『デジデリオ・ディ・モルテ』(アルファポリス版)

玄道

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The Great Gig In The Sky(虚空のスキャット)──由美子

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 八月七日 午後六時二十分 R市立図書館 閲覧室

 人の海が干上がる。彼らは、まだ明るい街へ消えていった。自動ドアが開閉する度、蝉の絶叫が侵入してくる。

 こうして、私と先生だけの空間が顕現した。

 彼のもとへ、静かに近づく。

 ピアノでも弾くように、軽やかにキーを叩き続けている。その射貫くような目が、あの夜の英士と重なる。

 私は、魅加島ヒロトを、もう一人の同胞はらからとして見ているのだと気付く。

 ふと、昔の事を思い出した。

 ◆◆◆◆

 山下由美子 小学五年の秋

 あの『隔離施設』の中で、私は遂に人でない何かを観測した。

 暗闇でも、"それ"ははっきりとした姿で、私に迫った。

 ネズミの群れだ。

 無数の人面疽を貼り付かせた、中型犬くらいのそれらは、壁を背に怯える私に、人の言葉で告げた。

「罰ヲ」

「報イヲ」

「「「死ヲ! コノ人ノ子ニ、死ヲ! 滅ビヲ! 救イヲ!!」」」

 そして、幻のはずの獣たちに、私は貪り尽くされた。

 激痛、不快感、屈辱……ありとあらゆる、人間の感じる限界まで、私は生きたまま地獄に肉薄した。

 地獄から這い出てきた私は、もう、まともな世界にいられなくなっていた。

 アイドルソングやポップスも聴かず、兄のようにメタルを好むようになった。

 少女マンガよりも、男性向けの暴力的なマンガを好んだ。

 映画もそうだ。人が虫のように虐殺されたり、絶望に沈んで自殺するものしか観る気がしなくなっていた。

 人が変わった妹に、兄は何も訊かなかった。

 学校で、自分を偽って生活する日々で、自分がバラバラに崩壊していくのを感じていた。

 山下史彦は、私の証言をまとめ、R市に来てから、一本の論文を書き上げた。それ──『児童を独房に収監した際に発生するPTSDに関する論考』は、現在籍を置く、G大のある教授によって発表を止められた。当然だとは思う。

 ◆◆◆◆

 現在

 何も言わず、隣に座る。若い女の匂いがした。横顔が、猛禽類を連想させた。

 ──制汗剤、女物なんだ。

「……何を書いてたんです? 山下さん」

 アルコールや、煙草の気配のない、若い声。それにすらも、同胞のシンパシーを感じる。

「課題の、読書感想文…………です」

 一瞬、兄と話す時の口調になりそうになる。

 先生は、キーを叩く指を止めた。

「あんな速読で? ハードカバーに一時間かけないって……尋常じゃない。あれ、小説ですよね」

 私は、にこりと微笑み、自分のラップトップを開く。

「感想文ですから……それに、私が尋常じゃないのは、もうご存じかと」

 ──先生だって。

 感想文を見せる。

 すぐに、魅加島先生の表情が険しくなり、眉間に皺がよった。

 先生の指が、少し震えている。

 その顔から血の気が引く。

「…………先生?」

 反応がない。画面上の文字列を、絵画のように見つめている。不正なコマンドを読み込んで、クラッシュしたコンピュータのようだった。

「先生? 魅加島先生?」

 ──なんて顔だ。

 彼は、放心したまま私に向き直る。

「失礼ですけど……生成AI……使いました?」

「そう見えます?」

 顔に、生気が戻ってくる。

「女子高生の書く文章じゃない……。これ、このまま学校に提出する気ですか?」

「ええ」

 私は即答する。

 ──遺族が、ですけど。

「"一切皆苦"、"善"と"悪"……これじゃ大学生だ」

 声が力を帯びていく。

 ──私も、先生に影響を与えられる存在なのか。

 図書館で、二つの異形が息をしている。閉じたドアの向こう、健全な夏模様は、私達の心と絶縁していた。

 方や創作者クリエイター、そして被造物クリーチャーの素材。私達は、破滅するためにこうして出会ったのだろう。

「大学……ですか」

 先生は、硬い表情のまま続ける。

「そう、国文科、哲学科……とにかく、山下さんの"それ"は才能Giftです。活かさない手はない。進路は、どうするつもりですか?」

 ──え?

「どうしました? 具合でも?」

 呼吸が乱れる。

 脈が速まる。

 私を構成する肉体が、精神が──全てが"生きろ"という言葉を、全力で拒絶する。

 ──やめて先生、生の希望なんて欲しくない。そんなものいらない。

 私の地獄から、化生けしょうが這い上ってくる。

「先生……実は、私……先生に読んでもらいたいものが、もう一つあるんです」

「もう……一つ?」

「私たちの"悪夢"……その原典です」

「……私"たち"? 英士さんも?」

 頷く。

 彼の表情が、さらに沈む。

「………………まさか」

「父の……山下史彦の論文です」

 魅加島ヒロトが、息を呑む。

「魅加島先生も……興味がおありでは?」

「高槻です。インタビューの時、名刺を渡しそびれました」

 今度は、私が息を呑んだ。

 ──魅加島ヒロトの……本名。

「私の本名は、高槻宏。これからは、そう呼んでください」

 名刺を差し出してくる。肩書きはライターだった。
 
 文筆家らしくない、シンプルなものだ。

「わかりました……」

「……高槻さん」

 その名を呼ぶ声に、畏れが混じるのがわかる。

「それで、山下教授の論文……まさか持ってるんじゃ」

 私は頭を振る。

「私は……いえ。でも、R市立図書館ここに保存されています。史彦が、そう話していました」

「……何処に」

 ◆◆◆◆

 一年前 R市立図書館

「本日は、よろしくお願いします」

「「「よろしくお願いします」」」

 私は、高校の社会科見学で図書館に来ていた。

 と言っても、R市に来て以来ほぼ毎日通っている所だ。今更と言ったところか。

「今日は普段入れない、閉架室にご案内しますね」

 ──ああ、古い資料や危険な本が収監……否、収蔵されている所か。

 顔を知っている男性司書が、扉を開く。

 湿気の少ない、適温に調整された部屋。

 四方に窓が無い。

 天井の照明を落としたら、この部屋が何に変わるのか……私は気付いた。

 ──『隔離施設』。

 息が詰まる。

 瞳孔が開き、あの燃え盛る悪夢の匣が見えた。

 ──ここだ……ここにあった。

 ◆◆◆◆

 私は、高槻宏が山下由美子を"完結させる"舞台へ、彼を誘う。

「……閉架室。ここの閉館は二十時……それまで隠れられる場所、知ってるんです」

「今日?」

「いえ……待ちます。先生の書く"私の死"、ある程度まで先生が造り上げて下さい。私、高槻さんは信頼してるんです……ちゃんと私を"殺してくれる"って」

 私は、今日が旧暦の七夕だった事に気付いた。

 ──高槻宏天帝は、私の四年来の切望タナトスを、きっと成就させてくれる。

 彼の殺意は、兄のように半端なものではないと、確信めいたものがあるのだ。

 閉館前に図書館を出ると、天の川どころか、星など一つも無かった。虚ろな闇夜が、世界を覆い尽くしていた。

 夜風が肌に当たる。

 青い夏を堪能する人々が行き交う大通りを歩くと、私は、見えない壁で隔離されたように感じた。

 自宅付近に至ると、隣家の犬が遠吠えした。家の玄関前、夏の虫の音が小さな生命を主張する。

 私は、世界への誤読に気付く。

 ──死にたがりなんていなかった。死を望むのは、あのネズミ達に呼ばれているのは、私一人なんだ。

 己の間違いを直視しても、感情の萌芽すらない。

 能面を被り、地獄の門を潜る。

 地獄には、生者の姿はない。死者すらいない。

 静寂の支配する、虚無の闇が広がっていた。
 
 
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