或る男の渇望

ドラマチカ

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或る男の嫉妬 4

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 夕暮れの街に、冬の気配が濃くなっていた。
 一葉は編集担当との打ち合わせを終え、原稿の入った封筒を抱えて帰路につく。
 冷たい風にマフラーが翻り、街灯がまだ灯りきらない通りを照らしていた。
 そんなとき――背後から懐かしい声が響く。

「……市ノ瀬じゃないか?」

 一葉が声の方に振り向けば、過去に同士であった高城が立っていた。
 黒のコートに無造作な髪。少し痩せた頬。それでも見つめてくる瞳には昔の鋭さが残っている。
 十代の頃から互いの名前を知る間柄。文学賞の候補に並び、雑誌の対談で意見を交わしたこともあった。
 今ではめっきり顔を合わせなくなっていたが、かつては互いの才能を認め合った――所謂、好敵手だったと思う――そんな関係だった。

「高城……久しぶりだね」
「本当に。まさかこんなところで市ノ瀬に会うとは。少し、話せるかい?」

 一葉の脳裏に家で待っているであろう幸助の姿がよぎったが、久方ぶりの再会で断れるはずもなく誘われるまま、近くの喫茶店に入る。
 窓際の席で湯気を立てる珈琲。店内のスピーカーからは、静かなピアノ曲が流れていた。

「相変わらず穏やかだな、君は。あの頃とは違って、今は名実ともに売れっ子作家じゃないか」
「そんな大したものじゃないよ。ありがたいことに、読んでもらえる機会は増えたけどね」

 一葉の控えめな返答に、高城は苦笑した。相変わらず腹の底まで見せてはくれない。それなのに不快にならない、不思議な空気を持っている。高城から見た市ノ瀬一葉とは、そういう男だった。
「謙遜するなよ。俺なんてもう完全に書けなくなった。最近は評論の仕事ばかりだ」
 その声の奥には、かすかな寂寥が混じっていた。
 かつて筆を競った相手の現状を聞くのは、胸が締め付けられる。
 一葉は穏やかにカップを置いた。

「君の文章は人の心を惹きつける。誰よりも静かな情熱があった。それは、今も同じだろう?」
「君はそう言ってくれると思ったよ……そういえば秋葉も、君の文章を褒めてたよな。あの男とは、上手くやってるのか?」

 一瞬、二人の間の空気が張りつめた。
 一葉を見る高城の目が、探るように細められる。
 一葉は姿勢を正し柔らかく、しかし明確な拒否を隠さずに笑った。

「そうだね。お互い、書くことを続けていられてる。それが何よりだよ」
「……ふうん。あいつもすっかり人気者だな。雑誌の表紙で見かけるたびに、時代が変わったと感じるよ」

 その言い方には、どこか刺があった。
 “幸助は時代の寵児、おまえはその隣にいる作家”――そんな空気が言葉の裏に潜んでいる。
 一葉は微かに息を吐き、カップの縁を指でなぞった。

「時代なんて、すぐに移ろうよ。俺らはただ、自分の思うままに書くだけさ」
「……そうだな。君はいつも真面目だ」
「確かに時代によって人気が出る作風もあるだろうけど。幸助も俺も、試行錯誤しながら書き続けるよ」
 幸助は確かに人気のある作家だが、万人受けする一葉の作風よりも、どちらかといえば独特な世界観をもった作風だった。それゆえに時代の寵児というような含みを持たせたのかもしれないが――その隣にいる作家という含みは、売れている一葉に対するやっかみだろう――書くことを諦めた者が書き続けている者に言える言葉ではないだろう、と一葉は思う。
「そうだな……」
 言わんとしていたことを悟られていることに気付いた高城は少しばかり気まずそうに珈琲を啜った。

 多少気まずい空気になりはしたものの、二人は他愛ない会話を交わし、やがて別れた。
 店を出ると、すでに陽は落ちて冷たい夜風が頬を刺した。
 ネオンの明滅の中、遠くで誰かが笑っている声や賑やかな話声が聞こえてくる。
 けれど一葉の胸の奥には、微かなざらつきが残った。
 懐かしさでも、後悔でもない。
 ただ、過去と現在のあわいに漂う、名状しがたい感情。
 一葉は心の奥に漂う不快感を抱えながら家路を急ぐ。
 幸助に、会いたい。ただただそう思った。

 ***

 陽が沈んでしばらく経った頃、幸助は書斎で速報の新聞を読んでいた。
 新聞の一面に載っている写真を見つめ、醜く黒い感情が湧き上がってくる。
 
――市ノ瀬一葉氏、旧友・高城氏と街で再会――
 
 通りがかりの記者に見られて、撮られたのだろう。
 笑い合う二人の姿。
 それを見た瞬間、胸の奥にチクリとした痛みが走った。

 ――高城。
 その名を、幸助はよく覚えている。
 一葉と同じ時期に賞を獲り、かつて批評家から“次代を担う二人”と、一葉と共に評された男だ。
 自分がデビューした頃、文学界では高城と一葉の名がやたらと持て囃されていた。
 幸助は自分の筆を信じながらも、どこかで“選ばれた彼ら”に対して複雑な感情を抱いていた。
 しかし、結局いつからか高城の名前は聞かなくなり、一葉だけがずっとその地位を守り続け、不動のものとしたのだ。それは幸助にとって当然尊敬に値することであり、密かに憧れも抱いている。

 そのかつて人気を誇った“彼ら”のうちの一人が、いま一葉の前に現れ、揃ったのだ。
 偶然とはいえ、こうして顔を合わせているのを見ると、胸の奥に溜まった感情に波紋が広がる。
 同業者――高城は現在、同業者とは言い難いが――としてのプライド、そして一人の恋人としての嫉妬。
 そのどちらもが、理性の底で静かに火を灯していた。

 幸助が思考に耽っていると、不意に玄関の引戸が開く音がした。幸助は顔を上げ、居間と玄関へ続く廊下との間の襖に視線を遣った。
 コートを脱ぎながら一葉が居間に入ってくる。
「ただいま。少し……昔の知り合いに会ってね」
「おかえり。高城さんだろ」
 幸助は視線を外さずに言った。声は穏やかだが、その静けさの中に熱があった。

「よくわかったね。偶然だよ会ったのは。少しだけ話をして……昔のこととかね」
「懐かしかったか」
 珍しくよくしゃべるな、と一葉は思う。よほど不安だったのかもしれない。そう思うと、不安を取り除いてやりたいという想いと愛おしいという気持ちが一葉の胸を占める。
「……そうだね。でも、懐かしさよりも少し疲れたかも」

 一葉の答えに、幸助は苦く笑った。一葉からこういう言葉が出てくるのは珍しい。相手は旧知の仲だろうに。

「俺も、記事を見てた。すぐに話題になってた」
「そっか。そんなつもりじゃなかったんだ。予定にもなかったし。向こうが突然声をかけてきて」
「分かってる……けど、やっぱり、落ち着かないな」

 一葉が静かに幸助の傍に歩み寄る。
 幸助の指先は、新聞を握りしめたまま動かない。
「嫉妬しちゃった?」
「……作家としても、男としても……」

 その言葉に、一葉はかすかに笑った。
「作家としても、男としても……成功しているのは幸助だろ」
「本当に? 俺は、嫉妬ばかりして……一葉を困らせてるのに……」
 そう言って珍しく落ち込んだ様子の幸助に、一葉の胸は切なく疼いた。こんな顔、させたくない。
 一葉は背後から幸助を抱き締めた。大好きな、愛してやまない匂い、体温、存在。こんなにも、幸助を求めているのに。どうしたら伝わるのだろう。

 一葉は強く幸助を抱き締めて、頬を摺り寄せた。
「幸助……大丈夫。俺は困ってないし、幸助を嫌になったりしてないから」
「……一葉……」
「むしろ、好きで好きでたまらないよ」

 幸助の喉が小さく動いた。
 その目の奥に、言葉では言えないほどの安堵が灯る。
 指先が、一葉の手を包んだ。

「……作家としても恋人としても、一葉に追いつきたい……」
「追いつくも追い越すもないよ。俺たちは同じところにいるんだから」
「一葉……っ」
 幸助は一葉の手を握って背後から正面へと引っ張って移動させると、すぐに強く抱き締めた。
「幸助?」
「一葉……っ、愛してる……っ!」
 幸助の腕に包まれて、一葉の心もようやく不快感を払拭された気がした。
 

 互いのペンが、二人の一日一日を二人で紡いでいく。
 外では、風が冬の匂いを運んでいた。
 過去の影はすでに薄れ、ページの向こうでは新しい物語が始まろうとしていた。



 
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