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7.例え話は衝撃です。

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 りんごジュースで唇を湿らせた先輩がゆっくりと話し始める。
 俺も紅茶を飲んで聞く体制に入る。


「例えば、小学生の頃に遠足で山に行ったんだけど、その時に見つけた花がすごく綺麗だったんだ。そのことが俺の中ですごく印象的な出来事で、他人にはなんてことないんだけど、自分には特別、みたいな。わかるかな?」

「ああ、わかります」


 なんだか簡単に同意してしまったように聞こえるかもしれないけど、本当にわかるのだ。
 誰かに話してもきょとんとされてしまうかもしれないことが自分にとってはとても大きいことだということは稀によくある。
 先輩と少しでも想いを共有できることが、とても嬉しかった。俺は人と共感し合うということが少ないから特にだ。


「そのことをずっと覚えていて、その一件を、こう、膨らませるっていうか、元にしてっていうか、それを軸にして小説を書いたんだ。それが賞を取れて一冊の本になるっていう、本当に運のいいことがあったんだけど」

「え、その、花が綺麗っていう体験で一冊!?す、すごくないですか、それって」

「ああ、いや、別に花が綺麗ってことだけを書いたわけじゃないけど、でもまあ、それが主な話だし、体験がなければ書けなかったから、まあ、そうかな」


 先輩が苦笑いしながらも少しだけ嬉しそうに続ける。


「多分、珍しいタイプの書き方なんだろうね。同業者の人とあんまり話さないからよく分からないんだけど、担当さんにもそれなら色々体験しないとってよく言われる。それで、その、恋をテーマにも書かないかって言われたことが前にあって、その、書いたんだよ」

「あ、書いたんですね」

「うん、それが、その……」


 ものすごく歯切れの悪い様子にもしや散々な結果だったのではと邪推してしまう。


「ものすごく、反響が良かったんだ」

「そ、それはいいことなのでは」

「いやいやいや、困る、困るんだ」


 聞いてくれ、と先輩は本当に困ったような顔をして訴えてくる。


「俺は恋を一度しか、それも、もう随分前に一度したきりなんだよ」

「そ、そうなんですね」

「一つの体験をいくら膨らませるっていっても限度があるんだ。なんとか短編を三つほど書いたけどもう限界だ。なのに恋がメインなんて俺にしてはものすごく珍しいし面白いって人気が出るし、担当さんもあと何本か書いて一冊の本にしようなんて言うし」


 どうしたらいいんだ、ともう少しのところで頭まで抱えそうな先輩はそのたった一度の恋という内容を俺に語ってくれた。
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