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二・薔薇姫とペンペン草姫

008. 姉妹喧嘩はキスで終わらせて

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 授業が終わると、今日も私は薬学実験室を訪れる。二度目の人生では図書室の他、薬草畑のある温室や実験室で放課後を過ごしていた。

 私が王妃になる未来は、きっと訪れない――そう知っている今の人生は、ある意味、過去のようには肩肘張らずに生きることができた。
 一度目の人生で頑張りすぎた分、王太子の婚約者として必要な知識は身につけている。妃教育の課題も学校の課題も、さっさと難なく片付けられた。

 義妹を敵視しすぎず、いじめず殺さず、極悪令嬢にならず、過去の後悔を繰り返さない未来を――。興味のないことで心身を削らぬようにも心がけ、ただ「清く正しく美しく、賢く強く美しく」を目指していれば、私は過去よりも信頼される淑女でいられた。

 生き方を変えたら、自由な時間もたっぷり増えた。時間と心に余裕ができたおかげで、三年生で進路別のクラスになる前に、自分の将来について真剣に考えることもできた。
 父が口出ししてこないのは一度目と同様。私もまた相談せず好きに選ばせてもらうことにした。妃教育は校外で受けているので、王家もこちらに意見することはない。

 自分の好きなものや興味があるものに、じっくりと向き合って、医学や薬学を学べる翠玉エメラルドクラスを希望した。
 自身が病弱なせいか、病を治す薬には昔から興味があったから。二年生までの薬草学の授業も好きだったから。

 誰かさんには気楽だなんだと言われたが、彼の意見など知ったことではない。これもまた一度目の人生と同じように進めば、私は婚約を破棄されるのだから。
 無様に断罪され、王家に見捨てられた身となれば、他家に嫁ぐことも難しい。父は私を嫌っているので、公爵家を継がせてくれることもない。

 そうなれば、私はずっと独り身になる。

 かつての私は、そんな状況を悲観した。追い詰められ、義妹を殺した――が。二度目の今、前向きに考えれば。
 ひとりになった私は「自由の身」。ひとりなら、いくらでも好きに生きられる。

 国家資格を持つ医師か薬師にでもなって、あんな家からは出てしまえばいいのだ。就職して自立して、今度こそ充実した人生を送ってみせる。婚約破棄された後は、どう生きようか。それを考えると楽しくなる。

 イラリアのことは、気になるけれど。……まあ、彼女は彼女で、バルトロメオ殿下と幸せになってくれるだろう。大丈夫。
 そう、自分に言い聞かせ――薬草をトントンと刻んでいく。今は楽しい部活の時間だ、悲しいことは考えなくていい。

 自由を謳歌する二度目の私は、学院で部活動を始めた。
 一年生の時に私が立ち上げ、二年間ひとりで活動を続け、先日ようやくふたりめの部員が入った、薬学研究部。

 私は、薬草学・薬学担当の教師であるジェームズ・スターチス先生の監督のもと、週に三回は放課後に薬を作ったり、薬草畑の手入れをしたりしていた。

 先程刻んだ薬草を鍋に入れ、くるくるくるとかき混ぜる。今は二日酔いの薬を作っているところだ。
 今日の私は、どこかおかしい。胸のモヤモヤがどうにもこうにも収まらない。二日酔いかしらと思い当たって、今日の活動はこれにした。「ついでに俺のぶんも作っといてくれや」と言うジェームズ先生のため、ちょっと多めの分量で。

 私はお酒に弱いのだけれども、昨夜義妹にお裾分けしてもらった苺酒は美味しかったから、気づかぬうちに飲みすぎていたのかもしれない。義妹なんかのせいで、私はこんなふうにモヤモヤしている。そうに違いない。気に入らない。

 タンタンターンっと軽快な足取りで、ふたりめの部員がやってくる。邪魔しないように我慢してるから許して、とでも言うように、ほんの数秒間、私の背中に張りついた。続いてわざとらしく足音を立て、私の横に並び立つ。

「ねーえさまっ! 何作ってるんですかー?」
「二日酔いの薬よ」
「あら、姉さまが二日酔いですか? 珍しい。飲みすぎはダメですよ!」
「ええ、そうね。そんなに飲んだつもりはなかったのだけれど、甘いお酒は、ついつい飲みすぎてしまうと言うもの。これからは気をつけるわ」

 今年度から入った部員、それは義妹だった。部活動くらいは私と違うものに入って、他の人とも交流なさい――と勧めたのだが、結局ここに入ってきて。
 私も義妹も、一度目の人生と比べると、交流の輪がとても狭い。

 私は部活動に励みだしたことも影響し、一度目の人生で一緒にいた令嬢たちとは関わらないようになっていた。もともと彼女らは友人とは言い難く、過去の私たちは、いわゆるいじめっ子グループだった。
 彼女らの婚約者もみんな薔薇姫イラリアにうつつを抜かしていて、それを理由に私たちはあの子をいじめる仲間となったのだ。

 あの子は私たちのグループ以外からは好かれていて、学院の人気者だった。たくさんの友人に支えられ、一部の過激派によって薔薇姫親衛隊なるものまで編まれていた。
 彼らはたびたび私のグループに嫌がらせをしてきて、そのたび私たちはやり返した。私のグループと薔薇姫親衛隊との嫌がらせ合戦は、なかなか終わらぬ泥沼状態に陥った。

 その状況が収まったのは、私が婚約破棄され、不登校になってからだったと聞く。
 良くも悪くも、あの子は人に影響を与える子だった。彼女が屋敷に来てから私はおかしくなったし、彼女が学院に来てから学生たちもおかしくなった。

あね、それ混ぜすぎだぞ」
「へ? あら、本当ですね」

 ジェームズ先生の声に、私は首を傾げて鍋を見る。

 先生は昨年度までは私のことを「ハイエレクタム」と家名で呼んでいたが、義妹が入部してからは変わった。
 私は「あね」、彼女は「いもうと」と呼ばれるようになったのだ。家名で呼んでは区別がつかないからだろう。

 手元でぐるぐると渦を巻く薬液は、かき混ぜすぎたせいか、色が悪くなっていた。この色を見るに、かなり苦くなってしまっただろう。
 鍋を火から下ろし、私は静かにため息をつく。失敗してしまった。

「上の空だったろ。まったく、調薬中に他のこと考えるなよ。危ねえな」
「はい、すみません」 
「大丈夫ですか? 姉さま」
「ちょっと……疲れてるみたい」
「では、頑張っているフィフィ姉さまに、私が膝枕してあげましょう」
「それは遠慮しておくわ」

 バッサリと断ると、義妹は私を後ろからぎゅうっと抱きしめてきた。今度はまったく遠慮がない。
 彼女の豊満な胸が、私の背中にむにゅっと押しつけられる。なんか恥ずかしい。

 私が彼女の腕をペシペシ叩いて暗に離れろとメッセージを送っていると、ジェームズ先生がボソッと呟いた。

「お前らって、噂と違ってフツーに仲良いよな」
「はぁ? そんなこと――」
「はい! 私は姉さまのことが大好きです!」

 否定しようとする私の声は、義妹の大声で完全に遮られた。これのどこが仲良く見えるのか、まったくもう。
 身をよじって義妹の腕から抜け出そうとすると、彼女の手がやや上の方へと移動してくる。始めは勘違いかと思っていたが、しばらく触られているうちに、これは何かおかしいな……? と思い直した。

「……あの、イラリア?」
「なんです、姉さま?」
「……胸に、手が、当たっているわ」
「ええ、そうですね。揉みましょ――って痛ぁっ!」

 私は義妹の足を踵で踏みつけ、彼女が痛がっている隙に腕から抜け出した。
 彼女の手が届かないように、薬学実験室の一番隅っこまで逃げる。

 この義妹、スキンシップが過激すぎるのだ。
 まさか学院という公共の場で胸を揉まれそうになるなんて。

 べつに、家ならば良いというわけでもないけれど。悲しいことに彼女と違って、揉みごたえがありそうな立派な大きさのものではないけれど! べつに、もっと大きくなりたいとか思ってないけど!!

 いつにないくらいに、顔が熱く火照っている。
 それが怒りからなのか羞恥からなのかはよくわからないが、ともかくも彼女に腹が立っているのは事実だ。あんな破廉恥なことをするなんて許せない。

「貴女のことなんて大嫌いよ! この変態っ! 嫌い! 本当に嫌い!」

 こんなことを言うのは幼稚だ。わかっていながらも私は、懲りずに近づいてくる彼女を怒鳴りつけた。普段はにこにこと流す義妹も足を止め、珍しく私に言い返す。

「変態ですって? もうっ、姉さまったら酷いです」
「いいえ、酷くないわ。貴女は変態よ。嫌い、大嫌い」
「そんなに変態変態言ってたら、可愛い妹が泣いちゃいますよ?」

 義妹はわざとらしく悲しそうな顔をする。空色の瞳に薄っすらと涙を浮かべ、その水面みなもをうるうると揺らして……。
 こうすれば許されるだろうという甘い考えが透けて見え、余計に腹が立ってきた。久しぶりの姉妹喧嘩になればいい。私はさらに言い返す。

 貴女も私を嫌いになれば、どんなに楽か。貴女も私に「嫌い」と、言って。

「ええ、そう? 勝手に泣けばいいわ。嫌いな妹を、わざわざ慰める趣味なんてない。ひとりで泣いて!」
「いいんですか? 本当に泣いちゃいますよ!」
「いいわ。貴女はまったく可愛くないもの。貴女が泣いたって、いなくなったって、私はまったく悲しくない!」

 彼女の瞳が大きく揺らいだ。わざとじゃなかった、と瞬時に思う。でも、取り消せない。本当に泣きそうな顔をして、彼女は幼子のように駄々をこねた。

「なにそれ、姉さまったら酷い! すっごく傷ついた! お詫びに痛み止めの薬を作ってください。いっぱい作ってください。さっきの足も痛かったぁ!!」
「いいえ、嫌よ! 貴女がいやらしいことするのがいけないんだわ! 自業自得よ。貴女のことなんて、世界で一番大嫌いなんだから!」
「私は姉さまのこと大好きですっ! あれは愛情表情です! 今くらい、近くにいさせてくれても良いじゃないですか! 本当に大好きなんですよ! ばかぁ!!」
「私は嫌いだわ! 馬鹿だなんて失礼ね。頭が弱くてわからないのかしら? あれはセクハラというのよ! 嫌い! 本っ当に、大嫌い!!」
「嫌い嫌い言わないでくださいよ。わかってますから! ……もう、そんなこと言う姉さまにはキスしてやるんだからっ! せいぜい私のキスに翻弄されてしまえ!」

 もうどうにでもなれ、と言うように、彼女はツカツカと早足で私に迫る。私は慌てて顔を逸らして、最悪の言葉を吐こうとした。

「もう貴女なんて――……あっ」

 強引に頬を包まれ、彼女に口づけられてしまう。思ってもないことをたくさん言った私への、お仕置きのようなキスだった。力が抜けて、彼女に体重を預ける形となる。触れあい方が変わった。

 彼女はようやく離れると、してやったり、という顔をする。私は恥ずかしくなって、彼女の体を押しのけた。熱くなった頬を覆って、へにゃりとその場に座り込む。

「もう! なんなのよ……」

 ほんの数十秒で、体力を一気に奪われた。ついでに怒りも彼女に吸い取られたようだった。どうしてこんなに上手なのかしら……。

 先生の前でこんなふうにキスするなんて、不純異性交遊だと咎められても文句は言えない。まあ、私と義妹は異性ではないけれど。

「お前ら――いや、まあ、仲良しもほどほどにな。お優しい俺は見逃してやるから良いが、他所よそではやめておけ」
「えー、やだ。ジェームズ先生ったら本当に紳士ー。じゃ、またキスしましょうか姉さま!」
「いやよ。貴女なんてきらい」

 私は三角座りをして、両手で口元をしっかり覆った。膝に顔を押しつけ、彼女が絶対にキスできないよう、さらに体を縮こませる。
 それでも義妹の気配は離れそうになかったが、この状況を見るに見かねたのか、ジェームズ先生が彼女に声を掛けてくれた。

「妹、そうやってすぐ調子乗るのは良くないところだぞ。見逃すとは言ったが、自重しなくていいとは言ってない。なにより、姉さまが困ってんだろ。やめてやれ」
「はぁい、ごめんなさい。――てことで、ジェームズせんせ。ホムンクルス研究のお手伝いしてください!」

 義妹は従順に先生の注意を聞き入れ、私のもとから離れた。

 彼女が先生に向ける弾むような声を聞くと、切り替えが早くて羨ましいなと思う。私も彼女のように、ウジウジしない人間になりたかった。

 先生は、疲れたようなため息をつく。

「何が『てことで』なのかはわからんが、まあ良い。姉、お前はちょっと休んでた方が良いな。俺は妹の研究の相談に乗ってるから、テキトーにあっちのソファででも寝とけ」
「はい、先生。……ありがとうございます」

 ジェームズ先生がこちらに手を差し伸べ、私はその手をとろうとした――が、彼の手は義妹にはたかれて止まった。

 彼女は恐ろしい目つきで先生を睨みつける。

「先生。私のフィフィ姉さまです。勝手に触らないでください」
「いや、これはエスコート――」
「私がやりますから。ね、姉さま?」
「……べつに、私は先生でも構わなかったけれどね」

 キスされないよう、片手は口元に当てたまま、私は彼女の手をとって立ち上がる。

 薬学準備室――現在この学院に在籍している薬学科教師はジェームズ先生だけで、もはや彼の私室と化しているため、ひどく散らかっている――の中に置いてあるソファに、彼女は私を横たえた。

 私が再び両の手で口元を覆い直すと、彼女は少し困ったように笑う。

 彼女に上着を掛けられる時も、頬にかかっていた髪をそっとはらわれる時も、私は彼女の手が近づくたびに、体をびくりと小さく震わせた。

「……そんなに怯えなくても、姉さまが嫌がることはしませんよ」

 彼女の声は、どこか寂しそうな響きを持っていた。傷ついたようだった、と言ってもいいかもしれない。

 私は、彼女に怯えていたのだろうか。

 準備室と実験室との間には扉があるから、ここならジェームズ先生に見られてしまうこともないのに、何を恐れていたと言うのだろう。

 ……しばらくそんなことを思った後、私は、ある恐ろしいことに気づいた。

 先生に見られるか否かを先に気にしたということは、私は彼女と触れ合うことを、当たり前のように受け入れてしまっているのではないか。ということだ。

 ふたりきりなら、触られてもいい。なんて。
 そう思っている自分がいたことに気づいて、けれどすぐにそれを否定したくなる。

「なら……私が嫌がることはしないと言うのなら、もうキスしないでほしいわ」
「姉さまは、私にキスされるのが嫌なのですか?」
「ええ、嫌よ。気持ち悪い」
「じゃあ、気持ちいいキスなら良いんですか?」
「どんなキスでも嫌。もうやめて」
「……むぅ」

 義妹は頬を膨れさせ、「じゃあしばらくは控えます」と準備室から去っていった。

 彼女とジェームズ先生が何かを話している声が微かに聞こえるが、内容まではわからない。

 義妹は、今に私ではなく、バルトロメオ殿下とキスするようになるはずだ。
 彼と手を繋いで、彼に愛を囁いて、キスをして。それで、あれで。

「……本当に、嫌い」

 彼女の匂いがする上着が憎たらしい。その匂いを感じていたくなかった私は、もう眠ることにした。

 目を瞑って、扉の向こうにいる彼女の声が聞こえないように耳をふさぐ。

 彼女から逃げたくてたまらなかった。

 彼女に感情を揺さぶられてしまう自分のことが、とてつもなく嫌いだった。
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