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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その五

禁裏六町   光るの君

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   禁裏六町

 牛一は相国寺の近習部屋で朝餉を食べ終えるとすぐに、山科邸に向かった。
 朝から待ち焦がれた顔の言経が飛び出すように出て来た。
「やや、某、遅れ申したか?」
「いえ、別に。昨夜、色々考えておりましたら、身体が火照ってなかなか寝付けず……」
 言経は頬を綻ばせて盛んに盆の首を掻いていた。遊山を前に興奮した童のような顔だ。
 雑掌が運ぶ麦焦がしを前に、「慌てることもありませぬ、ささ、お飲み下され」と振る舞う言経の手ぶりが忙しない。牛一は一息に飲み干した。
 これから参るのは勧修寺かじゅうじ晴豊の屋敷と言った。
「勧修寺晴豊さまは、先日の鞠足にいらした上手ですね」
 牛一は記憶を手繰って、名と顔を思い返した。
「さすが又助どの。よう覚えていなさる」
 ぴくっと、言経の右眉が生き物のように跳ねた。
「だが格式が高く、拙者などが差し向かいでお会いできるお相手では……」
 牛一は躊躇いがちに応えた。武家はこんなとき、無理にでも居丈高に振る舞うものだ。だが日の本の歴史を背負う生き証人に、牛一は敬意を表さずにはいられない。
「さすが、又助どのだ。父も常々感心しております。貧乏公家にこれほど気を使われる御仁はいないと」
「天下一の変わり者に仕えておりますから」
 笑っていいものか言経は目を瞬いた。そろそろ参りましょうか、遠慮気味の声を合図に山科邸を出た。
「禁裏六町の界隈ですから……」
 歩いて幾らも掛からないと、言経は散歩気分で前を行く。
 牛一はさすがに興奮して寝られぬことはなかったが、昨夜は事の成り行きに頭を巡らせた。言経の人となり、向後向き合うであろう殿上人ら、……何を聞いたものかわからない。それでも事実の断片が提示されれば何とかなるような気がした。
 しばらく口を噤んで歩いていた。顔を上げると、そんな牛一の様子を案じ顔で言経は見つめている。
 勧修寺家の四脚門を前にして言経は、牛一に話しかけた。
「なあに。幼馴染ですから何も心配いりません。供に禁裏の壁に立ちしょんした仲ですから」
 と、言経は笑いながらとっとと門の中に入っていった。
「立ちしょん――?」
 残された言葉を頭で辿ってから慌てて牛一は追いかけた。

  ○

「あの日、そのようなことがあったとは知らなんだわ」
 言経と牛一の前に座る晴豊は応えた。歳は言経の一つ下の三十二だ。高く通った鼻筋に涼しげな目元、そのうえ大きな体躯を見れば風格がある。とても歳下には思えない。ちらと脇の言経に目をやる。むしろこちらが五つ六つの若輩に見えた。
 言経のお陰か笑顔で歓迎してくれたのだが、出会い頭の口振りに、牛一は落胆した。晴豊は鼻毛を抜く素ぶりを見せる。牛一と目があっても見つめたままの堂々とした振る舞いは優雅にさえ見えた。身内扱いなのかと勝手に珍妙な心地を味わった。
「……が、女官の色恋沙汰と言えば」
 おもむろに晴豊が口を開いた。
「――言えば?」
 言経は手慣れた調子で相槌を打った。
「……むろん、大臣家の公達きんだちしか思いつかぬわ」
 ぴくっと目を見開く牛一へ、言経は振り向いた。
「中院通勝のことでございます」
 牛一は頷いた。
「ところで、,,はまだ持っておるのか?」
 晴豊は眩しい陽射しを浴びたように顔を歪めた。揶揄いの笑みだと牛一が気づくまで須臾しゅゆの間があった。
「な、何を言い出す」
 言経の眉は波打ち、眉間に皺を刻む。
 妙な問いかけに、慌てる言経だ。二人の気が置けない仲を目の当たりにして、牛一は微笑みを禁じえない。幼馴染は良いものだと改めて思う。
「おい、飯でも食っていかぬか、又助どのにも戦話を聞きたいものじゃ」
 まだ昼には早かったが、誼を通じるのも悪くないと牛一が思っていると、
「急いでおるのじゃ、またにしてくれ」
 言経が珍しくぞんざいな声で返している。「さあ参りましょう」と促されて、勧修寺邸を後にした。
 禁裏六町の一条通りを西に向かった。
「まだ腹が減る時分ではございますまい。飯に呼ばれたとて、素麺がよいところですよ。その素麺さえ出す気のない京人の、口先だけのお愛想もありますが」
「もちろん構いませぬよ」と牛一は応えたが、ひょっとしたら断るのが約束事なのか……。
 織田家中では戦に備えて力づけに昼餉を取り入れ、日に三食が当たり前であったが、公家方では二食にじきがまだ多かろう。なるほどお愛想に過ぎなかったのかもしれない。  
 牛一は鳴りそうになった胃ノ腑に言い聞かせた。
「次は、日野輝資ひのてるすけ二十一歳。詩歌の家職を持ち、何かと夜叉松麿(通勝)と比較される立場にあります。へへ、……酒の旨さを教えた弟分でございます」
「さようですか……」
「酒を教えた」などと、つやつやした丸顔の童のような言経が口にすると妙なおかしみがある。が、三十を過ぎているのだから不思議ではない。
 雅な装束の公家と、町衆姿の庶民が行き交う通りは活気があった。
 くくりばかまやわらか烏帽子えぼしの職人や、手に籠を持ち餅を購う商人の間を、小直衣このうし、水干姿の公家が歩いていた。白の手甲、脛巾はばきで白手拭を頭に被った女は行商に出て来た大原女おおはらめのようだ。楽しげで不思議な光景だった。
「公家屋敷に挟まれて、米屋、餅屋、あるいは大工や蒔絵師の家がございます」
 牛一の持つ生来の観察癖が、周りの様子をきょろきょろと見回していた。言経がそんな様子に気づくと、丁寧に説明を加えてくれた。
「あらら、こら長松さん。ご機嫌麗しゅうおます」
 商家の女房風の女が気易く声を掛けてきた。
「おや、もうすっかり肌の色艶もよろしいおすな」
「ほんまに山科さんには感謝してはります。いつでも屋根廊下、板塀の修理にうちの奴を行かせますから。遠慮なく仰っておくれやす」
「それはおおきに」
 牛一にも微笑みを残して女は足早に過ぎていった。
「大工の女房のお由さんです。素麺屋に働きに出て、釜の湯をひっくり返して大火傷を負いましてね。父は連日のように気付薬やら塗薬を遣わしたんですよ」
 お由の背を見つめたままに言経は経緯いきさつを教えてくれた。
「それは、それは。さすがは権大納言さまのお優しいお心遣い」
「ふふ、それもありますが、父は作った薬の効能を早く知りたかったようでしたよ」
 言継の無邪気な様子が手に取るように頭に浮かぶ。それでも町衆の中に違和なく馴染む心根に感心した。
「ここ禁裏六町は、禁裏に御用のある公家衆と禁裏御用の職人商人が混在した町なのです。ほら、日野家もすぐそこでございます」
 
  ○
 
 日野家の屋敷の奥座敷に通された。どこの屋敷も、牛一にとっては思いのほか小ぢんまりとして、庭先の塀がすぐ隣家の庭に接しているほどだ。しかし、襖絵を始め欄間や調度の数々は歴史を感じさせた。
「そんなことがありましたか」
 言経の前に座る輝資も細面の貴公子だ。が、年の割に落ち着きを感じた。それもそのはず、二年前の二条城籠城に際して刀を手に織田方に逆らったと聞けば頷ける。思わず隣に座る言経を比べ見た。
 輝資は薄笑いを浮かべて言経を見た。
「夜叉松麿は、才だけで詩歌を詠んでおる。今は良いが、いつか心の機微を見失いましょう」
 通勝と二つしか違わぬ輝資の大人びた口振りに興味を持った。
「その女官に、心当たりはございませぬか」牛一が口を挟んだ。
「うーむ」
 輝資は目を瞑り、盛んに頭を掻いている。
「あれは三月の曲水ごくすいえん……」
 御常おつね御殿東側に広がる御内庭ごないていに小川がある。ささやかなうねりの中を盃が雅びに揺れて流れてくる。辺りに桜の花びらが舞い、風雅に花を添えた。
 輝資は焦っていた。手に持つ筆が震える。
 横に目をやると。隣に座る通勝は、輝資を鼻で笑った。すでに筆を下ろしている。するといっそう目元が、頬が火照るのがわかった。
「ほう、珍しいね。で、間に合うたのか?」
 言経が輝資の記憶に割って入った。
 曲水の宴とは、お題に対して歌を詠むのだが、小川を流れる盃が目の前にくる前に書き終えて、優雅に杯を取り上げ酒を飲む遊びだ。
 皆が優雅と口にはするが、冷徹な肝試しと背中合わせにある。
「間に合ったさ、なんとか」
 見えぬ冷や汗を拭う素振りで、輝資は手の甲を額に当てた。
 輝資は、くわっと眉間を寄せる。
「――奴は、帝からお褒めの言葉を賜った。……その先のことは良く覚えておらぬ」
 言い捨てると、輝資はしばらく黙ったまま庭木を見ていた。目元が熱を帯び赤らんでいる。
「隣にいたはずのあいつは……、夜叉松麿はすでにおらなんだ」
 庭木から椋鳥の羽ばたきが聞こえた。だが睫毛一つ動かすことなく輝資は言葉を続けた。
「遠くに夜叉松麿の背が小さく見えた。寄り添う女官……あ~、あの時の女に違いない」
 輝資が絞る目の先に映る若公家は、いったい何者なのだ? 牛一も同様に眉間に力が入った。ふと横を見ると、言経の目許は独り笑みに薄く歪んでいた。



   光るの君
   
 文机に向かって、牛一は書付をまとめていた。相国寺の近習ノ間には、珍しく誰もいない。静寂を邪魔されることもなく筆を走らせた。
 足音が聞こえると、牛一のこめかみがぴくんと動いた。がさつな振動が床板を伝う。
後ろの襖が開くと同時だった。
「その後、どうなのだ、謎は解き明かされたのか?」
「うわっ、お主、もう大坂から戻ったのか」
 清蔵は挨拶も糞もなかった。
「手を貸したいが、また出ていくことになるやもしれぬ。だからさっさと話しくだされ、聞いて進ぜましょう」
 牛一は呆れて清蔵を見た。息を大きく吸うと、本日の仕事を諦めて筆硯を仕舞い始めた。
「それがぜんぜん進まぬ。あれがやんごとなき方々の気質なのか……」
「むさ苦しい武家方なんぞには、何も話してくれぬか」
 清蔵は笑いながら荷物を放り出し、刀を鞘ごと抜いて刀掛けに置いた。
「お見通しだな。だが、長松どのが救いの手を差し伸べてくれたのだ」
「ほう? それは意外だな。拙者にはあの若造が今ひとつ解せぬのだ」
 牛一は清蔵を見て思わず頷いた。若造という歳ではないが見た目を思うとやむを得まい。その上、清蔵と言経は水と油のように正反対の気性だ。言経も清蔵は苦手に違いない。
「親切なのだが、どうも決めつけが過ぎるような気もする」
「では、咎人とがにんの目星はあるのだな」
「一人の若公家だ。だが端から、皆がそ奴を嫌っておる風なのだ」
「面白くなってきたではないか。得てして真の咎人は他におるのよ」
 清蔵は楽しそうに笑っている。清蔵は真実が知りたいのではない。波乱に富んだ事件を望んでいるだけだ。
  
  ○
 
 御所の北東にある内蔵寮くらのりょう内の小座敷に牛一は顔を出した。言経は、父の言継とは出仕場所が違った。内蔵寮とは禁裏の食物、財宝の出納事務を行う家政機関で、山科の家職として世襲している。くだんの供御人との関わりもあるらしい。
 牛一は煎茶を啜っていた。
「状況は少しずつ見えて参りました。だが……」首を傾げ眉間を寄せる。
あかしがない、ということですね」
 言経は察し良く返事をしたまま牛一を見つめた。
「そういえば、急に権大納言さまのお顔が見えなくなりましたが……」
「ああ」
ばつ悪そうに言経は口を拉げて応えた。
「なにか急用でもございましたか」
「いえ。なにやら帝のお心積もりを長老仲間で相談だと駆けずりまわっている様子で……」
「此度の一件の?」牛一の声が大きくなった。
 その声を受けて、言経は目を伏せた。
「又助どの、申し訳ございませぬ」言経は、崩れるように手を突いて頭を下げた。
 牛一は驚いた。何ものかに備えて拳と腹に力が籠る。
「何がございました」
「いつぞやの一盞の席で父が『心当たりはある』と申したのは、あの……、いつもの出任せでございます。何もないのでございます。お願いしておきながら今は早や、長老とさわりのない平穏な幕引きを探っておるのでございます」
 牛一は身体に入れた力を振り解いた。
「それはそれは……、権大納言さまらしいですな」
「怒ってはおられませぬか? 又助どのは」
「なんの、人にはそれぞれお立場がございます。某は某の役目を全うするのみでござる」
「ほっといたしました。父の勝手に怒りだし、ばっさり切られるのではないかと……はは」
 言経は、牛一と目が合うと誤魔化すように笑い声を上げた。
「さすがでございます。それが武士という者なのですね」
 言経が武士に抱いていた心象が、いかほどのものかはわからない。明け透けな安堵の笑みを見ると、言継のように武家方との付き合いがなかったのだろう。
「で、証でございましたね」
「いかにも」
「今、ちょうど山科家職の内蔵寮の下僚の一人が、内侍所へ供物を届けに通っております。下級女官に顔見知りが多いとか……お、来ましたよ」
 手回しが良いのは、言継の振る舞いへの後ろめたさなのか。
 牛一が入口に顔を向けると、下僚が膝を着くところだった。
「お呼びでございましょうか」
「そう堅苦しくせずとも良い。実は、香鈴のことについて聞きたいのだが」
 言経は威厳を持って言葉を掛けた。
 下僚は、はっと息を飲んだ。
 赤銅色の肌に刻んだ皺が御所には似合わない。在所の百姓を思わせた。力仕事を任せられているのだろう。牛一はその朴訥さに期待を寄せた。
「言い難いことは存じておる。だが、我らはその件で詮議しておるのだ」
 言経の言葉は幾らか丁寧になった。
「ははあ」下僚は大袈裟に頭を深く下げた。
「何でも良い。教えてはくれぬか」言経は促した。
「……香鈴はここ二月ふたつきほど体調が優れず、今思えばあれが悪阻だったのかな? などと周りの女官は暢気なこと申しておりました」
 ようやく話しだすと、牛一も身を乗り出した。
「で、相手の男は誰なのじゃ?」牛一堪らず、一番知りたい問いを口にした。
「男の名は、光るの君と……」
 ――なに。と牛一は目を見開くと、隣の言経は笑いを零す。
「あらら、うちは、何や、まちごうたことゆうたんやろか」下僚は慌てて顔を上げ目を瞬く。
「それでは源氏物語ではないか。その相手の名を知りたいのだ」
「え、名ではないと……」
 下僚は源氏物語さえ知らぬ風だ。「光る君」を男の名だと思いこみ、疑う様子もない。
「わからぬ、か……」
 眉間を寄せる牛一を見て、下僚は恐縮して頭を下げた。
「下がってよい。手間を取らせたな」
 言経は照れ笑いを浮かべて下僚を追い払うように手を振った。
「へへへ」
 釣られて笑いながら下僚はそそくさと出ていった。
「このままでは埒が明かぬ。某が、直接女官に聞く訳には参らぬか、長松どの」
「そ、それは~、難しいかと」
 長松は慌てた。その表情を牛一は黙って見つめた。
「何かと仕来たりがあるのもわかっておる。公家衆の機嫌ももちろん大事だ。だが、直接会わぬと話が進みませぬぞ」
 言経の膨らむ頬がひくひく動いた。
「それとも、何か他にお考えでも?」
「いえ、そのようなものはございませぬが……」
 何か言いたげに思えた。言経を困らせる物言いをしたのかと、牛一はしばし考えると、
「では、せめて一人だけでも、香鈴と最も仲良くしていた女官に、お会いできませぬか」と譲歩する物言いに換えた。
「……一人だけならば」
 長松は渋々頷いた。

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