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〇章 花泥棒先輩と嘘
一目惚れと一年契約
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4月7日
一目惚れしました。と。
ほんの二分後に告白されることを、紫月桜子はまだ知らない。
それも、真っ赤な嘘の告白だなんて。
ひらり。ひらり。ひら、ひらり。桜の花びらが舞っている。
入学式を終えた桜子は、真新しい制服に身を包み、昇降口から校門へと歩いていた。慣れない窮屈なローファーは彼女に〝高校生感〟を感じさせ、靴音でその胸をときめかせる。
咲き誇る桜を見て、うっとりのんびりしていると……
「――あっ」
人影に気づいた。桜の木の幹に、ひとりの男子生徒が寄りかかっていたのだった。
他の新入生たちが目を奪われるように、桜子も彼の姿にハッとなる。スローモーションになって、彼をより長く見続けようとする。
彼の桜色の髪が、春風に吹かれ、陽の光に透けて煌めいた。
――きれい。
目を離してはいけない、そんな気がした。ちょっと見ないうちに消えてしまいそうな。儚い、不思議なざわめきの感覚が頬を撫でる。
――このひと、どこかで……
頭上を彩る桜とそっくりな淡いピンク色のそばに、ひらり、黄緑色の葉が舞い降りる。
それは、まるで、
「桜餅……」
思わず呟くや否や、彼が〝ばっ!〟と勢いよく顔を上げてこっちを見た。
まさか、今の距離で聞こえたの? もしかして不機嫌に? 怒らせちゃった?
と戸惑う桜子に、桜餅みたいな頭の彼はツカツカと歩み寄る。
脚長い、背高い、絶世の美男子だ。まさに平成の世に生まれし源氏……って、そんなことに感動している場合じゃなくて。『源氏物語』の主人公を思い浮かべている場合でもなくって。いわゆる不良なるお方だったら? 殴られる? 桜餅とはなんだぁ、って!
胸中ジタバタの桜子は、合成皮革の鞄の取っ手をぎゅっとした。近づいてくる彼のローファーの大きさにもまた体格差を感じて、殴られたら無事では済まないかも、と怖くなる。
「あ、あの、の……」
恐る恐る見上げると、形のいい彼の唇が、今まさにひらかれようとしていた。
笑みの気配を浮かべたまま、覚悟を乗せるように息を吸う、音がする。
――わあ。
ばっちり目が合った。
――瞳。茶色。桜の木の幹みたい……。あれ? なんか、泣きたい、逃げたい、だめ、
先輩の深呼吸が終わるより先にと声を出す。
「あ。あの、ごめ、なさい」
聞いたが最後、何かが変わってしまうような、始まるような、予感がして駄目だった。
顔を逸らそうとした桜子を繋ぎ止めるように、彼は力強く声を出す――
やわらかくも耳に残る、どこか懐かしい気がする声を。
「桜子ちゃん」
「……へっ?」
今、わたしの名前を呼んだの? と桜子は目をまんまるにする。
一瞬、彼の瞳が、心なし潤んだように見えた。
「ご入学おめでとう、桜子ちゃん」
「えっと、どうも……?」
どうして名前も知らない先輩から〝おめでとう〟されているのかしら? こてんと首を傾げる桜子だった。ネクタイの色から二年生だとはわかるけど、……知らない。
「俺の名前は、花咲薫。はなさきは〝花が咲く〟の花咲で、かおるは初夏の〝薫風〟とか源氏物語の〝薫の君〟とかの薫。桜子ちゃんより一個年上の先輩だよ」
「はあ、はい」
きっと〝はじめまして〟のかっこいい先輩は、光君ではなく薫君、花咲薫さんとおっしゃるらしい。まさに名は体を表す、しっくりくる。似合いすぎるほどだ。
奇抜な髪色も、左の前髪を彩る若葉の飾りも、全部が〝彼〟にぴったりしている。
花咲、薫。この名は、もう忘れられない。……きっと。
「これからよろしくね、紫月桜子ちゃん」
差し出された彼の手を、桜子はふるふる緊張に震えながら、とった。大きくって温かい。
「こちらこそ、よろしくお願いします。花咲先輩、あの――……あれ?」
わたしは、まだ紫月とも桜子とも名乗ってない。なのに、どうして知ってるの?
問おうとしたところで、ぽろぽろっと涙がこぼれた。
「わ、ほんと、ごめんなさい……」
自分がなんで泣いているのかわからなくて、恥ずかしくて、頬が途端に熱くなる。
「泣いちゃうし、桜餅とか言っちゃうし……どっちも勝手に出てきて、目と口からっ」
言い訳がましい。恥ずかしい、恥ずかしい。
「懐かしいな」
「な、にが、です?」
握手の体勢のまま泣く桜子に、先輩はちょっと困ったように微笑んだ。そりゃそうだ、いきなり泣かれちゃ誰だって困る。知らないひとに待ち伏せされて、いきなり名前を呼ばれるのも怖くて困るけど。
桜子は彼の手を離そうとして、けれど彼の強さから逃げられない。ぐいぐい引っぱっても解けない。まんまと捕まった。彼の美貌ゆえか、周囲の視線がぴしぴし刺さる。いたたまれない。逃げ出したい。
「ごめん、なさい、もう……」
「ひとめぼれ、したの」
「ひっ?」
「一目惚れしました。紫月桜子さん」
ぴっと涙が引っ込んで、桜子はぱちぱちと瞬きする。ヒトメボレ?
彼はキラリと完璧な笑みを見せ、
「だから今から、デートしよ」
と、桜子の手をひいた。
彼の背を見つめ、てくてくてく、ふたり駆けるように歩く。
まるで少女漫画のプロローグみたい……と桜子は妙に浮ついた。
灰色のブレザーを着こなす彼の背は広く、たくましい。なんだか懐かしい気がする。さっきの彼の言葉に影響されたのかもしれない。
学校近くの喫茶店に来た。奢られた。春限定の桜チーズケーキと、人気ドリンクのホワイトカフェオレをごちそうになった。今日入学したばかりの高校の先輩、花咲薫先輩に。
「――俺、たまに未来が視えるんだ」
なるほど、先輩は、高校二年生にして厨二病を患っておいでらしい。彼に毒見してもらったケーキを口に運びながら、桜子は、ふんわり生温かく微笑んだ。
桜子の好みを言い当ててメニューを選んでくれたことには驚いたけれど、まさか未来視なんてできるはずがない。心を読めるはずもないから、自己紹介の例えに『源氏物語』を選んだのも偶然だ。桜子の読書歴を知って言ったんじゃない。
「桜子ちゃんは、今日、このまま家に帰ると――」
近所に出現する露出狂に襲われかけて、心に深い傷を負うんだ、とのこと。
それは大変、と桜子はわざと目を見開いた。
彼のアイスコーヒーの氷が、からん、とふたりの間に爽やかな音をもたらす。
「だから、今日は家に帰らせないよ」
先輩も、爽やかな声でそう言った。まるで桜子とお泊りしたい彼氏さんか、そうでなければ、桜子をどうにかしちゃいたい誘拐犯みたいだ。
「いや、そんなことを言われても……帰らないと、両親が心配しま」
「嘘つき」
強い口ぶりに、桜子の肩はびくんと跳ねた。
あたたかみのある茶色の瞳が、彼女を暴くように射抜く。……ちょっと怖い。
「親なんていないでしょ」
「……いるもん……わたしにだって、お父さんとお母さんは、います……」
「もちろん、この世に存在はしてるだろうけど。家にはいない、絶対に帰ってこない」
「なんで……」
「俺は、きみを知ってるから。入試の日に見かけて、そっから一目惚れしたってだけじゃないよ。一年F組の紫月桜子ちゃん」
彼は真剣な目をして桜子を見つめ、告げた。
「きみは、四月一日を迎えずに、死ぬ」
「へ?」
「今年度中、高校一年生の年に」
「……へぇ」
先輩がひどく真面目くさった顔であほみたいなことを言うから、桜子は、どうしたらいいかわからなくなった。医者でもないひとから余命一年なんて告げられても……とホワイトカフェオレを口にふくみ、息をつく。甘ったるくてほんのり苦い。
「桜子ちゃん」
「はい」
「でも、絶対に俺が守るから。俺と結婚しよう」
「けっ……そんなこと、突然、言われても、困ります……」
そもそも、まだ彼は十六か十七歳で、桜子は十五歳。できる年齢じゃない。
数十分前に出会ったばかりで――たとえ彼が一月に一目惚れしたからと言って――結婚しようだなんて性急すぎる。いろいろ無理がある。
「すみませんが、お断りもうしあげます」
桜子は、言った。言いのけた。しかし彼は引き下がらない。
「じゃあ、一年間の雇用契約を結ぼうと言ったら? どうかな?」
「け……っ、契約? 雇用、契約?」
「そう、契約。きみは俺に雇われるんだ」
求婚からの雇用という話の転換に桜子はびっくりしつつ、彼の瞳をじっくりと見た。
悪意はあるか。害意はあるか。そして好意は本物か。
ぱち、と彼が瞬きすると、睫毛の長さと量がよくわかる。睫毛も眉もピンク色だ。
――きれいに澄んだ茶の瞳、と桜の髪、桜餅……
穴があきそうなほど見つめ合い、照れからか、お互いちょっとずつ逸れていく。
彼女の瞳の漆黒が、桜の髪の差し色を捉えた。あの葉色の黄緑は。
――あっ、もしかして本物の? と桜子はその時、気づく。
よくよく見たら、桜餅発言のキッカケになったあれだった。そう、若々と散った桜葉だ。なんの奇跡か、空舞う蝶々のように、彼の頭に留まったままで居たらしい。左のこめかみのあたりに馴染んでいたから、今の今まで、てっきり髪飾りか何かかと。
――ふつうの葉っぱなのに、綺麗だからって、ファッションだと勘違いするなんて。
おかしいな、取ってあげようかなと手を動かしかけ、また変な予感がして、止まる。葉っぱか、桜色の髪か、何か。触れてはいけない、と強く感じた。なぜか。
「……パパ活……援助交際……みたいな?」
誤魔化すようにカップに触れ、桜子は、へらっと笑い交じりに言う。
彼の顔が、一瞬、痛そうにチクリと歪んだ。
――あ。これは、間違えちゃった。
仮にも一目惚れ相手だ、パパ活だの援交だのとは、桜子の口から聞くのは嫌な言葉たちだったかもしれない。ずきずきと胸が痛くなる。彼の恋心にそこまで思いを馳せているつもりはないのに、心が痛い。すごく痛い。
――どうして、こんなに、
「というよりは、」先輩は、あっさりと平気そうな顔に戻って続けた。「家事バイトに近いかな。詳しい話は仕事場で――つまり俺の家でどうかなって思うんだけど」
「先輩のお家にあがれと? 今日? 今から?」
「これから現れる露出狂のこと考えると、みすみす帰らせるわけにもいかないし」
「そのネタ続けるんですね」
恋人でも家族でもない男の家にみすみすと上がり込むほど、桜子は、尻の軽い女ではないつもりだった。けれど、自分で言ったパパ活やらの言葉から芋づる式に母のことが思い出されて、傷んで凹んだ果実みたいに心の一部がしゅんとして、若干どうでもよくなってもいた。彼の瞳は桜子への心配でいっぱいに見えたのに、桜子は、自分を大切にできない気持ちになっていた。
――わたし、なんて、いらない、大切じゃない……お母さんだって……
カップのそばで震える桜子の手に、先輩は、そっと手を触れる、――否、触れそうで触れない距離で、止まった。彼のぬくもりは感じるのに、触れていない。
――こんなところで、あなたは、わたしの心を気にするの?
髪に葉っぱをつけたままの可愛い彼は、ものすごく真剣な顔と声をして、言いのけた。
「きみを死なせないためなら、俺は誘拐犯にだってなれるよ」
「……変なひと」
ふ、と桜子の唇から笑みがこぼれる。
何かが解けた。瓦解した。和解した。負けた。敗北だ。半ば無理やり喫茶店まで連れ込んだくせに、自分からは指一本も触れてこないで、このひとは。
――花咲、先輩。
桜子はほんのちょっと手を動かして先輩に触れ、そのまま思い切って桜色の髪へと進んだ。はらりと黄緑色の葉を剥ぐと、彼にとてもよく似合う飾りが現れる。
それは、一枚の桜の花びらを模していた。
「では、お邪魔します」
桜の髪留めに食まれていた葉は、桜子の指を静かに離れ、くるりと廻って、――落ちた。
4月8日
桜子は、先輩の隣で目を覚ました。
ふたりはひとつのベッドで眠っていた。が、ワンナイトラブいたしたわけではない。
そういう意味では、彼と彼女は健全だった。白かった。
でも、桜子は、すでに不健全な関係に堕ちはじめている気がする。
「ん……、おはよう、桜子ちゃん」
「おはよう、ございます、花――花泥棒、先輩」
この呼び方は、唇は、彼女が彼との契約を受け容れたことを意味した。まだ今はお試し期間だけれど、彼女の心はもう〝ここ〟にある。甲は桜子で、乙は彼。ざっくりまとめると左記のようになる契約書に、紫月桜子は、今日これからサインするのだ。
一、甲は、乙と同棲し、家庭では乙の〝お嫁さん〟のように振る舞う。
二、甲は、学校では乙の〝義理の妹〟のように振る舞う。
三、乙は、甲の衣食住ならびに生命の安全を保証する。
本契約は、甲と乙のどちらかから申し出がないかぎり、今年度終了の3月31日23時59分まで続く。家庭での呼び方は〝花泥棒先輩〟とし、学校での呼び名は〝お兄ちゃん〟とすること、そして給金やら何やらのことも取り決めてある。書面は昨日の時点で見せてもらった。
もともとバイトは始めるつもりだったので、仕事をもらえるなら好都合、しかも破格の好条件。桜子にとっては万々歳のご提案だった。
仮に性関係を求めるものでも、この待遇なら、桜子は受けてしまったかもしれない。現実には、決して性交しない、と。キスもセックスも絶対にしないと誓われているのだが。
――ともかく。
この日、桜子は、先輩に雇われた。学費や生活費のため、住み込みで働くことにした。
「好きだよ、桜子ちゃん、だいすき」
「……はい、どうも」
怠惰な朝の布団の中で、桜子は彼にハグされる。ぎゅうってされる。嫌ではない。
彼から触れてくることを、昨日、桜子はあっさりと許した。
今日も明日もその先も、拒絶しない。
『あの、ハグしていいですか、桜子さん』
『……どうぞ』
律儀に、恐る恐るというお顔とお声でハグを所望した昨日の先輩は、桜子をふわりと抱きしめた。お家に入ってすぐの玄関先でのハグ。彼からの初めての物理的接触だ。
『桜子ちゃん。……好きだよ』
彼女を包んだ腕や触れた胸元は、びっくりするくらいにしっくりときて。もしかして、紫月桜子は彼のために誂えられたお人形だったんじゃないかしらと桜子は錯覚した。
もちろん、そんなわけはないのだが。
――わたし、ほとんど知らない先輩相手に抱きしめられて、どきどきしちゃって……。淫乱かな。おかしいかな。やっぱりママの娘だねってことかな。
「花泥棒、先輩」
「んー?」
そろそろと見上げた今朝の先輩の顔は、まだのんびりと眠たそう。睫毛と眉の白色は、雪のように繊細だ。桜のお化粧を纏っていない先輩の目元は、あどけなく無防備に見える。昨日の夕方頃、お風呂上がりの先輩は『秘密だよ』と教えてくれた。髪は染めていること。睫毛と眉は毎朝お化粧で色をつけていること。これは〝願掛けと誓い〟なのだということ。
『今度の桜子ちゃんのことは、俺が守ったげるからねー』
『……はい』
守ったげるだなんて、また大げさな、と。先輩ったらやっぱり厨二病なのねと。ちょっと前なら呆れていたかもしれない。
でも、自分のスマホをぎゅっと握りしめていた昨日その時の桜子は、何も言い返すことができなかった。とあるメールを受信したばかりだったからだ。
学校からの連絡メール。不審者情報。
露出狂が出たが、迅速な通報により捕まったとの内容。
そいつが現れたのは桜子の家の近所で、もしも先輩と関わらずに直帰していたら、遭遇していたであろう時間と場所だった。
『ほんとに変態が出たんだってね、怖いねぇ』
『そう、ですね』
『あ、そーだ。入学祝いにケーキ買っておいたんだ。一緒に食べよっか』
『……ええ、いただきます』
入学祝いのケーキなんて、新入生の桜子なんかが来なければいらないものを。わざわざ彼は、ひとり暮らしの家に準備していた。
冷蔵庫でひんやり冷やされていたふわふわ苺ショートが、やけに可愛らしいお皿とお盆に乗って、銀のフォークと一緒にやってくる。
――桜子ちゃんは、今日、このまま家に帰ると――
――近所に出現する露出狂に襲われかけて、心に深い傷を負うんだ。
――きみは、四月一日を迎えずに、死ぬ。今年度中、高校一年生の年に。
――でも、絶対に俺が守るから――桜子ちゃん――
『はい、桜子ちゃん。あーん』
『…………ん』
おかしい。絶対にオカシイ。このひとは、おかしい。
もしかすると彼こそストーカーや誘拐犯になりかねない変態さんなのかもしれない。そうでなくとも、このひとは、桜子の方をおかしくする。駄目にする。わかっている。
男に寄生して生きてきた、たくさんの男を家に連れてきたあの母に育てられた娘の理性が、この男はいけないと告げていた。
――それでも、わたしは、
「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします。一年間、あなたのお嫁さんになります。妹になります」
「……っ、ほんと? 契約してくれるの?」
「はい」
――あなたに惹かれてしまったから。あなたは、わたしのヒーローだから。
誰かに危険から守ってもらうなんて、助けてもらうなんて、初めてのことだった。
――犯罪者に遭わないよう、匿ってくれた。わたしと一緒にケーキを食べてくれた。
嫌なことばかりの人生で、初めて、ちょっといいかなと惹かれたひとだった。
好きになれそうなひとだった。
『今回は警察もちゃんと動いてくれたみたいだね。でも役に立たないこともあるから……。桜子ちゃんも知ってるでしょ?』
もちろん知っている。痛いほどに。警察は、お母さんやクラスメイトを捕まえたりしない。桜子が殴られても、蹴られても。物を盗られても。×××されても。×××××――あれ?
チクリと頭痛がした。ぎゅっと眉間に力が入っちゃうくらいの強い痛み。思わず顔を動かしたから、ズレた口元にケーキのクリームがついてしまう。
『あら、頭痛かな? 鎮痛剤あるよ。ちゃんと桜子ちゃんの体に合うやつー』
桜子の口元をティッシュで拭いながら、花泥棒先輩はにこにこと言った。
『……合う、やつ?』
『そう。桜子ちゃんが飲んでも大丈夫なやつ。保証するよ』
ねえ、先輩。あれも、これも、どうしてあなたが知っているというの?
『俺なら安心だよ、桜子ちゃん――』
ケーキを食べてお薬を飲んだ後、先輩と一緒に少女漫画を読んだ。可愛い妹キャラの出てくるお話だった。桜子のお家に漫画本なんて一冊もないから、こうして読むのは初めてだ。――あれ? わたし、
『桜子ちゃん』
お姉ちゃんと同じ人を好きになってしまった、妹の恋は報われない。
先輩のお膝に座って読んだのは、そういう展開の物語だった。ふたりの容姿はよく似ているのに、選ばれるのは主人公であるお姉ちゃんだけ。姉妹で同じように育ったのに。
「桜子ちゃん」
一泊して、無事に契約を交わした後。
生活に必要なものを取りに、桜子は一度実家のアパートへ帰ることにした。先輩も一緒だ。どうせ家庭環境も住所もバレているので、もうプライバシーだの何だのは気にしない。
ぴったりサイズの清楚なシャツワンピースを桜子に渡し、着替えさせ、彼は彼女を鏡台の前に座らせる。長い髪を梳く。
「今日の髪型は、どうしようねー」
その手付きが、慣れていた。
「髪飾りつける? ちょっと引き出し開けるから、おなか気をつけてね」
「……あ」
背後から、お腹の前に手が伸びてくる。鏡台の引き出しをすっと開ける。
これは、開けてはならない扉だったのかもしれない。
「それ――」
たくさんのアクセサリーに埋もれるように、守られるように。
一枚の写真が、ちょこんと座っていた。
「わたし、じゃない……ですよね?」
どくどくと鼓動が速くなる。だって、桜子には、彼と私服で出かけた記憶なんてない。
初めて出かけるのは、今日これからだ。
こんなふうに素敵な場所に行って、幸せそうに写真を撮ってもらったことなんてない。
ここに映っているような経験は、ない。
「この子はね、俺の恋人」
「こい、びと?」
桜子そっくりの女と彼とが、写真の四角に閉じ込められている。
紫月桜子は、花咲薫の恋人、ではないのに。――なら、これは誰?
「大好きだったのに、いなくなっちゃったの。もういないの。――ねえ、」
花泥棒先輩は、彼女を背後から抱きしめた。
梳かしたばかりの髪が彼の胸元に擦れて、くしゃりとなる。潰される。
「死なないでね、桜子ちゃん……」
昨夜もベッドの中で言われた。死なないでね。桜子ちゃん。――死にませんけど?
桜子は、そう素気なく返したものだ。
――ああ、そういうこと。
真っ赤な嘘だったのだ。一目惚れなんて。
あの少女漫画のように、容姿はよく似ていても違う。このひとと桜子は、違う。違う。
――わたしは、このひとの代わりに、ここにいる。
桜子は自分に言い聞かせた。――わたしじゃない。
うっかり芽生えはじめた恋心を封じるように。もう育たないように。
――わたしは、先輩の〝今は亡き想い人〟の身代わりであって、彼の本当の妻でもなければ義妹でもない。一目惚れ相手は、写真の中の女の子。きっとそう。
これは、そもそも嘘っ子の関係だ。
ぜんぶ、ぜんぶ、嘘なんだ。
一目惚れしました。と。
ほんの二分後に告白されることを、紫月桜子はまだ知らない。
それも、真っ赤な嘘の告白だなんて。
ひらり。ひらり。ひら、ひらり。桜の花びらが舞っている。
入学式を終えた桜子は、真新しい制服に身を包み、昇降口から校門へと歩いていた。慣れない窮屈なローファーは彼女に〝高校生感〟を感じさせ、靴音でその胸をときめかせる。
咲き誇る桜を見て、うっとりのんびりしていると……
「――あっ」
人影に気づいた。桜の木の幹に、ひとりの男子生徒が寄りかかっていたのだった。
他の新入生たちが目を奪われるように、桜子も彼の姿にハッとなる。スローモーションになって、彼をより長く見続けようとする。
彼の桜色の髪が、春風に吹かれ、陽の光に透けて煌めいた。
――きれい。
目を離してはいけない、そんな気がした。ちょっと見ないうちに消えてしまいそうな。儚い、不思議なざわめきの感覚が頬を撫でる。
――このひと、どこかで……
頭上を彩る桜とそっくりな淡いピンク色のそばに、ひらり、黄緑色の葉が舞い降りる。
それは、まるで、
「桜餅……」
思わず呟くや否や、彼が〝ばっ!〟と勢いよく顔を上げてこっちを見た。
まさか、今の距離で聞こえたの? もしかして不機嫌に? 怒らせちゃった?
と戸惑う桜子に、桜餅みたいな頭の彼はツカツカと歩み寄る。
脚長い、背高い、絶世の美男子だ。まさに平成の世に生まれし源氏……って、そんなことに感動している場合じゃなくて。『源氏物語』の主人公を思い浮かべている場合でもなくって。いわゆる不良なるお方だったら? 殴られる? 桜餅とはなんだぁ、って!
胸中ジタバタの桜子は、合成皮革の鞄の取っ手をぎゅっとした。近づいてくる彼のローファーの大きさにもまた体格差を感じて、殴られたら無事では済まないかも、と怖くなる。
「あ、あの、の……」
恐る恐る見上げると、形のいい彼の唇が、今まさにひらかれようとしていた。
笑みの気配を浮かべたまま、覚悟を乗せるように息を吸う、音がする。
――わあ。
ばっちり目が合った。
――瞳。茶色。桜の木の幹みたい……。あれ? なんか、泣きたい、逃げたい、だめ、
先輩の深呼吸が終わるより先にと声を出す。
「あ。あの、ごめ、なさい」
聞いたが最後、何かが変わってしまうような、始まるような、予感がして駄目だった。
顔を逸らそうとした桜子を繋ぎ止めるように、彼は力強く声を出す――
やわらかくも耳に残る、どこか懐かしい気がする声を。
「桜子ちゃん」
「……へっ?」
今、わたしの名前を呼んだの? と桜子は目をまんまるにする。
一瞬、彼の瞳が、心なし潤んだように見えた。
「ご入学おめでとう、桜子ちゃん」
「えっと、どうも……?」
どうして名前も知らない先輩から〝おめでとう〟されているのかしら? こてんと首を傾げる桜子だった。ネクタイの色から二年生だとはわかるけど、……知らない。
「俺の名前は、花咲薫。はなさきは〝花が咲く〟の花咲で、かおるは初夏の〝薫風〟とか源氏物語の〝薫の君〟とかの薫。桜子ちゃんより一個年上の先輩だよ」
「はあ、はい」
きっと〝はじめまして〟のかっこいい先輩は、光君ではなく薫君、花咲薫さんとおっしゃるらしい。まさに名は体を表す、しっくりくる。似合いすぎるほどだ。
奇抜な髪色も、左の前髪を彩る若葉の飾りも、全部が〝彼〟にぴったりしている。
花咲、薫。この名は、もう忘れられない。……きっと。
「これからよろしくね、紫月桜子ちゃん」
差し出された彼の手を、桜子はふるふる緊張に震えながら、とった。大きくって温かい。
「こちらこそ、よろしくお願いします。花咲先輩、あの――……あれ?」
わたしは、まだ紫月とも桜子とも名乗ってない。なのに、どうして知ってるの?
問おうとしたところで、ぽろぽろっと涙がこぼれた。
「わ、ほんと、ごめんなさい……」
自分がなんで泣いているのかわからなくて、恥ずかしくて、頬が途端に熱くなる。
「泣いちゃうし、桜餅とか言っちゃうし……どっちも勝手に出てきて、目と口からっ」
言い訳がましい。恥ずかしい、恥ずかしい。
「懐かしいな」
「な、にが、です?」
握手の体勢のまま泣く桜子に、先輩はちょっと困ったように微笑んだ。そりゃそうだ、いきなり泣かれちゃ誰だって困る。知らないひとに待ち伏せされて、いきなり名前を呼ばれるのも怖くて困るけど。
桜子は彼の手を離そうとして、けれど彼の強さから逃げられない。ぐいぐい引っぱっても解けない。まんまと捕まった。彼の美貌ゆえか、周囲の視線がぴしぴし刺さる。いたたまれない。逃げ出したい。
「ごめん、なさい、もう……」
「ひとめぼれ、したの」
「ひっ?」
「一目惚れしました。紫月桜子さん」
ぴっと涙が引っ込んで、桜子はぱちぱちと瞬きする。ヒトメボレ?
彼はキラリと完璧な笑みを見せ、
「だから今から、デートしよ」
と、桜子の手をひいた。
彼の背を見つめ、てくてくてく、ふたり駆けるように歩く。
まるで少女漫画のプロローグみたい……と桜子は妙に浮ついた。
灰色のブレザーを着こなす彼の背は広く、たくましい。なんだか懐かしい気がする。さっきの彼の言葉に影響されたのかもしれない。
学校近くの喫茶店に来た。奢られた。春限定の桜チーズケーキと、人気ドリンクのホワイトカフェオレをごちそうになった。今日入学したばかりの高校の先輩、花咲薫先輩に。
「――俺、たまに未来が視えるんだ」
なるほど、先輩は、高校二年生にして厨二病を患っておいでらしい。彼に毒見してもらったケーキを口に運びながら、桜子は、ふんわり生温かく微笑んだ。
桜子の好みを言い当ててメニューを選んでくれたことには驚いたけれど、まさか未来視なんてできるはずがない。心を読めるはずもないから、自己紹介の例えに『源氏物語』を選んだのも偶然だ。桜子の読書歴を知って言ったんじゃない。
「桜子ちゃんは、今日、このまま家に帰ると――」
近所に出現する露出狂に襲われかけて、心に深い傷を負うんだ、とのこと。
それは大変、と桜子はわざと目を見開いた。
彼のアイスコーヒーの氷が、からん、とふたりの間に爽やかな音をもたらす。
「だから、今日は家に帰らせないよ」
先輩も、爽やかな声でそう言った。まるで桜子とお泊りしたい彼氏さんか、そうでなければ、桜子をどうにかしちゃいたい誘拐犯みたいだ。
「いや、そんなことを言われても……帰らないと、両親が心配しま」
「嘘つき」
強い口ぶりに、桜子の肩はびくんと跳ねた。
あたたかみのある茶色の瞳が、彼女を暴くように射抜く。……ちょっと怖い。
「親なんていないでしょ」
「……いるもん……わたしにだって、お父さんとお母さんは、います……」
「もちろん、この世に存在はしてるだろうけど。家にはいない、絶対に帰ってこない」
「なんで……」
「俺は、きみを知ってるから。入試の日に見かけて、そっから一目惚れしたってだけじゃないよ。一年F組の紫月桜子ちゃん」
彼は真剣な目をして桜子を見つめ、告げた。
「きみは、四月一日を迎えずに、死ぬ」
「へ?」
「今年度中、高校一年生の年に」
「……へぇ」
先輩がひどく真面目くさった顔であほみたいなことを言うから、桜子は、どうしたらいいかわからなくなった。医者でもないひとから余命一年なんて告げられても……とホワイトカフェオレを口にふくみ、息をつく。甘ったるくてほんのり苦い。
「桜子ちゃん」
「はい」
「でも、絶対に俺が守るから。俺と結婚しよう」
「けっ……そんなこと、突然、言われても、困ります……」
そもそも、まだ彼は十六か十七歳で、桜子は十五歳。できる年齢じゃない。
数十分前に出会ったばかりで――たとえ彼が一月に一目惚れしたからと言って――結婚しようだなんて性急すぎる。いろいろ無理がある。
「すみませんが、お断りもうしあげます」
桜子は、言った。言いのけた。しかし彼は引き下がらない。
「じゃあ、一年間の雇用契約を結ぼうと言ったら? どうかな?」
「け……っ、契約? 雇用、契約?」
「そう、契約。きみは俺に雇われるんだ」
求婚からの雇用という話の転換に桜子はびっくりしつつ、彼の瞳をじっくりと見た。
悪意はあるか。害意はあるか。そして好意は本物か。
ぱち、と彼が瞬きすると、睫毛の長さと量がよくわかる。睫毛も眉もピンク色だ。
――きれいに澄んだ茶の瞳、と桜の髪、桜餅……
穴があきそうなほど見つめ合い、照れからか、お互いちょっとずつ逸れていく。
彼女の瞳の漆黒が、桜の髪の差し色を捉えた。あの葉色の黄緑は。
――あっ、もしかして本物の? と桜子はその時、気づく。
よくよく見たら、桜餅発言のキッカケになったあれだった。そう、若々と散った桜葉だ。なんの奇跡か、空舞う蝶々のように、彼の頭に留まったままで居たらしい。左のこめかみのあたりに馴染んでいたから、今の今まで、てっきり髪飾りか何かかと。
――ふつうの葉っぱなのに、綺麗だからって、ファッションだと勘違いするなんて。
おかしいな、取ってあげようかなと手を動かしかけ、また変な予感がして、止まる。葉っぱか、桜色の髪か、何か。触れてはいけない、と強く感じた。なぜか。
「……パパ活……援助交際……みたいな?」
誤魔化すようにカップに触れ、桜子は、へらっと笑い交じりに言う。
彼の顔が、一瞬、痛そうにチクリと歪んだ。
――あ。これは、間違えちゃった。
仮にも一目惚れ相手だ、パパ活だの援交だのとは、桜子の口から聞くのは嫌な言葉たちだったかもしれない。ずきずきと胸が痛くなる。彼の恋心にそこまで思いを馳せているつもりはないのに、心が痛い。すごく痛い。
――どうして、こんなに、
「というよりは、」先輩は、あっさりと平気そうな顔に戻って続けた。「家事バイトに近いかな。詳しい話は仕事場で――つまり俺の家でどうかなって思うんだけど」
「先輩のお家にあがれと? 今日? 今から?」
「これから現れる露出狂のこと考えると、みすみす帰らせるわけにもいかないし」
「そのネタ続けるんですね」
恋人でも家族でもない男の家にみすみすと上がり込むほど、桜子は、尻の軽い女ではないつもりだった。けれど、自分で言ったパパ活やらの言葉から芋づる式に母のことが思い出されて、傷んで凹んだ果実みたいに心の一部がしゅんとして、若干どうでもよくなってもいた。彼の瞳は桜子への心配でいっぱいに見えたのに、桜子は、自分を大切にできない気持ちになっていた。
――わたし、なんて、いらない、大切じゃない……お母さんだって……
カップのそばで震える桜子の手に、先輩は、そっと手を触れる、――否、触れそうで触れない距離で、止まった。彼のぬくもりは感じるのに、触れていない。
――こんなところで、あなたは、わたしの心を気にするの?
髪に葉っぱをつけたままの可愛い彼は、ものすごく真剣な顔と声をして、言いのけた。
「きみを死なせないためなら、俺は誘拐犯にだってなれるよ」
「……変なひと」
ふ、と桜子の唇から笑みがこぼれる。
何かが解けた。瓦解した。和解した。負けた。敗北だ。半ば無理やり喫茶店まで連れ込んだくせに、自分からは指一本も触れてこないで、このひとは。
――花咲、先輩。
桜子はほんのちょっと手を動かして先輩に触れ、そのまま思い切って桜色の髪へと進んだ。はらりと黄緑色の葉を剥ぐと、彼にとてもよく似合う飾りが現れる。
それは、一枚の桜の花びらを模していた。
「では、お邪魔します」
桜の髪留めに食まれていた葉は、桜子の指を静かに離れ、くるりと廻って、――落ちた。
4月8日
桜子は、先輩の隣で目を覚ました。
ふたりはひとつのベッドで眠っていた。が、ワンナイトラブいたしたわけではない。
そういう意味では、彼と彼女は健全だった。白かった。
でも、桜子は、すでに不健全な関係に堕ちはじめている気がする。
「ん……、おはよう、桜子ちゃん」
「おはよう、ございます、花――花泥棒、先輩」
この呼び方は、唇は、彼女が彼との契約を受け容れたことを意味した。まだ今はお試し期間だけれど、彼女の心はもう〝ここ〟にある。甲は桜子で、乙は彼。ざっくりまとめると左記のようになる契約書に、紫月桜子は、今日これからサインするのだ。
一、甲は、乙と同棲し、家庭では乙の〝お嫁さん〟のように振る舞う。
二、甲は、学校では乙の〝義理の妹〟のように振る舞う。
三、乙は、甲の衣食住ならびに生命の安全を保証する。
本契約は、甲と乙のどちらかから申し出がないかぎり、今年度終了の3月31日23時59分まで続く。家庭での呼び方は〝花泥棒先輩〟とし、学校での呼び名は〝お兄ちゃん〟とすること、そして給金やら何やらのことも取り決めてある。書面は昨日の時点で見せてもらった。
もともとバイトは始めるつもりだったので、仕事をもらえるなら好都合、しかも破格の好条件。桜子にとっては万々歳のご提案だった。
仮に性関係を求めるものでも、この待遇なら、桜子は受けてしまったかもしれない。現実には、決して性交しない、と。キスもセックスも絶対にしないと誓われているのだが。
――ともかく。
この日、桜子は、先輩に雇われた。学費や生活費のため、住み込みで働くことにした。
「好きだよ、桜子ちゃん、だいすき」
「……はい、どうも」
怠惰な朝の布団の中で、桜子は彼にハグされる。ぎゅうってされる。嫌ではない。
彼から触れてくることを、昨日、桜子はあっさりと許した。
今日も明日もその先も、拒絶しない。
『あの、ハグしていいですか、桜子さん』
『……どうぞ』
律儀に、恐る恐るというお顔とお声でハグを所望した昨日の先輩は、桜子をふわりと抱きしめた。お家に入ってすぐの玄関先でのハグ。彼からの初めての物理的接触だ。
『桜子ちゃん。……好きだよ』
彼女を包んだ腕や触れた胸元は、びっくりするくらいにしっくりときて。もしかして、紫月桜子は彼のために誂えられたお人形だったんじゃないかしらと桜子は錯覚した。
もちろん、そんなわけはないのだが。
――わたし、ほとんど知らない先輩相手に抱きしめられて、どきどきしちゃって……。淫乱かな。おかしいかな。やっぱりママの娘だねってことかな。
「花泥棒、先輩」
「んー?」
そろそろと見上げた今朝の先輩の顔は、まだのんびりと眠たそう。睫毛と眉の白色は、雪のように繊細だ。桜のお化粧を纏っていない先輩の目元は、あどけなく無防備に見える。昨日の夕方頃、お風呂上がりの先輩は『秘密だよ』と教えてくれた。髪は染めていること。睫毛と眉は毎朝お化粧で色をつけていること。これは〝願掛けと誓い〟なのだということ。
『今度の桜子ちゃんのことは、俺が守ったげるからねー』
『……はい』
守ったげるだなんて、また大げさな、と。先輩ったらやっぱり厨二病なのねと。ちょっと前なら呆れていたかもしれない。
でも、自分のスマホをぎゅっと握りしめていた昨日その時の桜子は、何も言い返すことができなかった。とあるメールを受信したばかりだったからだ。
学校からの連絡メール。不審者情報。
露出狂が出たが、迅速な通報により捕まったとの内容。
そいつが現れたのは桜子の家の近所で、もしも先輩と関わらずに直帰していたら、遭遇していたであろう時間と場所だった。
『ほんとに変態が出たんだってね、怖いねぇ』
『そう、ですね』
『あ、そーだ。入学祝いにケーキ買っておいたんだ。一緒に食べよっか』
『……ええ、いただきます』
入学祝いのケーキなんて、新入生の桜子なんかが来なければいらないものを。わざわざ彼は、ひとり暮らしの家に準備していた。
冷蔵庫でひんやり冷やされていたふわふわ苺ショートが、やけに可愛らしいお皿とお盆に乗って、銀のフォークと一緒にやってくる。
――桜子ちゃんは、今日、このまま家に帰ると――
――近所に出現する露出狂に襲われかけて、心に深い傷を負うんだ。
――きみは、四月一日を迎えずに、死ぬ。今年度中、高校一年生の年に。
――でも、絶対に俺が守るから――桜子ちゃん――
『はい、桜子ちゃん。あーん』
『…………ん』
おかしい。絶対にオカシイ。このひとは、おかしい。
もしかすると彼こそストーカーや誘拐犯になりかねない変態さんなのかもしれない。そうでなくとも、このひとは、桜子の方をおかしくする。駄目にする。わかっている。
男に寄生して生きてきた、たくさんの男を家に連れてきたあの母に育てられた娘の理性が、この男はいけないと告げていた。
――それでも、わたしは、
「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします。一年間、あなたのお嫁さんになります。妹になります」
「……っ、ほんと? 契約してくれるの?」
「はい」
――あなたに惹かれてしまったから。あなたは、わたしのヒーローだから。
誰かに危険から守ってもらうなんて、助けてもらうなんて、初めてのことだった。
――犯罪者に遭わないよう、匿ってくれた。わたしと一緒にケーキを食べてくれた。
嫌なことばかりの人生で、初めて、ちょっといいかなと惹かれたひとだった。
好きになれそうなひとだった。
『今回は警察もちゃんと動いてくれたみたいだね。でも役に立たないこともあるから……。桜子ちゃんも知ってるでしょ?』
もちろん知っている。痛いほどに。警察は、お母さんやクラスメイトを捕まえたりしない。桜子が殴られても、蹴られても。物を盗られても。×××されても。×××××――あれ?
チクリと頭痛がした。ぎゅっと眉間に力が入っちゃうくらいの強い痛み。思わず顔を動かしたから、ズレた口元にケーキのクリームがついてしまう。
『あら、頭痛かな? 鎮痛剤あるよ。ちゃんと桜子ちゃんの体に合うやつー』
桜子の口元をティッシュで拭いながら、花泥棒先輩はにこにこと言った。
『……合う、やつ?』
『そう。桜子ちゃんが飲んでも大丈夫なやつ。保証するよ』
ねえ、先輩。あれも、これも、どうしてあなたが知っているというの?
『俺なら安心だよ、桜子ちゃん――』
ケーキを食べてお薬を飲んだ後、先輩と一緒に少女漫画を読んだ。可愛い妹キャラの出てくるお話だった。桜子のお家に漫画本なんて一冊もないから、こうして読むのは初めてだ。――あれ? わたし、
『桜子ちゃん』
お姉ちゃんと同じ人を好きになってしまった、妹の恋は報われない。
先輩のお膝に座って読んだのは、そういう展開の物語だった。ふたりの容姿はよく似ているのに、選ばれるのは主人公であるお姉ちゃんだけ。姉妹で同じように育ったのに。
「桜子ちゃん」
一泊して、無事に契約を交わした後。
生活に必要なものを取りに、桜子は一度実家のアパートへ帰ることにした。先輩も一緒だ。どうせ家庭環境も住所もバレているので、もうプライバシーだの何だのは気にしない。
ぴったりサイズの清楚なシャツワンピースを桜子に渡し、着替えさせ、彼は彼女を鏡台の前に座らせる。長い髪を梳く。
「今日の髪型は、どうしようねー」
その手付きが、慣れていた。
「髪飾りつける? ちょっと引き出し開けるから、おなか気をつけてね」
「……あ」
背後から、お腹の前に手が伸びてくる。鏡台の引き出しをすっと開ける。
これは、開けてはならない扉だったのかもしれない。
「それ――」
たくさんのアクセサリーに埋もれるように、守られるように。
一枚の写真が、ちょこんと座っていた。
「わたし、じゃない……ですよね?」
どくどくと鼓動が速くなる。だって、桜子には、彼と私服で出かけた記憶なんてない。
初めて出かけるのは、今日これからだ。
こんなふうに素敵な場所に行って、幸せそうに写真を撮ってもらったことなんてない。
ここに映っているような経験は、ない。
「この子はね、俺の恋人」
「こい、びと?」
桜子そっくりの女と彼とが、写真の四角に閉じ込められている。
紫月桜子は、花咲薫の恋人、ではないのに。――なら、これは誰?
「大好きだったのに、いなくなっちゃったの。もういないの。――ねえ、」
花泥棒先輩は、彼女を背後から抱きしめた。
梳かしたばかりの髪が彼の胸元に擦れて、くしゃりとなる。潰される。
「死なないでね、桜子ちゃん……」
昨夜もベッドの中で言われた。死なないでね。桜子ちゃん。――死にませんけど?
桜子は、そう素気なく返したものだ。
――ああ、そういうこと。
真っ赤な嘘だったのだ。一目惚れなんて。
あの少女漫画のように、容姿はよく似ていても違う。このひとと桜子は、違う。違う。
――わたしは、このひとの代わりに、ここにいる。
桜子は自分に言い聞かせた。――わたしじゃない。
うっかり芽生えはじめた恋心を封じるように。もう育たないように。
――わたしは、先輩の〝今は亡き想い人〟の身代わりであって、彼の本当の妻でもなければ義妹でもない。一目惚れ相手は、写真の中の女の子。きっとそう。
これは、そもそも嘘っ子の関係だ。
ぜんぶ、ぜんぶ、嘘なんだ。
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