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水の日、洗礼 三
しおりを挟む朝──というには大幅に過ぎ去っている時間帯。太陽による熱を持ち始めた風が、ふわりと室内を巡って古い空気を追い出した。
空中に含まれた軽めの湿気と仄かな水の匂いは、サプフィールに長く住む者なら誰でも慣れ親しんだものだ。今の時期はそれに加えて、壁際に集まっては色を添えるように咲き乱れる蓮の花の細やかな香りも入り混じる。
アルシュは窓を離れてベッドに寄った。朝は季節を問わず冷えこみがちだから、と常に用意している毛布がこんもりとしている。体に巻きつけるように包まりながらも小さく頭を出し、静かな寝息を立てているのはキリエだ。
ベッドの端に腰をかけ、前髪をそっと退ける。閉ざされた両目の周辺は赤く染まり、腫れぼったい。
頬に残る涙の跡。連れてきた初日以降、日中に涙を流すことは減ったが、それでも夜中になると声を殺して泣いている。
彼も男だ。気丈に振る舞いたいだろうからと、寝た振りをして知らぬ存ぜぬを貫いているが、心を深く傷つけた記憶に毎晩呑まれて悲しむ様は哀れに思える。
見ていて痛々しい目の下を指の腹でそっと撫でる間に、アルシュの眉間に深い溝が出来ていった。今付近に元凶、もしくはサンドバッグがあったなら、高速で重いパンチを叩きこんでいるところである。
長い付き合いのある身としては、やはりこの幼馴染には幸せばかりを味わってもらいたかった。彼女ならそれができると思っていたのだが、とんだ見こみ違いだったようだ。
「ん……」
鋭敏な神経が通る目の付近を触られたせいか、きゅ、とキリエの眉根が寄る。もぞりと身動ぎ、逃れるように顔を逸らした。
元来、キリエは規則正しい生活を身につけている。どんなに夜を遅く過ごしても、来たる朝の目覚めは早い。
そんな彼が朝の遅いアルシュよりも惰眠を貪っているのは、精神的ショックによるものだけではない。婚約パーティー以前より多忙だった仕事、そこに割いた多大な過労と負荷を取り除こうと、睡眠が不足した体の方が休息を取りたがっているのだ。
そろそろ眠りが浅くなる頃だろう。自然に目が覚めるまで寝かせてやりたいところだが、そうなると夜が眠れなくなる。何より、せっかくソルシエールが用意した食事が冷めてしまう。
アルシュはキリエの頬をつまんだ。激務にさらされ続けても衰えなかった、肌触りがよくなめらかな感触。凝りや硬直を知らないやわらかさ。
「おはよう、キリエ。朝だぞ」
「……………………。おはよう……」
しばらくの無言のあとに瞼が震え、そっと開かれた。
真っ先にアルシュを写す琥珀色の瞳。寝起きでとろんとしたそれに眉間がやわらぐ。じわじわと唇が吊り上がっていくのを抑えきれない。
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