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プロローグ

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 十五年、ラルフは帝国に尽くしてきた。

 生まれた親の顔も知らず、スラム街で生まれ育った少年を、ラルフと名付けた相手が誰であるかも知らない。
 スラム街では日々、生ゴミを漁ってその日の飢えを凌ぎ、集団で誰かを襲って僅かな金を奪い、どうにか日々を生きていく――それだけで精一杯の毎日を過ごしていた。友達ができれば翌日には死体となり、仲良くなった犬が翌日には誰かに捌かれる、そんな毎日だった。
 ラルフに転機が訪れたのは、十二歳のとき。
 当時、多方面との戦争を繰り返してきた帝国は、常に兵士を募集していた。
 健康で若い男であれば、出自など全く問われることもなく入隊することができ、そして最も苛烈な最前線へと回される――そんな肉の壁を、常に募集していた。
 そして、そんな肉の壁になりたいと入隊を志願したのが、当時十二歳のラルフだった。

 軍では最低限の食事と、ぼろぼろの武器が与えられた。
 だけれど、それまでが最低以下の暮らしをしていたラルフからすれば、黴びたパンや具のないスープは、むしろご馳走だった。軍の暮らしを得てようやく、ラルフは人間らしい生活ができるようになったと言っていいだろう。
 十二歳で初めて戦場に立ち、槍を構え、ひたすらに敵軍と打ち合った。
 五人で最初に組を作れ、と言われて組んだ他の四人は、最初の突撃で死んでいた。それでもラルフは諦めることなく、与えられた武器が折れたら死体から奪い、殺した相手から奪った武器で次の相手を殺す――そんな繰り返しを続けて、生き延びた。

 次の戦争でも、その繰り返しだった。
 最初から肉の壁でしかなかった彼らに、生きる道は与えられていなかった。敵軍と激突し、その足を止めている間に後ろから矢の雨が降ってくる――その矢は当然、敵味方を選別せずに降りかかってくるのだ。
 言ってみれば、敵軍の一斉掃射を行うためだけの壁。
 そんな雑兵が生き延びることなど誰も考えていなかったし、そんな雑兵がたった一人で何百人もの敵兵を屠るなど、誰も想像していなかっただろう。
 だが、ラルフはそんな彼らの想像の埒外にいた。

 最初の戦で、生き残ったのはラルフだけだった。
 次の戦でも、生き残ったのはラルフだけだった。

 次第に、軍がラルフという存在に興味を抱いてくる。
 どうせスラム街から拾っただけの雑兵ならば、好きなだけ暴れさせてやれ、と。そのとき常に、最も苛烈な戦場へとラルフは一人で送り出された。
 そして、送られた戦場でもラルフは生き残った。生き残り続けた。
 時には敵将の首を取り、時には敵軍の陣地を制圧し、時には城壁の門を破り。
 雑兵として侮られたのは、入隊して三年ほど。
 三年後には、ラルフは味方からも恐れられる存在になっていた。

 誰から譲り受けたのか分からない漆黒の髪と、暗く淀んだ闇のような漆黒の瞳。それに返り血が乾いて汚れた黒い革鎧――その見た目から、『帝国の黒い悪魔』という名前がついたのはその頃だ。
 ラルフが出陣した戦場では、誰もがラルフによって殺される。
 この頃には、ラルフも自覚していた。自分は強いのだ、と。誰が戦場に現れても、自分の槍の前では誰一人死なずにいることはできない、と。
 訪れた戦場で、ラルフは全力で暴れた。次第に大陸に名が轟いたラルフは、戦場にその姿を見せるだけで兵士が逃げ出すほど恐れられた。

 十年が経っても、ラルフは常に戦の最前線に立っていた。
 その頃には激戦区も少なくなり、小競り合いが多くなっていたが、それでもラルフの武勇は止まらなかった。
 一人で戦場に出て、何百もの首を刈るラルフ――次第に、軍の中ではそれが当然の風景になっていた。帝国から放たれた、一人で何百人もの命を屠る矢――ラルフは、最前線で常にその扱いを受けていた。
 しかし、それでも食事と寝床さえ与えられたら、ラルフはそれで良かった。

 十五年が経って、ラルフが戦場に行くことはなくなった。
 大陸史上でも初めての、帝国による大陸の全土征服――それが、成ったのだ。
 最後まで抗っていた小国は、ラルフが戦場に赴いたという一報だけで兵士たちが逃げ出し、降伏してきたほどだ。
 誰もが戦争の終わりを喜び、誰もが訪れた平和に噎び泣いた。

 そして、戦争という舞台から降りた『帝国の黒い悪魔』は。

「被告、姓なきラルフを、終身流刑に処する」

 その役割を、終えた。
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