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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その六

銀の鈴

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   銀の鈴   

 翌日は甘露寺邸へ向かった。
「以前からの段取りがありますから」
 という言経の言葉を尊重すると、牛一は黙って従った。
 甘露寺経元の屋敷は山科邸から見て烏丸通を挟んだ向かい側の一角にあり、正親町通りにも面していた。言経の後をついて歩くとすぐに屋敷を取り囲む塀に辿りつく。ざっと見回すと、共に羽林家で家格の差がそれほどある訳ではないのに、山科邸の四倍以上の敷地があった。
 朽ちかけた築地や苔生した瓦に、横たわる悠久の歴史を想像し勝手に笑みが零れた。
 言経はときおり後ろを振り向いて、そんな牛一を不思議そうに見ていた。
 唐破風を載せた立派な四脚門の前に立つと、言経は牛一に歩み寄った。
「ここは、わたくしの、口煩い兄貴分になります」
 門の奥に佇む屋敷を仰ぎ見た。すると思い出したように小刻みに手招きして牛一に付け足した。
「それと、扇子をお褒めくださいまし」
「扇子を、ですか?」
 要領の得ない話を聞き流し、案内されるままに奥座敷へ通された。
 恰幅の良い経元の前に、言経と並んで牛一は座った。端正な顔立ちに、公家にしては陽に焼けた活力あふれる肌の色を見せる経元は四十一歳の働き盛りだ。
 だが、牛一が聞いた第一声はみな同じだった。
「そんなことがあったのか、知らなんだ」
 牛一はがっかりした。
「……そんなことより長松! 早く身を固めろ。跡継ぎがいないではないか!」
「親父みたいな小言は止めてくださいよ~」
 言経は頬を膨らまして反論したが、牛一は顔を曇らして二人の成り行きを見た。
「はは、また膨らんだわ」
 経元は扇子で言継の顔を指している。
 牛一は扇子に気づいた。門前ですぐに聞き流したばかりの言経の言葉を思い出す。
「おやおや。これは素晴らしい扇ではありませぬか」
 言いながら牛一は扇子を凝視した。
「うーむ。これか」経元はちらと手元を見た。
「わかるかの、やはり。掃部寮かもんのりょう更衣こういのせちで帝から賜った扇じゃ」
 経元はさっと開いて松竹梅をあしらった銀扇を優雅に煽る。
 言経は笑みを浮かべた。
「見事な扇ですね。銀があるとなれば、金の扇もございますので?」
 よく見ると、意匠を凝らした優美な扇子だったので、素直な気持ちが口を吐いた。言経は白い歯を隠すように手で口をさえた。
 たちまち経元の顔が険しくなった。
「――ある。しかも、かなめに菊の御門をあしらった逸品じゃ」
「どこにでございます……?」牛一の語尾が上がった。
「……参議が持っていきおった」
 牛一は経元の言葉を頭で辿るがわからなかった。
「通勝じゃよ」
 心持ち、経元の顔が上気している。
 牛一は、横でちらちら白い歯を零す言経の顔が気になった。真面目に聴き取りしている身にはあまり気分がいいものではない。
「さらりと読んだ歌に、帝は殊のほかお喜びで、なんと特別誂えの黄金の扇を下賜されたのだ。……まったくもって生意気な公達じゃ。……身共は銀なのに」
 憤りのせいか話す言葉に勢いが増した。牛一は問いを挟んだ。
「その時、何か変わったことはございませんでしたか?」
「大いにあったわ。思い出すのも忌々しい」
「何が、ございました」牛一は勢い込んだ。
「酒を持つ女官が通勝ばかりに纏わりついておった」
 言経は涙を流して腹を抱えている。
「気のせいではござりませぬか?」
 と、横から言経は揶揄い気味の声音を向けた。
「なにを~!」言経の揶揄に経元は気色ばむ。
「お主は鈍感だから気がつかぬのじゃ。だから女子にもてぬのだわ! 父御の権大納言さまが心配するのも無理はない」
あに御前ごぜ(経元)、活力が漲るご様子は喜ばしい限りにございます。したがあまり粋筋(女色)に耽るとなれば御家に波風も立ちまするので、ほどほどされるが宜しいと存じまする。では御免」
 最後っ屁をかますように言い放つと、飛び立つように言経は部屋を飛び出た。
 残された牛一は何が何だかわからない。真っ赤な顔の経元に丁寧に挨拶をすると逃げるように言経の後を追った。
甘露寺邸の門前をでると、言経が笑いながら息を弾ませていた。
 牛一は言経を見ると呆れ、少し困った。
「長松どの、喧嘩などされては困ります……」
「あ、いえ喧嘩などではありませぬ。が……申し訳もありませぬ。牛一どのの立場も考えずに、身内の延長で話をしてしまいました」
 言経は申し訳なさそうに頭を掻いた。悪気があった訳ではないのは顔を見れば牛一にもわかる。
「喧嘩するほど仲が良いという訳ですね……」
「努力を重ねて今の立場に立った経元どのが、己の歳の半分にも満たぬ若造の才と美貌に怯える必要などありませぬ。泰然と笑っておればば誰も比べる者などありませぬのに」
 さも無念そうな口ぶりの言経は、経元が嫌いではないらしい。
「よく陽に焼けておられましたな……」
 牛一が呟くと、言経は鳥のさえずりのような笑い声を上げた。
「禁裏の外働きに、よせばいいのに率先して動き回ります。雑掌や職人がする庭掃除や作庭の指示さえ、確認のため現場に出て日がな付き添っておられます。公家はたいがい陽の光は苦手なのですがね。……やはり気になりましたか」
「確かに美白が多い上達部かんだちめの中では目立ちますね」
 牛一は応えながら、白い碁石に囲まれた黒石を思い浮かべた。
「根は良い人なんですが、口煩く……女好きなんです。年甲斐もなく、張り合うなんて……ある意味、羨ましくもありますが」何かを思い出す言経は口元を綻ばした。
「なるほど、通勝の名が出るたびに、声が大きゅうなり申したな」
 合点がいくほどに、牛一の頭の中に住む通勝が大きくなった。
 残暑の陽射しはまだ強い。言経は空を仰ぐと目を眇めた。額に玉の汗が浮かんでいる。
「それにしても、まだまだ暑さが続きますね」
 言経は胸元から手拭を探し取りだした。
 ――チリリン~
 同時に鈴の転がる音が聞こえた。
 言経が落とした銀の鈴だ。朱、橙、桜色の可愛い糸に編まれた下げ緒がついている。
 気がついた牛一は急いで拾った。
「落としましたよ」
 言経は慌てたが、差し出す鈴を見つめたまま動かなかった。
 牛一は掌に揺れる鈴を、陽に照らすように四方に傾けながら眺めた。
「綺麗な飾り紐がついていますね」
 牛一の言葉にはっとして、言経は鈴を摘み上げた。
「これはかたじけのうごいます」
 牛一は歩き出した。すぐに気になって後ろのほうを振り向いた。
 言経は大切そうに、まだ鈴を握り締めたまま佇んでいた。
「……わたくしとて、好きな女子はおりまする。ただ、切っ掛けがないだけでございます。まだまだ宮中の仕事に追われる身、ゆっくり追々いきまする」
 言経の呟きが聞こえた。
 三十路を過ぎた幼顔の男にも、他人にはわからぬ込み入った事情があるのだろう。牛一は慰めの気持ちで言葉を掛けた。
「その通りに存じます。慌てずとも人と人の縁など、落ち着く所に落ち着きますよ」

  ○

 内蔵寮の小座敷で、牛一は人待ち顔で独り座っていた。
 言経が小走りに、廊下から顔を見せた。
「今、うちの下僚が連れて参ります。ただあまり時は取れぬのです。掌侍に見つかると良い顔をしませぬ」
「心得ました」
「長松さま、連れて参りました」下僚が後ろを振り返り女孺を促した。
「ささ、入りなさい」   
 女孺は伏し目がちに入り、言経と牛一の前に額ずいた。
菖蒲あやめと申します」
 と、両手を突く菖蒲が顔を上げた。
 言経を見ると、菖蒲は目を見開き微笑んだ。親しげな視線に逆に言経はたじろいだ。
「どこかで会ったかな?」
「い、いえ」と、菖蒲は口を閉じた。
「さて、香鈴のことだが、此度は災難であったな」
 牛一はなるべく優しく声を掛けた。二十歳になる目の前の女は顔も手足も小さく細かった。すぐに折れそうな小枝を思わせた。菖蒲は緊張のせいか泣きそうな顔になる。
「うん、どうした。悪いようにはせぬ」牛一は慌てて声をかける。
「香鈴のためにも、知っていることを話してくれぬか?」
 言経の話し声もひときわ柔らかい。顔は下膨れておかしみを誘うが、大きな黒目を優しげに見開いた。   
 震えていた肩が治まると菖蒲はゆっくり話しだした。やはり懐妊の事実は知っていた。香鈴とは同い年だ。親身に語り合った数少ない朋輩なのかも知れない。
「香鈴の光るの君とは、中院なかのいん参議(通勝)さまです」
 言経の唾を飲む音が聞こえた。
「でも指一本触れていないって、ただの憧れだって言うておりました」
「――嘘だ!」
 言経は驚いて大きな声を上げた。
 その声に、牛一も菖蒲も何事かと言経を見つめた。言経はすぐに首を亀のように縮込め頭を掻いた。
「私も本当のことはよくわかりません。でも赤子の父親てておやになる人は、それは優しくて、精のつく丸薬を欠かさず持って来てくれるって、喜んでいました」
 牛一と言経は顔を見合わせた。二人の想いは別かもしれないが、新たな消息を耳にして息を呑んだ。
「いったい何でこんな目に……」菖蒲は涙ぐんだ。
「……助けてくださいませ、山科参議(言経)さま! いつも『すず』ちゃんを見ていたではございませんか」
 菖蒲は声を上げ涙を零した。
「なんと……!」
 牛一は思わず声を漏らした。
 言経は固まったまましばらく動かなかった。牛一はそんな言経を横目に、問いを続けた。
「名は、すずと呼んでおるのか?」
「ええ、親しい仲間内ですずと呼んでいました。だってそのほうが可愛いでしょう」
「ま、まあな。すず、か」
 牛一の頭の奥に、転がる鈴の音が聞こえた。
  
  ○
 
 昨日の詮議では、あれから言経は考え込むように黙ったままだった。その後、牛一が菖蒲から話を聞きだした。
 菖蒲の話の中で、すずは二条室町の蛸薬師堂そばの『徳翠庵』という治療院にいるということだが、掌孺から「絶対安静だから見舞いには行ってはならぬ」とお達しがあった。
「構うことはありませぬ。帝の意向がございます。本人から聞けばすぐにわかりましょう」
 菖蒲が帰った後、暫くすると言経は元気を取り戻した。
 今朝など、早くから気合が満ちていた。
「さあ、急ぎましょう。しかし『徳翠庵』などは聞いたこともありませぬ。ちゃんとした治療を受けておるのか心配だ」
 勢いよく出掛けたのだが、今は不在だと散々待たせたうえに、坊主頭の医師はぞんざいに言い放った。
「命に別条はございません。だが、心にしこりが残っておりますれば、今は安静が必要です。嵯峨野の療庵に安静にしておりますが、決して行ってはなりませぬぞ」
 そこを談判して名を聞きだした。意外な粘りを見せたのが言経だった。
「さあ、参りましょう」
 力強く言経は歩みを進めた。
「まさか……」
 牛一は恐々声を掛けたが、歩む道筋は丸太町を西に向かってずんずん進んでいる。
 まだ昼前だった。大覚寺辺りまでおよそ二里と半分のところ、片道一刻と見積もると覚悟を決めて言経の後を追った。
 あいにく雲一つない青空が眩しく、そよぐ風とてなかった。
 颯爽と歩く牛一は、立ち止まると後ろを振り向いた。
「あ、長松どの。大丈夫でござるか」
 汗みずくの言経の顔が見える。
「え、え、大丈夫~でございますぅ~~」
 息を弾ませながらも、声を張って気丈に応えた。
「なんか気合が入っておる」牛一は呟きと共におのが鼻が広がるのがわかった。
 今日は今までと違った言経を見られるものだ。不思議に思いながらも不謹慎に頬が綻んでしょうがない。
 ようやく療庵に着くと言経の膝が震えていて、膝頭がおとなしく並んで止まらない。
 そのうえ揺れる身体に追い打ちをかける言葉を聞いた。
「香鈴さまはお身体もだいぶ良くなり宇治からお身内が参りまして、ご実家に戻られましたよ」
 尼僧はとても丁寧な態度で説明してくれたのが救いだった。それでも言経にすれば重い足取りはまた一段と重くなるばかりだ。
「宇治まで参りましょうか?」
 笑みを隠して牛一は試しに聞いてみた。もちろんこれからすぐに行つもりはない。
「もう、無理でございます~~。それよりも、わたくしは無事に禁裏六町まで帰れましょうか」
 泣きそうな言経の背を押して丸太町通りを東に戻った。
 傾く陽射しを背に受けてとぼとぼと歩んだ。長く成長する影が頼りなげに揺れる。気がつくと西の嵐山、愛宕山の稜線が橙に輝いていた。鴉の鳴き声がゆっくり空に響き渡ると、言経の顔には疲れがいっそう広がった。
 それでも千本通りを越えると、行き交う町衆の姿が増えて、言経の顔つきが明るくなった。
「指一本触っていないなどとは、嘘でございますよ!」
 口を動かす気力は戻ったようだ。
「菖蒲が嘘を?」牛一は聞き返す。
「いえ、すずが……きっと夜叉松麿がそう仕向けたに違いありません。それに、飲まされた薬だって怪しいもんだ」
 幾人からの話を聞いても、出てくる登場人物は通勝ただ一人だった。
おかしな話だ。自分は何をしているのだろう。
「しかしその証拠さえない。……そういえば丸薬が、と言っていましたね」
 牛一は改めて、思い返して口にした。
「……えっ」
 言経は聞き逃したのか、上の空の返事だった。
「なんとか、親しい女孺をもう一人証人として手配しましょう」
「一人でも大変だったと仰ったではないですか」
 言経の考えを聞き、不思議に思った。
「背に腹は代えられませぬよ」
 何をそんなに焦っているのか。牛一は疲れ切った言経の顔を見た。

 
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