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第二章 異形の人々
二話 ゴミと宝物
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ともあれ、俺の仕事は終わったのだ。あいつらのややこしい関係性なんてどうでもいいし、俺には何の関わりもない。
あとは家に帰って、いつも通り適当な時間を過ごすだけで良い。そのつもりで、俺は今度こそ店に背を向けたのだが。
「チヒロ?」
「うわあああっ!!」
突然顔を覗き込んできた巨大な虫に驚いて、俺はその場で腰を抜かしてひっくり返った。
「ちょ、大丈夫?」
地面に尻もちをついた俺を見下ろして、心配そうに手を差し伸べてきたのは、靴屋のカマキリ男、リックだった。
「そんなびっくりすると思わなかった。なんかゴメンなー」
「いや……」
リックと目を合わせないようにしながら、俺は奴の手を取ってどうにか立ち上がった。叫んだり転んだり一人で大騒ぎしている俺を、すれ違う異形共が不審そうに見ている。
「ていうかキミ、チヒロであってるよな? 前ファリスと一緒にいた……」
「あ、ああ……」
「だよな! よかったー。顔隠してる人なんて他にいないだろと思って声かけたんだけどさ、違ったらめちゃくちゃ恥ずかしいよな」
陽気に笑いながら、リックは俺の肩をペシペシ叩く。
「……顔隠してるのって、やっぱ変か?」
「え? うん」
即答で頷かれて、返す言葉に詰まった。やっぱり変だとは思われていたのか。
「けど、気にしなくて大丈夫だよ。変な人なんていっぱいいるから」
「そう、なのか?」
「そうだよー。ワケありっぽい人なんて珍しくないし、隠してる事までいちいち詮索しようと思わないもん。オレたちだって、リアンが喋れない理由とかしつこく聞かれたらめんどくさいもんなー」
当たり前のような調子でリックはそう言う。あの蛇男、喋らないのではなく、喋れなかったのか。
「そういやチヒロ、ここで何してたの?」
「え、ああ……ファリスに言われて、ここの店に配達に来た帰りだ」
酒場を指さした俺を見て、リックは得心したように頷いた。
「パメラばあちゃんのとこか。なるほどねー」
何がなるほどなのかと訊ねる間もなく、リックは俺の方にずいっと顔を近づけてくる。
「うわっ」
「あのさ、帰りってことはもう用事は終わったんだよな? この後ヒマ?」
「え、まあ……」
動揺していた俺は、馬鹿正直にそう答えてしまった。
「そっかそっか。じゃあさ、これからオレの用事に付き合ってよ。オレ、キミと仲良くなりたいんだよね」
「は? いや、なんで俺が……」
「じゃあ行こー」
俺の返事などはなから聞く気は無いようで、リックは俺の腕をがっしりと掴んで、そのままスキップでもしそうな勢いで歩き出す。
「お、おい待て。どこ連れてく気だよ」
勢いに負けて引きずられる俺をチラリと振り向いて、リックは少し笑ったような気がした。
「オレが今から行くのはあそこ……大穴の下だよ」
そう言って、リックはここからずっと先、光の差し込む空の下を指さしたのだった。
❊
薄暗い街を離れて辿り着いた大穴の下は、眩しいくらいに晴れ渡っていた。こんなにも青く澄んだ空を見るのはいつぶりだろう。
だが、そんな青空の爽やかさを打ち消して余りあるほど、その場所は酷い有様をしていた。
「ここが、ゴミ山……」
そこはまさしく、ゴミの山としか表現しようのない場所だった。
だだっ広い草原の真ん中に、遙か見上げるほどうずたかく積み上がったガラクタ達。下の方には白っぽい石のガレキが堆積していて、その上にはありとあらゆる種類のゴミが降り積もっていた。
ざっと一瞥しただけでも、汚れた衣類に、黒電話や手回し式の洗濯機といった古い形の家電、大きな物では潰れた車までもが積み重なっている。周囲に漂う饐えたような悪臭からして、中には生ゴミの類いも混じっていると思われた。
汚らしい山を見上げて顔を顰める俺を見て、リックは首を傾げる。
「あれ、チヒロはゴミ山に来るの初めて?」
「あー、いや……俺、ここで倒れてたとこをファリスに拾われたらしいんだけど、細かい事はなんも覚えてないんだ。というかそれ以前の記憶も無い」
ファリスが作った“設定”を思い出しつつ、適当な言い訳を口にする。しかし、その場凌ぎの言葉に対してリックが返してきたのは、俺にとってそれなりに衝撃的な事実だった。
「チヒロはゴミ山に落ちてたんだな。ファリスと同じじゃん」
「……なんだって?」
「あれ、ファリスから聞いてない? あの人も子供の頃ゴミ山に落とされて、そんで死にそうになってたとこを、パメラばあちゃんに拾われたんだって話だよ」
「落とされたって、誰にだ?」
「そりゃ上層の人間にでしょ。ファリスはさ、昔下層から上層に登った人達の子供なんだって。だから上層で産まれて、そんでいらなくなったから捨てられたって事なんじゃない?」
リックは平然としているが、その口から語られたのは、あまりにもろくでもない話だった。
いくら化け物のような頭をしているとはいえ、生きている人間、それも子供を、いらなくなったから捨てるってどういう事なんだ。こいつらにとっては、当たり前の事なのか?
「あ……つうか、下層から登ったって何だ? ここから上に登る道があるのか?」
次々と質問攻めにする俺に嫌な態度ひとつ見せず、リックはゴミ山に登ろうとしていた足を止めて、俺の方を振り返った。
「昔はさ、ここにめちゃくちゃデカい螺旋階段があって、この大穴の上まで続いてたんだ。だから下層の暮らしに嫌気がさした人達が、何人もそこから上に登って行った。大半の人は、上層の街に辿り着く前に追い返されて帰って来たけど、見た目が綺麗だったり、珍しい頭をしてた人達が何人か気に入られて、そのまま人間達の街に住み着くことになったんだって。だけどある日突然、階段が崩れちゃって、それ以降は下層から登る手段も無くなったし、上層に登った人達も二度とこっちへ帰って来られなくなった」
「……ただひとつ、穴から落ちてくる事を除いて、か」
このゴミ山の下に積み上がっているガレキは、かつての階段の成れの果てということか。
「なるほどな……」
だからファリスは、俺のことを上層から落ちてきた人間だと思ったのだろう。
出入り口の無くなったこの街には、それ以外の方法で誰かがやって来ることなんて、ありえないんだ。ゴミ箱にゴミを捨てる事はあっても、ゴミが勝手に出入りする事は無い。つまりはそういう事なのだろう。
「……ていうか、なんかケロッとしてるけど、リックは人間共にムカついたりしないのか? 気に入った奴だけ住ませてやるとか、階段が崩れたのを良い事に、穴からゴミだけ捨て続けるとか……いろいろ一方的過ぎるだろ」
「やー、そう言われてもなあ……オレが産まれた時にはもう今みたいな状態が当たり前だったし、そもそも人間の姿だって本でしか見た事ないのに、恨むとか無理じゃない? 別にオレはなんとも思ってないよ」
足元に転がる拳サイズの石塊を拾い上げながら、リックはそう言う。その姿を見て、なんだか俺は、ひどく拍子抜けしてしまった。
ファリスには散々『正体がバレたら殺される』だとか脅かされたが、みんな人間に対してこの程度の認識なのか。だったら別にバレたって構わないんじゃないか。いつまでもこんな間抜けな格好をしている必要だって無い。
そんな軽率な考えで、俺がストールの端に手をかけたのと、リックが手にした石塊を思いきり放り投げたのは、ほぼ同時の事だった。
「でも、オレみたいな考えの人って、たぶん少数派だよ。大抵の人は、こんな暗くて汚い街に住むしかないのは全部人間のせいだーって思ってるし、血の気の多い人達なんかは『万一人間が落ちてきたらぶっ殺してやる!』なんて言ってるからね」
リックが放り投げた石は、遙か上空まで飛んでいって、ゴミ山に突き刺さっていた鉄柱に当たって弾け飛んだ。それからわずかに遅れて、鉄柱に引っかかっていた何かと、砕けた石の欠片が俺達の周りに降り注ぐ。
「だから、うっかりホントに人間がこの街に落ちてきちゃったら、きっと大変な事になるだろうねー。狭い街だから逃げ場なんて無いし……あれ、どうしたのチヒロ。石当たっちゃった? 痛かった?」
ストールの端を握ったまま俯く俺を見て、リックが心配そうに顔を覗き込んできた。
このストールを取らなくて、本当に良かったと思う。今のこの青ざめた顔を見せてしまっていたら、もはや何の言い訳も出来なかっただろう。リック個人が人間に好意的だったとしても、ペラペラとお喋りなこの口が、俺の正体を永遠に黙っていてくれるとも思えない。
「だ、いじょうぶだ。それより、なんか落ちてきたけど」
「あ、そうそう。上手く取れて良かったー」
リックの足元に落ちている塊を指さすと、奴の興味はあっという間にそちらへ移ったようだった。
「見てよチヒロ! ちょっと古いけど、めっちゃ良い靴だよ! 手入れしたらまだまだ履けるよ」
そう言ってリックが嬉しそうに掲げてみせたのは、男物の編み上げブーツだった。少々汚れてはいるが、革製品ならそれも“味”と言えなくもない。
「上層の人間からしたら全部ゴミなんだろうけど、ここってオレにとっては結構な宝の山なんだよね。商品の仕入れも出来るし、珍しい物とかもたくさん落ちてるし」
リックは靴を抱えたまま少し背伸びをして、ガレキの隙間に挟まっていたブリキの車を手に取った。その小さなオモチャを見つめる黄色い目玉は、なんだかやけにキラキラして見える。
「……すげえプラス思考だな」
リックが語るのは、ろくでもない話ばかりで、それなのにこいつの語り口はずっと楽しげだ。あんな暗い街に暮らして、こんな汚い場所でゴミを漁って、そんな日々に嫌気がさしたりはしないのだろうか。
リックはブリキの車をしばらく眺め回して、そのままおもむろにブーツの中へと突っ込んだ。その瞳は、いつの間にか俺の方を見つめている。
「あのさ、チヒロは知ってる? 上層の街ではさ、建物の中にしか天井が無いんだって。だから雨や雪の日には、“傘”っていうのを使わないと外を歩けないんだよ。それってすげー不便じゃない?」
「……いきなり何の話だよ」
「何でも捉え方次第ってこと。オレはさ、この街が案外嫌いじゃないんだ。暗くて汚いけど雨に濡れなくていいし、宝探しもできる。考えようによっては、上層の街より楽しいとこかも」
ブーツを片手にぶら下げて、リックはおどけたように肩をすくめた。
上層の街とやらがどんな所なのか、俺は知らない。けれど、俺が住んでいた街と比べて、ここはどうだろう。ギラギラ輝くネオンも、夜の街の喧騒も、ここには何ひとつ無い。
「さーて。良い物も見つかったし、オレはそろそろ帰ろうかな。チヒロはどうする?」
「ああ……俺も帰るよ」
「よし! じゃあ一緒に帰ろ」
リックは意気揚々と、暗い街へと帰って行く。その背中を追いながら、ふと振り仰いで見た青空の先は、真っ白に光り輝いて、何も見えなかった。
❊
「……ただいま」
リックと別れ、靴屋のすぐ目の前にある時計屋のドアを開けると、中にはファリス一人しか居なかった。
「おかえりなさい。遅かったですね」
カウンターの上に工具を広げて作業しながら、ファリスは少し顔を上げてそう言った。
「ちょっとその辺散歩してた」
「そうですか」
特に詮索するでもなく、ファリスは素っ気なくそう答えただけだった。行動にうるさく口出しされないのはありがたい。
それより、客のいない店内で、こいつは黙々と何の作業をしているのだろうか。なんとなく興味を惹かれて、俺はファリスの手元を覗き込んだ。
「それ、鳩時計か?」
ファリスの手元にあったのは、ドールハウスのような形をした置時計だった。のっぺりとした出入り口の無い外壁に、カラフルな文字盤が刻まれていて、その文字盤と屋根の間には小さな窓がある。決まった時間になると、この小窓から鳩が飛び出してくるという、よくある仕掛け時計に見えた。
「正確には鳩時計じゃないですよ。ほら」
──にゃあああ~
ファリスが時計の裏を少し弄った途端、静かな店に間の抜けた機械音が響き渡り、小窓から白い猫の人形が勢いよく飛び出してきた。
「…………猫時計?」
「そういうことです」
楽しげに言うファリスの手元で、役目を終えた白い猫は、また窓の中へと引っ込んで行った。
「変な時計だな」
「でも可愛いでしょう? こういう仕掛け時計は人気があるんですよ。娯楽の少ない街ですから」
「ふーん……他にもあんの? そういう時計」
「おや、君も好きですか? 仕掛け時計」
いかにも意外そうに言って、ファリスは横に立っている俺をまじまじと見上げる。なんとなく居心地の悪さを感じて、俺は目元のストールをギュッと掴んだ。
「別に。……時計じゃないけど、俺がガキの頃、母親が買ってきた仕掛け付きのオルゴールが家にあって……なんか懐かしいなと思っただけだ」
もうずいぶん前に失くしてしまったが、それでもあのオルゴールの事はよく覚えている。手のひらサイズの丸い台座の上に、仲良く手を繋いだ小人が二人並んでいて、台座の脇に付いたネジを回すと、『きらきら星』の音楽に合わせて小人達がくるくると踊りだす。そんな子供だましの安っぽいオモチャだった。だけどガキだった俺にとっては、母さんがいない一人の夜をやり過ごすために、なによりも必要な物だった。
小さな子供にとって、眠れない夜は、永遠に続くのではないかと錯覚するほど長く果てがない。そんな時、俺はずっとあのオルゴールの音色を聞いていた。壊れて動かなくなる日まで、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し。
「……チヒロ?」
ファリスに脇腹をつつかれて、俺はハッと我に返った。
「チヒロ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫って何だよ。別にどうもしねえよ」
「いえ、そうではなく……君の母親は、君を探しているのではないですか? 僕が言うのもなんですが、待っている人がいるのなら、やはり今からでも帰る方法を探すべきなのでは……」
母さんが、俺を待ってる?
そんなこと、自分では考えもしなかった。だけど。
「ありえねえよ。だって、あの人が再婚して以来、もう三年も連絡すら取り合ってないんだぞ? 俺が消えた事にも気づいてねえよ」
母さんが今の旦那と結婚したのは、俺が十八の時。もう独り立ち出来る歳だったし、いい機会だからと家を出て、それっきりだ。それから俺は、いろんな女の家を転々としているうちに、あの人達の家からずいぶん離れた場所へ辿り着いてしまったし、どのみち今さら帰れる筈がない。
「……君は、それで良いんですか」
「良いも何も、俺が自分で決めたんだよ。あの人とにかく男運がクソだったけど、ようやくマトモな男捕まえられたんだ。だからもう俺の出る幕じゃない」
家の金を盗んでギャンブルに注ぎ込むクズ野郎や、酒を飲んでは暴力を振るうクソ野郎から母さんを守るのが俺の役目だと思っていた。だけどそれはもう必要ない。だから俺は、母さんがやっと掴んだ幸せを邪魔しないよう、家を出た。ただそれだけの事だ。
「チヒロ……」
ファリスはまだ何か言いたそうだったが、ちょうどいいタイミングでドアが開き、客が入って来るのが見えた。
「じゃあな。先に部屋戻ってるから」
ファリスの返事を待たずに背を向けて、俺は足早に店の裏口へと向かった。そのまま店を出て、暗い廊下の端に伸びる階段を上りながら、ふと思う。俺という人間が消えたところで、心配するどころか、それに気づく奴すら、向こうの世界には一人もいない。
きっとこれは、人の愛情の上辺だけを間借りし続けて生きてきた、その代償なのだろう。
あとは家に帰って、いつも通り適当な時間を過ごすだけで良い。そのつもりで、俺は今度こそ店に背を向けたのだが。
「チヒロ?」
「うわあああっ!!」
突然顔を覗き込んできた巨大な虫に驚いて、俺はその場で腰を抜かしてひっくり返った。
「ちょ、大丈夫?」
地面に尻もちをついた俺を見下ろして、心配そうに手を差し伸べてきたのは、靴屋のカマキリ男、リックだった。
「そんなびっくりすると思わなかった。なんかゴメンなー」
「いや……」
リックと目を合わせないようにしながら、俺は奴の手を取ってどうにか立ち上がった。叫んだり転んだり一人で大騒ぎしている俺を、すれ違う異形共が不審そうに見ている。
「ていうかキミ、チヒロであってるよな? 前ファリスと一緒にいた……」
「あ、ああ……」
「だよな! よかったー。顔隠してる人なんて他にいないだろと思って声かけたんだけどさ、違ったらめちゃくちゃ恥ずかしいよな」
陽気に笑いながら、リックは俺の肩をペシペシ叩く。
「……顔隠してるのって、やっぱ変か?」
「え? うん」
即答で頷かれて、返す言葉に詰まった。やっぱり変だとは思われていたのか。
「けど、気にしなくて大丈夫だよ。変な人なんていっぱいいるから」
「そう、なのか?」
「そうだよー。ワケありっぽい人なんて珍しくないし、隠してる事までいちいち詮索しようと思わないもん。オレたちだって、リアンが喋れない理由とかしつこく聞かれたらめんどくさいもんなー」
当たり前のような調子でリックはそう言う。あの蛇男、喋らないのではなく、喋れなかったのか。
「そういやチヒロ、ここで何してたの?」
「え、ああ……ファリスに言われて、ここの店に配達に来た帰りだ」
酒場を指さした俺を見て、リックは得心したように頷いた。
「パメラばあちゃんのとこか。なるほどねー」
何がなるほどなのかと訊ねる間もなく、リックは俺の方にずいっと顔を近づけてくる。
「うわっ」
「あのさ、帰りってことはもう用事は終わったんだよな? この後ヒマ?」
「え、まあ……」
動揺していた俺は、馬鹿正直にそう答えてしまった。
「そっかそっか。じゃあさ、これからオレの用事に付き合ってよ。オレ、キミと仲良くなりたいんだよね」
「は? いや、なんで俺が……」
「じゃあ行こー」
俺の返事などはなから聞く気は無いようで、リックは俺の腕をがっしりと掴んで、そのままスキップでもしそうな勢いで歩き出す。
「お、おい待て。どこ連れてく気だよ」
勢いに負けて引きずられる俺をチラリと振り向いて、リックは少し笑ったような気がした。
「オレが今から行くのはあそこ……大穴の下だよ」
そう言って、リックはここからずっと先、光の差し込む空の下を指さしたのだった。
❊
薄暗い街を離れて辿り着いた大穴の下は、眩しいくらいに晴れ渡っていた。こんなにも青く澄んだ空を見るのはいつぶりだろう。
だが、そんな青空の爽やかさを打ち消して余りあるほど、その場所は酷い有様をしていた。
「ここが、ゴミ山……」
そこはまさしく、ゴミの山としか表現しようのない場所だった。
だだっ広い草原の真ん中に、遙か見上げるほどうずたかく積み上がったガラクタ達。下の方には白っぽい石のガレキが堆積していて、その上にはありとあらゆる種類のゴミが降り積もっていた。
ざっと一瞥しただけでも、汚れた衣類に、黒電話や手回し式の洗濯機といった古い形の家電、大きな物では潰れた車までもが積み重なっている。周囲に漂う饐えたような悪臭からして、中には生ゴミの類いも混じっていると思われた。
汚らしい山を見上げて顔を顰める俺を見て、リックは首を傾げる。
「あれ、チヒロはゴミ山に来るの初めて?」
「あー、いや……俺、ここで倒れてたとこをファリスに拾われたらしいんだけど、細かい事はなんも覚えてないんだ。というかそれ以前の記憶も無い」
ファリスが作った“設定”を思い出しつつ、適当な言い訳を口にする。しかし、その場凌ぎの言葉に対してリックが返してきたのは、俺にとってそれなりに衝撃的な事実だった。
「チヒロはゴミ山に落ちてたんだな。ファリスと同じじゃん」
「……なんだって?」
「あれ、ファリスから聞いてない? あの人も子供の頃ゴミ山に落とされて、そんで死にそうになってたとこを、パメラばあちゃんに拾われたんだって話だよ」
「落とされたって、誰にだ?」
「そりゃ上層の人間にでしょ。ファリスはさ、昔下層から上層に登った人達の子供なんだって。だから上層で産まれて、そんでいらなくなったから捨てられたって事なんじゃない?」
リックは平然としているが、その口から語られたのは、あまりにもろくでもない話だった。
いくら化け物のような頭をしているとはいえ、生きている人間、それも子供を、いらなくなったから捨てるってどういう事なんだ。こいつらにとっては、当たり前の事なのか?
「あ……つうか、下層から登ったって何だ? ここから上に登る道があるのか?」
次々と質問攻めにする俺に嫌な態度ひとつ見せず、リックはゴミ山に登ろうとしていた足を止めて、俺の方を振り返った。
「昔はさ、ここにめちゃくちゃデカい螺旋階段があって、この大穴の上まで続いてたんだ。だから下層の暮らしに嫌気がさした人達が、何人もそこから上に登って行った。大半の人は、上層の街に辿り着く前に追い返されて帰って来たけど、見た目が綺麗だったり、珍しい頭をしてた人達が何人か気に入られて、そのまま人間達の街に住み着くことになったんだって。だけどある日突然、階段が崩れちゃって、それ以降は下層から登る手段も無くなったし、上層に登った人達も二度とこっちへ帰って来られなくなった」
「……ただひとつ、穴から落ちてくる事を除いて、か」
このゴミ山の下に積み上がっているガレキは、かつての階段の成れの果てということか。
「なるほどな……」
だからファリスは、俺のことを上層から落ちてきた人間だと思ったのだろう。
出入り口の無くなったこの街には、それ以外の方法で誰かがやって来ることなんて、ありえないんだ。ゴミ箱にゴミを捨てる事はあっても、ゴミが勝手に出入りする事は無い。つまりはそういう事なのだろう。
「……ていうか、なんかケロッとしてるけど、リックは人間共にムカついたりしないのか? 気に入った奴だけ住ませてやるとか、階段が崩れたのを良い事に、穴からゴミだけ捨て続けるとか……いろいろ一方的過ぎるだろ」
「やー、そう言われてもなあ……オレが産まれた時にはもう今みたいな状態が当たり前だったし、そもそも人間の姿だって本でしか見た事ないのに、恨むとか無理じゃない? 別にオレはなんとも思ってないよ」
足元に転がる拳サイズの石塊を拾い上げながら、リックはそう言う。その姿を見て、なんだか俺は、ひどく拍子抜けしてしまった。
ファリスには散々『正体がバレたら殺される』だとか脅かされたが、みんな人間に対してこの程度の認識なのか。だったら別にバレたって構わないんじゃないか。いつまでもこんな間抜けな格好をしている必要だって無い。
そんな軽率な考えで、俺がストールの端に手をかけたのと、リックが手にした石塊を思いきり放り投げたのは、ほぼ同時の事だった。
「でも、オレみたいな考えの人って、たぶん少数派だよ。大抵の人は、こんな暗くて汚い街に住むしかないのは全部人間のせいだーって思ってるし、血の気の多い人達なんかは『万一人間が落ちてきたらぶっ殺してやる!』なんて言ってるからね」
リックが放り投げた石は、遙か上空まで飛んでいって、ゴミ山に突き刺さっていた鉄柱に当たって弾け飛んだ。それからわずかに遅れて、鉄柱に引っかかっていた何かと、砕けた石の欠片が俺達の周りに降り注ぐ。
「だから、うっかりホントに人間がこの街に落ちてきちゃったら、きっと大変な事になるだろうねー。狭い街だから逃げ場なんて無いし……あれ、どうしたのチヒロ。石当たっちゃった? 痛かった?」
ストールの端を握ったまま俯く俺を見て、リックが心配そうに顔を覗き込んできた。
このストールを取らなくて、本当に良かったと思う。今のこの青ざめた顔を見せてしまっていたら、もはや何の言い訳も出来なかっただろう。リック個人が人間に好意的だったとしても、ペラペラとお喋りなこの口が、俺の正体を永遠に黙っていてくれるとも思えない。
「だ、いじょうぶだ。それより、なんか落ちてきたけど」
「あ、そうそう。上手く取れて良かったー」
リックの足元に落ちている塊を指さすと、奴の興味はあっという間にそちらへ移ったようだった。
「見てよチヒロ! ちょっと古いけど、めっちゃ良い靴だよ! 手入れしたらまだまだ履けるよ」
そう言ってリックが嬉しそうに掲げてみせたのは、男物の編み上げブーツだった。少々汚れてはいるが、革製品ならそれも“味”と言えなくもない。
「上層の人間からしたら全部ゴミなんだろうけど、ここってオレにとっては結構な宝の山なんだよね。商品の仕入れも出来るし、珍しい物とかもたくさん落ちてるし」
リックは靴を抱えたまま少し背伸びをして、ガレキの隙間に挟まっていたブリキの車を手に取った。その小さなオモチャを見つめる黄色い目玉は、なんだかやけにキラキラして見える。
「……すげえプラス思考だな」
リックが語るのは、ろくでもない話ばかりで、それなのにこいつの語り口はずっと楽しげだ。あんな暗い街に暮らして、こんな汚い場所でゴミを漁って、そんな日々に嫌気がさしたりはしないのだろうか。
リックはブリキの車をしばらく眺め回して、そのままおもむろにブーツの中へと突っ込んだ。その瞳は、いつの間にか俺の方を見つめている。
「あのさ、チヒロは知ってる? 上層の街ではさ、建物の中にしか天井が無いんだって。だから雨や雪の日には、“傘”っていうのを使わないと外を歩けないんだよ。それってすげー不便じゃない?」
「……いきなり何の話だよ」
「何でも捉え方次第ってこと。オレはさ、この街が案外嫌いじゃないんだ。暗くて汚いけど雨に濡れなくていいし、宝探しもできる。考えようによっては、上層の街より楽しいとこかも」
ブーツを片手にぶら下げて、リックはおどけたように肩をすくめた。
上層の街とやらがどんな所なのか、俺は知らない。けれど、俺が住んでいた街と比べて、ここはどうだろう。ギラギラ輝くネオンも、夜の街の喧騒も、ここには何ひとつ無い。
「さーて。良い物も見つかったし、オレはそろそろ帰ろうかな。チヒロはどうする?」
「ああ……俺も帰るよ」
「よし! じゃあ一緒に帰ろ」
リックは意気揚々と、暗い街へと帰って行く。その背中を追いながら、ふと振り仰いで見た青空の先は、真っ白に光り輝いて、何も見えなかった。
❊
「……ただいま」
リックと別れ、靴屋のすぐ目の前にある時計屋のドアを開けると、中にはファリス一人しか居なかった。
「おかえりなさい。遅かったですね」
カウンターの上に工具を広げて作業しながら、ファリスは少し顔を上げてそう言った。
「ちょっとその辺散歩してた」
「そうですか」
特に詮索するでもなく、ファリスは素っ気なくそう答えただけだった。行動にうるさく口出しされないのはありがたい。
それより、客のいない店内で、こいつは黙々と何の作業をしているのだろうか。なんとなく興味を惹かれて、俺はファリスの手元を覗き込んだ。
「それ、鳩時計か?」
ファリスの手元にあったのは、ドールハウスのような形をした置時計だった。のっぺりとした出入り口の無い外壁に、カラフルな文字盤が刻まれていて、その文字盤と屋根の間には小さな窓がある。決まった時間になると、この小窓から鳩が飛び出してくるという、よくある仕掛け時計に見えた。
「正確には鳩時計じゃないですよ。ほら」
──にゃあああ~
ファリスが時計の裏を少し弄った途端、静かな店に間の抜けた機械音が響き渡り、小窓から白い猫の人形が勢いよく飛び出してきた。
「…………猫時計?」
「そういうことです」
楽しげに言うファリスの手元で、役目を終えた白い猫は、また窓の中へと引っ込んで行った。
「変な時計だな」
「でも可愛いでしょう? こういう仕掛け時計は人気があるんですよ。娯楽の少ない街ですから」
「ふーん……他にもあんの? そういう時計」
「おや、君も好きですか? 仕掛け時計」
いかにも意外そうに言って、ファリスは横に立っている俺をまじまじと見上げる。なんとなく居心地の悪さを感じて、俺は目元のストールをギュッと掴んだ。
「別に。……時計じゃないけど、俺がガキの頃、母親が買ってきた仕掛け付きのオルゴールが家にあって……なんか懐かしいなと思っただけだ」
もうずいぶん前に失くしてしまったが、それでもあのオルゴールの事はよく覚えている。手のひらサイズの丸い台座の上に、仲良く手を繋いだ小人が二人並んでいて、台座の脇に付いたネジを回すと、『きらきら星』の音楽に合わせて小人達がくるくると踊りだす。そんな子供だましの安っぽいオモチャだった。だけどガキだった俺にとっては、母さんがいない一人の夜をやり過ごすために、なによりも必要な物だった。
小さな子供にとって、眠れない夜は、永遠に続くのではないかと錯覚するほど長く果てがない。そんな時、俺はずっとあのオルゴールの音色を聞いていた。壊れて動かなくなる日まで、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し。
「……チヒロ?」
ファリスに脇腹をつつかれて、俺はハッと我に返った。
「チヒロ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫って何だよ。別にどうもしねえよ」
「いえ、そうではなく……君の母親は、君を探しているのではないですか? 僕が言うのもなんですが、待っている人がいるのなら、やはり今からでも帰る方法を探すべきなのでは……」
母さんが、俺を待ってる?
そんなこと、自分では考えもしなかった。だけど。
「ありえねえよ。だって、あの人が再婚して以来、もう三年も連絡すら取り合ってないんだぞ? 俺が消えた事にも気づいてねえよ」
母さんが今の旦那と結婚したのは、俺が十八の時。もう独り立ち出来る歳だったし、いい機会だからと家を出て、それっきりだ。それから俺は、いろんな女の家を転々としているうちに、あの人達の家からずいぶん離れた場所へ辿り着いてしまったし、どのみち今さら帰れる筈がない。
「……君は、それで良いんですか」
「良いも何も、俺が自分で決めたんだよ。あの人とにかく男運がクソだったけど、ようやくマトモな男捕まえられたんだ。だからもう俺の出る幕じゃない」
家の金を盗んでギャンブルに注ぎ込むクズ野郎や、酒を飲んでは暴力を振るうクソ野郎から母さんを守るのが俺の役目だと思っていた。だけどそれはもう必要ない。だから俺は、母さんがやっと掴んだ幸せを邪魔しないよう、家を出た。ただそれだけの事だ。
「チヒロ……」
ファリスはまだ何か言いたそうだったが、ちょうどいいタイミングでドアが開き、客が入って来るのが見えた。
「じゃあな。先に部屋戻ってるから」
ファリスの返事を待たずに背を向けて、俺は足早に店の裏口へと向かった。そのまま店を出て、暗い廊下の端に伸びる階段を上りながら、ふと思う。俺という人間が消えたところで、心配するどころか、それに気づく奴すら、向こうの世界には一人もいない。
きっとこれは、人の愛情の上辺だけを間借りし続けて生きてきた、その代償なのだろう。
応援ありがとうございます!
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