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〇章 花泥棒先輩と嘘
嘘つきは泥棒の始まり
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4月24日
『――大好きな子が、死んじゃったの。もういないの』
嘘つきは泥棒の始まりという言葉を、いつかどこかで聞いたことがある。
うちの花泥棒の野郎もとんでもない嘘つきなので、やっぱり嘘つきと泥棒は密接に関係しているのかもしれない。……なーんて、ね。
恋とはままならないものね。と制服のスカートの裾をつまみ手遊び、桜子はひとりため息をつく。紙パックのいちごみるくを吸いながら、今日も元気に〝お兄ちゃん〟のストーカーをやっている。また彼は中庭にいて、どこぞの女といちゃこらやっていた。
――今日のお相手は〝先輩〟ですか。へえ。また。
三年の、青柳秋穂、先輩。花泥棒に抱かれた回数ナンバーワン、と噂される女だ。
栗色の髪と派手な目元をした、花泥棒先輩の隣に居ても恥ずかしくなさそうな美人。
どうやら中学の頃から彼の知り合いで、お互いにハジメテの相手らしい。
婚約者だとかカノジョだとかとも囁かれているけれど、実際はただのセフレさん。
学校では〝アオイ姫〟とも呼ばれている。花泥棒先輩は〝青先輩〟って呼ぶ。
――ん……。紫の上と、葵の上、か……。
花咲薫が〝花泥棒〟やら〝花くん〟やら〝花先輩〟と呼ばれるように、紫月桜子は、学内で〝紫ノ姫〟と呼ばれるようになっていた。かの有名な『源氏物語』に登場する、源氏の最愛の女性、紫の上にインスパイアされたあだ名だ。青柳先輩のアオイ姫は、同じく、源氏の最初の正妻であった葵の上からきている。
桜子たちの通うこの学校は、千葉県北西部にある、私立のいわゆる自称進学校。進学実績は、たぶん、そこそこ。制服はお洒落だと評判がいい。表向きはいい子ちゃんのイメージで通しているが、花泥棒先輩を始め、学校の敷地内で隠れてセックスする生徒もいる。煙草を吸う生徒もいると聞く。風紀が乱れているんじゃないかしらと新入生の桜子ちゃんはのんきに思う。それでも日本文化の教育などに力を入れているからか、やたらと雅なあだ名を付け合ったりもする。華の高校生らしく、噂話はみんな好き。下世話であればなおのこと良い。花泥棒はその恰好の的だ。桜子もちょっと巻き込まれている。たとえば、花泥棒と紫ノ姫の義兄妹は秘めたる恋をしている、なんて噂をされている。義兄妹の件は契約上の設定であるものの、恋については、あながち間違いではない。桜子は、花泥棒先輩に、叶わない恋をしている。
――お兄ちゃん。親の離婚再婚云々で繋がった、っていう設定。わたしにも、優しい、本物のお兄ちゃんが欲しかったな。ぜったい無理だけど。
赤の他人が義理の妹を演じられるのかしらと最初の月曜には不安をおぼえていた桜子だが、結局どうにかなった。桜子の演技が上手くて、というより、彼がすごかったおかげで。
――花泥棒先輩は、えっち。クズ。どうしようもない。いろんな女の子とセックスする。とっかえひっかえ。だらしない。遊び人。人を惑わすのが得意。人心掌握に長けている。
先輩は、先日、自ら桜子に告白した。警告とも言えるかもしれない。
『俺、いろんな女の子とセックスするようなクズだから、好きになっちゃ駄目だよ』
――うん。でも。好きになっちゃったな。わたし。どんな本性でも、わたしには……
『俺の名前は、呼ばないで――』
飲み込んだ言葉と、鼓動の音色を撫でるように。桜子は自身の双丘に手を触れた。
青柳先輩のそれより貧相な気がする胸元を、きゅっと押さえる。花泥棒先輩のワイシャツとほとんど同じ匂いのするブラウスが、くしゃってなる。同じシャンプーでも、同じ柔軟剤でも、先輩は男のひとの匂いがする。まったく同じには、なれない。
『前に付き合ってた時のこと、思い出して、つらいから』
一緒に住んで、一緒の洗濯機でお洋服や下着を回していても、桜子と先輩は、男女の意味で共寝したことがない。今日も白い関係のまま朝が来た。
『桜子ちゃんとは、しないよ。絶対に』
――偽物だから、ですか。
カノジョさんに申し訳なくて、手を出せませんか。彼女そっくりのわたしには……
なんて、とても直には訊けない。桜子から〝カノジョ〟のことは、口に出せない。
煌びやかなドレッサーの中、の写真の中に閉じ込められていたお姫様。
先輩のかつての〝恋人〟さんが、今となっては羨ましい。
――死んだひとには、勝てないのにね。
先輩が、先輩と、おとなのキスをする。桜子には許されない事をする。
――生きてるひとにも、勝てないか。
桜子の唇は、まだ誰にも奪われていない。
花泥棒さえ、盗んでいない。
4月28日
生理。二日目。しんどい。つらい。
「桜子ちゃん、大丈夫?」
「だいじょばないです」
先輩の肩を借り、制服も着替えないでソファに倒れ込む。
ぽふん、とソファが大きく凹む。
「お薬のむ?」
「わたしの体に合うやつ?」
「そー」
「やだ」
お腹が痛い。腰が痛い。だるい。重い。眠い。
なんの苦行だ。なんの試練だ。
「桜子ちゃん、このままじゃスカートしわしわなるよ。プリーツ崩れちゃう」
「べつにいいです。動けないもん」
「じゃ、俺が脱がしてあげよっか?」
「勝手にしてください」
どうしようもなくイライラして、もう何もかもが嫌だった。
――恋なんて、しなきゃ、よかった……。知らないままで、よかった。
失恋したわけでもないのに。「好き」というただ二文字も、妹の演技にしか乗せていないのに。フられるところまで進めていないくせに。ほんと馬鹿。でも、だって怖い。
――ただの桜子の「好き」は、どうせ、いらないもん。
『一緒に寝て、添い寝して? 俺、桜子ちゃんが隣にいないと安眠できないの』
キスもセックスもしない先輩は、桜子をぬいぐるみや毛布みたいに抱きしめる。
『……いない時は、どうやって、寝てたんですか』
『睡眠薬。お薬に頼りすぎるのはよくないんだけどね』
ほんっとうに、どうしようもないひとだった。桜子は、所詮、カノジョとお薬の代替品。
――妹って立場は、都合がいい。家族はそういうモノだから。
先輩が桜子に学校で義妹のふりをさせるのは、それが正当な防衛理由になるから。
子どもは望まれて生まれてきて、家族は支え合うもので、愛するべき、みたいな。
桜子にはよくわからない小説の中だけで稀に見る家族愛というやつを盾にすれば、妹だからのただ一言で、花泥棒は紫ノ姫を過保護にできる。桜子も、お兄ちゃんっ子の妹の設定だからと言い訳をして「お兄ちゃん♡ だーいすきっ」と言うことができる。
女遊びや寝取りの噂が絶えない不良の愛でるお姫様となれば、気安くいじめられたりしない。気安くお友だちにもなってもらえない。桜子に友人ができないのはいつものことなので、それは気にしていない。先輩がいるならべつにいい。登下校を一緒にできるお兄ちゃんがいて幸せだ、大好きな彼と委員会も一緒なんてとても幸せだ、毎日毎日「大好き。死なないで」と言ってくれる雇用主がいるなんて幸せだ。だから、桜子は、ちゃんと幸せ。寂しくない。
かちゃ、と金具の音がして、腰回りの拘束感がゆるむ。ジジジジ……とファスナーのおりる音がする。見れば、スカートの下に穿いたハーフパンツの黒色が顔を出していた。
「えっ……なんで、勝手に脱がすんですか……?」
「勝手にしてって言われたから?」
……言ったっけ。しんどくて、おぼえていない。
「ごめん。嫌だったかな」
「嫌じゃない、です」
軽々しく腰を持ち上げられて、しゅるっと完全にスカートを脱がされてしまう。
「ハンガーかけてくるよ。お薬とお水も、待ってて」
「ありがとう、ございます……」
――いつも、いろんな女の子を脱がしてるから、慣れてるのかな。
下にハーフパンツを穿いていても、先輩に脱がされるなんて、桜子は恥ずかしくてたまらないのに。彼はまるで平気な顔だった。当たり前の色だった。
先輩がわたしの服をはだけ、脱がせる行為は、決してセックスには繋がらない。ああ、そうだ、わたしは偽物だから、妹だから、花泥棒先輩は服を脱がせるのに躊躇しない。紫月桜子は、女として見られていないのだから。
「桜子ちゃん、大丈夫?」
もしかして、他の女にも、ピルとか飲ませているのかな。せっかくわたしにもお薬を飲ませるなら、口移しという仮名のキスでもしてくれればいいのにな。
うまく飲めないで口元からだらしなくこぼれた水を、彼のワイシャツの袖口がそっと拭う。同じ柔軟剤と違う性の匂いがする。唇に触れたのは、ただの布だけ。
「……八つ当たりして、ごめんなさい……イライラしてごめんなさい、先輩……」
勝手にめそめそと涙する自分の目が、ホルモンバランスの乱れが憎たらしい。
「ん。いいよ。わかってるから。酷かったら病院も連れてくから、すぐに言ってね」
「うん……」
桜子と彼を繋ぐのは、不思議な一年契約、ただそれだけだ。
他人の空似で、ちょっと美味しい思いをしているだけなんだ。
だから、これ以上は落ちてはいけない。
この恋は、ひとりで終わらせないといけない。
――終わらせろ。
5月5日
――無理だった。
「俺も好きだよ、桜子ちゃん」
「……俺も?」水族館のレストランにて。
わかめと明太子のスパゲティをくるくるしながら、桜子は首を傾げた。
ふんわり水色のワンピースを着せてもらい、髪に白い小花の飾りをつけてもらって、桜子は先輩とデートしていた。
先週の金曜から今日までの桜子は、ご一緒にお出かけしてお食事してお金をもらうなんて、まさにパパ活だ。としょんぼりしたり、大好きな先輩がデートに誘ってくれたの嬉しいなぁ。とほわほわしたり。心がひっちゃかめっちゃか忙しかった。
煌めくイワシの大群に、意外と可愛かったナポレオンフィッシュ。光るウミホタル。ぷかぷか漂うクラゲさん。彼と手を繋いで回った水族館は、とても楽しくて。そつなく桜子をリードしてくれる先輩がかっこよくて。全部ぜんぶが素敵だった。
「も? も??」
「今の桜子ちゃんから言ってくれたのは、初めてだね」
「……もしかして、わたし、言ってしまっていましたか」
「うん。嬉しいよ」
お洒落した先輩が眦をゆるめ、今にもとろけそうに笑む。
――「好き」って。やっぱり「好き」って。あなたが「好き」だって――!
今日の桜子のお仕事は、どちらかというとお嫁さんであって義妹ではない。こちらは、愛を伝えて然るべき桜子ではない。ふたりの関係では、歪ながら、そういうモノだった。
――家族愛は当然で嘘だけど、この愛は奇跡で本当だから。
嘘っ子であるべき期間限定の関係に、永遠になりたがる愛欲は邪魔者だ。妹としての愛情は100パーセントの演技で言えても、女の恋情は心が乗るから手に余る。
――先輩は、空似のわたしを借りることで〝彼女〟が生きていた世界線を演じたいだけ。もしも〝お嫁さん〟にできたらな、って見たいだけ。消えたひとに愛されることは望んでないから、愛は諦めてしまっているから。生きてさえいればいいので演技の「好き」や「愛してる」は却って不要。……そもそも、何この雇用関係、って、意味わかんなくて、わかんないけど。だから、わたしは、ここに居るだけで、よかったはずなのに。白い結婚に、睦言はいらない、のに。
なのに、なのに。
嘘じゃない言葉を、契約違反だ、と言われなかった。桜子ちゃんのソレはいらないよって拒絶されなかった。キスはしないのに。セックスしないのに。身代わりなのに。偽物なのに。もう演技の仮面はないのに。駄目だよ桜子って自分に言い聞かせて止めてきたのに。
――ああ、自分に向けた言い訳さえ、脆くなる。
桜子自身でも気づかないうちに口を滑らせ落とした想いを、彼は、すかさず掬い上げてしまった。気づかないふりをしてくれたら、そのまま、嘘まみれの関係でいられたのに。
――言霊って、知っていますか、先輩。
桜子のことを、四月一日を迎えずに死ぬと言いのけた彼だ。知らないのかもしれない。
「好き、って、言って、いいんですか」
「もちろん、いいよ。何度でも」
――もう、もっと、好きになってしまう。
「わたし、先輩のこと、好きです」
「俺も、桜子ちゃんのことが好き。大好き」
――自分じゃ止まれないから、もう止めて、止めて。
「まだ、出会って、一ヶ月も経っていないのに……わたしは、一目惚れでもなかったのに……わたしったら、甘っちょろくて、ほんと、もう」
「うん。俺は、桜子ちゃんを愛している」
――好きだ。
このひとのことが、好きだ。好きだ。
指の一本さえ、許さなければ触れてこない。彼の優しさが好きだ。そのくせ、桜子を抱きしめないとまともに眠れない。甘えん坊さんなところが好きだ。桜子がピアスの穴をあけることを許さない、スカートを短くするのを許さない。桜子なんかを過保護にする彼が好きだ。彼と挨拶を交わす瞬間が好きだ。彼の白い睫毛を見るのが好きだ。彼に髪を梳かしてもらう時間が好きだ。彼の髪を乾かす時間が好きだ。ピンクシャンプーをして爪を桜に染めてしまった彼の手を洗う、彼の手にいっぱい触れる時間が好きだ。
「先輩に、恋、しちゃいました」
「うん。ありがとう」
この言葉にだけは、俺も恋しているよとは返してくれない。同じものは、帰ってこない。
――うん。知ってたよ。先輩は、やさしいひとだから。ここは線引きするって。
桜子は、所詮、やっぱり、彼の元恋人さんの身代わりだ。それでも。
――恋でなくとも、このひとは、わたしを大切にしてくれている。
わたしのことを慈しみ、違うかたちでも愛し、想ってくれている。
この日、桜子の恋の心臓を締めつける箍は、外れて飛んだ。
5月7日
「おはようございます。十七歳の花泥棒先輩。お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。桜子ちゃん」
「今日もかっこよくて素敵ですね。大好きです」
「俺も、桜子ちゃんのことが大好きだよ。今日も可愛いねぇ」
一度でも吐いてしまえば、その後はずっと楽になる。
「はじめまして、花咲雪美です」
「はじめまして、紫月桜子です」
黒髪美人なお姉さんと、彼の誕生日をお祝いした。
桜子は、先輩にねだられて肉じゃがをつくった。膝枕をした。
『桜子ちゃん、めっちゃ美味しい。ありがとう。……大好き』
たしかに、彼に愛されていた。
「――薫のこと、お願いね。桜子ちゃん」
「はい。命をかけて」桜子は、覚悟をこめて返事する。
雪美さんは、彼の事情を、誰よりもよく心得ているという。彼のご両親よりも、ずっと。
難しい子だけれど、と。今の桜子ちゃんにも、ある意味、酷かもしれないけれど、と。
――この一年契約から逃げないで。そう、雪美さんは桜子に告げた。
先輩がお風呂に入っている間に、いろいろな話をしてくれた。
「薫はね、桜子ちゃんのことが、好きよ」
「はい。わかります」
「ほんとうに、大好きなのよ、あの子」
「わたしも、彼を想っています。感謝しています。……先輩の小さい頃のお誕生日会のお写真、見せてくださって、ありがとうございました。可愛かったです」
「うん。あたしの弟、可愛いっしょ」
「――なぁに、姉貴、俺のことそんな可愛い? 俺かわいい?」
桜の髪を濡らした花泥棒先輩が、ニヤニヤ笑顔で戻ってきた。
秘密の女子会は、これにておしまいというわけだ。
「はいはい、可愛いかわいい。姉ちゃんのこと煽ってくるとこは可愛くないけどねッ」
「ねえねえ、桜子ちゃんも、俺のこと可愛い?」
花泥棒先輩が、桜子を背後からするりと抱きしめる。ぎゅっと甘えてくれている。
「はい、最高に可愛くて愛おしいですよ~」
「あらまあ、ラブラブねぇ」
雪美さんにウインクされ、先輩の腕の中から、桜子はにこりと笑みを返す。
――うふふ、先輩のお話、いっぱい聞けちゃった! わーい!
花咲雪美さんは、彼の過去を教えてくれる、新参者の桜子には貴重な情報提供者だった。
7月25日
その日、桜子は、先輩にひとつ秘密を告白した。
「司書さんになりたいんです……」
からん、ころん。薄青色のビー玉が、ラムネ瓶の中を遊ぶように転がる。
「わたしも、大学に……行きたいんです」
それは、紫月桜子にとって、大変な告白だった。
ぱっと思い浮かんだ、「先輩のお嫁さんになりたい」という夢は、口を噤んでしまったけれど。司書になることも、嘘じゃない、本心からの憧れだった。
「うん」――先輩の返事は、やさしい。到底、ママには言えない夢なのに。
遠くで花火の音がする。赤や緑や黄色に光る。闇夜に咲いて、儚く散る。
「先輩に拾われるまで、図書館がわたしの逃げ場でしたから、本も好きで、それで」
「知ってるよ。……きっと、なれる。桜子ちゃんは、素敵な司書さんになれるよ」
「ほんとう? 花泥棒先輩」
お家のベランダに並んだふたりの頬を、夏の夜風がそっと撫でた。
「えへへ、ありがとうございます! 今度は先輩の番ね。――あなたの夢は、なぁに」
「桜子ちゃんと、来年の桜を見ること。四月にお花見にいくこと」
「…………へ?」
間抜けな声を上げた桜子に、先輩は、こう告げてきた。
「これは、4.9パーセントの確率の夢だよ」
4.9パーセントの確率……? の夢? 確率――?
「って、なんですか? それ?」
首を傾げる桜子に、先輩は温かな声で教えてくれた。
「当たりが1パーセントのガチャを五回やって、当たりがひとつ以上出る確率だよ」
「なるほど、数学Aの範囲ですか? まだ習ってないのでよくわかんない……ですけど」
無理して温めたような、まるい、透き通った声。
「うん。わかんなくてもいいの。――四回すべて外れて、ようやく五回目に当たるって確率は1パーセントよりも低い。でも、五回目だろうと、何回目だろうと、そのときに当たりが出る確率は、やっぱり1パーセントでね。ほんとは1パーセントなんだけど、俺は、どうせ信じるなら高い確率を信じていたいから、4.9パーセントの夢だって掲げてる」
ネガティブなのか、ポジティブなのか。
桜子を心配しているのか、あるいは信じていないのか。
何かを掴もうとするように、先輩は空へと片手を伸ばした。
「……先輩が、わたしとお花見に、いきたいなら。わたしは、何度だって」
「じゃあ、約束してくれる?」
打ち上げ花火の夜の下、夏の彩りに煌めく先輩が、空から桜子へと小指を向ける。
「来年の春、四月、一緒にお花見にいってくれるって」
「――っ、はい」
彼の瞳の真っ直ぐさと、切ない雰囲気に、桜子はなんだか泣きたくなって。
「もちろん」
懐かしさと切なさが胸にこみ上げるのに、対応する記憶を取り出せない。
思い出せと心が叫ぶのに、何も頭に浮かばない。
「いいですよ。約束しましょう!」
小指を差し出し、彼の指としっかり絡め合わせ、瞬きで涙をどこかに追いやる。
ゆびきりげんまん……と歌いながら、来年の四月にかけた約束を交わした。
契約終了後の未来を願った。
――先輩から、四月より先の未来のことを言ってくれたのは。今日が、初めて。
「今度は、破らないでね」
「ええ、破りません。……あれ? わたし、なにか約束やぶったことありましたっけ?」
「んー、どうだったかなー」
「なんですかそれ!」
また彼は、はぐらかすような顔をして。
絡まった指をほどくと、桜子の頭をわしゃわしゃと掻き回すように撫でた。
――わたしが、四月一日を迎えずに死ぬ、って。確率は、そのことを言っているのかな。
きっと、悪い夢とか、そんなんなのに。
「来年の四月、お花見、絶対に行こうね」
「はい、絶対に!」
ぱっと花咲くように、季節を変えるように笑った彼に、桜子もにこにこ笑顔で返事する。
きっと来年も、桜子は先輩と一緒にいたいと願っている。
彼と一緒に桜の花を見る、きっと素敵に違いない。
――だって、こんなに大切に守られて、元気で生きて。死ぬはずが、ないじゃない。
素晴らしい彼にも秘密はある。優しい彼でも嘘をつく。彼が何かを、たくさんのことを隠しているのは、桜子だって察していた。わかったうえで一緒に暮らしていた。
登下校時も帰宅後もGPS付きのキッズケータイを持たされて、そこかしこに監視カメラの目がギョロギョロするお家で食べて寝て、もう先輩と手を繋いでいないと玄関の框をおりることもない。コンビニさえもひとりでは行けない。行かない。彼が許さないならどこにも出ない。
いつも誤魔化されるから、そのまま宙ぶらりんでいたのだ。
何も知らないふりをしたのだ。無知という罪を演じたのだ。
もっと仲良くなったら、教えてくれるかな、と。淡い期待をして生きて。
彼の覚悟に気づくことなく。
8月1日 先輩と、山梨旅行に旅立った。
『――水信玄餅、食べたいなって。水族館でクラゲさん見てた時、言ってたでしょ?』
初夏のデートの日の願いを忘れずに叶えてくれる先輩は、やっぱり素敵!
8月2日 先輩は、今日も過保護だ。
『桜子ちゃんの水着姿、他の男に見せたくないから……』
海にもプールにも行かないで、ずっと貸別荘に籠もっている。
『でも、せっかく選んだ水着だし、ふたりでお風呂に入ろっか? その、一緒に?』
先輩と、初めて一緒にお風呂に入った。裸じゃないけど、
『桜子ちゃん、世界一かわいい――』すごく、すごく、どきどきした。
8月3日 先輩と、貸別荘のお庭で水遊びをした。
『せーんぱいっ!』
彼が選んだくれたワンピースは、白と青のストライプ模様、爽やかで夏らしい。
麦わら帽子をかぶって、くるりと回ると、スカートがまるく膨らんだ。
『おいで、桜子ちゃん』先輩と一緒で、今日も、とても幸せ。もう怖いくらいに。
8月4日 先輩と、夜、手持ち花火に興じた。
『蕾、牡丹、松葉、柳、散り菊……でしたっけ』
『そう。人生に喩えることもあるんだよね』
線香花火、どっちが長持ちするかって、ふたりで勝負。
ぽっ、と先輩の火が落ちて、続いて、桜子の火も後を追うように落ちる。
『――よかった』
『なにがです?』
『桜子ちゃんの方が長持ちで、よかった』
『ほんのちょっとの差でしたけどね。負けたかったの?』
『線香花火が、人生なら。俺は、桜子ちゃんに、長生きしてほしいから』
『……わたしは、同時がいいな。べつに心中したいわけじゃないですけど、置いていかれたら、寂しいもん。だから、一緒に、同時がいい』
『わかる。置いていかれるの、めっちゃ寂しい』
わたしは、あなたを置いてはいかないよって。契約が終わって、あなたの〝お嫁さん〟じゃなくなったって、勝手に死にはしないよって。許されさえすれば、ずっと、って。
どうしたら、信じてもらえるんだろう。
どうしたら、もっと、もっと、
8月5日 先輩と、水信玄餅を食べた。
『すごい透明……ぷるぷる……可愛い……クラゲさんみたい……!』
『なんかデジャヴュだね。桜子ちゃんの方が可愛いよ』
ナポレオンフィッシュの百億倍かわいいって、あの日、水族館でも言ってくれたっけ。
『! 美味しい……! 先輩! 美味しいです! おいしい!』
『ん、美味しいねぇ』
なにかを食べたり、笑ったり、季節のものを楽しんだり、
『美味しそうに食べてる、桜子ちゃんの元気な顔。俺、大好きだよ』
そうやって、あなたと、他愛ないことをするだけで幸せ。
そう、幸せ、だった。
8月24日
その日、桜子は、実家のお風呂掃除をしていた。
――水滴って、ちっちゃい水信玄餅みたい! 可愛い! かわいい!
先輩と出かけた素敵な山梨旅行のことを思い出しながら、るんるん愉快にしゅっしゅと掃除を進める。なんとも浮かれぽんちなものだった。
彼のお家に住んでいる桜子は、夏休み以外も、一、二週間に一回のペースで実家のアパートに行っている。部屋を傷ませないようお掃除したり、郵便物を確認したりするためだ。いつも先輩という騎士様を連れて帰っていて、お母さんと遭遇したことは一度もない。
「…………あれ?」
排水溝の蓋を開け、あれれと首を傾げる。桜子の黒髪とは違う、でも見覚えのある、赤茶色の長い髪が残っていたのだ。小さい頃からよく知る髪色だった。
――最近、ママ、帰ってきてたのかなぁ。ぜんぜん会ってないなあ。
さっくり言うと育児放棄っぽい母とは、中学を卒業した頃から一度も会っていない。昔から外泊の多い女性だった。きっと今もどこかの男性の家かホテルにいる。それかデート。
――先輩のお家でお世話になってるから、いいけど……お金……――えっ?
溜まっていた髪の毛を取り出して、ぎょっとする。見えてはいけない色が見えた。
「え? えっ……? え?」
声を出してみても、落ち着かない。発散できない。
目を瞑り、また開ける。――変わらない。
赤茶色の髪の中に見えた、桜色。そう。よく知っている桜色の髪の毛が。
――なんで? お母さんの髪の毛と、先輩の髪の毛が、絡まって……? 先輩、
わたしの服や体にくっついていた彼の抜け毛が、掃除中に落ちちゃって? ――いや、猫じゃあるまいし、ここまでの量の髪がそうして集まるわけがない。実家のお風呂掃除の担当は桜子で、先輩はここに入れていない。紫月家の鍵を持っているのは桜子だけで、
――でも、お母さんは鍵、持ってる……し、先輩……数日前……出かけて、た。
雪美さんと桜子を知り合わせてから、ときどき。先輩は彼女に桜子を頼んで、家を留守にすることがあった。最高に楽しい旅行から数日後の日にも、ひとりでどこか行っていた。
『姉ちゃんと、いい子でお留守番しててね。――死なないで』
桜子を家に縫い付けたまま。桜子をまた置いていって。
――でも、でも、お母さん、家にいたの、生理で、彼氏やセフレとセックスできないから、帰ってきたかもしんなくて、だから、
お風呂掃除を済ませて、桜子はトイレへと向かう。サニタリーボックスの中身を見る。
――あ。
駄目だ。騙せない。悪化した。
そこに捨てられていたのは、ナプキンではなく、使用済みのコンドームだった。中身のゴムを見たのは初めてだけれど、小袋のパッケージは見覚えがある。
――先輩の鞄に、あったのと、同じやつ……
彼のスクールバッグから英単語帳を借りようとした時にも見かけた。0.02㎜。
違うかもしれないけど、違うかもしれないけど。
「――っ、せ、せんぱい!」
「お、どうしたの、桜子ちゃん。おばけでもいた?」
何もかもをトイレットペーパーでぐるぐるぐると包んでから捨て、両手を念入りに念入りに洗ってから。桜子は、リビングを掃除していた先輩に背後から抱きついた。
「先輩、せんぱい、わたしのお母さんと、会ったこと、ないですよね……?」
「うん。ないよ」
「ですよね……うん……」そりゃそうだ。あったとしても、言うわけない。
「大丈夫だよ。きっと、今日も帰ってこないから」
「うん……」桜子は先輩の背中にぐりぐりと前髪を押しつけ、ぐしゃぐしゃにした。
――先輩は、えっち。遊び人。わたし以外の女の子のことは、すぐに抱く。
わかっていても、さすがに、これは。この疑いは、この想像は、きつかった。
どうか徹底的に否定してほしい。甘やかして忘れさせてほしい。
先輩に責任がなくても、本当に何もしていなくても。
――ママと、先輩が、ソウイウ関係なのは、……やだよ。
桜子は、彼を信じていたい。
8月25日
夜中に、ママと先輩がシているっていう悪夢を見て。耐えきれなくて。
「……はっ……あっ、あぁ……っあ……ゔっ……」
「桜子ちゃん……」
トイレに駆け込んで嘔吐した桜子の背をさする、先輩の手を。
このひとのぬくもりを、もう、桜子は独り占めしてしまいたかった。
――なんで、こんなに、手慣れてるの?
吐いて、泣いて、みっともない桜子からも、先輩は離れないでいてくれた。
――看病みたいだ。まるで、わたしが病人みたいだ。オカシイみたいだ。
「……はぁ……はぁ……ぁ……」
「落ち着いた? 口ゆすいで、うがいしよっか? お水もってくるまで待てる?」
「……せんぱ……い……」
「ん。どうした?」
「ごめん、なさい……ごめんなさい……こんな……ごめ……」
「大丈夫。いいよ」
優しすぎて、つらい。いっそ苦しい。
彼のことが大好きで、大好きで、もう、どうしようもない。
こんなに怪しいひとなのに。
『――大好きな子が、死んじゃったの。もういないの』
嘘つきは泥棒の始まりという言葉を、いつかどこかで聞いたことがある。
うちの花泥棒の野郎もとんでもない嘘つきなので、やっぱり嘘つきと泥棒は密接に関係しているのかもしれない。……なーんて、ね。
恋とはままならないものね。と制服のスカートの裾をつまみ手遊び、桜子はひとりため息をつく。紙パックのいちごみるくを吸いながら、今日も元気に〝お兄ちゃん〟のストーカーをやっている。また彼は中庭にいて、どこぞの女といちゃこらやっていた。
――今日のお相手は〝先輩〟ですか。へえ。また。
三年の、青柳秋穂、先輩。花泥棒に抱かれた回数ナンバーワン、と噂される女だ。
栗色の髪と派手な目元をした、花泥棒先輩の隣に居ても恥ずかしくなさそうな美人。
どうやら中学の頃から彼の知り合いで、お互いにハジメテの相手らしい。
婚約者だとかカノジョだとかとも囁かれているけれど、実際はただのセフレさん。
学校では〝アオイ姫〟とも呼ばれている。花泥棒先輩は〝青先輩〟って呼ぶ。
――ん……。紫の上と、葵の上、か……。
花咲薫が〝花泥棒〟やら〝花くん〟やら〝花先輩〟と呼ばれるように、紫月桜子は、学内で〝紫ノ姫〟と呼ばれるようになっていた。かの有名な『源氏物語』に登場する、源氏の最愛の女性、紫の上にインスパイアされたあだ名だ。青柳先輩のアオイ姫は、同じく、源氏の最初の正妻であった葵の上からきている。
桜子たちの通うこの学校は、千葉県北西部にある、私立のいわゆる自称進学校。進学実績は、たぶん、そこそこ。制服はお洒落だと評判がいい。表向きはいい子ちゃんのイメージで通しているが、花泥棒先輩を始め、学校の敷地内で隠れてセックスする生徒もいる。煙草を吸う生徒もいると聞く。風紀が乱れているんじゃないかしらと新入生の桜子ちゃんはのんきに思う。それでも日本文化の教育などに力を入れているからか、やたらと雅なあだ名を付け合ったりもする。華の高校生らしく、噂話はみんな好き。下世話であればなおのこと良い。花泥棒はその恰好の的だ。桜子もちょっと巻き込まれている。たとえば、花泥棒と紫ノ姫の義兄妹は秘めたる恋をしている、なんて噂をされている。義兄妹の件は契約上の設定であるものの、恋については、あながち間違いではない。桜子は、花泥棒先輩に、叶わない恋をしている。
――お兄ちゃん。親の離婚再婚云々で繋がった、っていう設定。わたしにも、優しい、本物のお兄ちゃんが欲しかったな。ぜったい無理だけど。
赤の他人が義理の妹を演じられるのかしらと最初の月曜には不安をおぼえていた桜子だが、結局どうにかなった。桜子の演技が上手くて、というより、彼がすごかったおかげで。
――花泥棒先輩は、えっち。クズ。どうしようもない。いろんな女の子とセックスする。とっかえひっかえ。だらしない。遊び人。人を惑わすのが得意。人心掌握に長けている。
先輩は、先日、自ら桜子に告白した。警告とも言えるかもしれない。
『俺、いろんな女の子とセックスするようなクズだから、好きになっちゃ駄目だよ』
――うん。でも。好きになっちゃったな。わたし。どんな本性でも、わたしには……
『俺の名前は、呼ばないで――』
飲み込んだ言葉と、鼓動の音色を撫でるように。桜子は自身の双丘に手を触れた。
青柳先輩のそれより貧相な気がする胸元を、きゅっと押さえる。花泥棒先輩のワイシャツとほとんど同じ匂いのするブラウスが、くしゃってなる。同じシャンプーでも、同じ柔軟剤でも、先輩は男のひとの匂いがする。まったく同じには、なれない。
『前に付き合ってた時のこと、思い出して、つらいから』
一緒に住んで、一緒の洗濯機でお洋服や下着を回していても、桜子と先輩は、男女の意味で共寝したことがない。今日も白い関係のまま朝が来た。
『桜子ちゃんとは、しないよ。絶対に』
――偽物だから、ですか。
カノジョさんに申し訳なくて、手を出せませんか。彼女そっくりのわたしには……
なんて、とても直には訊けない。桜子から〝カノジョ〟のことは、口に出せない。
煌びやかなドレッサーの中、の写真の中に閉じ込められていたお姫様。
先輩のかつての〝恋人〟さんが、今となっては羨ましい。
――死んだひとには、勝てないのにね。
先輩が、先輩と、おとなのキスをする。桜子には許されない事をする。
――生きてるひとにも、勝てないか。
桜子の唇は、まだ誰にも奪われていない。
花泥棒さえ、盗んでいない。
4月28日
生理。二日目。しんどい。つらい。
「桜子ちゃん、大丈夫?」
「だいじょばないです」
先輩の肩を借り、制服も着替えないでソファに倒れ込む。
ぽふん、とソファが大きく凹む。
「お薬のむ?」
「わたしの体に合うやつ?」
「そー」
「やだ」
お腹が痛い。腰が痛い。だるい。重い。眠い。
なんの苦行だ。なんの試練だ。
「桜子ちゃん、このままじゃスカートしわしわなるよ。プリーツ崩れちゃう」
「べつにいいです。動けないもん」
「じゃ、俺が脱がしてあげよっか?」
「勝手にしてください」
どうしようもなくイライラして、もう何もかもが嫌だった。
――恋なんて、しなきゃ、よかった……。知らないままで、よかった。
失恋したわけでもないのに。「好き」というただ二文字も、妹の演技にしか乗せていないのに。フられるところまで進めていないくせに。ほんと馬鹿。でも、だって怖い。
――ただの桜子の「好き」は、どうせ、いらないもん。
『一緒に寝て、添い寝して? 俺、桜子ちゃんが隣にいないと安眠できないの』
キスもセックスもしない先輩は、桜子をぬいぐるみや毛布みたいに抱きしめる。
『……いない時は、どうやって、寝てたんですか』
『睡眠薬。お薬に頼りすぎるのはよくないんだけどね』
ほんっとうに、どうしようもないひとだった。桜子は、所詮、カノジョとお薬の代替品。
――妹って立場は、都合がいい。家族はそういうモノだから。
先輩が桜子に学校で義妹のふりをさせるのは、それが正当な防衛理由になるから。
子どもは望まれて生まれてきて、家族は支え合うもので、愛するべき、みたいな。
桜子にはよくわからない小説の中だけで稀に見る家族愛というやつを盾にすれば、妹だからのただ一言で、花泥棒は紫ノ姫を過保護にできる。桜子も、お兄ちゃんっ子の妹の設定だからと言い訳をして「お兄ちゃん♡ だーいすきっ」と言うことができる。
女遊びや寝取りの噂が絶えない不良の愛でるお姫様となれば、気安くいじめられたりしない。気安くお友だちにもなってもらえない。桜子に友人ができないのはいつものことなので、それは気にしていない。先輩がいるならべつにいい。登下校を一緒にできるお兄ちゃんがいて幸せだ、大好きな彼と委員会も一緒なんてとても幸せだ、毎日毎日「大好き。死なないで」と言ってくれる雇用主がいるなんて幸せだ。だから、桜子は、ちゃんと幸せ。寂しくない。
かちゃ、と金具の音がして、腰回りの拘束感がゆるむ。ジジジジ……とファスナーのおりる音がする。見れば、スカートの下に穿いたハーフパンツの黒色が顔を出していた。
「えっ……なんで、勝手に脱がすんですか……?」
「勝手にしてって言われたから?」
……言ったっけ。しんどくて、おぼえていない。
「ごめん。嫌だったかな」
「嫌じゃない、です」
軽々しく腰を持ち上げられて、しゅるっと完全にスカートを脱がされてしまう。
「ハンガーかけてくるよ。お薬とお水も、待ってて」
「ありがとう、ございます……」
――いつも、いろんな女の子を脱がしてるから、慣れてるのかな。
下にハーフパンツを穿いていても、先輩に脱がされるなんて、桜子は恥ずかしくてたまらないのに。彼はまるで平気な顔だった。当たり前の色だった。
先輩がわたしの服をはだけ、脱がせる行為は、決してセックスには繋がらない。ああ、そうだ、わたしは偽物だから、妹だから、花泥棒先輩は服を脱がせるのに躊躇しない。紫月桜子は、女として見られていないのだから。
「桜子ちゃん、大丈夫?」
もしかして、他の女にも、ピルとか飲ませているのかな。せっかくわたしにもお薬を飲ませるなら、口移しという仮名のキスでもしてくれればいいのにな。
うまく飲めないで口元からだらしなくこぼれた水を、彼のワイシャツの袖口がそっと拭う。同じ柔軟剤と違う性の匂いがする。唇に触れたのは、ただの布だけ。
「……八つ当たりして、ごめんなさい……イライラしてごめんなさい、先輩……」
勝手にめそめそと涙する自分の目が、ホルモンバランスの乱れが憎たらしい。
「ん。いいよ。わかってるから。酷かったら病院も連れてくから、すぐに言ってね」
「うん……」
桜子と彼を繋ぐのは、不思議な一年契約、ただそれだけだ。
他人の空似で、ちょっと美味しい思いをしているだけなんだ。
だから、これ以上は落ちてはいけない。
この恋は、ひとりで終わらせないといけない。
――終わらせろ。
5月5日
――無理だった。
「俺も好きだよ、桜子ちゃん」
「……俺も?」水族館のレストランにて。
わかめと明太子のスパゲティをくるくるしながら、桜子は首を傾げた。
ふんわり水色のワンピースを着せてもらい、髪に白い小花の飾りをつけてもらって、桜子は先輩とデートしていた。
先週の金曜から今日までの桜子は、ご一緒にお出かけしてお食事してお金をもらうなんて、まさにパパ活だ。としょんぼりしたり、大好きな先輩がデートに誘ってくれたの嬉しいなぁ。とほわほわしたり。心がひっちゃかめっちゃか忙しかった。
煌めくイワシの大群に、意外と可愛かったナポレオンフィッシュ。光るウミホタル。ぷかぷか漂うクラゲさん。彼と手を繋いで回った水族館は、とても楽しくて。そつなく桜子をリードしてくれる先輩がかっこよくて。全部ぜんぶが素敵だった。
「も? も??」
「今の桜子ちゃんから言ってくれたのは、初めてだね」
「……もしかして、わたし、言ってしまっていましたか」
「うん。嬉しいよ」
お洒落した先輩が眦をゆるめ、今にもとろけそうに笑む。
――「好き」って。やっぱり「好き」って。あなたが「好き」だって――!
今日の桜子のお仕事は、どちらかというとお嫁さんであって義妹ではない。こちらは、愛を伝えて然るべき桜子ではない。ふたりの関係では、歪ながら、そういうモノだった。
――家族愛は当然で嘘だけど、この愛は奇跡で本当だから。
嘘っ子であるべき期間限定の関係に、永遠になりたがる愛欲は邪魔者だ。妹としての愛情は100パーセントの演技で言えても、女の恋情は心が乗るから手に余る。
――先輩は、空似のわたしを借りることで〝彼女〟が生きていた世界線を演じたいだけ。もしも〝お嫁さん〟にできたらな、って見たいだけ。消えたひとに愛されることは望んでないから、愛は諦めてしまっているから。生きてさえいればいいので演技の「好き」や「愛してる」は却って不要。……そもそも、何この雇用関係、って、意味わかんなくて、わかんないけど。だから、わたしは、ここに居るだけで、よかったはずなのに。白い結婚に、睦言はいらない、のに。
なのに、なのに。
嘘じゃない言葉を、契約違反だ、と言われなかった。桜子ちゃんのソレはいらないよって拒絶されなかった。キスはしないのに。セックスしないのに。身代わりなのに。偽物なのに。もう演技の仮面はないのに。駄目だよ桜子って自分に言い聞かせて止めてきたのに。
――ああ、自分に向けた言い訳さえ、脆くなる。
桜子自身でも気づかないうちに口を滑らせ落とした想いを、彼は、すかさず掬い上げてしまった。気づかないふりをしてくれたら、そのまま、嘘まみれの関係でいられたのに。
――言霊って、知っていますか、先輩。
桜子のことを、四月一日を迎えずに死ぬと言いのけた彼だ。知らないのかもしれない。
「好き、って、言って、いいんですか」
「もちろん、いいよ。何度でも」
――もう、もっと、好きになってしまう。
「わたし、先輩のこと、好きです」
「俺も、桜子ちゃんのことが好き。大好き」
――自分じゃ止まれないから、もう止めて、止めて。
「まだ、出会って、一ヶ月も経っていないのに……わたしは、一目惚れでもなかったのに……わたしったら、甘っちょろくて、ほんと、もう」
「うん。俺は、桜子ちゃんを愛している」
――好きだ。
このひとのことが、好きだ。好きだ。
指の一本さえ、許さなければ触れてこない。彼の優しさが好きだ。そのくせ、桜子を抱きしめないとまともに眠れない。甘えん坊さんなところが好きだ。桜子がピアスの穴をあけることを許さない、スカートを短くするのを許さない。桜子なんかを過保護にする彼が好きだ。彼と挨拶を交わす瞬間が好きだ。彼の白い睫毛を見るのが好きだ。彼に髪を梳かしてもらう時間が好きだ。彼の髪を乾かす時間が好きだ。ピンクシャンプーをして爪を桜に染めてしまった彼の手を洗う、彼の手にいっぱい触れる時間が好きだ。
「先輩に、恋、しちゃいました」
「うん。ありがとう」
この言葉にだけは、俺も恋しているよとは返してくれない。同じものは、帰ってこない。
――うん。知ってたよ。先輩は、やさしいひとだから。ここは線引きするって。
桜子は、所詮、やっぱり、彼の元恋人さんの身代わりだ。それでも。
――恋でなくとも、このひとは、わたしを大切にしてくれている。
わたしのことを慈しみ、違うかたちでも愛し、想ってくれている。
この日、桜子の恋の心臓を締めつける箍は、外れて飛んだ。
5月7日
「おはようございます。十七歳の花泥棒先輩。お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。桜子ちゃん」
「今日もかっこよくて素敵ですね。大好きです」
「俺も、桜子ちゃんのことが大好きだよ。今日も可愛いねぇ」
一度でも吐いてしまえば、その後はずっと楽になる。
「はじめまして、花咲雪美です」
「はじめまして、紫月桜子です」
黒髪美人なお姉さんと、彼の誕生日をお祝いした。
桜子は、先輩にねだられて肉じゃがをつくった。膝枕をした。
『桜子ちゃん、めっちゃ美味しい。ありがとう。……大好き』
たしかに、彼に愛されていた。
「――薫のこと、お願いね。桜子ちゃん」
「はい。命をかけて」桜子は、覚悟をこめて返事する。
雪美さんは、彼の事情を、誰よりもよく心得ているという。彼のご両親よりも、ずっと。
難しい子だけれど、と。今の桜子ちゃんにも、ある意味、酷かもしれないけれど、と。
――この一年契約から逃げないで。そう、雪美さんは桜子に告げた。
先輩がお風呂に入っている間に、いろいろな話をしてくれた。
「薫はね、桜子ちゃんのことが、好きよ」
「はい。わかります」
「ほんとうに、大好きなのよ、あの子」
「わたしも、彼を想っています。感謝しています。……先輩の小さい頃のお誕生日会のお写真、見せてくださって、ありがとうございました。可愛かったです」
「うん。あたしの弟、可愛いっしょ」
「――なぁに、姉貴、俺のことそんな可愛い? 俺かわいい?」
桜の髪を濡らした花泥棒先輩が、ニヤニヤ笑顔で戻ってきた。
秘密の女子会は、これにておしまいというわけだ。
「はいはい、可愛いかわいい。姉ちゃんのこと煽ってくるとこは可愛くないけどねッ」
「ねえねえ、桜子ちゃんも、俺のこと可愛い?」
花泥棒先輩が、桜子を背後からするりと抱きしめる。ぎゅっと甘えてくれている。
「はい、最高に可愛くて愛おしいですよ~」
「あらまあ、ラブラブねぇ」
雪美さんにウインクされ、先輩の腕の中から、桜子はにこりと笑みを返す。
――うふふ、先輩のお話、いっぱい聞けちゃった! わーい!
花咲雪美さんは、彼の過去を教えてくれる、新参者の桜子には貴重な情報提供者だった。
7月25日
その日、桜子は、先輩にひとつ秘密を告白した。
「司書さんになりたいんです……」
からん、ころん。薄青色のビー玉が、ラムネ瓶の中を遊ぶように転がる。
「わたしも、大学に……行きたいんです」
それは、紫月桜子にとって、大変な告白だった。
ぱっと思い浮かんだ、「先輩のお嫁さんになりたい」という夢は、口を噤んでしまったけれど。司書になることも、嘘じゃない、本心からの憧れだった。
「うん」――先輩の返事は、やさしい。到底、ママには言えない夢なのに。
遠くで花火の音がする。赤や緑や黄色に光る。闇夜に咲いて、儚く散る。
「先輩に拾われるまで、図書館がわたしの逃げ場でしたから、本も好きで、それで」
「知ってるよ。……きっと、なれる。桜子ちゃんは、素敵な司書さんになれるよ」
「ほんとう? 花泥棒先輩」
お家のベランダに並んだふたりの頬を、夏の夜風がそっと撫でた。
「えへへ、ありがとうございます! 今度は先輩の番ね。――あなたの夢は、なぁに」
「桜子ちゃんと、来年の桜を見ること。四月にお花見にいくこと」
「…………へ?」
間抜けな声を上げた桜子に、先輩は、こう告げてきた。
「これは、4.9パーセントの確率の夢だよ」
4.9パーセントの確率……? の夢? 確率――?
「って、なんですか? それ?」
首を傾げる桜子に、先輩は温かな声で教えてくれた。
「当たりが1パーセントのガチャを五回やって、当たりがひとつ以上出る確率だよ」
「なるほど、数学Aの範囲ですか? まだ習ってないのでよくわかんない……ですけど」
無理して温めたような、まるい、透き通った声。
「うん。わかんなくてもいいの。――四回すべて外れて、ようやく五回目に当たるって確率は1パーセントよりも低い。でも、五回目だろうと、何回目だろうと、そのときに当たりが出る確率は、やっぱり1パーセントでね。ほんとは1パーセントなんだけど、俺は、どうせ信じるなら高い確率を信じていたいから、4.9パーセントの夢だって掲げてる」
ネガティブなのか、ポジティブなのか。
桜子を心配しているのか、あるいは信じていないのか。
何かを掴もうとするように、先輩は空へと片手を伸ばした。
「……先輩が、わたしとお花見に、いきたいなら。わたしは、何度だって」
「じゃあ、約束してくれる?」
打ち上げ花火の夜の下、夏の彩りに煌めく先輩が、空から桜子へと小指を向ける。
「来年の春、四月、一緒にお花見にいってくれるって」
「――っ、はい」
彼の瞳の真っ直ぐさと、切ない雰囲気に、桜子はなんだか泣きたくなって。
「もちろん」
懐かしさと切なさが胸にこみ上げるのに、対応する記憶を取り出せない。
思い出せと心が叫ぶのに、何も頭に浮かばない。
「いいですよ。約束しましょう!」
小指を差し出し、彼の指としっかり絡め合わせ、瞬きで涙をどこかに追いやる。
ゆびきりげんまん……と歌いながら、来年の四月にかけた約束を交わした。
契約終了後の未来を願った。
――先輩から、四月より先の未来のことを言ってくれたのは。今日が、初めて。
「今度は、破らないでね」
「ええ、破りません。……あれ? わたし、なにか約束やぶったことありましたっけ?」
「んー、どうだったかなー」
「なんですかそれ!」
また彼は、はぐらかすような顔をして。
絡まった指をほどくと、桜子の頭をわしゃわしゃと掻き回すように撫でた。
――わたしが、四月一日を迎えずに死ぬ、って。確率は、そのことを言っているのかな。
きっと、悪い夢とか、そんなんなのに。
「来年の四月、お花見、絶対に行こうね」
「はい、絶対に!」
ぱっと花咲くように、季節を変えるように笑った彼に、桜子もにこにこ笑顔で返事する。
きっと来年も、桜子は先輩と一緒にいたいと願っている。
彼と一緒に桜の花を見る、きっと素敵に違いない。
――だって、こんなに大切に守られて、元気で生きて。死ぬはずが、ないじゃない。
素晴らしい彼にも秘密はある。優しい彼でも嘘をつく。彼が何かを、たくさんのことを隠しているのは、桜子だって察していた。わかったうえで一緒に暮らしていた。
登下校時も帰宅後もGPS付きのキッズケータイを持たされて、そこかしこに監視カメラの目がギョロギョロするお家で食べて寝て、もう先輩と手を繋いでいないと玄関の框をおりることもない。コンビニさえもひとりでは行けない。行かない。彼が許さないならどこにも出ない。
いつも誤魔化されるから、そのまま宙ぶらりんでいたのだ。
何も知らないふりをしたのだ。無知という罪を演じたのだ。
もっと仲良くなったら、教えてくれるかな、と。淡い期待をして生きて。
彼の覚悟に気づくことなく。
8月1日 先輩と、山梨旅行に旅立った。
『――水信玄餅、食べたいなって。水族館でクラゲさん見てた時、言ってたでしょ?』
初夏のデートの日の願いを忘れずに叶えてくれる先輩は、やっぱり素敵!
8月2日 先輩は、今日も過保護だ。
『桜子ちゃんの水着姿、他の男に見せたくないから……』
海にもプールにも行かないで、ずっと貸別荘に籠もっている。
『でも、せっかく選んだ水着だし、ふたりでお風呂に入ろっか? その、一緒に?』
先輩と、初めて一緒にお風呂に入った。裸じゃないけど、
『桜子ちゃん、世界一かわいい――』すごく、すごく、どきどきした。
8月3日 先輩と、貸別荘のお庭で水遊びをした。
『せーんぱいっ!』
彼が選んだくれたワンピースは、白と青のストライプ模様、爽やかで夏らしい。
麦わら帽子をかぶって、くるりと回ると、スカートがまるく膨らんだ。
『おいで、桜子ちゃん』先輩と一緒で、今日も、とても幸せ。もう怖いくらいに。
8月4日 先輩と、夜、手持ち花火に興じた。
『蕾、牡丹、松葉、柳、散り菊……でしたっけ』
『そう。人生に喩えることもあるんだよね』
線香花火、どっちが長持ちするかって、ふたりで勝負。
ぽっ、と先輩の火が落ちて、続いて、桜子の火も後を追うように落ちる。
『――よかった』
『なにがです?』
『桜子ちゃんの方が長持ちで、よかった』
『ほんのちょっとの差でしたけどね。負けたかったの?』
『線香花火が、人生なら。俺は、桜子ちゃんに、長生きしてほしいから』
『……わたしは、同時がいいな。べつに心中したいわけじゃないですけど、置いていかれたら、寂しいもん。だから、一緒に、同時がいい』
『わかる。置いていかれるの、めっちゃ寂しい』
わたしは、あなたを置いてはいかないよって。契約が終わって、あなたの〝お嫁さん〟じゃなくなったって、勝手に死にはしないよって。許されさえすれば、ずっと、って。
どうしたら、信じてもらえるんだろう。
どうしたら、もっと、もっと、
8月5日 先輩と、水信玄餅を食べた。
『すごい透明……ぷるぷる……可愛い……クラゲさんみたい……!』
『なんかデジャヴュだね。桜子ちゃんの方が可愛いよ』
ナポレオンフィッシュの百億倍かわいいって、あの日、水族館でも言ってくれたっけ。
『! 美味しい……! 先輩! 美味しいです! おいしい!』
『ん、美味しいねぇ』
なにかを食べたり、笑ったり、季節のものを楽しんだり、
『美味しそうに食べてる、桜子ちゃんの元気な顔。俺、大好きだよ』
そうやって、あなたと、他愛ないことをするだけで幸せ。
そう、幸せ、だった。
8月24日
その日、桜子は、実家のお風呂掃除をしていた。
――水滴って、ちっちゃい水信玄餅みたい! 可愛い! かわいい!
先輩と出かけた素敵な山梨旅行のことを思い出しながら、るんるん愉快にしゅっしゅと掃除を進める。なんとも浮かれぽんちなものだった。
彼のお家に住んでいる桜子は、夏休み以外も、一、二週間に一回のペースで実家のアパートに行っている。部屋を傷ませないようお掃除したり、郵便物を確認したりするためだ。いつも先輩という騎士様を連れて帰っていて、お母さんと遭遇したことは一度もない。
「…………あれ?」
排水溝の蓋を開け、あれれと首を傾げる。桜子の黒髪とは違う、でも見覚えのある、赤茶色の長い髪が残っていたのだ。小さい頃からよく知る髪色だった。
――最近、ママ、帰ってきてたのかなぁ。ぜんぜん会ってないなあ。
さっくり言うと育児放棄っぽい母とは、中学を卒業した頃から一度も会っていない。昔から外泊の多い女性だった。きっと今もどこかの男性の家かホテルにいる。それかデート。
――先輩のお家でお世話になってるから、いいけど……お金……――えっ?
溜まっていた髪の毛を取り出して、ぎょっとする。見えてはいけない色が見えた。
「え? えっ……? え?」
声を出してみても、落ち着かない。発散できない。
目を瞑り、また開ける。――変わらない。
赤茶色の髪の中に見えた、桜色。そう。よく知っている桜色の髪の毛が。
――なんで? お母さんの髪の毛と、先輩の髪の毛が、絡まって……? 先輩、
わたしの服や体にくっついていた彼の抜け毛が、掃除中に落ちちゃって? ――いや、猫じゃあるまいし、ここまでの量の髪がそうして集まるわけがない。実家のお風呂掃除の担当は桜子で、先輩はここに入れていない。紫月家の鍵を持っているのは桜子だけで、
――でも、お母さんは鍵、持ってる……し、先輩……数日前……出かけて、た。
雪美さんと桜子を知り合わせてから、ときどき。先輩は彼女に桜子を頼んで、家を留守にすることがあった。最高に楽しい旅行から数日後の日にも、ひとりでどこか行っていた。
『姉ちゃんと、いい子でお留守番しててね。――死なないで』
桜子を家に縫い付けたまま。桜子をまた置いていって。
――でも、でも、お母さん、家にいたの、生理で、彼氏やセフレとセックスできないから、帰ってきたかもしんなくて、だから、
お風呂掃除を済ませて、桜子はトイレへと向かう。サニタリーボックスの中身を見る。
――あ。
駄目だ。騙せない。悪化した。
そこに捨てられていたのは、ナプキンではなく、使用済みのコンドームだった。中身のゴムを見たのは初めてだけれど、小袋のパッケージは見覚えがある。
――先輩の鞄に、あったのと、同じやつ……
彼のスクールバッグから英単語帳を借りようとした時にも見かけた。0.02㎜。
違うかもしれないけど、違うかもしれないけど。
「――っ、せ、せんぱい!」
「お、どうしたの、桜子ちゃん。おばけでもいた?」
何もかもをトイレットペーパーでぐるぐるぐると包んでから捨て、両手を念入りに念入りに洗ってから。桜子は、リビングを掃除していた先輩に背後から抱きついた。
「先輩、せんぱい、わたしのお母さんと、会ったこと、ないですよね……?」
「うん。ないよ」
「ですよね……うん……」そりゃそうだ。あったとしても、言うわけない。
「大丈夫だよ。きっと、今日も帰ってこないから」
「うん……」桜子は先輩の背中にぐりぐりと前髪を押しつけ、ぐしゃぐしゃにした。
――先輩は、えっち。遊び人。わたし以外の女の子のことは、すぐに抱く。
わかっていても、さすがに、これは。この疑いは、この想像は、きつかった。
どうか徹底的に否定してほしい。甘やかして忘れさせてほしい。
先輩に責任がなくても、本当に何もしていなくても。
――ママと、先輩が、ソウイウ関係なのは、……やだよ。
桜子は、彼を信じていたい。
8月25日
夜中に、ママと先輩がシているっていう悪夢を見て。耐えきれなくて。
「……はっ……あっ、あぁ……っあ……ゔっ……」
「桜子ちゃん……」
トイレに駆け込んで嘔吐した桜子の背をさする、先輩の手を。
このひとのぬくもりを、もう、桜子は独り占めしてしまいたかった。
――なんで、こんなに、手慣れてるの?
吐いて、泣いて、みっともない桜子からも、先輩は離れないでいてくれた。
――看病みたいだ。まるで、わたしが病人みたいだ。オカシイみたいだ。
「……はぁ……はぁ……ぁ……」
「落ち着いた? 口ゆすいで、うがいしよっか? お水もってくるまで待てる?」
「……せんぱ……い……」
「ん。どうした?」
「ごめん、なさい……ごめんなさい……こんな……ごめ……」
「大丈夫。いいよ」
優しすぎて、つらい。いっそ苦しい。
彼のことが大好きで、大好きで、もう、どうしようもない。
こんなに怪しいひとなのに。
0
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