花泥棒は四月一日の桜子を知りたい。

幽八花あかね・朧星ここね

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Ⅱ章 好きとさよなら

どうせ最後には奪われるなら

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「――花くん。今のカノジョとは、別れた方が良いと思うわよ」
「いきなりなんすか。青先輩」
 六月の月曜日の昼休み。ひとつ年上の女子生徒である青柳秋穂に、俺は呼び出された。
 はてさて彼女は何を言っているのだろう。俺は桜子ちゃんと一緒にお昼を食べる約束をしているから、用があるなら早くしてほしいところなのだが。
 青先輩は桃原と同様、中学のときにバドミントン部で関わりがあった人である。父親がとある企業の社長であり、いわゆる「お嬢様」っぽいところのある人だった。
 彼女が俺に好意を寄せているのは知っている。中学のときもそういう噂は聞いていたし、彼女の態度からもそれは察していた。前の冬休み明けの一月にとうとう告白されて、今は恋愛には興味がないからと断った。一回目も、巻き戻った後の二回目もそうだった。
 一回目と二回目、青先輩関連で多少変わったことと言えば、LIENで彼女をブロックしたこと。
 連絡先は前から交換していて、彼女とのやりとりに一回目の俺は疲れていた。律儀に返信していると会話が終わらず、睡眠時間を削られていたのだ。高一の夏頃が最も酷く、そこから次第に少なくなり、振ったことをキッカケに音信不通になった。
 高一の八月に巻き戻った二回目の俺は、一回目よりも返信がうまくなった。会話を早く切り上げられるようになり、ときおり無視することも覚えた。連絡頻度はだんだん減った。
 一回目と同様に二回目も一月に告白され、これでまた音信不通になる――と思っていたのだが、彼女の行動に違いが生じたのは、ここからだ。二回目の世界では、振った後から、彼女はメッセージの量を激増させた。たいへん面倒くさかった。
 無視してみてもそれは止まらず、毎日数百件のメッセージが送られた。電話まで掛けてくるようになった。学年末考査前でもその調子で、勉強を邪魔されてムカついた俺は、思わずブロックしてしまった。
 冷静になるとまずいかと焦ったが、別の手段で接触を図られることはなく、危害を加えられることもなかった。それでそのまま放置した。それなりに平穏な日常を送っていた。
 よって、今のこの状況は、ぶっちゃけ言うと気まずい。ブロックした負い目があるから、俺の立場が明らかに弱い。けれど桜子ちゃんとの関係を邪魔されようものなら、おとなしくしていられる自信はなかった。
「可哀想な花くんに、優しいわたしが教えてあげる」
 青先輩は、もったいぶってそう言った。こう言っては悪いが、彼女の華やかなメイクはいけ好かない。素朴な桜子ちゃんの方がずっと可愛い。早く彼女に会いたい。
「それは、ご親切にありがとうございます。何を教えてくれるんですか?」
「あの子……実はメンヘラビッチなの。あ、わたしがこんな言葉を使ってたって、お父様には言わないでちょうだいね」
「先輩のお父様と話す機会なんてないですし、それは心配ないですよ。内容については何を根拠にそう言っているかは知りませんが、恋人をそのように言われては不快です。やめてください」
 本当に、どいつもこいつもうるさいものだ。なにがメンヘラビッチだ。あんなに純粋で綺麗な彼女を、よくもそんなに酷く形容できるものだ。腹が立つ。
 露出狂の被害に遭ったり、学校で性的な嫌がらせをされたりしたのだって、彼女が何か悪いんじゃない。加害者が悪いんだ。彼女が非難される筋合いはない。
「騙されてるだけよ、花くん。花くんに似合う人は、もっと他にいるはず。あんなノーパン女なんて――」
「似合う似合わないとかどうでもいいです。互いに好きならそれでいいじゃないですか」
 どうでもいいから、とっとと会話を終わらせろ。そんな気持ちで言葉を吐くと、青先輩はびくりと肩を揺らして、眉間に皺を寄せた。そして恐る恐るというように問う。
「……花くんは、もしかして、あの女が好きなの?」
「はい、もちろん」
 俺が即答すると、彼女は「そう」とだけ言って、悲しげに睫毛を伏せた。この人も、俺ほどではないにしろモテる人だ。好む好まざるは置いておいて、綺麗な人だとは思う。
 他の男の前でこの表情を見せればすぐに同情を誘えただろうに、ときめかない俺が見ることになったのが残念でならなかった。
「花くんがそう思うなら……仕方ないわね。許してあげる。彼女が裏切ってたりしたら、わたしが助けてあげるから。いつでも頼ってね。連絡もいつでもしていいわ」
「それはどうも。では、失礼します」
 俺は足早に青先輩のもとから去った。[遅くなってごめんね]と桜子ちゃんにLIENを送りながら、彼女と昼ごはんを食べる約束をしている中庭へと駆ける。
 着くと、彼女はぼんやりと空を眺めていた。目が合った途端、嬉しそうに綻ぶ。
「遅れてごめんね。おなか空いてたでしょ?」
「いえいえ。薫先輩のこと待ってる時間も好きですから。一緒に食べましょう?」
「うん。そうだね」
 ぴったりと身を寄せ合って、彼女と一緒にごはんを食べる。ごはんの後は、互いの指を絡め合ったり髪を撫でたりして、いちゃいちゃした。
 きっとこの日が、二度目の彼女との出会いから別れの結末までの道のりの、ちょうど折り返し地点だった。

 六月の金曜日、帰り道。
 手を繋いでいつもどおりに家まで送っていくと、彼女が玄関先で言った。
「そういえば、わたし、バイト辞めたんです。最近、新しいの探してるところで」
「あっ、そうなんだ。頑張ってね」
「はい。それで、バイト辞めたから、土曜日が空いてるんです」
「じゃあ、ゆっくり休めるね」
「……ねえ、薫先輩」
「うん、なに?」
 桜子ちゃんは俺の背へと手を伸ばし、数秒間抱きしめてきた。やがて、つまさき立ちをして、俺の耳元に唇を寄せる。どこか色っぽい声で囁いた。
「明日……うちに泊まっていきませんか? 親は、帰ってこないですよ」
 目を見開いていると、耳にやわらかさが触れる。きっと彼女の唇だ。
 まさか。いや、あり得ない。でも、もしかして。もしかすると、そういうことなのか? ……と、妄想が脳内をぐるぐると駆け巡る。
「薫先輩。……待ってますね」
「う、うん。わかった」
 彼女がひどく蠱惑的に笑う。これは、やっぱりそういうことか。そういうことなのか? そういうことなのか?
 親がいなくて、家にふたりきりで、年頃の恋人で――なんて、漫画で読んだことのあるシチュエーションだ。俺の破廉恥な勘違いな可能性も多大にあるけれど、コンビニに寄ってから帰宅した。万が一の場合に備えてだ。
 彼女のことがバレると面倒くさそうなので、親には陽一の家に泊まりにいくということにしておいた。ふたりでゲームと勉強をするのだということにして、陽一にも話を合わせてくれるようにメッセージで頼んだ。
 やりとりの流れで、彼は余計なことまでいろいろ教えてくれた。おかげで変に緊張してぜんぜん眠れなくなった。あの馬鹿野郎。

 土曜日、午後三時頃。
 俺は初めて私服で彼女の家を訪ねた。ということは、つまり、俺が彼女の私服姿を見るのも初めてである。深呼吸してからインターホンを押し、玄関扉が開くのを待った。
「いらっしゃいませ、薫先輩。どうぞお上がりください」
「はい、お邪魔します」
 学校では校則に従って膝下丈のスカートを穿いている桜子ちゃんは、今日はゆるっとした感じのピーチピンク色のショートパンツを穿いていた。靴下は履いていない。
 普段はちらりとしか見えない膝小僧だとか太ももだとか、アキレス腱のラインとか。
 そういうのに何度も何度も視線がいく。
 上の服は白のパフスリーブシャツで、いわゆるカジュアル清楚系な格好だった。何を着てても好きだと思うんだろうけど、かなり俺の好みに刺さる。
「かおるせーんぱいっ!」
 彼女が甘えた声で俺の名を呼び、ぎゅっと抱きついてきた。そのぬくもりとやわらかさを、いつも以上に強く実感する。
 彼女の小さな手が、俺の背から腰にかけてを滑る。いつもより艶めかしい手付きに感じるのは、俺が意識しすぎているせいだろうか。
「先輩、大好き」
 こんなにもあっさりと、彼女がストレートな愛の言葉を告げてくるのは珍しい。やはり今日の彼女は、いつもとどこか違うようだ。
「桜子、ちゃん」
 彼女が俺と目を合わせ、ほんのすこし顔を上に向けて、目を閉じる。ここで何かを言うのは無粋だろう。黙って唇を重ねた。ゆっくりと触れて、だんだんと深くなる。彼女とのキスにも慣れたものだな、とふと思った。
「薫先輩」
 切なく甘い彼女の声が、唇と唇の間から漏れる。その声に、心臓がドクドクとうるさくなった。
「ねえ、先輩」
「なに、桜子ちゃん」
 濡れた唇がいやらしく艶々と光っている。次の言葉を聞くのにひどく緊張する。やわらかな唇は笑みを浮かべ、彼女は普通の調子で言った。
「数学、教えてくれませんか」
「……えっ?」
「期末の提出課題でワーク出てるんですけど、ひとりじゃ、あまりわからなくて。先輩、数学得意でしたよね?」
「あっ、うん。超得意。そうだね。良いよ」
 そういえば今朝、送られてきたメッセージに、期末考査対策の勉強を一緒にやりたいという旨も書かれていたな。と俺は思い出した。
 ひとりで変に舞い上がって、破廉恥なことを考えていた。馬鹿みたいだ。めちゃくちゃ恥ずかしい。
「先輩のために、いつもより食材多めに買ったんですよー」と、桜子ちゃんはスポーツドリンクとクッキーと煎餅を持ってきた。俺と一緒に過ごす時間のために気を遣ってくれたのだろう。愛を感じる。彼女は俺の前にコップを置き、スポーツドリンクを注いでくれた。
「ありがと、桜子ちゃん」
「いえいえ。……じゃあ、勉強教えてください。薫先生!」
「うん。どこがわかんないの?」
 彼女に寄り添って、一冊の数学のワークをふたりで見る。しばしば手や指が触れ合い、互いにときどき太腿や腰回りに触れる悪戯をした。
 夕方頃、彼女はごはんを作ってくれた。オムライスと、モヤシが多めの野菜炒め。互いのオムライスにハートマークを描き合ったのは、すごくバカップルっぽかったなと思う。彼女の作る料理は美味しかった。
 さすがにお風呂は別々で、彼女は俺に「お先どうぞ」と譲ってくれた。俺が上がって、彼女が入浴を終えるのを待つ間は、頭がおかしくなるんじゃないかというくらいに悶々としていた。
「上がりましたよ、先輩」
 お風呂上がりでパジャマ姿の桜子ちゃんは、ものすごく可愛らしかった。
 湿った髪はなんかエロいし、シャンプーの匂いが鼻をくすぐる。
「ドライヤーなくてタオルドライで、すみません」
「いや、全然大丈夫」
 歯磨きをして、完全に就寝できる体制に入る。
 彼女に手をひかれて、ひとつの布団が敷かれたところに連れてこられた。
 電気はオレンジ色の豆電球だけにして、部屋は仄暗い感じだ。
「薫先輩」
 彼女から俺に口づける。一ヶ月前には想像もできなかったような深い触れ合いを、彼女と俺はできるようになった。自然に流れされるままに、彼女と一緒の布団に入る。
 めくって、触れて、抱きしめ合って。互いの感触と温度をめいいっぱいに感じた夜だったけれど、最後まで結ぶことはしなかった。というより、できなかった。
「かおる、せんぱい。ごめ……ごめん、なさい。ごめんなさい。わたし……っ」
 触れ合いの途中で、彼女がぽろぽろと泣き出した。四月に遭った露出狂のことや、クラスメイトに性的な嫌がらせをされて写真を撮られたときのことなどを思い出して、怖くなってしまったらしい。
 互いに中途半端にはだけた服装のまま、俺は彼女を抱きしめて頭を撫でる。怯える彼女に無理をさせる気にはなれなかった。
 彼女の心の傷は深い。さらに塩を塗るようなことはできない。俺は桜子ちゃんと一緒に生きていたいから、傷つけるようなことをしたくない。
「大丈夫だよ、桜子ちゃん。今日は、普通に寝るだけにしよう。何も怖いことはしない。大丈夫」
「……うん。ごめんね、先輩」
「謝んなくていい。桜子ちゃんは、何も悪くない。……そばにいるから。ひとりにしないから。泣きたいときは、泣いていいよ。つらいことは言って。なんでも聞くから」
「――うんっ。ありがとう。かおる、せんぱい」
 彼女がぎゅうっと俺を抱きしめる。彼女がぽつりぽつりと呟くつらい記憶の話を、俺は頷いて聞くことしかできなかった。うまい慰め方を知らなかった。
 彼女はだんだんと舌足らずな喋り方になって、寝息を立てはじめた。俺は彼女のつむじにキスをして、愛しいぬくもりを感じて眠った。
 桜子ちゃんと過ごす初めての夜はそうして終わって、綺麗な朝を迎えた。

 この夜、彼女を抱かなかったことが、正しかったのか。今となってもわからない。俺は彼女との日々を何度と繰り返しても、一度も彼女を抱いていなかった。
 どうせ最後には奪われるなら、せめて初めては、俺であった方が良かっただろうか。なんてことを思う日が、ないわけではない。
 過去の記憶を桜子ちゃんが忘れたままでいてくれるのなら、それでいい。あの苦い記憶を俺だけが持っているなら、まだ良い。
 けれど、もしも桜子ちゃんが思い出してしまったら、彼女はどうなるのだろう。
 また自殺してしまうだろうか。また俺から逃げようとするのだろうか。
 どうなっても怖いから、思い出してほしくなかった。彼女のつらい過去は、俺だけが覚えていればそれで良かった。それか、彼女の記憶をこの夜のまま、もう進めないでいられたら良かった。

 朝になって、彼女が作ってくれたごはんを食べて、ふたりでのんびりと過ごした。土日明けの学校生活は、お泊りデートを経てもさほど変わらなかった。相変わらず手は繋ぐし、ハグもするしキスもする。俺らは普通の高校生カップルだった。
 期末考査が終わって、七月の十一日。火曜日。あの夏の日と同じ日を、俺は迎えた。
 一度目に桜子ちゃんと最後に会ったあの日を。二度目の時でも迎えた。
 今日の桜子ちゃんは、学校に遅刻した。だから朝は会うことができなかった。

 二時間目の化学の授業の後、彼女のクラスへと足を運んでみる。一年F組の教室は化学実験室から近かったのだ。廊下に彼女がいるのを見つけ、声を掛ける。
「おはよ、桜子ちゃん」
「あ、薫先輩。おはようございます」
 桜子ちゃんは一度目と同じように、左目には眼帯をつけて、水色の薄手のカーディガンを羽織っていた。髪型は前と違って、よく見るハーフアップスタイルだ。ポニーテールじゃないことがちょっと残念だけど、今日も俺のカノジョは可愛い。
 次の授業の準備を終えた彼女と一緒に、廊下の壁にもたれて会話する。
「ところで桜子ちゃん。目、どうしたの?」
 一度目の時は、ものもらいだと言っていた。今度も、きっとそうだろう。
 だけど何も聞かないのは変かなと思って、尋ねてみた。彼女は前と同じような口調で、あっけらかんと返事する。
「ああ、お母さんに灰皿を投げつけられましたー」
「そうなんだ、お大事に。……えっ?」
 一度そのまま流しそうになった後、彼女が前と違うことを言ったのに気づいた。聞き間違いなら良いがと思ったものの、残念なことにそうではなかったようだ。彼女がぴらりと眼帯をめくる。息を呑む俺を見て、彼女はくすくすと笑った。
 いったい、どうして。前と違う事態になったのか。
 それとも……一度目の彼女が、俺に嘘をついていたのか。
「お岩さんみたいでしょー。きもいですよね」
「桜子ちゃん。その。……大丈夫?」
「はい。こんなことには慣れてますから」
 そう言って彼女は、今度は前髪をかきあげた。今までは気づいていなかったが、彼女は額にも傷痕があった。「これも灰皿のせいですよ」と彼女は笑う。一度目も二度目も、今日の彼女はよく笑う。
「お母さん、しばらく家にいるつもりみたいで」
「……うん」
「わたしが勝手なことすると怒られるから、夏休み中、デート、できないかもです。……ごめんなさい」
 彼女は俺の腕に絡みついて、寂しそうにそう言った。俺も寂しいから、彼女の頭を撫でて腰を抱き寄せて、できるだけ近くに感じられるようにする。
 またやってるよ、という呆れた視線や、リア充爆発しろ、という嫉妬の視線。廊下を通る生徒たちからそんなものを向けられていることを、なんとなくだけど感じた。
「薫先輩」
「ん?」
「しばらく会えなくても……わたしのこと、好きでいてくれますか?」
 彼女の右目から、ぽたりと雫が落ちる。俺はそれを指先で拭い、唇に一瞬のキスをした。
「うん。絶対好きだよ」
 桜子ちゃんは嬉しそうに笑った。「絶対ですよ」と言って、ふたりで小指の先を絡める。

 あの日も彼女は笑った。
 あの日も彼女と約束をした。
 これは、偶然のことだったのだろうか。

 午前授業の日や自宅学習日が多くなって、彼女と会える時間も自然と減った。夏休みに入ると、本当に何日も会えなくなった。会ったときには、彼女はいつも疲れているみたいな顔をしていた。ぼーっとしていることが多くなって、あまり笑顔を見せなくなった。
 母親とのことがうまくいってないのだろうと、俺は楽観的な心配をしていた。どうにか彼女を癒そうと、できるだけ楽しい話をするようにした。
 八月一日の火曜日。桜子ちゃんの家を訪ねた。彼女の母親がおとなしいという朝の時間帯に、こっそりと。インターホンを押してしばらく待っていると、玄関ドアがガチャリと開く。そこには、やつれた顔をした桜子ちゃんがいた。
 彼女の左瞼には未だに傷痕が残っていて、痛々しかった。首元にも痣ができていて、Tシャツと肩との境目にも傷らしきものが見える。まずいな、とは思った。でも下手なことをして、悪化させるのが怖かった。
「こんにちは、先輩。久しぶり、ですね」
「うん。最近どう?」
 明らかに良くはなさそうなのに、そんなことを聞いた。彼女は曇った表情のまま、
「まあ、ぼちぼちです」と答える。
 俺がどんな話をしても、彼女はにこりとも笑わなかった。死んだような目で俺を見て、ときどき瞳を潤ませるときにだけ、彼女が生きていることを実感できる。また失いそうな気がして怖くなった。胸が変にざわめく。
「桜子ちゃん。なんか、俺にできることあるかな? 困ってるなら、手貸すよ。警察とか、児童相談所に――」
「ねえ、薫先輩。――……キス、して」
 桜子ちゃんは背伸びをして、目を瞑ってこちらに顔を向けた。俺は応える。
 ほんのすこし触れ合う軽いキスのあと、彼女はさっと顔を離した。久しぶりのキスが、こんなにライトでは物足りない。そう思ってもう一度キスしようとすると、彼女は呟いた。
「先輩。別れましょっか」
「え」
 キスする寸前で、俺は止まる。桜子ちゃんは、今日初めての笑みを見せていた。
 唇がふるふると震えている。頬の筋肉が強張っている。やたらと瞬きが多い。
 ……きっと、泣かないように無理をしていた。
「先輩のことは、好き、ですよ。でも、最近しんどくて。だから、別れた方が、良いと、思います」
 今まで彼女から「別れましょう」と言われたことは何度もある。今回のこの言葉は、今までのなかで一番真剣味が強くて、けれど一番、本当は別れたくないという気持ちを感じさせるものだった。こんなところで、唯々諾々と破局を許すような俺ではない。
「ごめんけど、すぐ別れるとかは無理」
「そう、ですか」
 彼女は沈んだ声で返事をした。瞳を覆う、涙の膜が厚くなる。
 今すぐは無理だとしても、また笑ってほしい。また普通にデートをしたい。キスをして喜ぶ彼女が、見たい。
 彼女を引きとめたかった。生きていてほしかった。
「一旦距離置くのはアリだけど、俺は桜子ちゃんのこと好きだから。別れたくないかな」
「……うん」
「しんどいなら、しばらく会いにこないから。そういう時間も必要だよね。うん。……何かあったら、連絡して」
「うん」
 彼女はうつむいてしまって、もう俺の顔を見ようとはしなかった。逃げようとする腕をそっと掴んで、彼女の顔を覗き込む。今にも泣きそうな、愛しい恋人の顔を見る。
 ゆっくりと言葉を発し、しっかりと伝えようとした。
「九月一日の朝、ここに迎えにくるから。その日にまた会おう。ね、一緒に学校行こう? そのときもまだ別れたかったら、言って。考えるから」
「……はい、先輩」
「じゃあ、約束ね」
 また彼女と俺は約束を交わした。そうしてバイバイと手を振った。
 なぜ、もっと彼女を気にかけなかったのか。無理やりにも彼女の心の傷を暴けばよかった。下手なことをしたら、失敗したら、余計に悪化する。そんなことを心配するのではなく、何かしておけばよかった。
 警察か、何かの相談ダイヤルに電話していればよかった。怪我をしてるなら、病院に連れて行くべきだった。具合が悪そうだったんだから、婦人科とかにも行っていれば。
 彼女が笑わない理由も、彼女が別れようと言った理由も、母親だけが原因ではなかったのだ。もっと早く気づいていれば。俺がちゃんと気づいていれば。……彼女は、自殺しなかったかもしれないのに。
 後悔してもしきれない。彼女の死体が頭から離れない。繰り返すたびに酷い死に方をする彼女のことが、忘れられない。

 八月の月曜日の夜。陽一から送られてきた画像に、俺は自分の目を疑った。
 陽[お前のカノジョ、援交してるけど。それでもまだ付き合うの?]
 そこに写っていたのは、おっさんと一緒にラブホ街を歩く桜子ちゃんの姿だった。
 何枚もの写真で、すべて違う男と、彼女は男と腕を絡め合わせて歩いている。
 陽[やめといた方がいいって、言ったじゃん。もう別れなよ]
 陽[おまえが傷つくの、俺もう見たくない]
 何と返信したらいいのかわからなかった。彼女がこんなことをしているなんて信じられなくて、認めたくなくて、でもすぐに彼女に確認する勇気はなかった。
 陽一のメッセージには、既読スルーをした。悪いことをしたとは思う。でも、返信しようとは考えられないくらいショックだった。

 翌日。八月の火曜日。桜子ちゃんに電話した。
「……もしもし、桜子ちゃん?」
『もしも、し。先輩。どうしましたっ、か』
 電話越しに聞こえる彼女の声は、なんとなくいつもと違っていた。元気もないようだし、ときどき苦しそうな声も聞こえる。何かあったのだろうか。
「桜子ちゃん、もしかして体調悪い? そっち行こうか?」
『う、ううんっ、だいじょうぶ、です。ちょっと、最近、吐き気が……っ、あって。あんまり、調子よくない、だけです』
「そっか。お大事にね。……それで、一個、聞きたいことあるんだけどさ。桜子ちゃんは――俺以外の男とは、変なことしてないよね?」
『へ、変なことって。なんの、ことですか。先輩』
「……援助交際とか?」
 あけすけに言ったその言葉に、桜子ちゃんは返事をくれなかった。そんなことしてませんよ、とは言ってくれなかった。この沈黙の意味を、俺は察してしまう。
 ……なんで。桜子ちゃん。なんで。
『してるって、言ったら……別れ、ますか。先輩。ふふっ、ふふふっ、ふ、ははっ』
 どこか狂気じみた笑い声を彼女が上げた。
 壊れてしまったような声に、ぞわっと鳥肌が立つ。
「……桜子ちゃん?」
『本当、馬鹿みたい。本当に……馬鹿ですよ』
「桜子ちゃん。どういう意味――」
 彼女は何かを嘲るような言葉を吐いて、一方的に電話を切った。かけ直しても繋がらず、別の日にかけ直しても、また繋がらなかった。
 彼女と音信不通になって、約一週間。八月三十一日に送ったメッセージにも、ついぞ既読はつかなかった。
 一度目の彼女が自殺した、九月一日がやってきた。
 俺は前に約束したとおり、一緒に登校するために彼女の家へと向かった。インターホンを鳴らしても彼女は出てこなくて、メッセージを送っても電話をしても反応がない。
 一度目の彼女が死んだ時間が、どんどん近づいてくる。
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