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或る男の嫉妬 3
しおりを挟む出版社を出ると、昼の街は一層にぎやかだった。
喫茶店から流れるジャズの旋律、女学生たちの笑い声、街角で新聞を売る少年の張りのある声。
時代が大きく動いている――そんな空気が漂っている。
一葉は陽の光に目を細めながら、掌を目の前にかざしてみる。眩しさが徹夜明けの目に染みるが、一仕事終えたという実感が湧いて充実感で満たされる気がした。
「今日は暖かいね。幸助、少し歩こうよ」
「……疲れないか? 徹夜明けだろ」
「ふふ。大丈夫だよ。心配ならあそこの喫茶店で少し休もうか」
白壁に緑の扉が映える、小さな洋風の店。
窓辺には生花が飾られ、扉の向こうからコーヒー豆を焙煎するいい香りが漂ってくる。
幸助は早く帰りたいとも思うが、執筆明けで疲れているであろう一葉を労わりたいという想いもあり、無言で頷いて一葉の後に続いた。
通りを渡り喫茶店側に辿り着いたその瞬間。
「おや? 市ノ瀬先生じゃありませんか!」
またしても、背後から明るい声が飛んだ。幸助の片眉がピクリ、と動く。
一葉が幸助の様子を気にしつつ振り向くと、そこにいたのは顔なじみの書店の主だった。
小柄で恰幅のよい男が、手に抱えた本を揺らして息を切らしながら駆け寄ってくる。
「いやぁ、お久しぶりですな! 先生の新作、予約が殺到しておりますよ!」
「それは光栄ですね。お店のほうはお忙しいのでしょう?」
「ええ、おかげさまで! いやぁ、しかし先生のお話にはいつも胸を打たれます。あのラストの台詞なんて、家内が泣きましてねぇ」
男の笑い声が響く。
一葉は人懐こく頷き、穏やかに応じていた。先ほどとは違い、近距離でのやりとりに幸助の胸の奥では何かがじりじりと焼けるように熱を帯びていた。
――まただ。
――こいつも、俺には向けられない笑顔の一葉を見て笑ってやがる。
幸助の拳が、袖の中で固く握られる。爪が食い込み血が滲むほどに強く握りしめていても、痛みすら感じない。それほど激しい焦燥に駆られる。
こめかみがぴくりと動き、喉奥に低いうなりが漏れそうになる。
一葉はふとその気配に気づき、男に向けた笑顔のまま、そっと後ろ手に幸助の袖をつまんだ。
「幸助……」
たったそれだけで、幸助の体がかすかに震えた。
――一葉が俺の名を呼んだ。
それだけで、理性をなんとか持ちこたえ、幸助は胸に渦巻く不快感を落ち着かせようと静かに深呼吸を繰り返す。
書店の主は、やはり幸助の様子には気づかぬまま、話を続ける。
「先生、もしよければ来月の読書会にも! 先生のお話をぜひうちで――」
「行くぞ」
幸助の低い声が、静かに空気を裂いた。
一葉は振り返り、その瞳にわずかな苦笑を宿す。
「すみません、また改めてご連絡しますね」
「おお、はい、ぜひ!」
男は幸助の強引な行動を気にする様子もなく、手を振って朗らかに笑いながら去っていった。
通りを歩き出すと、幸助は無言のまま前を見つめていた。
その横顔には、怒りよりも痛みに近い陰りが差している。
一葉は歩調を緩め、並んで歩きながら声をかけた。
「……あの人は昔からの知り合いなんだ。悪気はないよ」
「知ってる」
「でも、君が睨むから驚いてた」
「睨んでねぇし、驚いてもいなかった」
「驚いて……なかった、ね。幸助が頑張って我慢してくれたから」
一葉がからかうように笑うと、幸助はバツが悪そうに小さく舌打ちした。
「……俺はただ、見てただけだ」
「ふふ、護衛なのかな」
「違いないな。俺の役目だ」
一葉は肩を震わせて笑いながら、恋人だろ、と呟いた。
その声と言葉に、幸助の頬が少し赤くなる。一葉は幸助のこういうところは本当に可愛いな、と思った。
そうこうして辿り着いた喫茶店の扉を押すと、店内は静かで落ち着いた雰囲気だった。
木のテーブル、古びたランプ、壁に掛けられた外国のポスター。
店内の隅で蓄音機がゆったりとした音を鳴らしている。
「空いてるね」と一葉が微笑む。
だが、その瞬間。
「おや、市ノ瀬先生じゃないか!」
幸助は、またか、と思った。
奥の席にいた男が、静かな店内で椅子を鳴らして立ち上がった。
黒髪を後ろで束ね、口元に軽い笑みを浮かべたプレイボーイ風の男。幸助も知っている同業の作家、羽田(はだ)である。
彼は文壇では見た目に違わず社交的な性格で知られ、誰とでも気軽に話す人物だ。
「原稿上がったって聞いたぞ! お疲れさん!」
羽田はそう言いながら、一葉の肩を軽く叩いた。
――その瞬間。
幸助の表情が、凍りついた。
二度も我慢した。これで三度目だ。
幸助の我慢は限界を超えてしまったのだ。
拳がぎゅっと握り締められ、血管が浮かび上がる。
目の奥がぎらりと光り、今にも噛みつきそうなほど鋭い。
「やめろ」
低く唸るような声。一葉の背筋さえゾクリと震えた。
羽田は頬を引くつかせ、慌てて手を引っ込めた。
「お、おいおい……そんな怖い顔すんなって。冗談だろ?」
幸助は歯を食いしばり、そのまま無言で睨みつけた。
店内の空気が、ぴんと張り詰める。
客は少ないとはいえ、いないわけではない。一葉は慌ててその間に入り込んだ。
「幸助」
普段より少し強い声。それでも幸助への配慮が感じられる。
その声を聞いた瞬間、幸助の体から力が抜けて肩がわずかに落ちた。
一葉はホッと息を吐いて、ゆっくりと幸助の腕に触れる。
「ありがとう。でも、ここは俺に任せて。大丈夫だから」
幸助は視線を一葉に向ける。一葉と目が合う。
――俺は、間違えたのか?
――ただ守りたかっただけなのに。
幸助の瞳の中で、怒りと戸惑い、そしてどこか子供のような不安が入り混じっているのを感じ取った一葉の胸が締め付けられた。
一葉は静かに安心させるように幸助の指先を包む。
その温もりに、幸助はようやく息をついた。
「……すまん……」
「いいんだよ。大丈夫」
肩を落とした幸助に一葉は柔らかく微笑み、羽田に向き直る。
「びっくりさせてすみません。幸助は少し心配性なんです」
「はは、そういうことか!」
羽田は笑い、肩をすくめて席をすすめた。
人を疑わず、物事を深く考えないところは羽田の長所だろう。
そして羽田に促されるまま、幸助は渋い顔で一葉と一緒に腰を下ろした。
テーブルの下で、握った拳を隠したまま。
――あいつが、あいつの手が、一葉に触れた。それだけで、頭が真っ白になり呼吸が止まりそうになった。
その間にも一葉が店員に珈琲を頼み、穏やかに会話を続ける横で、幸助は唇を噛みしめていた。
腕には、まだ一葉の手の感触が残っている。
それだけが、辛うじて理性をつなぎ止めていた。
――俺は一葉の番犬。でも、吠えすぎて嫌われる番犬にはなりたくない。
幸助は、一葉に着いて来て良かったと思いながら目を閉じ、小さく息を吐いた。
外では、馬車の蹄が乾いた音を立てて通り過ぎてく。
夕刻の陽が差し込み、喫茶店の窓辺が金色に染まる。
一葉はその光に照らされながら、微笑んで幸助に視線を向けた。
羽田は少し前に、これから編集者と会うと言って喫茶店を後にした。
「幸助、怒ってない?」
優しい一葉の声に幸助は小さく首を振り、短く答えた。
「……怒ってない。俺はただ……」
「ただ?」
「お前が他のやつと笑ってると、どうしても……腹が立つ。ましてや……触れるなんて……」
唇を噛む幸助に、一葉は静かに目を細めた。
「嫉妬……?」
「……そう、だ……悪いか」
「まさか。嬉しいよ。それだけ俺の事、好きってことだろ?」
その言葉に、幸助の頬と耳が真っ赤に染まる。
幸助は視線を逸らしながら、低く呟いた。
「……一葉」
「ん?」
「やっぱり俺、お前がいないと駄目だ」
一葉は微笑み、静かに答える。
「奇遇だね……俺もだよ。ほら、珈琲、冷めちゃってる」
カップの中の黒い液体が、微かに揺れた。
その香りの奥に、二人の気持ちを映しているような芳醇さと、距離を埋める静かな甘さが漂っていた。
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