ワールド エンド ヒューマン

村井 彰

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第三章 変わる心

一話 懐かしい贈り物

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  その日も、いつもと同じように、何も無い一日になるはずだった。

「チヒロ、君にお土産です。拾った物ですが」
  そう言ったファリスが、俺に差し出してきた物を目にするまでは。

  ❊

  あの晩、なぜファリスを怒らせてしまったのかよく分からないまま迎えた朝は、拍子抜けするほど普段通りだった。
「おはようございます、チヒロ」
  窓際の狭いキッチンに立って、一人分の朝食を用意する俺の元へ近づいてきたファリスは、昨夜の事などすっかり忘れてしまったかのような調子で、平然と朝の挨拶をした。そして何気ない仕草で、俺の手元を覗き込みながら言う。
「君は意外と器用なんですね。僕は料理なんてこの歳までした事がない」
「……そりゃ飯食わないんだから、料理もしないだろ」
  とことん無視してやろうと思ったのに、ファリスがあまりにも普通の調子で話しかけてくるから、つい返事をしてしまう。ちなみに今俺が作っているのは、余った野菜の切れ端をかたっぱしからフライパンに突っ込んで、塩を振って炒めているだけの、料理とも言えない代物である。
「……そういや、あんたって何歳いくつなんだ?」
「僕ですか? 来年で三十だったと思います」
「まじかよ」
  絶対に年上だろうとは思っていたが、想像以上に年が離れていた事に少し驚いた。やっぱりこいつらの見た目だけでは、年齢なんてまるで分からない。
「てか、『だったと思います』ってなんだよ。自分の歳だろ」
「それは……子供の頃は、自分の歳を数える余裕の無い暮らしをしていたので。今でもその習慣が無いだけです」
  どこか歯切れの悪いファリスの様子に、俺はふと、昨日リックから聞いた話を思い出した。
『ファリスはさ、昔下層から上層に登った人達の子供なんだって』
  そうだ。だからこいつは、上層で生まれ育ったらしいと言う話だった。そして、いらなくなったからと、まだ子供のうちに捨てられたのだとも言っていた。
  そこまで考えを巡らせて、俺は不意に嫌な事に思い至った。
  ファリスが初めて俺を抱いた時、こいつは俺に言った。『昔人間にされた事をやり返すだけ』だと。それは、つまり。
  ファリスの顔を見られなくなって、俺は俯いた。昨夜のファリスが、顔に触れられる事を過剰なほど嫌がった理由が、なんとなく分かったような気がしたからだ。
「チヒロ、それ焦げてるんじゃないですか?」
「え? ……あ、やべ」
  ファリスに言われて、慌ててコンロの火を止める。じりじりと煙を上げている人参の切れ端を裏返してみると、案の定真っ黒になっていた。
「あーもう、最悪。あんたが話しかけてくるから気が散った」
  八つ当たり気味にファリスの脇腹を小突いてやろうとしたが、直前で躱されて、代わりに頭をくしゃりと撫でられる。
「や め ろ! 毎日必死でセットしてんのに!」
「ボサボサ頭でも君は可愛いから大丈夫ですよ」
  からかうように笑って、ファリスはひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。軽快に階段を下りる足音が、少しずつ遠ざかっていく。
「なんなんだよ……」
  小声でボヤきながら、真っ黒になった人参にフォークを突き刺して、口の中に放り込む。
「…………にがっ」
  すっかり焦げてしまったそれは、舌を刺すほど苦くて、飲み込んだ瞬間ツンと涙が滲んだ。

  それから数日が過ぎるまでは、俺とファリスの間に特別変わった事は起きなかった。ただなんとなく、あの晩の事はお互い口にしないようにしているのが分かったし、俺も行為の最中はファリスの顔に触れないよう気を遣うようになっていた。ファリスもたぶん、俺がそうやって気を回している事に気づいていたと思う。
  そうして、心の底に澱のようなわだかまりを抱えたまま、表面上は穏やかに時間は過ぎ、俺がこの街へ流れ着いてから十日が経った日の事だ。
  朝の支度を一通り終えた俺の前に現れたファリスは、土産だと言って、とある物を差し出してきた。俺にとっては、あまりにも特別な物を。
「ファリス、これ……」
「拾った時は壊れていたんですが、修理したら動いたので。君、こういうオルゴールが懐かしいのだと言っていたでしょう?」
  懐かしい、だって? そんなの当たり前だ。
  なぜなら、ファリスが今手にしているそれは、俺が子供の頃に失くしてしまったあのオルゴールと、まったく同じ物だったのだから。
「これ、どこで拾ったんだ……?」
「君を見つけたのと同じ場所ですよ」
  その言葉に、数日前リックと共に訪れた、青空の下にそびえる巨大なゴミ山を思い出す。あの中に、これがあったというのか。
「……チヒロ? あまり気に入りませんでしたか?」
「あっ? ……ああ、いや、そんなことない」
  ダイニングチェアに座ってほうけていた俺は、慌てて手を伸ばして、目の前のファリスからオルゴールを受け取った。
  一瞬動揺してしまったが、あのオルゴールはその辺の店で売っていた、普通の量産品だ。同じ物がたまたま落ちていたって、そう不思議がるほどの事でもない。……いや、本当にそうか?
  十年以上前の日本で売っていた物が、今になってこんな異世界で手に入るなんて事が、本当にありえるのだろうか。くそっ、訳が分からなくなってきた。
  ごちゃごちゃしてきた頭を整理したくて、俺は手に持ったオルゴールのネジを回してみた。不安な時は、いつもこうしていたから。
  ギリギリ……という錆びたような手応えと共に、少しずつネジが巻かれていく。ああ、そうだ。懐かしいこの感触。あの頃何度も何度も繰り返したものと同じだ。
「ほらね、ちゃんと動いたでしょう?」
  たどたどしい音で流れ出した『きらきら星』を聞いて、ファリスは嬉しそうに言う。俺の手の中では、赤い小人と青い小人が、手を繋いでくるくると回っている。何もかもが、あの頃と同じ。こうしてただオルゴールを見つめているだけで、ざわついていた心が穏やかになっていくのが分かった。
「ずいぶん気に入ったみたいですね」
  熱心にオルゴールを見つめる俺を見て、ファリスは満足そうに頷いた。きっと、俺が以前オルゴールの話をしたから。だからファリスは、わざわざこれを拾って、修理までして持ってきたのだろう。もしかすると、ファリスなりに、ここ数日続いていた気まずさをどうにかしたいという気持ちがあったのかもしれない。
  なんにせよ、ひとつ確かなのは、ファリスがこれを、俺の為だけに用意してくれたという事だ。
「……なあ、ファリス」
「なんですか?」
「その、なんだ……あー…………ありが、とう」
  俺が盛大に口ごもりながら礼を言った瞬間、ファリスは一時停止ボタンを押されたかのようにピタリと動きを止めた。
「ファリス……?」
  また何かの地雷を踏んでしまったのかと身構える。しかしファリスは、俺の声を聞いた途端、ハッとした様子で花びらの先を震わせた。
「あ、すみません。まさか君からお礼を言われるとは思っていなかったものですから」
「あんた俺の事なんだと思ってんの?」
  しかし言われてみれば、ここへ来てからファリスに礼を言った記憶はまったく無い。世話になってはいるものの、こいつには度々酷い目に遭わされてもいるのだから、仕方のない話だ。
「そんなに喜んで貰えたなら、修理した甲斐がありますよ」
  嬉しそうに言って、ファリスは俺の頭をポンポンと撫でる。
「だからそれやめろって言ってるだろ」
  頭の上に乗った手を払い除けて睨んでやっても、相変わらずファリスは何も堪えていないらしく、上機嫌で花びらを揺らしている。一緒に暮らしているうちに、なんとなくこいつの表情も分かるようになってしまった。
「てか、そろそろ店開ける時間だろ。さっさと行けよ」
「はいはい。分かりましたから押さないで」
  ファリスの腰をグイグイ押して階段の方へ追い出すと、奴は肩をすくめながらも素直に店へと向かって行った。しかしその足取りはいかにも軽く、後ろ姿を見ているだけで、あいつが明らかに浮かれているのが伝わってくる。
「……なんで、あいつの方が嬉しそうなんだよ」
  一人になった俺は、再びオルゴールを見下ろして独り呟いた。
  手の中のオルゴールは、いつの間にか動きを止めている。静かになった部屋は寒々しくて、なのに腹の底がじんわり温かいような、おかしな気分だった。
  だけど、俺はこの感覚を知っている。子供の頃、ろくに暖房も効いてないアパートの一室で、母さんが俺の誕生日を祝ってくれた時と同じ感覚だ。部屋は寒いし、ケーキはコンビニのやつだし、渡されたプレゼントは欲しくもない安物のミニカーだった。それでも俺にとっては、母さんが俺のために用意してくれたってだけで、他のことなんてどうでもよくなるくらい嬉しいことだったのだ。
  オルゴールの音色に触発されて蘇った懐かしい思い出に浸りながら、ふと気づく。どうやら俺は、初めて貰ったファリスからの贈り物に、かなり浮かれているらしいということに。
「……バカじゃねーの」
  わざと声に出して呟いてみたが、自覚してしまった気持ちを打ち消すほどの効果はなかった。
  バカバカしい。いくら思い入れがある物とはいえ、こんなオモチャなんかで何をはしゃいでいるんだ俺は。今まで世話になった女達の方が、よっぽど良い物をくれただろ。
「…………あー、くそ!!」
  オルゴールをテーブルの上に置いて、ファリスに乱された頭をさらにグシャグシャと掻きむしる。あの男とばかり顔を突き合わせているから、こんなおかしな思考に陥るんだ。たまには他の奴と会話した方が良い。
  椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がって、部屋の奥にあるクローゼットへと向かう。中に吊るしてある青いストールを取り出しながら、俺は少し考えた。
  俺がこの街で知り合いと呼べる相手なんて、数える程もいない。その中で、こういう時話し相手になりそうなのは、やはり靴屋のリックだろう。見た目のことを抜きにすれば一番話しやすいし、なんとなく歳も近いような気がする。
  もはや慣れた手つきで顔にストールを巻きながらキッチンへ取って返し、俺はカーテンを開けて窓の外を覗いた。どうやら今日は、リックもリアンと共に店番をしているらしい。道に敷いたボロ布の上には、あの日ゴミ山でリックが拾ったブーツも並んでいる。
  時計屋の目の前にいるならちょうどいい。カーテンも開け放したままで、俺は部屋を飛び出した。

  この家の構造上、外に出るためには一度店の中を通る必要がある。とはいえファリスが俺の外出を咎めた事は一度もないので、奴の目の前を通る事に何の問題も感じていなかった。
  しかし、結論から言えば、俺が今日この家を出る事は叶わなかったのである。
「あ、ほら! ちょうどいいところに居候くんが降りてきたじゃない」
  店への扉を開けた途端、どこかで聞いたような甲高い女の声に出迎えられて、俺は目を剥いた。この街で、若そうな女の声をマトモに聞いた覚えなんて、一度しかない。
「あんた、えっと……サラさん?」
「そうよ。ちゃんと覚えててエラいわ」
  そう言って、口元に手を当てながらくすくすと笑っているのは、酒場でウエイトレスをしている羊女、サラだった。
「サラさん、こんなとこで何してんすか」
「何って、そんなの決まってるじゃない。お客として来たのよ。うちの柱時計の音が鳴らなくなっちゃったから修理に来て欲しいって、ファリスにお願いしてるの」
「いえ、ですから、今は店を空ける訳にはいかないので、出張修理は出来ないと……」
「だから、そのためにこの子を住ませてるんじゃないの? 居候くんに店番しててもらえばいいじゃない」
  俺はこの女の名前を覚えていたが、たぶんこいつは俺の名前を覚えていない。俺を居候くん呼ばわりしながら、羊女は馴れ馴れしくファリスの手を取り、あろうことか、水風船のように膨れた胸を、ファリスの腕にギュウギュウと押し付けだした。
  その光景を目にした瞬間、自分で意識するより早く、ストールの下の顔が引き攣るのが分かった。このバカ女、ふわふわしてるのは頭の外側だけにしとけよ。
「サラさん……」
「ねえ、いいじゃない。うちに来てくれたらお茶くらい出すわ」
  ファリスが困惑した声を出しても、羊女に引く様子はない。女の態度から断りきれないと悟ったのか、ファリスは諦めたような深い息を吐いた。
「……分かりました。すみません、チヒロ。少し出かけてきますので、その間店をお願いします。修理依頼が入った場合は品物をお預かりして、これに連絡先を書いてもらってください」
  そう言って、ファリスはカウンターの端に置いてある紙束と万年筆を指さすと、奥の壁に掛けてあったコートを羽織り、工具箱を手に取った。
「は? おい、ファリス……」
「では、いってきます」
  呼び止める俺の声を無視して、ファリスはさっさと店を出て行った。その腕には羊女がベッタリと引っ付いていたが、ファリスにそれを咎める様子はない。
「ふざけんなよ……」
  完全にドアが閉まった後で呟いても、誰も何も答えてはくれない。行き場のない苛立ちを感じながら、俺はカウンターチェアへ乱暴に腰を下ろした。
  ふざけやがって、あのクソ女。あそこまで強引に家へ連れ込もうとするなんて、絶対に下心アリに決まっている。時計が壊れたというのも本当かどうか怪しいものだ。ファリスの方もそのくらい察しているはずなのにノコノコ着いて行ったってことは、つまりそういう事だろ。結局ヤれそうなら誰でもいいんじゃねえか。ムカつく。
「くそ……っ」
  なんで俺が、こんなことでイライラしなくちゃいけないんだ。別にあいつが誰とヤってたってどうでもいいだろ。
  だって俺達は、恋人同士でも何でもないんだから。
「…………」
  白いカウンターテーブルに、壁に取り付けられた照明の光が反射している。その眩しさに目を細めながら、俺は自分自身の思考に傷ついている事を自覚した。 
  どうして今になって、虚しいなんて思うんだ。今のファリスとの関係は、俺自身が望んだものでもあったはずだろ。それなのに、今さら俺はどうしたいって言うんだ。
  まさか、俺は……ファリスの恋人になりたいんだろうか。
「…………ありえねえ」
  ストールの下で呟いて、俺はカウンターに突っ伏した。
  恋人だって? あいつは男で、そもそも人間ですらないのに、いくらなんでもバカげてる。
  バカげてる、と思うのに。それなのに、心の底で燻っているこの気持ちは何だ。
  つるつるに磨きあげられたカウンターの表面はひんやりとして、ストール越しの頬にもじわじわと冷たさが伝わってくる。それを心地良いと感じるのは、たぶん俺の頬が熱く火照っているからだ。その理由は、なんとなく察しがつくような気もするが、今はあまり考えたくなかった。
  そのまま、どれくらいそうしていただろうか。店中から響いてくる秒針の音が、耐え難いほどうるさくなってきた頃。不意にドアノブが回る音がして、入り口の扉がゆっくりと開いた。
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