させた」
「おお、それは良いお考えにござる」
言継は女孺を牛一の前に座らせて、自らは部屋の隅に座った。
「さて、昨日……」
「わたくしは何も見ておりませぬ。知りませぬ」
女孺は叩頭したまま震え声で応えた。
牛一は筆を置き、諦め顔で言継を見た。蜩の声が聞こえてくる。西日と共に牛一の疲労を誘った。
「さあ、そろそろ帰りますかな。又助どの」
言継の左手は盃を掴んだ形で気も漫ろだ。真剣に取り組む己れが滑稽に思えた。
松虫
牛一は、言継に誘われるままに山科邸へ向かった。
夕餉の支度が整う前の寸暇を、言継の書院で過ごした。
文机の上には竹籤で編んだ籠がある。
「ほう、松虫(当時の鈴虫のこと)ですか」
「貰いものじゃ。まだ暑いが、気がつくともうそんな季節じゃ。秋の夜長に松虫を聞き……」(天正三年七月三日は西暦に直すと一五七五年八月十八日になる)
「源氏物語でも読み耽けりましょうか」
「おや? わかるかの」
言継は胸元から綴じ帳を出した。牛一が思ったとおりだった。
「ええ、某も時を惜しんで読み耽ったものです」
「ふふふ、引きも切らぬ戦の合間にかえ」
不思議そうに眼を見開き、牛一の頭から足まで舐めまわした。
牛一は気にせず虫籠に近づくと中の様子を窺った。
「瓜は竹串に刺して隙間を空けた方がようござる。湿り気を絶やさずに、煮干しを擂り潰して与えると鳴きが太くなりましょう」
勝手に呟いた。牛一は虫が好きなのだ。
「変わった御仁じゃな」
「虫は正直なのです。腹が減れば喰い、旨いものを与えれば良い声で鳴く。我慢したり他人を謀ったりは致しませぬ……」
「……それに比べて、人は面倒じゃな」
「はい」溜息を吐き牛一は視線を言継に向けた。
「わかったことは、女の名ぐらいです」
話柄は、昼間の御所での聞き取りだった。
「無理もないか、禁裏では何もないことが出世の道じゃ」
「何かを隠しておるのか、下の者は口を封じられておるのか……」
牛一は呟いた。思い出すほどに肩が凝ってきた。
「波風は立てない。仮に立っても、無きが如く振る舞うのが宮仕えの要諦。うねりの激しい屋形船の中でも手に持つ盃の御酒は一滴もこぼさぬ心構えじゃよ」
言継は揺れる上体で、想像の盃を片手に真剣な表情で、口元に近づけた。牛一の呆気にとられた視線に気づくと、
「さて、明日は誰を呼ぶかのう。儂も同席してきつく言い聞かせようか」
言継は盃を放り出し、腕を組み眦を上げた。たいして困った風もない。
廊下から部屋を覗き込む某かの気配がした。夕餉の迎えにきた雑掌か。
「――逆効果でございましょう」
言経だった。
「これは長松どの。お入りくだされ」
牛一は部屋へ誘った。言継は黙って一瞥をくれる。
「公家は狸です。外部の者に余計な話をするものなどおりませぬ。まして身内の恥などは……」
「なにを~」生意気なと、鼻息で飛ばしそうな勢いを見せる。「だから儂が言って聞かせる」
言経は躊躇いがちに、ちらと言継を見た。
「父の同席はもっての外。委縮するばかりです」
なるほど、身内の恥なのだ。さきほどまで言継がいう、『波風を立てぬ』と同じ言だが、子供から小言を受けると素直には聞けないようだ。牛一は親子の顔を交互に窺った。
「わたくしで良ければお手伝いさせて下さい」
睨み続ける父の顔にたじろぎながらも毅然と応えた言経に、言継はしばし目を見開いた。
牛一も言経の新たな一面を見たような気がした。言経の言はもっともだ。ここは黙って親子の呼吸の推移を見守る。二度ほど言継の鼻の穴が広がった。
「……たまには帝の御役に立ちなされ」
言継は、鼻を鳴らして立ち上がり廊下へ向かった。
「遅いな~、時を掛けるほどの肴が今宵の山科家にあるとは思えぬが」
後ろを振り向き、「では、後ほど」と立ち去った。寸刻前に子を睨み据えた顔などどこにもなかった。むしろ嬉しげに見えた。
牛一と言経は黙って言継の背を見送った。
「長松どの、いささか困り果てていたところ。これは有り難き援軍にござる」
「期待に添えますかはわかりませぬが」
言経は照れ笑いを浮かべた。
「女官の名は、香鈴と申しますが、存じ寄りがございますか?」
牛一は早速今日聞いた状況を伝えた。
「いえ。女官も大勢おりますれば、とんと……まして、顔をまじまじと見れば陰で何を言われるかと身の竦む思いです。今時の女子は何を考えておるのかわかりませぬから」
言経は、両掌を立てて忙しげに、左右に振りながら応えている。
ずんぐりとした言経が物影からまじまじ見る姿を想像したら、笑みが零れそうになる。そんなおかしみを飲み込むと牛一は問いを続けた。
「では、何か手は?」
「手と言うほどの策はございません。私が手配しますので、まずは気の置けない朋輩にあたってみましょう」
言経は丸い顔の頬を膨らめて応えた。もしかしたら気合を入れているのかもしれない。牛一は大丈夫かなと、少し心配になった。
清涼殿西側に回廊で繋がる書院造の建物があり、その中の公卿の間の一つが言継の御用部屋だった。水墨淡彩に描かれた虎の障壁画が牛一を睨んだ。
「虎ノ間と呼んでおりますが、味気がないですやろ」
「いえ、枯淡の味わいかと……」
「旨い事を申す。だが儂は、花鳥風月が良いのじゃがの」
鶯色の水干を垂り頸に着込んだ気軽さで、言継が扇子で風を送っていた。縁側から鳥の羽ばたきが聞こえてくる。
牛一は静かに言継に向かって座っていた。尻の穴がむず痒くなるのは織田家中とあまりに風気が違うせいだ。目に触れる人の振る舞いも、時の流れさえも違うのか落ち着かなかった。無駄な音などしない。耳を澄ませば小川のせせらぎが聞こえてきそうだ。
「今、関わりがある者を呼びに行かせていますので、話をお聞きくだされ」
「はい。お任せ致します」
最初は女官担当の地下役人だ。昇殿を許されない六位以下の下級貴族と聞いたが、身なりも立派で、目つきは完全に牛一を見下していた。形ばかりに取り繕った慇懃さは忘れない。
牛一は文机に書付を置き、役人と向かい合う。言継は気を使ったものか、詮議には興味がないのか離れて座って坪庭を向き、綴じ帳を見ていた。
「話をお聞かせ願います」と牛一が促した。
「……特に怪しい様子はありませんでした」
地下役人の上目づかいの目が泳いだ。
「むしろこうなる前に勤めを辞退してほしかったですな」
続けざまに口にする役人は忌々しげに応えた。その不快な顔が誰に向いているのか、牛一には分からなかった。
「名は、女官の名は何と申す」
「名? 名など、たかだか女孺の一人ですよ」
聞き返すと、女孺とは女官の中でも最下層の役職らしい。牛一は独りでに目が険しくなるのがわかった。
「その女官は今、いずこに」
「さあ?」と応える役人の表情は癪に障るほど涼しげだ。
「……これでは話になりませぬ」
と、牛一は奥に控える言継に視線を送った。
「うむ、どうした」
言継の気のない声に、役人はすっと額を床に付けるばかりに平伏していた。
○
何事もなかったような素ぶりで役人が御用部屋を下がった。言継が穏やかに佇む風情に触れると、気が急く己を戒める気持ちになる。苛立ちを唾の塊と共に呑みこんだ。
「よしよし任せておきなされ」
笑顔で言継が請け合った。慌てる様子は微塵も見せない。
言継が部屋を出てしばらくすると、身なりの艶やかな女官を連れてきた。女孺の上司である掌侍だという。
「この者ならば女官のことを何でも知っておる。はずじゃ……」
応えてから揺れる視線をすうっと掌侍へ送った。
「これは、かたじけのうござる」
消えかかる語尾が気になりながらも、牛一は言継に礼をした。
改めて掌侍に向き合うと、金糸を使った打掛の紋様が雅びを強調している。襟元から覗く細く白い首筋に目がいくと牛一は慌てて目を逸らした。
「ほほほ、お恥ずかしい限り……」
と、扇で口を隠すと下を向く。高貴な女性の振る舞いだ。
「子を孕むなど、禁裏に勤める女官にあってはならぬこと」
「名は……まさか知らぬなどとは……」
牛一は、一抹の不安の中で同じ問いを口にした。
「たしか、名は香鈴と申します」
掌侍の応えに、牛一はほっとした。
「ご容体はいかがでございますか」
「大事はございませぬ。養生させたのち、暇を取らせまする」
「ほう、命に別条はござらぬか、それはようございました」
掌侍は終始、牛一と目を合わさない。それが都の女の嗜みか、と思っていた牛一だったが……。書付を認めながら、不意に目を上げると、半眼に切れ長な目尻を上げ、吸いつくような瞳にかち合った。玉響のことだが牛一の背筋が凍えた。
「結構でございます」
牛一は頭を下げ、掌侍を廊下まで見送った。
引き摺る打掛の裾が不意に止まった
「山科権大納言さまの御声がかりなれば出向きましたが、いらぬ詮索は返り血を浴びることもございましょうに」
帰り際のこと、身を捩る掌侍の口から打ち砕かれた氷の破片のような言葉を投げられた。
牛一は言葉を呑み込み、出ていく掌侍の背を見つめた。
奥から様子を窺っていた言継が、
「……? なんぞ言っておったかの」
「あっ、いえ別に……」
宮中の仕来たりに慣れぬ牛一は口を噤んだ。が、すぐに不粋な切れ間を言葉で埋めた。
「……外部の者の仕業とは考えられませぬか」
「では、門番を呼ぼう」
言継は屈託なげに応えた。
言継の明るさが牛一の気分を引き戻した。まずは女孺の名がわかっただけでも前進だ。
(やれやれ、命に別条はないらしい)
○
青い衣袍を着た門番が牛一の前に畏まる。眼つきの鋭い屈強の若者だ。装束を見ると巷で称される青侍と思われた。
「昨日は、むろん怪しき者は蟻一匹とて通しておりませぬ」
毅然と応える様は武士に近い。
「では、凶行は内部の者と」
牛一は無表情に言葉を返したが、その問いに門番はいきなり震えだした。
「滅相ものうございます。決してそのような意味ではあらしまへん」
姿形はでかいがよく見ると陶磁器のような頬を赤らめた。まだ十代も半ばあたりか。
「相わかった。怪しいものは見ておらぬ訳じゃな。帰ってよろしい」
「へい」焼けた砂浜を裸足で歩く足取りで、門番はバタバタと部屋から出ていった。
「ふ~」
牛一は溜息をつき、自分の肩を叩きだした。
言継が部屋に顔を出し微笑んだ。笑っている場合ではないと思った。無理して合わせる牛一の顔は引き攣り気味になる。
「捗っておりますかな?」
「いやはやなんとも……」
牛一は言葉が出ない。
思わせぶりの言継は後ろを振り向き、「さあ、入りなされ」と声を掛けた。
小袖の女が入って来た。
「掌侍に言って、同輩の女孺を連れて来させた」
「おお、それは良いお考えにござる」
言継は女孺を牛一の前に座らせて、自らは部屋の隅に座った。
「さて、昨日……」
「わたくしは何も見ておりませぬ。知りませぬ」
女孺は叩頭したまま震え声で応えた。
牛一は筆を置き、諦め顔で言継を見た。蜩の声が聞こえてくる。西日と共に牛一の疲労を誘った。
「さあ、そろそろ帰りますかな。又助どの」
言継の左手は盃を掴んだ形で気も漫ろだ。真剣に取り組む己れが滑稽に思えた。
松虫
牛一は、言継に誘われるままに山科邸へ向かった。
夕餉の支度が整う前の寸暇を、言継の書院で過ごした。
文机の上には竹籤で編んだ籠がある。
「ほう、松虫(当時の鈴虫のこと)ですか」
「貰いものじゃ。まだ暑いが、気がつくともうそんな季節じゃ。秋の夜長に松虫を聞き……」(天正三年七月三日は西暦に直すと一五七五年八月十八日になる)
「源氏物語でも読み耽けりましょうか」
「おや? わかるかの」
言継は胸元から綴じ帳を出した。牛一が思ったとおりだった。
「ええ、某も時を惜しんで読み耽ったものです」
「ふふふ、引きも切らぬ戦の合間にかえ」
不思議そうに眼を見開き、牛一の頭から足まで舐めまわした。
牛一は気にせず虫籠に近づくと中の様子を窺った。
「瓜は竹串に刺して隙間を空けた方がようござる。湿り気を絶やさずに、煮干しを擂り潰して与えると鳴きが太くなりましょう」
勝手に呟いた。牛一は虫が好きなのだ。
「変わった御仁じゃな」
「虫は正直なのです。腹が減れば喰い、旨いものを与えれば良い声で鳴く。我慢したり他人を謀ったりは致しませぬ……」
「……それに比べて、人は面倒じゃな」
「はい」溜息を吐き牛一は視線を言継に向けた。
「わかったことは、女の名ぐらいです」
話柄は、昼間の御所での聞き取りだった。
「無理もないか、禁裏では何もないことが出世の道じゃ」
「何かを隠しておるのか、下の者は口を封じられておるのか……」
牛一は呟いた。思い出すほどに肩が凝ってきた。
「波風は立てない。仮に立っても、無きが如く振る舞うのが宮仕えの要諦。うねりの激しい屋形船の中でも手に持つ盃の御酒は一滴もこぼさぬ心構えじゃよ」
言継は揺れる上体で、想像の盃を片手に真剣な表情で、口元に近づけた。牛一の呆気にとられた視線に気づくと、
「さて、明日は誰を呼ぶかのう。儂も同席してきつく言い聞かせようか」
言継は盃を放り出し、腕を組み眦を上げた。たいして困った風もない。
廊下から部屋を覗き込む某かの気配がした。夕餉の迎えにきた雑掌か。
「――逆効果でございましょう」
言経だった。
「これは長松どの。お入りくだされ」
牛一は部屋へ誘った。言継は黙って一瞥をくれる。
「公家は狸です。外部の者に余計な話をするものなどおりませぬ。まして身内の恥などは……」
「なにを~」生意気なと、鼻息で飛ばしそうな勢いを見せる。「だから儂が言って聞かせる」
言経は躊躇いがちに、ちらと言継を見た。
「父の同席はもっての外。委縮するばかりです」
なるほど、身内の恥なのだ。さきほどまで言継がいう、『波風を立てぬ』と同じ言だが、子供から小言を受けると素直には聞けないようだ。牛一は親子の顔を交互に窺った。
「わたくしで良ければお手伝いさせて下さい」
睨み続ける父の顔にたじろぎながらも毅然と応えた言経に、言継はしばし目を見開いた。
牛一も言経の新たな一面を見たような気がした。言経の言はもっともだ。ここは黙って親子の呼吸の推移を見守る。二度ほど言継の鼻の穴が広がった。
「……たまには帝の御役に立ちなされ」
言継は、鼻を鳴らして立ち上がり廊下へ向かった。
「遅いな~、時を掛けるほどの肴が今宵の山科家にあるとは思えぬが」
後ろを振り向き、「では、後ほど」と立ち去った。寸刻前に子を睨み据えた顔などどこにもなかった。むしろ嬉しげに見えた。
牛一と言経は黙って言継の背を見送った。
「長松どの、いささか困り果てていたところ。これは有り難き援軍にござる」
「期待に添えますかはわかりませぬが」
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「女官の名は、香鈴と申しますが、存じ寄りがございますか?」
牛一は早速今日聞いた状況を伝えた。
「いえ。女官も大勢おりますれば、とんと……まして、顔をまじまじと見れば陰で何を言われるかと身の竦む思いです。今時の女子は何を考えておるのかわかりませぬから」
言経は、両掌を立てて忙しげに、左右に振りながら応えている。
ずんぐりとした言経が物影からまじまじ見る姿を想像したら、笑みが零れそうになる。そんなおかしみを飲み込むと牛一は問いを続けた。
「では、何か手は?」
「手と言うほどの策はございません。私が手配しますので、まずは気の置けない朋輩にあたってみましょう」
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