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五・騎士と姫
023. 行方知れずの令嬢
しおりを挟む「フロイドっ、いっしょに本よもーぜ! きょうこそお前も〝フロイド〟のかっこよさがわかるはずだ!」
「私、戦記物はそんなに興味がないのだけれどね」
私が〝フロイド〟になって三ヶ月が経った。ここでの生活には慣れてきたが、未だに正体は明かせずにいる。なかなか言うタイミングが掴めなかったのだ。
自分がベガリュタル国に暮らしていたらしいことを思い出した、ということは伝えて、めぼしい情報があれば教えてもらえるようにはしたが、いまのところ特に有用な情報は得られていない。
誰に狙われてこんなことになったのかわからない状況で、私はどう動けば良いのかもわからないままでいる。
イラリアがきっと心配しているから、彼女のことは安心させたい。でも、私が下手に家に帰ろうとして死んでしまったら、イラリアはきっとひどく悲しむ。
いつまでも帰らないつもりなわけではないが、いま無事に帰れる気はしない。何か手紙でも送って、私が生きていることだけでも伝えられれば良いのだが。
でも、私を殺そうとしたのがハイエレクタム家の人間だったら、迂闊に伝えてしまうのは危険な気もする。どうしたものか……。
フロイド・グラジオラスとしての生活は、思っていた以上に良いものだった。グラジオラス家の人たちは、私のことをとてもよく可愛がってくれた。
私はハイエレクタム家ではいい顔をされていなかったけれど、こういうことを「実の子のように可愛がる」と表現するのだと思う。
この家での私には、ひとりの侍女がついた。あの日、私の部屋で看病してくれていた、のんびりしたメイドだ。
名前をアンナと言い、年は十五らしい。
貧乏な伯爵家の四女として生まれ、学校に通うお金がなかったため、ここで働くことになったという少女だ。
彼女はいつも明るくて、にこにこしていて、なんとなくイラリアと近しい雰囲気がある。
「フロイド! ほら、ここの絵かっこよくない!?」
「まあ、そうね。そこそこかっこいいわ」
レオナルドが見せてきたページをちらりと一瞥して、私は雑な返事をする。
彼の身長は私よりも少し低いくらいなのだが、その年はまだ四歳なのだという。私よりも四歳年下だ。
この家の人には私の誕生日ももちろん明かしていないけれど、私はこの家で過ごしている間に八歳の誕生日を迎えていた。
「なあ、フロイド。これって、なんだっけ? 前もみた気はするんだけど……」
「ああ、その単語は〝殺戮〟ね」
「あー、殺戮か! なるほど、ありがとー」
レオナルドは年相応に、まだあまり本は読めないし興味もないそうなのだが、かっこいい戦士が出てくる戦記物だけは進んで読もうとしている。
前までは従者やメイドと一緒に読んでいたらしいが、私が彼とそこそこ仲良くなってからは、私に一緒に読もうと持ちかけてくるようになった。
イラリアに自然な言葉遣いを教えていたことは記憶に新しいし、本を読むのに必要な語彙力は当然持ち合わせている。よって、言葉の意味を教えるのに不足はない。
彼はイラリアと違って、ベタベタした接触はしてこない、いたって真面目な生徒だった。
私は私で、前にイラリアと一緒に読んだものと同じ内容の小説を読み返しながら、彼に何か聞かれたらそれに答えている。
ここでは私は好きな本を読むことを許されたし、奥様は淑女教育も無理のない範囲で進めようとしてくれた。私はそつなくこなすので、奥様や先生はいつも褒めてくれる。自由で幸せな生活だと思う。
ただそれでも満たされない気持ちがするのは、きっとイラリアのせいだ。彼女のキスがなくなってしまったから、私はおそらく欲求不満なのだ。
慣れとは恐ろしいものである。彼女とキスした思い出を何度も夢に見てしまうなんて、みだらな女だ。
「フロイドは、まだ自分のこと、思いださないの?」
「そうね。思い出せないわ」
「フロイド、いいところのお姫さまってフインキだよな。どっかの王女さまだったりして」
「さすがに王女がいなくなれば、もっと大問題になっているんじゃない?」
「でも、なんだっけ。王女じゃないけどさ、あれ。あー……こーしゃくけ! こーしゃくけのお嬢さまが、いなくなって、となりの王さまが怒ってるらしいよ」
「……えっ?」
レオナルドの言葉に、私は読んでいた本から視線を上げる。彼は黙々と本を読んでいるままだった。
数秒経ってから私の視線に気づいたのか、「どうした?」と彼がこちらを見る。
「公爵家の、お嬢様と言った? いつ、誰から聞いたの?」
「朝、母上と父上が、こそこそ話してた。なんだ、なんか思いだしたか?」
「その公爵家の、家名は。何か、言っていた?」
「なんだっけ。ハイ……? ハイ、エリック、ターン、みたいな?」
――間違いない。私の家だわ。
私がいなくなって半年。ようやく国王陛下のお耳に、その話が入ったということらしい。
ハイエレクタム家は、今まで私がいなくなったことを隠していたのだろうか。なぜ、今になってこのことが問題になったのだろう。
――あっ! まさか……
なぜ半年経ってから。そう考えていると、自分が手駒に出していた指示の内容を、はっと思い出した。
もしも私が突然死んだら、父の悪事のことを国王陛下にお伝えするように。そう私は指示を出していた。
半年経っても私の所在がわからなかったことから、彼女らは私が死んだと判断したのかもしれない。
心臓がドクドクと嫌な音を立てはじめる。
国王陛下がお怒りになっているのは、父が母を殺したことをお知りになったからかもしれない。
さらに母の生き写しである私までいなくなったとなれば、さぞやお怒りのことだろう。
これは、かなりまずい状況なのではないか。
賢王と讃えられ、普段は温厚な国王陛下ではあるが、母が亡くなった時には、お心が不安定であらせられたと記憶している。
きょうだいの中で一番に私の母のことを愛していらっしゃった国王陛下は、母のこととなると人が変わるのだ。
場合によっては、酷い制裁がハイエレクタム家に下されるかもしれない。
なぜ、手駒に指示を出した時には思いつかなかったのだろう。私は馬鹿だ。
これで父が罰せられるなら万々歳だ。父だけが痛い目に遭えば私は満足だ。
でも、もしもイラリアにまで何か罰が下されることになったら。
ないと信じているが、一族郎党皆殺し、なんてことになったら。
イラリアに、もう会えなくなってしまったら。
「……私。ちょっと、奥様にお伺いしてくるわ」
「あっ、うん。いってらっしゃい?」
ぽかんとしているレオナルドを置いて、私は早足で奥様のいる部屋へと向かう。アンナが「待ってくださぁい」と言いながら、後をついてきた。
じっとりと嫌な汗を掻く。これは恐怖から来る汗だ。イラリアを失うのが、怖いという。
「奥様っ!」
「あら、どうしたの? フロイド」
やや呼吸を乱しながら、私は奥様を見つめる。何を、どう言えばいいのだろう。
もうこの際、私がハイエレクタム家のオフィーリアであることを思い出した、と伝えてしまった方が良いのだろうか。
「ベガリュタル国の、ハイエレクタム家の話を……少し、レオナルドから聞きました。ご存知のことがあれば、詳しく教えてくださいませんか」
「それは……貴女に関係のあることなの? ハイエレクタム家は、貴女に関係のある家?」
「……かも、しれません」
記憶喪失だという嘘が、ここまで来ると苦しくなってくる。もしも本当にまったく覚えていないのなら、こんなふうにハイエレクタム家の話に食いついたりしないだろう。
私が嘘をついていると、奥様にバレてしまったかもしれない。温かく迎えてくれたグラジオラス家のみんなに、私は嘘をついていたのだと。
「お願いします。教えてください」
「……いいわ、話してあげる。みんなは下がっていなさい。私とフロイドのふたりきりで話すから」
奥様が使用人たちを外に出し、扉がしっかりと閉められた。部屋には私と奥様のふたりきりとなる。奥様に促され、私はソファへと座った。
「じゃあ、話すわね。ハイエレクタム公爵家の前公爵夫人は、ベガリュタル国の国王陛下の妹君だったのは知っている?」
「はい。存じております」
「王妹殿下が、国王陛下に寵愛を受けていらっしゃったことも?」
「はい」
「なら、話は早いわね。……ハイエレクタム公爵閣下が、彼女を殺めたという証拠が、国王陛下の御前に上げられたらしいの。それで、王妹殿下の娘であるお嬢様も半年前にいなくなっていることがわかって、国王陛下はたいそうお怒りなのだそうよ。いずれ、ハイエレクタム家は裁かれるそうね」
「……どう、裁かれるのでしょう」
私の問いに、奥様はしばらく答えなかった。
固唾を呑んで待っていると、奥様が「フロイド」と私の今の名を呼ぶ。いつもより、どこか硬い声であるように感じられた。
「はい、奥様」
「答えられないなら、答えなくていいわ。……貴女は、ハイエレクタム家のお嬢様なの?」
はっきりと問われ、今度は私が黙ることになる。
ここで否定しなければ、肯定に等しいとみなされるのだろう。私は、まだ嘘をつき続けるのか。奥様になら、正直に言っても良いのではないか。
もしもイラリアにまで害が及びそうであったら、どうにかして国王陛下に罰を軽減していただくため、私は国に戻る覚悟ができている。その途中で殺されたら、もう仕方ないと割り切れているつもりだ。
記憶喪失の〝フロイド〟として生きるのは楽だが、これは私の真の姿ではない。……もう、嘘をつくのはやめよう。決意した。ごくりと唾を飲み込み、声を出す。掠れて震えた情けない声が、真実を告げた。
「私、は……私は、ハイエレクタム家の、娘でした。……奥様が、おっしゃる通りでございます」
奥様は、ただ一言「そう」と返した。
家に帰れと、言われるだろうか。元いた場所に戻れと。
「ハイエレクタム公爵閣下は、大臣の職を降ろされることになると言われているわ。あと……公爵から、伯爵へ降爵されるとも」
「誰かが、死罪となることはありますか?」
「公爵閣下や夫人、もうひとりのお嬢様が死罪に処されることはないはずよ」
「……そう、ですか」
イラリアが死罪に処されることはない。そう聞いて安堵する。
降爵という処分なら、まだ温情のある方だろう。今までより生活の質は悪くなるかもしれないが、生きるのに大きく困ることはないはずだ。
「貴女が帰りたいなら、帰れるように手配するわ。帰りたくないなら、私たちは貴女をこの家の娘として育て続ける覚悟はある。貴女は、どうしたい?」
「私は…………」
今はまだ、帰るのが怖い。帰ろうとして死んでしまうのが怖い。けれど、いつまでもそう言って、逃げているわけにはいかない。私には、力が必要だ。
「――まだ、帰る決意はできません。私の命を狙うのが何者かわからぬ状況で、今の私が帰るのは危険だと思います。グラジオラス家の皆さまの温情に甘えることが、許されるなら。……私は、騎士になりとうございます」
「騎士に?」
奥様が驚いたように聞き返す。私は強く頷いた。
興味はないと言いながら、レオナルドに見せられた戦記に影響を受けていたのかもしれない。
思いついたのは、騎士になるという選択だった。
自分が女の機能を失っていると知っているから、女らしさから遠ざかるような道を選ぼうとした節もあるかもしれない。
ドレスを纏う令嬢としてではなく、鎧や軍服を纏う騎士として生きる。その方が、私に相応しい道ではないかとも思えた。
「はい。騎士を目指して体を鍛え、簡単には殺されない女になってから……一度国に帰って、妹に会いたいのです。
もちろん、恩を仇で返すようなことはいたしません。それから先、ベガリュタル国で生きることになろうとも、育てていただいたご恩は一生をかけて返す所存でございます」
「騎士の道は厳しいわよ。それでも目指す覚悟はあるの?」
「はい」
もう一度、イラリアに会いたい。そのために、自分の身を守れる力をつけたい。
可愛い妹に会うためなら、なんだって頑張れるような気がした。
「わかったわ。レオンも騎士を志しているはずだから、姉弟ふたりで頑張りなさい。夫もきっと許してくれるわ」
「……はい。ありがとうございます」
そうしてイラリアに再び会うため、私は強き騎士を目指しはじめた。旦那様やグラジオラス家の騎士からの指導を受けて、まずは体を鍛えて体力をつけることになった。
数週間後、ベガリュタル国のハイエレクタム公爵家が正式に降爵され、ハイエレクタム伯爵家になったという話を聞いた。
父は大臣の職から降ろされたという。彼らの様子がどうだったのか、私は知り得ない。
父は苦虫を噛み潰したような顔をしていそうだ。カミラ夫人はうるさく泣き叫んでいそうだ。イラリアの姿は……想像できない。
私がそばにいないときのイラリアの姿が、私はわからない。
私の覚えているイラリアは、私に向けて可愛く笑うから。私にキスをして、嬉しそうにするから。
彼女は今、どんな顔をして生きているのだろう。
私はひそかに、イラリアが健やかに過ごせることを祈った。
可愛い妹が、穏やかに、幸せに暮らせていますように、と。
応援ありがとうございます!
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