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【一】一・兄弟王子と出遭う放課後
058. 大学院、薬学部にて
しおりを挟む薄紅色の花の木陰から、夢みたいに、幻みたいに――彼は、ふらっと現れた。
春風に揺れるのは、金色の髪で。その瞳は、宝石みたいに煌めく黄緑色で。
「……殿、下?」
「この色の髪と目では、はじめまして。オフィーリア」
「!」
束の間のささやかな日常が、ほろりと崩れる。
再びの学校生活、二日目の朝。
大学院校舎の講義室で、私は〝先生〟をじっと見つめていた。ここで会うことはないと思っていた彼の姿に、目が離せない。
いつもの白衣姿に、眠そうな紺色の瞳、後ろでひとつに結った長めの黒髪。
「えー……、何名か、馴染みの者もいると思うが。うん。人手が足りないっつーことで、大学院薬学部の講義もちょっと担当することになった。
ジェームズ・スターチスだ。よろしく。俺は学院の方で薬草学と薬学の授業を担当していて、こっちでは――」
ジェームズ先生の自己紹介を聞きながら、私は考え事をする。これは、いったいどういうことだろう。
――このベガリュタル王国一の大学院が、人手不足? あり得ないわ。それも、学院の薬草学と薬学の授業をひとりで担当していたジェームズ先生が大学院の講義まで……――いえ、ちょっと待って。
貴族学院、薬学科、教師、枠……そういえば、そうだ。あらためて考えてみたら、もっと前からおかしかったのではなかろうか。
学院において、医学や薬学、科学を主に学ぶ、三、四年生の翠玉クラスの学生数は例年少ない。
とは言え、薬学科教師はこのクラスの薬学の授業のみならず、一、二年生の全員が受ける薬草学の授業も担当することになっている。
他の科と同様、最低でも二名、複数名が在籍しているべきところだろう。
それなのに、学院の薬学科教師は、なぜかジェームズ先生だけだった。一度目も、二度目も、ちょうど私やバルトロメオが学院一年生になった年からは。
三度目のこの世界でもそうだったと、イラリアもいつか言っていたはずだ。
――どうして気づかなかったのかしら。どう考えても、過労だわ。先生が結婚できないのも無理はないわね。忙しすぎるもの……。
って、そんなことを考えている場合じゃなくて。
なぜ、こんな、おかしな体制に? どうして先生が、無理をしなければならない環境になっているの……?
その授業――説明会が終わると、私はすばやく教壇に向かった。
先生は途中で気づいて、「おう。オフィーリア」といつもの顔で笑う。
「こんにちは、ジェームズ先生、最初、先生が講義室にいらっしゃったのを見て、びっくりしました」
「ああ。俺も、学院長から話を聞いた時はびっくりしたよ。なんでまた教員を増やせないんだ?! 俺の仕事をこれ以上増やすのか!? ってな」
「先生……」
「で? 思い詰めた顔して、どうしたんだよ? 悩み事の相談か?」
「……っ、そうではなくて……」
どこまでもいつも通りな彼の様子に、杞憂じゃないかしらと言葉がつかえる。
彼だって立派な大人だ。下手に口を出すのは失礼にあたるかもしれない……。でも。
「えっと、とても、お忙しそうで、お体のことが心配になって。学院でもおひとりで薬学科の先生をして大変でいらっしゃるのに大学院のお仕事までなさったら過労で倒れてしまうのではないかと!」
「あははっ、優しいのな。だが、いまのところは大丈夫だ。栄養剤や眠気覚ましでも飲んでりゃな」
「聖女の力で、癒やしましょうか……?」
「心配ありがとう。そうだな、マジで死にそうになったら助けてもらうとするよ。過去にはもっと忙しかった時期もあったし……今は、本当に大丈夫だから。な? お前は自分や家族のことを考えてりゃいい」
「――はい。先生」
先生の前では、私も、やっぱりまだ子どもらしい。頼りにはしてもらえそうになかった。
彼は先生で、私は学生。仕方のないことかもしれないけれど……。なんだか歯がゆい。
「大学院でも、よろしくな。オフィーリア」
そう言って、彼は講義室を去ろうとする。もう人もまばらだ。私も次の科目の準備をしないと。
――何か。何か、言えることはないの。このモヤモヤを晴らす方法は。言葉は。
「ジェームズ先生っ!」
「おう、なんだぁ」
私の声に、先生はのんびりと振り返った。彼は今日も、変わらず優しい。
「あの、私、自分や家族のことを考えてりゃって言われましたけど。先生のことだって家族みたいに大切に思ってますよ!」
「そりゃあ、どうもな。イラリアに聞かれたら嫉妬されそうな言葉だが、ありがとう」
「だから、その……十二歳も年下で、未熟者の私ですけれども。困ったときは支えるので、どうか、ご無理をなさらないでくださいね。頑張りすぎたら、おかしくなっちゃいます」
――そう。一度目の世界の私みたいに。
無理をしすぎたら、壊れてしまうかもしれないから。先生のそんな姿は、見たくないから。
「ん。わかった」
彼の返事は、とても簡潔だったけれど、
「はい! では、失礼いたします。ジェームズ先生」
ちゃんと伝わっていた気がした。
わかってもらえた気がした。
「――また、あとで!」
私は淑女の礼をして、去り際には笑顔を見せ、向こうの扉から講義室を出ていく。
それから先のその日の授業は、つつがなく進んだ。
イラリアと同じ薬学研究部に入部希望だという男子学生の姿を確認するため、これから私は学院校舎へと向かう。
外の石畳を歩いていると、『ガァアアァ』という鳴き声が近くで聞こえた。
――カラス、かしら……!?
『ガアアア、ガァァア!』
「きゃっ」
真っ黒なカラスが顔の真ん前を飛び、思わずその場でうずくまる。
カラスは意地悪くも私の頭を突っついて、髪を結っていたリボンまで解いてしまった。
「もう、なんなの……っ!」
『グワァア、ガァガッガッ』
まるで嘲笑うかのように鳴き、カラスはリボンを咥えて飛んでいく。夢見花の木に留まると嘴を開いて、リボンをグサッと枝で刺してしまった。
――もう、髪がぐしゃぐしゃだわ。このままイラリアに会いにいったら、心配されてしまうじゃない、まったくもう。
小さな物でも、私物は私物。このまま学園の敷地内に放置するのは良くないだろう。
私は夢見花の木に近づき、リボンを取ろうと手を――
「素敵なリボンですね。姫様」
――伸ばしたら。なぜか、誰かに手首を掴まれた。
いつからいたのだろう。気がつかなかった。
乱暴な強さではないけれど、すぐに振り解けるほど弱くはない。そんな力加減で、その人は私の手を引いた。
まるで風のように現れた、彼は。
――どうして。どうして、彼が、ここに……?
その顔や背格好が視界に入るや否や、私の心臓はドクドクとうるさくなる。目眩さえ、おぼえる。
「……殿、下?」
目の前にいる男の顔は、あの人とそっくりで。
そう――かつては婚約者だった、今は遠くにいるはずの彼。私の初恋の相手。
バルトロメオと、瓜二つだった。
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