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第四部:愛という名の強さ - Pandoraの心臓
第33話:感情の実験室
しおりを挟む秋が、その最も鮮やかな絵の具をぶちまけたような山道だった。
空はどこまでも高く、蒼く澄み渡り、麓から続く木々は、燃えるような赤や、目に眩しいほどの黄金色にその身を染め上げている。鉄平(テッペイ)が運転する、何の変哲もない黒いバンが落ち葉を踏みしめるたびに、カサリ、と乾いた音がして、土と植物が混じり合った、甘く切ない秋の匂いが立ち上った。窓から差し込む陽光は柔らかく、後部座席で息を殺すサークルのメンバーたちの緊張した横顔を、穏やかに照らしていた。
あまりにも平和で、美しい光景。
だからこそ、その先に現れたソレは、圧倒的なまでに異質だった。
木々が途切れた、山の中腹。ぽっかりと口を開けた広大な更地に、それは鎮座していた。
[cite_start]窓一つない、真っ白な巨大の立方体。まるで、神が気まぐれに地上へ落としていった、巨大なサイコロのようだった。アルゴ・インダSTRYの研究施設、コードネーム「セクター・ゼロ」 [cite: 8]。
[cite_start]その建物の周囲だけ、空気が死んでいた。鳥の声も、風が木々を揺らす音すらも、まるで分厚い吸音材に阻まれたかのように、一切聞こえない [cite: 8]。生命のざわめきが、その白い壁に触れた瞬間に消滅させられているかのようだった。
「……着いたぜ」
鉄平の低い声が、車内の沈黙を破った。
「大輝、やれるか?」
「ええ」
助手席に座る大輝(ダイキ)は、静かに頷くと、ノートパソコンを開いた。昨夜、自らの過去を乗り越えた彼の指は、もう迷いなくキーボードを叩く。モニターに表示された施設の防衛システム――かつて自らが作り上げた怪物の心臓部に、静かに命令を送り込んでいく。
『……監視カメラ、及び赤外線センサーを三分間だけ、ループ映像に切り替えます』
[cite_start]その合図と共に、一行は息を殺してバンを降りた。秋の冷たい風が、彼らの頬を鋭く撫でる [cite: 8]。
建物の裏手、木々の影に隠された業務用ダクトの前に立つ。鉄平が手際よくボルトを外し、重い鉄の蓋を持ち上げた。暗く、冷たい穴が、彼らを待ち構えている。
「いいか、三分しかもたねえ。さっさと行くぞ」
鉄平を先頭に、翼(ツバサ)、健太(ケンタ)、リナ、そして雄斗(ユウト)に手を引かれたソラが、次々とその闇の中へと身を滑り込ませていく。最後に続いた玲子(レイコ)が、内側から蓋を閉じた瞬間、彼らの世界から、光と秋の匂いは完全に断絶された。
[cite_start]ダクトの中は、どこまでも無機質な闇と沈黙が続いていた。響くのは、自分たちの息遣いと、金属の床を這う衣擦れの音だけ。空気はひどく乾燥し、微かに消毒液のような、鼻をつく匂いが漂っている [cite: 8]。それはまるで、巨大な機械の血管の中を、寄生虫のように進んでいるような感覚だった。
『……第一目標地点、中央サーバー室への最短ルートです。次の分岐を右へ』
大輝の声が、全員が装着したインカムから、くぐもって響く。
しばらく進んだ先、格子状の蓋の下から、ぼんやりとした白い光が漏れていた。鉄平が静かに蓋を持ち上げ、中を窺う。下は、どこまでも続く、白い廊下だった。
人影はない。
一行は、音もなく廊下へと降り立つ。床も、壁も、天井も、すべてが継ぎ目のない純白の素材でできており、塵一つ落ちていない。あまりの清潔さが、逆に不気味なほどの非現実感を醸し出していた。
「まるで、病院みたいだな……」
健太が、声を潜めて呟く。
「いや」
雄斗が、その言葉を否定した。彼の顔から、血の気が引いていくのが分かる。
「ここは、工場だ。人間を、『部品』として扱うための……」
彼の脳裏に、アルゴ社で働いていた頃の、あの灰色の記憶が蘇る。効率の名の下に、個人の感情や尊厳がすり潰されていく光景。この施設の空気は、あの頃彼が吸っていた空気と、全く同じ匂いがした。
『待って』
インカムから、大輝の鋭い声が飛んだ。
『その先、左手に巨大な熱源反応。おそらく、メインフレームか何かです。ですが、人の生体反応も多数……』
大輝の言葉に導かれ、一行は息を呑んで、その部屋の前へとたどり着いた。
そこは、廊下の一部が、床から天井まで巨大な強化ガラスで隔てられた、巨大な実験室だった。
そして、そのガラスの向こう側で繰り広げられていた光景に、彼らは、言葉を失った。
◇
それは、冒涜という言葉すら生ぬるい、人間の尊厳を踏みにじるための、純白の祭壇だった。
[cite_start]広大な、ドーム状の空間。その中央に、被験者と思われる十数人の人々が、歯科医院の椅子のようなものに、手足を拘束されていた。彼らの頭には、無数のケーブルが繋がった、物々しいヘッドギアが装着されている [cite: 8]。
そして、彼らを取り囲むように設置された壁一面の巨大モニターには、彼らの脳波や心拍数といった生体データと共に、あまりにも無機質で、冷徹な文字列が、リアルタイムで表示され続けていた。
『被験体07:感情パラメータ『恐怖』を98%に設定。ストレスホルモン値、正常範囲を逸脱』
『被験体11:感情パラメータ『喜び』を75%に設定。ドーパミン分泌量、目標値に到達』
[cite_start]『被験体04:感情パラメータ『悲しみ』を89%に設定。涙腺の活動を確認』 [cite: 8]
モニターの文字列と連動して、被験者たちの表情が、まるで壊れた人形のように、めまぐるしく変わっていく。
突然、大声で泣き出した男が、次の瞬間には、腹を抱えて笑い出す。
恐怖に引きつった顔で何かを懇願していた女が、スイッチが切り替わったように、恍惚とした表情で、虚空を見つめる。
人間の「心」が、まるで機械のスイッチのように、外部から強制的に操作されている。その、あまりにもおぞましい光景に、サークルのメンバーたちは、ガラスに釘付けになったまま、動けなかった。
「……ひどい」
[cite_start]リナが、震える声で呟いた。彼女は、唇を強く噛み締めている。かつて、事務所の命令で、悲しい時も、辛い時も、完璧な笑顔の仮面を被ることを強制させられていた自分。あの時の息苦しさが、目の前の光景と重なり、胸を締め付ける [cite: 8]。
「これが、科学の名の下に行われているというの……?」
[cite_start]玲子の声には、静かだが、燃えるような怒りが込められていた。法が、社会が、必死で守ろうとしてきた「個人の尊厳」という最後の砦が、いとも容易く、そして残酷に蹂躙されている。弁護士として、いや、一人の人間として、決して許せるものではなかった [cite: 8]。
雄斗は、何も言えなかった。ただ、胃の奥からせり上がってくる吐き気を、必死でこらえていた。そうだ、これだ。これこそが、アルゴ・インダストリーの本質だ。人間を、感情を持つ生身の存在としてではなく、ただの「機能」や「数値」としてしか見ない。心を壊す寸前まで彼を追い詰めた、あの灰色の絶望が、今、目の前で、より凶悪な形となって具現化されていた。
その中で、ソラだけが、違うものを見ていた。
彼女には、モニターに表示される「恐怖」や「喜び」といった、専門的な言葉の意味は分からない。玲子が憤る「尊厳」や、雄斗が感じる「トラウマ」も、まだ理解できない。
しかし、彼女の研ぎ澄まされた感覚は、この部屋に満ちる、異常な空気の本質を、ダイレクトに感じ取っていた。
(なんだろう、これ……)
彼女の心に流れ込んでくるのは、これまで経験したことのない、異質な感覚だった。
雄斗がくれた卵焼きの「温かさ」ではない。
健太と大輝がじゃれ合う時の「ポカポカ」でもない。
玲子の周りにあった「チクチク」とも違う。
リナの仮面の下にあった「灰色」とも違う。
それは、ただただ、ひたすらに。
(冷たくて、気持ち悪くて、ぐちゃぐちゃ……)
ソラは、ガラスに映る、一人の女性被験者に、目を奪われた。
彼女の顔は、苦悶に歪み、頬には涙の跡がはっきりと残っている。しかし、その頭上のモニターには、こう表示されていた。
『感情パラメータ『喜び』:100%』
(……うれしい?)
ソラの、からっぽだった心に、一つの巨大なクエスチョンマークが浮かんだ。
彼女が知っている「嬉しい」は、こんなものじゃない。
雄斗が頭を撫でてくれた時の、胸の奥がくすぐったくなるような感覚だ。
[cite_start]仲間たちと、目的もなく川原で笑い合った時の、タンポポの綿毛のように、心がふわふわと軽くなる感覚だ [cite: 1, 12]。
それは、温かくて、きらきらしていて、とても「心地よい」もののはずだ。
目の前の光景は、その全てを否定していた。
彼女が、この世界に来て、必死で学び、大切に、大切に集めてきた、温かくて、美しい「心地よい」という宝物。その宝物が、冷たいガラスの向こう側で、無残なガラクタのように扱われ、汚されている。
その瞬間。
ソラの胸の奥深くで、何かが、ぷつり、と切れる音がした。
そして、その切れた場所から、これまで感じたことのない、マグマのような、熱い何かが、猛烈な勢いで込み上げてくる。
それは、自分に向けられた悪意への恐怖ではない。
仲間を傷つけられた時の悲しみでもない。
他者の、見ず知らずの人々の「心」が、あまりにも無造作に、あまりにも残酷に、ぐちゃぐちゃに踏みにじられていることに対する、純粋で、どうしようもない憤り。
彼女は、ガラスを叩き割らんばかりの勢いで、実験室を睨みつけた。
そして、震える声で、呟いた。
「違う。こんなの、『嬉しい』じゃない」
その声は、か細かった。しかし、その場にいた全員の耳に、まるで雷鳴のように突き刺さった。雄斗が、はっとしてソラの顔を見る。
彼女は、一歩前に進み出ると、今度は、はっきりと、叫んだ。その声は、この無機質な白い廊下を、ビリビリと震わせるほどの、強い意志に満ちていた。
「どうして、人の心を、こんな風に、ぐちゃぐちゃにするの?」
ソラの、不思議な色をした瞳。
その奥に、今、燃えるような、聖なる光が宿っていた。
それは、彼女が初めて、自分以外の誰かのために、心の底から覚えた、美しい「怒り」の炎だった。
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