或る男の渇望

ドラマチカ

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或る男の嫉妬 1

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 インクの匂いが微かに漂う机の上で、最後の句点を書き終えてペン先が止まった。
 一葉は深く息を吸い込んで、肺の中にある酸素をゆっくりと全部吐くとカタリ、と音を立ててペンを置いた。そしてもう一度深呼吸をすると、インクの乾く音さえ聞こえそうな静寂の中で座椅子に身を沈めた。
 積み上がった原稿用紙の山。その上には、書き上げたばかりの新作小説の最後の一枚が静かに乗っている。それは、一葉の才能と、数週間まともに眠らずに書き上げた努力の成果だ。執筆中は集中しすぎて食事もままならず、原稿明けはいつもやつれてしまう。

 外はすでに宵闇。しかし雲が月を隠し、部屋を照らしているのはオレンジ色の電灯だけだった。一葉は、机に突っ伏して肩を上下させた。全身から力が抜け、空腹ではあるが心地よい疲労感が広がる。

 ――ようやく、終わった。

 数週間とはいっても、今回は一か月以上もかかってしまった。連載ならもう少し短いが、今回は少し長くかかったな、と苦笑して安堵の息を吐いたその時、背後で襖が静かに開いた。
 近付く足音は柔らかく、それでいて確かな存在感を持っている。誰か、だなんて聞かずともすぐに分かる。今、この家には二人しかいないのだから。
 
「……終わったか」
 低く落ち着いた声が、背中越しに響く。一葉は目を閉じてその安らぐ声に息を吐く。

 一葉は顔を上げ、声の方へ視線を向けた。案の定、そこには幸助が立っていた。顎には無精髭、艶のある黒髪は少し乱れていて、白い襦袢の上に羽織を引っかけただけの姿。鋭い目元をした男だが、その視線は一葉を見た瞬間だけ、驚くほど柔らかくなる。

「幸助のおかげで集中して書けたよ」
 一葉は微笑みながら、差し出された湯呑を静かに受け取った。香ばしいほうじ茶の湯気が立ちのぼる。息を吹きかけ少し冷まして唇を湿らせると、ようやく胸の奥から安堵の笑みが零れた。

 幸助は一葉の隣に腰を下ろし、静かに目を細める。
「徹夜続きだったんだ……少しは休めよ」
「うん。ありがとう。でも、まだ終わってないから。編集部に渡すまでが仕事だからね」
 一葉の言葉に、幸助は眉をわずかに寄せた。

「明日は出るな」
 短く、しかし有無を言わさない響きを持った声だった。

 一葉は苦笑を浮かべる。
「またそれ? 大げさだなぁ。俺はただの作家で、命を狙われてるわけでもないのに」
「……疲れてる時に、余計な奴に会う必要はねぇ」
 幸助はそう言いながら、そっと一葉の細い肩を引き寄せた。

 その腕の力強さに、一葉の身体が少し揺れる。
 幸助の胸に顔を寄せると、鼓動が聞こえた。穏やかな、どこか安心するような規則的な音。心地いい。

「幸助」
 呼びかけると、彼はわずかに息を止めた。
 一葉は笑って、その黒髪に手を伸ばす。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」

 幸助はその手に額を擦り寄せ、低く唸るように言った。
「……一葉が疲れてる時ほど、誰にも近づけたくない」

 一葉は目を瞬かせ、ふっと笑う。
「どうして?」
 上目遣いで覗うように問いかければ、幸助は頬を染めて一葉を見つめる。
「……色っぽいから……」
 年上の男に色っぽいだのと何を言っているんだと思わなくもないが、幸助にはそう見えているのだと思うと嬉しくもある。
「嫉妬してるの?」
 一葉は幸助の言葉に笑いながら核心を突けば、幸助はきまり悪そうに視線を逸らした。そんな幸助に、可愛いなぁ、と笑みが深くなる。
「……そうかもな」
 間をおいてそう言った幸助の唇が、一葉の耳元に近づく。
「俺は一葉の番犬だ。吠えることも噛みつくこともできる。けど……噛みつくのは、お前だけだ」

 一葉は顔を赤らめ、幸助の胸を軽く押した。可愛いと思ったそばからこれだから油断できない。今度は一葉が頬を染めたまま、悔しい、と拗ねたように唇を小さくして頬を膨らませた。
「そういうこと……言うなよ。恥ずかしいから……それに……幸助は、犬じゃないだろ」

 幸助は笑みを浮かべた。
 普段は無口でぶっきらぼうな男が、こんなふうに感情を見せるのは一葉の前でだけだった。そして、その笑みには愛と執着が入り混じっていることも知っている。自分にのみ向けられるその視線が、一葉は好きだった。

「お前は、俺の光だ。一瞬でも他の奴が照らされるのは我慢ならねぇ」
 幸助の言葉に、一葉は少しだけ目を瞠った。しかしそれは一瞬で。すぐにいつもの表情に戻る。

「そんなこと言って、俺を喜ばせて家にいさせようとしてるだろ……」
「……さぁな」
「しらばっくれたってだめだよ。俺が外に出るたびに、幸助は不機嫌になるだろ?」
「たぶんな」
 即答だった。

 一葉は予想以上に即答した幸助に、堪えきれずに吹き出した。
「たぶん? 違うでしょ、絶対に不機嫌になるでしょ幸助は」
 そう言いながらも、幸助の腕の中に身体を預ける。幸助の体は大きいが、一葉には可愛く見える。弟とも忠犬ともとれる可愛さがある。それでも、こうして体を寄せ合っていると、幸助は男なんだ、恋人なんだ、と胸が高鳴り恋しくて愛しいと感じる。一葉は幸助に体を預けたままウットリと穏やかな時間に浸った。

 月が雲間から顔を出しはじめ、窓から月明かりが差し込んで電灯とともに障子に二人の影を落とす。そして、その影は寄り添い、やがてひとつに溶ける。

「幸助」
「ん?」
「幸助がいてくれてよかった」
 一葉の呟きに、幸助は目を細める。

 そのまま彼は一葉の額に口づけを落とした。
 熱を帯びた唇が、静寂の夜にひとつの誓いを刻む。

 ――誰にも触れさせない。
 ――この手で包み込んで守り抜く。

 幸助のその想いは、言葉にならずとも伝わっていた。
「一葉。まずは寝ようか」
「うん」
 幸助は一葉を抱き上げると、布団へそっと寝かせてその横に自分も横たわる。掛け布団を一緒にかぶり、一葉の肩を抱き寄せて密着すると一葉は擦り寄ってきて微笑み、幸助の肩に額を乗せる。

「おやすみ、幸助」
「ああ。おやすみ、一葉」

 湯呑みの中の茶がゆっくりと冷めていく。
 障子の外では、煩いくらいに虫の声が秋の訪れを告げていた。



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