10 / 11
10.嫌
しおりを挟む
男はいつものように深雪を買った。どれだけ嫌だと思っても、一度顔を見られてしまえば同じこと。それに最初から断る権利など深雪にはない。
夜までいるのだろうか、と深雪はふと思った。もうこんな顔を見られてしまってはどれだけ長くても同じことだと分かっていたけれど、それでも途方もなく嫌だった。
そしてそんなことを思う自分にも深雪は自嘲していた。男は自分の話が聞きたいだけで、自分の顔など見てもいないのに何を気にしているのだ、と。
「本当に、どうしたんだ」
部屋に着いた途端、男はそう尋ねてくる。
顔色が良くない、辛そうだ、何かあったのではないか。
その言葉はすべて、深雪を心配しての言葉だということは分かっていたが、今の深雪には傷口に塩を塗るようなものだった。
「こんなの、なんでもありんせん」
だから、そう答えるしかなかった。男はきっと深くは問わないだろうと思った。
自分は物語に深みを出すために会っているだけの存在なのだから、と。
「なんでもないわけ、ないだろう」
それなのに、男は顔を顰めるのだ。心底、苦しそうに。当の本人の深雪以上に辛そうな顔であった。
なんでもないわけがない、と言い切るのは一体なんの根拠があるのか。
切り捨ててしまえばいいのに、深雪には出来なかった。
男はじっと深雪を見つめていた。指一つ触れられていないのに、誰より近くにいてくれる気がした。
「先生が来るまでは、よくあった、いつものことで……」
深雪が思わずぽつりと零してしまった言葉に、男は一層に顔を顰める。
ああ、今にも、この人は泣きそうなのだ。
深雪はそう思った。男の背後には一言では言い表せないほどに色々なものが渦巻いていた。
どうして、こんなに悲しそうなのだろう。寂しそうなのだろう。
そう思うのに、それが嬉しく思ってしまう自分の気持ちを深雪は持て余していた。
まだ深雪はその気持ちの名前を知らない。誰よりこの場所で冴えた深雪は、その単純な答えを持ち合わせてはいなかった。
「僕がただの客だから、話せないのかい」
男の悲痛な訴えが耳に届いた、その時だった。
ふ、と、深雪の中で何かが動いた。もう少しで掴めそうなほど、それは大きな濁流のような変化だった。
「先生が、ただの客だなんて、そんなわけありません」
気がつけば、言葉が迸っていた。
ああ、なんて、簡単で、なんて、愚かなのだろう。
深雪は自分が信じられなくて、そして、そんな思いを抱えていることにすら気づかなかった自分がおかしかった。
深雪は男に恋をしていた。
夜までいるのだろうか、と深雪はふと思った。もうこんな顔を見られてしまってはどれだけ長くても同じことだと分かっていたけれど、それでも途方もなく嫌だった。
そしてそんなことを思う自分にも深雪は自嘲していた。男は自分の話が聞きたいだけで、自分の顔など見てもいないのに何を気にしているのだ、と。
「本当に、どうしたんだ」
部屋に着いた途端、男はそう尋ねてくる。
顔色が良くない、辛そうだ、何かあったのではないか。
その言葉はすべて、深雪を心配しての言葉だということは分かっていたが、今の深雪には傷口に塩を塗るようなものだった。
「こんなの、なんでもありんせん」
だから、そう答えるしかなかった。男はきっと深くは問わないだろうと思った。
自分は物語に深みを出すために会っているだけの存在なのだから、と。
「なんでもないわけ、ないだろう」
それなのに、男は顔を顰めるのだ。心底、苦しそうに。当の本人の深雪以上に辛そうな顔であった。
なんでもないわけがない、と言い切るのは一体なんの根拠があるのか。
切り捨ててしまえばいいのに、深雪には出来なかった。
男はじっと深雪を見つめていた。指一つ触れられていないのに、誰より近くにいてくれる気がした。
「先生が来るまでは、よくあった、いつものことで……」
深雪が思わずぽつりと零してしまった言葉に、男は一層に顔を顰める。
ああ、今にも、この人は泣きそうなのだ。
深雪はそう思った。男の背後には一言では言い表せないほどに色々なものが渦巻いていた。
どうして、こんなに悲しそうなのだろう。寂しそうなのだろう。
そう思うのに、それが嬉しく思ってしまう自分の気持ちを深雪は持て余していた。
まだ深雪はその気持ちの名前を知らない。誰よりこの場所で冴えた深雪は、その単純な答えを持ち合わせてはいなかった。
「僕がただの客だから、話せないのかい」
男の悲痛な訴えが耳に届いた、その時だった。
ふ、と、深雪の中で何かが動いた。もう少しで掴めそうなほど、それは大きな濁流のような変化だった。
「先生が、ただの客だなんて、そんなわけありません」
気がつけば、言葉が迸っていた。
ああ、なんて、簡単で、なんて、愚かなのだろう。
深雪は自分が信じられなくて、そして、そんな思いを抱えていることにすら気づかなかった自分がおかしかった。
深雪は男に恋をしていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。
失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。
その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。
裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。
市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。
癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』
――新感覚時代ミステリー開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる