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幻影
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薄暗い部屋の中、肩まである黒い髪のうち、耳のそばにある数本を顔の前に垂らし、高校の制服を着たまま、床に置いた日記をめくる少女がいる。日記の表紙には星月夜 生歩と書いてある。彼女の名だ。日記をつけ始めたのは、彼女が小学二年生のとき。その日は、彼女が初めて、人から悪意を向けられた日であった。
学校の校庭で花いちもんめをしようとしていたとき、ある少年が言った。
「おれ、あいついらねーよ、なんもしゃべんねーし、つまんねーじゃん」
彼女は両親が共働きで、人と話す機会が少なかったためか、口数が少なかった。それが彼にはつまらなく感じたのだろう。彼女は、隣の子と繋ごうとしていた手を止める。
「ちょっと そんな いいかた ないでしょ」
彼の周りにいた同級生は注意したが、誰も彼女が つまらないやつ であることは否定しなかった。思い返して、花いちもんめをしていたときずっと選ばれてこなかったことに彼女は気づいた。彼女は立っていた。誰も繋ごうとしない手を、ゆっくりと下ろしながら。
肘が伸び切る寸前、ガッとその手を掴まれた。そのまま掌をギュッと握られる。
「なにいってんのよ!わたしは きほちゃんがほしいもん!だって、なまえがかわいいし、かおもかわいいし!あんたがいらないんだったら、わたしがもらうもんねー!」
そう言って手を掴んだ少女、西部戸 心は彼女に微笑みかけ、
「いこっ」
と言って、引っ張って行った。
その日、彼女は自分の生きる道を見つけた。人に手を差し伸べ、その手を握ってあげられる人になること。それが彼女の目標だった。今の自分がどれほど目標に近づいているか。それを明らかにするため、彼女は日記を書き始めたのだった。
彼女は日記をめくる。小学校を卒業し、中学生になり、心は転校してしまった。そして入試、入学式を終えた。次の日記に手を伸ばす。
その日、彼女は手をゴミ箱に突っ込んでいた。彼女の消しゴムがこの中にあるから…
彼女は日記を閉じる。読む順番を間違えたらしい。そばにあるもう一つの日記を、今開いた日記の上に置く。
心とは、高校で再会することができた。同じクラスだった。小学が同じで音楽の趣味が合った彼女たちは、すぐに仲良くなった。
数ヶ月後、心からいじめの相談を受けた。クラスメートからのいじめ。ネットでの話だ。きっかけは分からない。その話を聞いたとき、既に彼女の心は決まっていた。
日記を閉じて、どかす。下から先程読んでいた日記が現れる。
手をかき回す。全く嫌なものを選ぶ。消しゴムなら掃除の際に捨てられていてもおかしくないから言い逃れしやすいうえに、次の授業では小テストが行われる。リスクが少なく、かつ彼女に大きなダメージを与えられる。
手の甲に得体のしれない液体がつくが、さらに深く手を突っ込む。この中に、あるのだ。誰に言われたわけでもないが、彼らの悪意ある目がそう語っている。
あった。そう呟いて、手を引っ張り出し、溢れてしまったゴミを再度捨て、手を洗いに行く。
最近、心は彼女に目を合わせない。チームを決めでは、いつも余る。彼女がいないクラスラインがあることを知った。辛いことはたくさんある。それでも自分の目標、あの日救ってくれた少女に近づいている。そう思うことで、彼女は辛い日々に耐えていた。
全ての日記を読んだ彼女は、日記をまとめ、棚の中に押し込んだ。
ある日の下校中。彼女はバス停に向かっていた。普段乗っている自転車の鍵が見当たらないからだ。両親は迎えに来られないため、バスを利用せねばならない。見慣れない道。スマホで地図を確認しながら歩く。間に合うか微妙だった。次のバスを逃すと、一時間は待つはめになる。
信号が点滅する。急いだが、完全に赤になってしまった。長い信号だった。時計を確認する。秒針は一定の速さで、静かに、確かに進む。間に合わないかもしれない。いや、もう少し急げば……。信号が点滅した。あと少し。待って、待って、ようやく青になった。
初めて通る道であるから、知らなかった。彼女が今まで足止めされていたように、今赤になった信号も、長い間人を足止めすることを。そして、待つのが嫌で、無理にでも車を滑り込ませる者が多いことを。
目の端に黒いなにかが映る、速い、理解して、鳥肌が立つ、心臓がキュッと絞まる、足がもつれて、正面に金属の黒、脳裏によぎる
「こ…」
ぼんやりとした意識が少しずつ輪郭を形作っていく。瞼の向こう側から暖かい光を感じる。ゆっくりと目を開くと、日の光を直視してしまった。反射的にまた閉じる。どうやら、仰向けに寝ているらしい。目を閉じたまま、上半身を起こそうと体をひねる。
「いっ…」
体の節々に痛みが走る。目を開けるとだんだんと焦点が合い、ゴツゴツとした小さな岩が見えた。なるほど。この上で寝ていたから全身が痛いんだ。起きるのが億劫になったが、無理やり体を持ち上げる。ここはどこだろうか。
視線を上げて、ゾッとした。干乾びた土地だった。とても広い。亀裂が入った地面の上に岩が転々としていて、目の前には地平線の先まで伸びた幅の広い窪みがある。砂漠のようだ。緑がない。あるとすれば、地面の亀裂から生える雑草か、空……エメラルドグリーンの…空。
慌てて後ろを振り返って、さらにギョッとした。荒野が続いて、その先。そこには家屋のようなものが何軒かあった。そして、山があった。土があり、まばらだが木があった。様々な角度で生えている。中には枝ではなく根を土から伸ばしている木もある。山は非常に歪な形をしている。山のうち、抉り取られたような箇所から土がもこもこと伸び、家屋に突っ込んでいる。土砂崩れだ。
座ったまま、あんぐりと口を開ける。しばらくして、意味もなく空を見上げた。美しい、宝石のような空だった。
息を切らしながら足を動かす。とにかく、村へ行こう。近く見えた村は意外に遠い。なかなか近づかない。
ここがどこかなんて分からない。なぜ私がこんな場所にいるのかも分からない。この選択が正しいのかすら。しかし、状況が分からない今、人の助けが必要だ。スマホも落としてしまったらしいし。ここがどこなのか聞いて、母に連絡してもらおう。ふと、私の話を真剣に聞いてくれるのか気になった。車にはねられ、気づけばここにいたなんて。自分でも信じられないのに。誰にも信じてもらえるなかったら、一体どうすれば…
嫌な方にいきそうな思考を頭を振って止める。今悲観的になるのは危ない。きっと、私は車にはねられた後、運転手に証拠隠滅のためここに捨てられたんだ。空の色が緑なのは、はねられたとき、目か脳に何かしらの傷を負ったから。今頃警察も動いて、私はすぐに帰れる。そうに決まってる。
風で飛ばされた砂が、制服から出ている素肌に当たる。チクチクとした痛みに耐えながら、歩き続けた。
村の入口と思われる門の下に立ち、人を探す。村は非常に荒んでいた。活気はなく、人の声も聞こえず、ただ木製の家屋が軋む音がギシギシと響いている。昼間なのに、人の姿が見えない。
ふらりと、小さな子どもが家屋の間から出てきて、路地に入っていった。
「あっ…」
声をかけられなかった。一瞬躊躇ったが、初めて見かけた人なのだ。ここがどこかだけでも聞いておきたい。意を決して、村の中に入る。
空気が、重い。鼓動が速くなる。住む世界が違う。そんな気がする。
路地を覗き込む。さっきの子どもが背を向けて蹲っていた。髪はボサボサで、浴衣のような服を着ている。その服は穴だらけで、すごく硬そうだった。そして、子どもの体は小刻みに震えている。お腹でも痛いのだろうか。
「…大丈夫?」
助けを呼ぼうか迷っていると、子どもがゆっくりと振り向いた。
「…ぁ」
住む世界は確かに違かった。子どもの目には虚無が映っている。頬はこけ、骨が皮膚を突き破って出てきそうだ。口元には茶色いなにかがついて…
「…っ」
子どもの足元を見て、息を飲んだ。犬だ。子どもの前に犬が倒れている。一瞬汚れた布に見えたが、違う。目も鼻もあるそれは確かに犬だった。しかし、腹と思われる部分がぽっかりと…ない。いや、まさか、そんなわけ…
「じのごだああぁぁあ"あ"」
突然、何かのスイッチが入ったかのように子どもが天を向いて叫ぶ。数年の時を経てようやく出せたようなガラガラの声。
「ああ"あああ"」
その異様な行動に後ずさる。頭が言っている。逃げろ
踵を返して路地から抜け出て、門の方を向いて絶望した。大人たちが大勢、門への道を塞いでいる。ガリガリだが、背は高い。何人か、棍棒のような物を持っている。網を持っている。全員の目が、私を見ている。
じり、じりと、視線を外さず、近づいて来る。後ずさる度に募る恐怖が、腹の底に渦巻いていた恐怖が弾けた。彼らに背を向け走り出し、ぶつかった。そのまま強く尻を打つ。地面についた手に鋭い痛みが走る。見上げると、見下されていた。男に。黄色い白目に、白い黒目の眼球で。ぞろぞろとその男の横に人が並ぶ。全身、見下ろしながら距離を詰めてくる。
「ぢのこだ」
目の前の、男が言う。
「ほんとうに」
背後から、声が聞こえる。
「おぉい、くにのもんをよべぇ!!」
遠くから、誰かが叫ぶ。
人に、声に囲まれて、逃げ場がないと知る。終わったと思った。ふと、ここは教室に似ていると感じた。いや違うが、やはり違わない。こんなところで、彼女を守りきれずに終わってしまうのか。ああ、帰りたい。まだ、私にはやることが、やらなきゃいけないことがあるのに。
四方から伸びてくる手が、異様に遅く、ただただやるせなくて、見たくなくて、目を押し閉じて「ごめん」と呟いた。
感じたのは、地面に叩きつけられる痛みではなく、浮遊感。それと風。後ろから鈍い音と悲鳴が聞こえる。振動を感じる。揺れている。グオンッと急に下がったように、内臓が持ち上がるように感じて、思わずパッと目を開ける。
人の顔があった。男の人。白い髪がフワッと浮き上がっている。痩せてはいるが、ガリガリではない…ように見える。下からなのでよく顔が見えないが、なんとなく、彼の顔からは悪意も善意も感じられなかった。
グンッと今度は宙に浮くような感覚。慌てて周りを見渡して、気づいた。まず、彼が私を抱えていること。今私は路地にいること。そして、地面がぐんぐんと離れていくことに。目線を上げると、彼はロープを掴んでいた。その腕が曲がる度に体が引き上げられる。
「あっあ"ああ」
悲鳴が聞こえた。体をひねって見ると、大勢の人たちが血相を変えてこちらに迫ってくる。心臓が一気に縮む。が、すぐに見えなくなった。登りきって、屋根に遮られたんだ。
「早く行きましょう」
声の方を向くと、数人の男性がいた。村人とは違い、黒い革のような、長いコートのような服を着ている。服を着ている。皆たくましい体つきをしており、その手にはロープの先端が握られている。状況が全く分からないまま、また走り出してしまう。屋根の上をぽんぽんと。激しい振動に頭がぐらぐらして、目をつぶった。村人たちの声が遠ざかって、やがて聞こえなくなる。しばらくして、もう吐くかもしれないと思ったとき、ようやく止まった。
ゆっくりと下ろされたが、足に力が入らず倒れかけ、また支えられる。心臓がバクバクする。未だ何が起こっているか分からない。助けられたのだろうか?なぜ?彼らは誰だ。そもそもなぜ私は襲われたんだ。疑問が次々湧いて、受け止めきれない。一度息を吸う。落ち着かなければ。焦っても、気を抜いてもいけない。事態がどう動いたか、そんなことは分からないのだ。
まず、周りを見る。転々と木がある。そして、ずっと坂道が続いている。振り向くと、少し遠くにあの村が見えた。なるほど。私は今、山の麓にいる。
そして、等間隔に囲まれている。今私を連れてきた彼らに。危機感を感じる。彼らから敵意は感じないが、どこか変だ。観察されているような気がする。とは言え、お礼を言うべきなのか?目的は分からないが、助けられたのなら…
突然視界に黒いものが映り込む。とっさに後ろに下がる。見ると、さっき私を担いでいた人が立っていた。正面から見ても、何も感じ取れない顔をしている。彼が両手を差し出した。その手にのっている物をしばらく見つめて、ハッとした。剣だ。装飾が施されていて気づかなかったが、鞘と柄の間から冷たい光が漏れている。
唾を飲む。やはり危なかった。どこの世界に助けた者にすぐに刃物を向ける人がいる。彼らもあの村人と同じだ。いや、刃を向けられてはいない?鞘がついている。なぜ、
「持ってください」
彼が初めて口を開いた。
「あなたのものです」
恐ろしく静かな口調。
「この剣は貴方を守ってくれる。そして、私共と今の帝王を打ち破り、新たな王になられるのです」
何を言っているのか分からない。この剣が私のもの?
剣の方に目を向ける。鞘のゴチャゴチャした装飾の中に、二つの顔が浮き出た気がした。
学校の校庭で花いちもんめをしようとしていたとき、ある少年が言った。
「おれ、あいついらねーよ、なんもしゃべんねーし、つまんねーじゃん」
彼女は両親が共働きで、人と話す機会が少なかったためか、口数が少なかった。それが彼にはつまらなく感じたのだろう。彼女は、隣の子と繋ごうとしていた手を止める。
「ちょっと そんな いいかた ないでしょ」
彼の周りにいた同級生は注意したが、誰も彼女が つまらないやつ であることは否定しなかった。思い返して、花いちもんめをしていたときずっと選ばれてこなかったことに彼女は気づいた。彼女は立っていた。誰も繋ごうとしない手を、ゆっくりと下ろしながら。
肘が伸び切る寸前、ガッとその手を掴まれた。そのまま掌をギュッと握られる。
「なにいってんのよ!わたしは きほちゃんがほしいもん!だって、なまえがかわいいし、かおもかわいいし!あんたがいらないんだったら、わたしがもらうもんねー!」
そう言って手を掴んだ少女、西部戸 心は彼女に微笑みかけ、
「いこっ」
と言って、引っ張って行った。
その日、彼女は自分の生きる道を見つけた。人に手を差し伸べ、その手を握ってあげられる人になること。それが彼女の目標だった。今の自分がどれほど目標に近づいているか。それを明らかにするため、彼女は日記を書き始めたのだった。
彼女は日記をめくる。小学校を卒業し、中学生になり、心は転校してしまった。そして入試、入学式を終えた。次の日記に手を伸ばす。
その日、彼女は手をゴミ箱に突っ込んでいた。彼女の消しゴムがこの中にあるから…
彼女は日記を閉じる。読む順番を間違えたらしい。そばにあるもう一つの日記を、今開いた日記の上に置く。
心とは、高校で再会することができた。同じクラスだった。小学が同じで音楽の趣味が合った彼女たちは、すぐに仲良くなった。
数ヶ月後、心からいじめの相談を受けた。クラスメートからのいじめ。ネットでの話だ。きっかけは分からない。その話を聞いたとき、既に彼女の心は決まっていた。
日記を閉じて、どかす。下から先程読んでいた日記が現れる。
手をかき回す。全く嫌なものを選ぶ。消しゴムなら掃除の際に捨てられていてもおかしくないから言い逃れしやすいうえに、次の授業では小テストが行われる。リスクが少なく、かつ彼女に大きなダメージを与えられる。
手の甲に得体のしれない液体がつくが、さらに深く手を突っ込む。この中に、あるのだ。誰に言われたわけでもないが、彼らの悪意ある目がそう語っている。
あった。そう呟いて、手を引っ張り出し、溢れてしまったゴミを再度捨て、手を洗いに行く。
最近、心は彼女に目を合わせない。チームを決めでは、いつも余る。彼女がいないクラスラインがあることを知った。辛いことはたくさんある。それでも自分の目標、あの日救ってくれた少女に近づいている。そう思うことで、彼女は辛い日々に耐えていた。
全ての日記を読んだ彼女は、日記をまとめ、棚の中に押し込んだ。
ある日の下校中。彼女はバス停に向かっていた。普段乗っている自転車の鍵が見当たらないからだ。両親は迎えに来られないため、バスを利用せねばならない。見慣れない道。スマホで地図を確認しながら歩く。間に合うか微妙だった。次のバスを逃すと、一時間は待つはめになる。
信号が点滅する。急いだが、完全に赤になってしまった。長い信号だった。時計を確認する。秒針は一定の速さで、静かに、確かに進む。間に合わないかもしれない。いや、もう少し急げば……。信号が点滅した。あと少し。待って、待って、ようやく青になった。
初めて通る道であるから、知らなかった。彼女が今まで足止めされていたように、今赤になった信号も、長い間人を足止めすることを。そして、待つのが嫌で、無理にでも車を滑り込ませる者が多いことを。
目の端に黒いなにかが映る、速い、理解して、鳥肌が立つ、心臓がキュッと絞まる、足がもつれて、正面に金属の黒、脳裏によぎる
「こ…」
ぼんやりとした意識が少しずつ輪郭を形作っていく。瞼の向こう側から暖かい光を感じる。ゆっくりと目を開くと、日の光を直視してしまった。反射的にまた閉じる。どうやら、仰向けに寝ているらしい。目を閉じたまま、上半身を起こそうと体をひねる。
「いっ…」
体の節々に痛みが走る。目を開けるとだんだんと焦点が合い、ゴツゴツとした小さな岩が見えた。なるほど。この上で寝ていたから全身が痛いんだ。起きるのが億劫になったが、無理やり体を持ち上げる。ここはどこだろうか。
視線を上げて、ゾッとした。干乾びた土地だった。とても広い。亀裂が入った地面の上に岩が転々としていて、目の前には地平線の先まで伸びた幅の広い窪みがある。砂漠のようだ。緑がない。あるとすれば、地面の亀裂から生える雑草か、空……エメラルドグリーンの…空。
慌てて後ろを振り返って、さらにギョッとした。荒野が続いて、その先。そこには家屋のようなものが何軒かあった。そして、山があった。土があり、まばらだが木があった。様々な角度で生えている。中には枝ではなく根を土から伸ばしている木もある。山は非常に歪な形をしている。山のうち、抉り取られたような箇所から土がもこもこと伸び、家屋に突っ込んでいる。土砂崩れだ。
座ったまま、あんぐりと口を開ける。しばらくして、意味もなく空を見上げた。美しい、宝石のような空だった。
息を切らしながら足を動かす。とにかく、村へ行こう。近く見えた村は意外に遠い。なかなか近づかない。
ここがどこかなんて分からない。なぜ私がこんな場所にいるのかも分からない。この選択が正しいのかすら。しかし、状況が分からない今、人の助けが必要だ。スマホも落としてしまったらしいし。ここがどこなのか聞いて、母に連絡してもらおう。ふと、私の話を真剣に聞いてくれるのか気になった。車にはねられ、気づけばここにいたなんて。自分でも信じられないのに。誰にも信じてもらえるなかったら、一体どうすれば…
嫌な方にいきそうな思考を頭を振って止める。今悲観的になるのは危ない。きっと、私は車にはねられた後、運転手に証拠隠滅のためここに捨てられたんだ。空の色が緑なのは、はねられたとき、目か脳に何かしらの傷を負ったから。今頃警察も動いて、私はすぐに帰れる。そうに決まってる。
風で飛ばされた砂が、制服から出ている素肌に当たる。チクチクとした痛みに耐えながら、歩き続けた。
村の入口と思われる門の下に立ち、人を探す。村は非常に荒んでいた。活気はなく、人の声も聞こえず、ただ木製の家屋が軋む音がギシギシと響いている。昼間なのに、人の姿が見えない。
ふらりと、小さな子どもが家屋の間から出てきて、路地に入っていった。
「あっ…」
声をかけられなかった。一瞬躊躇ったが、初めて見かけた人なのだ。ここがどこかだけでも聞いておきたい。意を決して、村の中に入る。
空気が、重い。鼓動が速くなる。住む世界が違う。そんな気がする。
路地を覗き込む。さっきの子どもが背を向けて蹲っていた。髪はボサボサで、浴衣のような服を着ている。その服は穴だらけで、すごく硬そうだった。そして、子どもの体は小刻みに震えている。お腹でも痛いのだろうか。
「…大丈夫?」
助けを呼ぼうか迷っていると、子どもがゆっくりと振り向いた。
「…ぁ」
住む世界は確かに違かった。子どもの目には虚無が映っている。頬はこけ、骨が皮膚を突き破って出てきそうだ。口元には茶色いなにかがついて…
「…っ」
子どもの足元を見て、息を飲んだ。犬だ。子どもの前に犬が倒れている。一瞬汚れた布に見えたが、違う。目も鼻もあるそれは確かに犬だった。しかし、腹と思われる部分がぽっかりと…ない。いや、まさか、そんなわけ…
「じのごだああぁぁあ"あ"」
突然、何かのスイッチが入ったかのように子どもが天を向いて叫ぶ。数年の時を経てようやく出せたようなガラガラの声。
「ああ"あああ"」
その異様な行動に後ずさる。頭が言っている。逃げろ
踵を返して路地から抜け出て、門の方を向いて絶望した。大人たちが大勢、門への道を塞いでいる。ガリガリだが、背は高い。何人か、棍棒のような物を持っている。網を持っている。全員の目が、私を見ている。
じり、じりと、視線を外さず、近づいて来る。後ずさる度に募る恐怖が、腹の底に渦巻いていた恐怖が弾けた。彼らに背を向け走り出し、ぶつかった。そのまま強く尻を打つ。地面についた手に鋭い痛みが走る。見上げると、見下されていた。男に。黄色い白目に、白い黒目の眼球で。ぞろぞろとその男の横に人が並ぶ。全身、見下ろしながら距離を詰めてくる。
「ぢのこだ」
目の前の、男が言う。
「ほんとうに」
背後から、声が聞こえる。
「おぉい、くにのもんをよべぇ!!」
遠くから、誰かが叫ぶ。
人に、声に囲まれて、逃げ場がないと知る。終わったと思った。ふと、ここは教室に似ていると感じた。いや違うが、やはり違わない。こんなところで、彼女を守りきれずに終わってしまうのか。ああ、帰りたい。まだ、私にはやることが、やらなきゃいけないことがあるのに。
四方から伸びてくる手が、異様に遅く、ただただやるせなくて、見たくなくて、目を押し閉じて「ごめん」と呟いた。
感じたのは、地面に叩きつけられる痛みではなく、浮遊感。それと風。後ろから鈍い音と悲鳴が聞こえる。振動を感じる。揺れている。グオンッと急に下がったように、内臓が持ち上がるように感じて、思わずパッと目を開ける。
人の顔があった。男の人。白い髪がフワッと浮き上がっている。痩せてはいるが、ガリガリではない…ように見える。下からなのでよく顔が見えないが、なんとなく、彼の顔からは悪意も善意も感じられなかった。
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「あっあ"ああ」
悲鳴が聞こえた。体をひねって見ると、大勢の人たちが血相を変えてこちらに迫ってくる。心臓が一気に縮む。が、すぐに見えなくなった。登りきって、屋根に遮られたんだ。
「早く行きましょう」
声の方を向くと、数人の男性がいた。村人とは違い、黒い革のような、長いコートのような服を着ている。服を着ている。皆たくましい体つきをしており、その手にはロープの先端が握られている。状況が全く分からないまま、また走り出してしまう。屋根の上をぽんぽんと。激しい振動に頭がぐらぐらして、目をつぶった。村人たちの声が遠ざかって、やがて聞こえなくなる。しばらくして、もう吐くかもしれないと思ったとき、ようやく止まった。
ゆっくりと下ろされたが、足に力が入らず倒れかけ、また支えられる。心臓がバクバクする。未だ何が起こっているか分からない。助けられたのだろうか?なぜ?彼らは誰だ。そもそもなぜ私は襲われたんだ。疑問が次々湧いて、受け止めきれない。一度息を吸う。落ち着かなければ。焦っても、気を抜いてもいけない。事態がどう動いたか、そんなことは分からないのだ。
まず、周りを見る。転々と木がある。そして、ずっと坂道が続いている。振り向くと、少し遠くにあの村が見えた。なるほど。私は今、山の麓にいる。
そして、等間隔に囲まれている。今私を連れてきた彼らに。危機感を感じる。彼らから敵意は感じないが、どこか変だ。観察されているような気がする。とは言え、お礼を言うべきなのか?目的は分からないが、助けられたのなら…
突然視界に黒いものが映り込む。とっさに後ろに下がる。見ると、さっき私を担いでいた人が立っていた。正面から見ても、何も感じ取れない顔をしている。彼が両手を差し出した。その手にのっている物をしばらく見つめて、ハッとした。剣だ。装飾が施されていて気づかなかったが、鞘と柄の間から冷たい光が漏れている。
唾を飲む。やはり危なかった。どこの世界に助けた者にすぐに刃物を向ける人がいる。彼らもあの村人と同じだ。いや、刃を向けられてはいない?鞘がついている。なぜ、
「持ってください」
彼が初めて口を開いた。
「あなたのものです」
恐ろしく静かな口調。
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