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10cm先のラブソング
1.他愛ない幸せ
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“いくつも色を重ねて 大人になっていく
あの夏の日差しだけ いつまでも褪せないまま”
イヤホンの向こうで、透き通るような若い男の歌声が響く。
大人と子供の狭間にいる不安定な少年と、ひと夏の景色を描いたその歌は、今の時期には少々季節外れではある。
けれど俺は、この歌がとても好きだった。
「沢山ァ……お前デスクで昼飯食うのやめろっていつも言ってるだろ!ただでさえ散らかってんのに、空き缶だのレジ袋だの机の上に放置すんなっ」
昼休憩の時間をフルに使って没頭していた世界観は、突如響き渡った、先輩社員である城崎のダミ声によって無情にも掻き消された。
俺は白けた気分で曲の再生を止め、食いかけのあんパンを持ったまま、椅子ごとくるりと振り返る。
「さーせん。次から気をつけます」
「いや、次とかじゃなくて今やめろよ」
分厚い唇を尖らせながら、城崎は俺の付けているイヤホンと、それに繋がっているスマホにふと目をつけた。
「なに。お前音楽とか聴くの」
「はあ。いけませんかね」
「別にいけなくないけど、意外だなと思って。お前そういうの興味無さそうだし。しかもそのユニットあれだろ?女子供に人気のやつだろ」
いろいろと失礼な事を言いながら、城崎が勝手に俺のスマホを覗き込む。
「“夜色”だっけ?うちの姪っ子も聴いてるわ。けど、こんなネット活動のアーティストなんて、所詮はボーカルの顔人気……」
これ以上ムカつく事を言われる前に、俺は無言で城崎の耳にイヤホンを突っ込んで、途中で止めていた曲をもう一度再生した。そして残り一分程度だった曲を、終わりまでしっかり聞き終えた城崎が、
「……いい歌だな」
と呟いたので、少しばかり溜飲が下がった。
そう。分かればいいんだ。
その後、まだぶつくさ言っている城崎を適当にいなして、食いかけだった昼食を口に詰め込んでいると、デスクの上に放置していたスマホがぶるぶると震えてメッセージを通知してきた。
俺はなんとなく送り主を確認して……そして、そこにあいつの名前を見つけた途端、気怠い午後の空気が一気に華やいだ気がした。
俺は慌ててスマホの画面を開き、メッセージの内容を確認する。
『和威さん、お疲れ様。今日、思ってたより早く収録が終わりそうだから、そっちの家に行ってもいい?』
そう書かれたふきだしの下に、パンクなビジュアルのウサギが首を傾げているスタンプが押されていた。これはあいつが好きなバンドのキャラクターなのだが、俺は何度聞いても名前を覚えられない。
『いいぞ。俺も何事もなければ定時で帰れる。ウチには先にあがっててくれていいから』
手短にそう返信すると、すぐに既読が付く。
『わかった。じゃあ、待ってる間にご飯作ってるから』
と返ってきた後、少し考えるような間を置いて、
『はやく帰ってきてね』
一言だけ、そう付け加えられた。
俺はそれを目にするとほぼ同時に手を動かし、
『上司が泣こうが、会社が潰れようが、絶っっっ対に定時で帰る』
という一文を返して、そのままトーク画面を閉じた。そうしておかないと、いつまでも取り留めのない会話を続けたくなってしまう。
ちょうどよく、休憩も終わる頃合いだ。可愛い恋人が飯を作って待っていてくれるとなれば、いくらでもやる気を出せる。
「……よし」
俺は小声で呟いて、目の前の仕事に向き合う事にした。
*
沢山和威、三十二歳。身長一六七センチ、体重六十一キロ。中堅どころの文具メーカーの企画担当。
この特別面白くもなんともない、ありふれた男のプロフィールが、この俺という存在を表す全てだ。
決して悪い訳では無いが、人様に語って聞かせるようなドラマチックな物語には縁遠い、そんな毎日。けれどそんな俺にも、平坦な日々の暮らしに彩りを添えてくれる人がいる。
宮藤陽太。十歳下の、俺の恋人。
そして彼こそが、インターネットを中心に活動する新進気鋭のアーティスト、“夜色”のボーカリストであるYouなのだった。
腕時計をちらりと確認して、俺はマンションの廊下を足早に進む。やる気を出した甲斐あって、概ね予定していた通りの時間に帰ってこられた。
そうして足を緩めないままで自宅の扉を開けると、途端に香ばしいカレーの匂いに鼻先を擽られる。
「あっ、和威さん?おかえりなさい!」
扉が開く音を聞きつけた陽太が、スリッパをパタパタと鳴らしながら駆けつけてきた。
艶やかな黒髪とインナーカラーの赤、そしてシルバーのピアスに映える、シックな黒いエプロンを身につけて……と思ったが、よく見るとエプロンの胸当て部分全体が、とぼけた猫の顔になっている。なんだそのデザインは。
「ただいま。……どうしたんだ、そのエプロン」
「これ?ファンの人にもらった」
あっけらかんと陽太が答える。そのファンの人とやらは、何を思って身長一八〇センチ近い成人男性に、これをプレゼントする気になったのか。
俺が姿も知らない陽太のファンに思いを馳せていると、陽太は突然不安そうな顔をして自分の胸を押さえた。
「……変かな?」
「いや?可愛くていいんじゃないか」
思ったままにそう答えると、陽太が今度は嬉しそうな顔で笑う。忙しいやつだ。
「和威さん、カレーできてるよ。食べる?」
「おう。ありがとな」
陽太に連れられて食卓に向かうと、そこには既に二人分の食器と、ボウルに入ったサラダが用意されていた。
俺を席に座らせて、自分は鼻歌交じりにキッチンに立ち、手早くカレーをよそってくれる。なんというか、いかにもテンプレートな“理想の奥さん”といった感じだ。見た目は俺よりデカい男ではあるが。
「お前ほんと器用だよな」
ルーの中で程よく蕩けたジャガイモを見ながら言うと、
「野菜切って煮ただけだよ」
と返して、少し照れくさそうに陽太が笑う。
しかし、その「切って煮るだけ」が死ぬほど面倒臭い俺のような人間からすれば、カレーだって十分過ぎるほど立派な料理である。
「じゃあ……いただきます」
エプロンを外した陽太が席に着いたのを見て、俺は手を合わせてカレーを口に運ぶ。玉ねぎがたくさん溶け込んだ、甘めのカレー。俺の好みの味だ。
「ん。美味い」
「そう?よかった」
そんな他愛もないやり取りをしながら、二人向かい合って晩飯を食べる。たったそれだけのことが、どうしようもなく幸せだ。
「あ、そうだ。和威さん、来週末ってなにか予定ある?」
陽太が不意に顔を上げて、そう言った。
「ん?別になんもないけど、どうした」
「あのね、シングルの発売記念でライブをやることにになってて……よかったら和威さんに来て欲しいなって」
スプーンを持ったまま、どこかそわそわした様子で陽太が話す。
「俺が行ってもいいのか?」
「うん。今回はそんな大きなキャパじゃないし、気楽な感じだから」
キャパが大きくないということは、チケットも取りにくいという事なのではないか。そう思ったが、じっと俺の返事を待っている陽太を前に、断りの言葉を口にすることなんて出来るはずがない。
「もちろん行く。裕翔は?あいつは誘ったのか」
「あ、うん。でも仕事だから無理だって」
そう言って、陽太が悲しそうに眉を下げる。
裕翔というのは年の離れた俺の弟で、陽太にとっては高校時代の同級生にあたる人物だ。
そもそも俺と陽太が知り合ったのも、元を辿れば裕翔の紹介がきっかけだった。といっても、もちろんその時は恋人候補などではなく、単に友人として紹介されただけだったのだが。
「あいつの仕事じゃ土日休めないからな……」
今年就職したばかりの裕翔の仕事は、地下鉄の駅職員である。よほどのことがない限り、地下鉄というのは年中無休で走っているわけで、そこに勤める裕翔とも、ここ最近は学生時代ほど気軽に会えなくなってしまった。だが本人が頑張っているのだから、兄貴としては応援してやるほかない。
「まあ、あれだ。裕翔の分まで俺が見て行くから、そんな顔すんな」
俺の言葉に「ありがと」と言って、陽太がへにゃっと笑う。この子供っぽい表情に、俺はどうにも弱い。
なんとなく座りの悪さを感じて俺が目を逸らすと、反対に陽太は意味ありげな目線をこちらに送ってきた。
「……和威さん、もうひとつお願いなんだけど」
「ん?」
「今日、泊まっていってもいい?」
もちろん、俺に断る理由なんてありはしなかった。
あの夏の日差しだけ いつまでも褪せないまま”
イヤホンの向こうで、透き通るような若い男の歌声が響く。
大人と子供の狭間にいる不安定な少年と、ひと夏の景色を描いたその歌は、今の時期には少々季節外れではある。
けれど俺は、この歌がとても好きだった。
「沢山ァ……お前デスクで昼飯食うのやめろっていつも言ってるだろ!ただでさえ散らかってんのに、空き缶だのレジ袋だの机の上に放置すんなっ」
昼休憩の時間をフルに使って没頭していた世界観は、突如響き渡った、先輩社員である城崎のダミ声によって無情にも掻き消された。
俺は白けた気分で曲の再生を止め、食いかけのあんパンを持ったまま、椅子ごとくるりと振り返る。
「さーせん。次から気をつけます」
「いや、次とかじゃなくて今やめろよ」
分厚い唇を尖らせながら、城崎は俺の付けているイヤホンと、それに繋がっているスマホにふと目をつけた。
「なに。お前音楽とか聴くの」
「はあ。いけませんかね」
「別にいけなくないけど、意外だなと思って。お前そういうの興味無さそうだし。しかもそのユニットあれだろ?女子供に人気のやつだろ」
いろいろと失礼な事を言いながら、城崎が勝手に俺のスマホを覗き込む。
「“夜色”だっけ?うちの姪っ子も聴いてるわ。けど、こんなネット活動のアーティストなんて、所詮はボーカルの顔人気……」
これ以上ムカつく事を言われる前に、俺は無言で城崎の耳にイヤホンを突っ込んで、途中で止めていた曲をもう一度再生した。そして残り一分程度だった曲を、終わりまでしっかり聞き終えた城崎が、
「……いい歌だな」
と呟いたので、少しばかり溜飲が下がった。
そう。分かればいいんだ。
その後、まだぶつくさ言っている城崎を適当にいなして、食いかけだった昼食を口に詰め込んでいると、デスクの上に放置していたスマホがぶるぶると震えてメッセージを通知してきた。
俺はなんとなく送り主を確認して……そして、そこにあいつの名前を見つけた途端、気怠い午後の空気が一気に華やいだ気がした。
俺は慌ててスマホの画面を開き、メッセージの内容を確認する。
『和威さん、お疲れ様。今日、思ってたより早く収録が終わりそうだから、そっちの家に行ってもいい?』
そう書かれたふきだしの下に、パンクなビジュアルのウサギが首を傾げているスタンプが押されていた。これはあいつが好きなバンドのキャラクターなのだが、俺は何度聞いても名前を覚えられない。
『いいぞ。俺も何事もなければ定時で帰れる。ウチには先にあがっててくれていいから』
手短にそう返信すると、すぐに既読が付く。
『わかった。じゃあ、待ってる間にご飯作ってるから』
と返ってきた後、少し考えるような間を置いて、
『はやく帰ってきてね』
一言だけ、そう付け加えられた。
俺はそれを目にするとほぼ同時に手を動かし、
『上司が泣こうが、会社が潰れようが、絶っっっ対に定時で帰る』
という一文を返して、そのままトーク画面を閉じた。そうしておかないと、いつまでも取り留めのない会話を続けたくなってしまう。
ちょうどよく、休憩も終わる頃合いだ。可愛い恋人が飯を作って待っていてくれるとなれば、いくらでもやる気を出せる。
「……よし」
俺は小声で呟いて、目の前の仕事に向き合う事にした。
*
沢山和威、三十二歳。身長一六七センチ、体重六十一キロ。中堅どころの文具メーカーの企画担当。
この特別面白くもなんともない、ありふれた男のプロフィールが、この俺という存在を表す全てだ。
決して悪い訳では無いが、人様に語って聞かせるようなドラマチックな物語には縁遠い、そんな毎日。けれどそんな俺にも、平坦な日々の暮らしに彩りを添えてくれる人がいる。
宮藤陽太。十歳下の、俺の恋人。
そして彼こそが、インターネットを中心に活動する新進気鋭のアーティスト、“夜色”のボーカリストであるYouなのだった。
腕時計をちらりと確認して、俺はマンションの廊下を足早に進む。やる気を出した甲斐あって、概ね予定していた通りの時間に帰ってこられた。
そうして足を緩めないままで自宅の扉を開けると、途端に香ばしいカレーの匂いに鼻先を擽られる。
「あっ、和威さん?おかえりなさい!」
扉が開く音を聞きつけた陽太が、スリッパをパタパタと鳴らしながら駆けつけてきた。
艶やかな黒髪とインナーカラーの赤、そしてシルバーのピアスに映える、シックな黒いエプロンを身につけて……と思ったが、よく見るとエプロンの胸当て部分全体が、とぼけた猫の顔になっている。なんだそのデザインは。
「ただいま。……どうしたんだ、そのエプロン」
「これ?ファンの人にもらった」
あっけらかんと陽太が答える。そのファンの人とやらは、何を思って身長一八〇センチ近い成人男性に、これをプレゼントする気になったのか。
俺が姿も知らない陽太のファンに思いを馳せていると、陽太は突然不安そうな顔をして自分の胸を押さえた。
「……変かな?」
「いや?可愛くていいんじゃないか」
思ったままにそう答えると、陽太が今度は嬉しそうな顔で笑う。忙しいやつだ。
「和威さん、カレーできてるよ。食べる?」
「おう。ありがとな」
陽太に連れられて食卓に向かうと、そこには既に二人分の食器と、ボウルに入ったサラダが用意されていた。
俺を席に座らせて、自分は鼻歌交じりにキッチンに立ち、手早くカレーをよそってくれる。なんというか、いかにもテンプレートな“理想の奥さん”といった感じだ。見た目は俺よりデカい男ではあるが。
「お前ほんと器用だよな」
ルーの中で程よく蕩けたジャガイモを見ながら言うと、
「野菜切って煮ただけだよ」
と返して、少し照れくさそうに陽太が笑う。
しかし、その「切って煮るだけ」が死ぬほど面倒臭い俺のような人間からすれば、カレーだって十分過ぎるほど立派な料理である。
「じゃあ……いただきます」
エプロンを外した陽太が席に着いたのを見て、俺は手を合わせてカレーを口に運ぶ。玉ねぎがたくさん溶け込んだ、甘めのカレー。俺の好みの味だ。
「ん。美味い」
「そう?よかった」
そんな他愛もないやり取りをしながら、二人向かい合って晩飯を食べる。たったそれだけのことが、どうしようもなく幸せだ。
「あ、そうだ。和威さん、来週末ってなにか予定ある?」
陽太が不意に顔を上げて、そう言った。
「ん?別になんもないけど、どうした」
「あのね、シングルの発売記念でライブをやることにになってて……よかったら和威さんに来て欲しいなって」
スプーンを持ったまま、どこかそわそわした様子で陽太が話す。
「俺が行ってもいいのか?」
「うん。今回はそんな大きなキャパじゃないし、気楽な感じだから」
キャパが大きくないということは、チケットも取りにくいという事なのではないか。そう思ったが、じっと俺の返事を待っている陽太を前に、断りの言葉を口にすることなんて出来るはずがない。
「もちろん行く。裕翔は?あいつは誘ったのか」
「あ、うん。でも仕事だから無理だって」
そう言って、陽太が悲しそうに眉を下げる。
裕翔というのは年の離れた俺の弟で、陽太にとっては高校時代の同級生にあたる人物だ。
そもそも俺と陽太が知り合ったのも、元を辿れば裕翔の紹介がきっかけだった。といっても、もちろんその時は恋人候補などではなく、単に友人として紹介されただけだったのだが。
「あいつの仕事じゃ土日休めないからな……」
今年就職したばかりの裕翔の仕事は、地下鉄の駅職員である。よほどのことがない限り、地下鉄というのは年中無休で走っているわけで、そこに勤める裕翔とも、ここ最近は学生時代ほど気軽に会えなくなってしまった。だが本人が頑張っているのだから、兄貴としては応援してやるほかない。
「まあ、あれだ。裕翔の分まで俺が見て行くから、そんな顔すんな」
俺の言葉に「ありがと」と言って、陽太がへにゃっと笑う。この子供っぽい表情に、俺はどうにも弱い。
なんとなく座りの悪さを感じて俺が目を逸らすと、反対に陽太は意味ありげな目線をこちらに送ってきた。
「……和威さん、もうひとつお願いなんだけど」
「ん?」
「今日、泊まっていってもいい?」
もちろん、俺に断る理由なんてありはしなかった。
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