7 / 13
第三章 変わる心
一話 懐かしい贈り物
しおりを挟む
その日も、いつもと同じように、何も無い一日になるはずだった。
「チヒロ、君にお土産です。拾った物ですが」
そう言ったファリスが、俺に差し出してきた物を目にするまでは。
❊
あの晩、なぜファリスを怒らせてしまったのかよく分からないまま迎えた朝は、拍子抜けするほど普段通りだった。
「おはようございます、チヒロ」
窓際の狭いキッチンに立って、一人分の朝食を用意する俺の元へ近づいてきたファリスは、昨夜の事などすっかり忘れてしまったかのような調子で、平然と朝の挨拶をした。そして何気ない仕草で、俺の手元を覗き込みながら言う。
「君は意外と器用なんですね。僕は料理なんてこの歳までした事がない」
「……そりゃ飯食わないんだから、料理もしないだろ」
とことん無視してやろうと思ったのに、ファリスがあまりにも普通の調子で話しかけてくるから、つい返事をしてしまう。ちなみに今俺が作っているのは、余った野菜の切れ端をかたっぱしからフライパンに突っ込んで、塩を振って炒めているだけの、料理とも言えない代物である。
「……そういや、あんたって何歳なんだ?」
「僕ですか? 来年で三十だったと思います」
「まじかよ」
絶対に年上だろうとは思っていたが、想像以上に年が離れていた事に少し驚いた。やっぱりこいつらの見た目だけでは、年齢なんてまるで分からない。
「てか、『だったと思います』ってなんだよ。自分の歳だろ」
「それは……子供の頃は、自分の歳を数える余裕の無い暮らしをしていたので。今でもその習慣が無いだけです」
どこか歯切れの悪いファリスの様子に、俺はふと、昨日リックから聞いた話を思い出した。
『ファリスはさ、昔下層から上層に登った人達の子供なんだって』
そうだ。だからこいつは、上層で生まれ育ったらしいと言う話だった。そして、いらなくなったからと、まだ子供のうちに捨てられたのだとも言っていた。
そこまで考えを巡らせて、俺は不意に嫌な事に思い至った。
ファリスが初めて俺を抱いた時、こいつは俺に言った。『昔人間にされた事をやり返すだけ』だと。それは、つまり。
ファリスの顔を見られなくなって、俺は俯いた。昨夜のファリスが、顔に触れられる事を過剰なほど嫌がった理由が、なんとなく分かったような気がしたからだ。
「チヒロ、それ焦げてるんじゃないですか?」
「え? ……あ、やべ」
ファリスに言われて、慌ててコンロの火を止める。じりじりと煙を上げている人参の切れ端を裏返してみると、案の定真っ黒になっていた。
「あーもう、最悪。あんたが話しかけてくるから気が散った」
八つ当たり気味にファリスの脇腹を小突いてやろうとしたが、直前で躱されて、代わりに頭をくしゃりと撫でられる。
「や め ろ! 毎日必死でセットしてんのに!」
「ボサボサ頭でも君は可愛いから大丈夫ですよ」
からかうように笑って、ファリスはひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。軽快に階段を下りる足音が、少しずつ遠ざかっていく。
「なんなんだよ……」
小声でボヤきながら、真っ黒になった人参にフォークを突き刺して、口の中に放り込む。
「…………にがっ」
すっかり焦げてしまったそれは、舌を刺すほど苦くて、飲み込んだ瞬間ツンと涙が滲んだ。
それから数日が過ぎるまでは、俺とファリスの間に特別変わった事は起きなかった。ただなんとなく、あの晩の事はお互い口にしないようにしているのが分かったし、俺も行為の最中はファリスの顔に触れないよう気を遣うようになっていた。ファリスもたぶん、俺がそうやって気を回している事に気づいていたと思う。
そうして、心の底に澱のようなわだかまりを抱えたまま、表面上は穏やかに時間は過ぎ、俺がこの街へ流れ着いてから十日が経った日の事だ。
朝の支度を一通り終えた俺の前に現れたファリスは、土産だと言って、とある物を差し出してきた。俺にとっては、あまりにも特別な物を。
「ファリス、これ……」
「拾った時は壊れていたんですが、修理したら動いたので。君、こういうオルゴールが懐かしいのだと言っていたでしょう?」
懐かしい、だって? そんなの当たり前だ。
なぜなら、ファリスが今手にしているそれは、俺が子供の頃に失くしてしまったあのオルゴールと、まったく同じ物だったのだから。
「これ、どこで拾ったんだ……?」
「君を見つけたのと同じ場所ですよ」
その言葉に、数日前リックと共に訪れた、青空の下にそびえる巨大なゴミ山を思い出す。あの中に、これがあったというのか。
「……チヒロ? あまり気に入りませんでしたか?」
「あっ? ……ああ、いや、そんなことない」
ダイニングチェアに座って惚けていた俺は、慌てて手を伸ばして、目の前のファリスからオルゴールを受け取った。
一瞬動揺してしまったが、あのオルゴールはその辺の店で売っていた、普通の量産品だ。同じ物がたまたま落ちていたって、そう不思議がるほどの事でもない。……いや、本当にそうか?
十年以上前の日本で売っていた物が、今になってこんな異世界で手に入るなんて事が、本当にありえるのだろうか。くそっ、訳が分からなくなってきた。
ごちゃごちゃしてきた頭を整理したくて、俺は手に持ったオルゴールのネジを回してみた。不安な時は、いつもこうしていたから。
ギリギリ……という錆びたような手応えと共に、少しずつネジが巻かれていく。ああ、そうだ。懐かしいこの感触。あの頃何度も何度も繰り返したものと同じだ。
「ほらね、ちゃんと動いたでしょう?」
たどたどしい音で流れ出した『きらきら星』を聞いて、ファリスは嬉しそうに言う。俺の手の中では、赤い小人と青い小人が、手を繋いでくるくると回っている。何もかもが、あの頃と同じ。こうしてただオルゴールを見つめているだけで、ざわついていた心が穏やかになっていくのが分かった。
「ずいぶん気に入ったみたいですね」
熱心にオルゴールを見つめる俺を見て、ファリスは満足そうに頷いた。きっと、俺が以前オルゴールの話をしたから。だからファリスは、わざわざこれを拾って、修理までして持ってきたのだろう。もしかすると、ファリスなりに、ここ数日続いていた気まずさをどうにかしたいという気持ちがあったのかもしれない。
なんにせよ、ひとつ確かなのは、ファリスがこれを、俺の為だけに用意してくれたという事だ。
「……なあ、ファリス」
「なんですか?」
「その、なんだ……あー…………ありが、とう」
俺が盛大に口ごもりながら礼を言った瞬間、ファリスは一時停止ボタンを押されたかのようにピタリと動きを止めた。
「ファリス……?」
また何かの地雷を踏んでしまったのかと身構える。しかしファリスは、俺の声を聞いた途端、ハッとした様子で花びらの先を震わせた。
「あ、すみません。まさか君からお礼を言われるとは思っていなかったものですから」
「あんた俺の事なんだと思ってんの?」
しかし言われてみれば、ここへ来てからファリスに礼を言った記憶はまったく無い。世話になってはいるものの、こいつには度々酷い目に遭わされてもいるのだから、仕方のない話だ。
「そんなに喜んで貰えたなら、修理した甲斐がありますよ」
嬉しそうに言って、ファリスは俺の頭をポンポンと撫でる。
「だからそれやめろって言ってるだろ」
頭の上に乗った手を払い除けて睨んでやっても、相変わらずファリスは何も堪えていないらしく、上機嫌で花びらを揺らしている。一緒に暮らしているうちに、なんとなくこいつの表情も分かるようになってしまった。
「てか、そろそろ店開ける時間だろ。さっさと行けよ」
「はいはい。分かりましたから押さないで」
ファリスの腰をグイグイ押して階段の方へ追い出すと、奴は肩をすくめながらも素直に店へと向かって行った。しかしその足取りはいかにも軽く、後ろ姿を見ているだけで、あいつが明らかに浮かれているのが伝わってくる。
「……なんで、あいつの方が嬉しそうなんだよ」
一人になった俺は、再びオルゴールを見下ろして独り呟いた。
手の中のオルゴールは、いつの間にか動きを止めている。静かになった部屋は寒々しくて、なのに腹の底がじんわり温かいような、おかしな気分だった。
だけど、俺はこの感覚を知っている。子供の頃、ろくに暖房も効いてないアパートの一室で、母さんが俺の誕生日を祝ってくれた時と同じ感覚だ。部屋は寒いし、ケーキはコンビニのやつだし、渡されたプレゼントは欲しくもない安物のミニカーだった。それでも俺にとっては、母さんが俺のために用意してくれたってだけで、他のことなんてどうでもよくなるくらい嬉しいことだったのだ。
オルゴールの音色に触発されて蘇った懐かしい思い出に浸りながら、ふと気づく。どうやら俺は、初めて貰ったファリスからの贈り物に、かなり浮かれているらしいということに。
「……バカじゃねーの」
わざと声に出して呟いてみたが、自覚してしまった気持ちを打ち消すほどの効果はなかった。
バカバカしい。いくら思い入れがある物とはいえ、こんなオモチャなんかで何をはしゃいでいるんだ俺は。今まで世話になった女達の方が、よっぽど良い物をくれただろ。
「…………あー、くそ!!」
オルゴールをテーブルの上に置いて、ファリスに乱された頭をさらにグシャグシャと掻きむしる。あの男とばかり顔を突き合わせているから、こんなおかしな思考に陥るんだ。たまには他の奴と会話した方が良い。
椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がって、部屋の奥にあるクローゼットへと向かう。中に吊るしてある青いストールを取り出しながら、俺は少し考えた。
俺がこの街で知り合いと呼べる相手なんて、数える程もいない。その中で、こういう時話し相手になりそうなのは、やはり靴屋のリックだろう。見た目のことを抜きにすれば一番話しやすいし、なんとなく歳も近いような気がする。
もはや慣れた手つきで顔にストールを巻きながらキッチンへ取って返し、俺はカーテンを開けて窓の外を覗いた。どうやら今日は、リックもリアンと共に店番をしているらしい。道に敷いたボロ布の上には、あの日ゴミ山でリックが拾ったブーツも並んでいる。
時計屋の目の前にいるならちょうどいい。カーテンも開け放したままで、俺は部屋を飛び出した。
この家の構造上、外に出るためには一度店の中を通る必要がある。とはいえファリスが俺の外出を咎めた事は一度もないので、奴の目の前を通る事に何の問題も感じていなかった。
しかし、結論から言えば、俺が今日この家を出る事は叶わなかったのである。
「あ、ほら! ちょうどいいところに居候くんが降りてきたじゃない」
店への扉を開けた途端、どこかで聞いたような甲高い女の声に出迎えられて、俺は目を剥いた。この街で、若そうな女の声をマトモに聞いた覚えなんて、一度しかない。
「あんた、えっと……サラさん?」
「そうよ。ちゃんと覚えててエラいわ」
そう言って、口元に手を当てながらくすくすと笑っているのは、酒場でウエイトレスをしている羊女、サラだった。
「サラさん、こんなとこで何してんすか」
「何って、そんなの決まってるじゃない。お客として来たのよ。うちの柱時計の音が鳴らなくなっちゃったから修理に来て欲しいって、ファリスにお願いしてるの」
「いえ、ですから、今は店を空ける訳にはいかないので、出張修理は出来ないと……」
「だから、そのためにこの子を住ませてるんじゃないの? 居候くんに店番しててもらえばいいじゃない」
俺はこの女の名前を覚えていたが、たぶんこいつは俺の名前を覚えていない。俺を居候くん呼ばわりしながら、羊女は馴れ馴れしくファリスの手を取り、あろうことか、水風船のように膨れた胸を、ファリスの腕にギュウギュウと押し付けだした。
その光景を目にした瞬間、自分で意識するより早く、ストールの下の顔が引き攣るのが分かった。このバカ女、ふわふわしてるのは頭の外側だけにしとけよ。
「サラさん……」
「ねえ、いいじゃない。うちに来てくれたらお茶くらい出すわ」
ファリスが困惑した声を出しても、羊女に引く様子はない。女の態度から断りきれないと悟ったのか、ファリスは諦めたような深い息を吐いた。
「……分かりました。すみません、チヒロ。少し出かけてきますので、その間店をお願いします。修理依頼が入った場合は品物をお預かりして、これに連絡先を書いてもらってください」
そう言って、ファリスはカウンターの端に置いてある紙束と万年筆を指さすと、奥の壁に掛けてあったコートを羽織り、工具箱を手に取った。
「は? おい、ファリス……」
「では、いってきます」
呼び止める俺の声を無視して、ファリスはさっさと店を出て行った。その腕には羊女がベッタリと引っ付いていたが、ファリスにそれを咎める様子はない。
「ふざけんなよ……」
完全にドアが閉まった後で呟いても、誰も何も答えてはくれない。行き場のない苛立ちを感じながら、俺はカウンターチェアへ乱暴に腰を下ろした。
ふざけやがって、あのクソ女。あそこまで強引に家へ連れ込もうとするなんて、絶対に下心アリに決まっている。時計が壊れたというのも本当かどうか怪しいものだ。ファリスの方もそのくらい察しているはずなのにノコノコ着いて行ったってことは、つまりそういう事だろ。結局ヤれそうなら誰でもいいんじゃねえか。ムカつく。
「くそ……っ」
なんで俺が、こんなことでイライラしなくちゃいけないんだ。別にあいつが誰とヤってたってどうでもいいだろ。
だって俺達は、恋人同士でも何でもないんだから。
「…………」
白いカウンターテーブルに、壁に取り付けられた照明の光が反射している。その眩しさに目を細めながら、俺は自分自身の思考に傷ついている事を自覚した。
どうして今になって、虚しいなんて思うんだ。今のファリスとの関係は、俺自身が望んだものでもあったはずだろ。それなのに、今さら俺はどうしたいって言うんだ。
まさか、俺は……ファリスの恋人になりたいんだろうか。
「…………ありえねえ」
ストールの下で呟いて、俺はカウンターに突っ伏した。
恋人だって? あいつは男で、そもそも人間ですらないのに、いくらなんでもバカげてる。
バカげてる、と思うのに。それなのに、心の底で燻っているこの気持ちは何だ。
つるつるに磨きあげられたカウンターの表面はひんやりとして、ストール越しの頬にもじわじわと冷たさが伝わってくる。それを心地良いと感じるのは、たぶん俺の頬が熱く火照っているからだ。その理由は、なんとなく察しがつくような気もするが、今はあまり考えたくなかった。
そのまま、どれくらいそうしていただろうか。店中から響いてくる秒針の音が、耐え難いほどうるさくなってきた頃。不意にドアノブが回る音がして、入り口の扉がゆっくりと開いた。
「チヒロ、君にお土産です。拾った物ですが」
そう言ったファリスが、俺に差し出してきた物を目にするまでは。
❊
あの晩、なぜファリスを怒らせてしまったのかよく分からないまま迎えた朝は、拍子抜けするほど普段通りだった。
「おはようございます、チヒロ」
窓際の狭いキッチンに立って、一人分の朝食を用意する俺の元へ近づいてきたファリスは、昨夜の事などすっかり忘れてしまったかのような調子で、平然と朝の挨拶をした。そして何気ない仕草で、俺の手元を覗き込みながら言う。
「君は意外と器用なんですね。僕は料理なんてこの歳までした事がない」
「……そりゃ飯食わないんだから、料理もしないだろ」
とことん無視してやろうと思ったのに、ファリスがあまりにも普通の調子で話しかけてくるから、つい返事をしてしまう。ちなみに今俺が作っているのは、余った野菜の切れ端をかたっぱしからフライパンに突っ込んで、塩を振って炒めているだけの、料理とも言えない代物である。
「……そういや、あんたって何歳なんだ?」
「僕ですか? 来年で三十だったと思います」
「まじかよ」
絶対に年上だろうとは思っていたが、想像以上に年が離れていた事に少し驚いた。やっぱりこいつらの見た目だけでは、年齢なんてまるで分からない。
「てか、『だったと思います』ってなんだよ。自分の歳だろ」
「それは……子供の頃は、自分の歳を数える余裕の無い暮らしをしていたので。今でもその習慣が無いだけです」
どこか歯切れの悪いファリスの様子に、俺はふと、昨日リックから聞いた話を思い出した。
『ファリスはさ、昔下層から上層に登った人達の子供なんだって』
そうだ。だからこいつは、上層で生まれ育ったらしいと言う話だった。そして、いらなくなったからと、まだ子供のうちに捨てられたのだとも言っていた。
そこまで考えを巡らせて、俺は不意に嫌な事に思い至った。
ファリスが初めて俺を抱いた時、こいつは俺に言った。『昔人間にされた事をやり返すだけ』だと。それは、つまり。
ファリスの顔を見られなくなって、俺は俯いた。昨夜のファリスが、顔に触れられる事を過剰なほど嫌がった理由が、なんとなく分かったような気がしたからだ。
「チヒロ、それ焦げてるんじゃないですか?」
「え? ……あ、やべ」
ファリスに言われて、慌ててコンロの火を止める。じりじりと煙を上げている人参の切れ端を裏返してみると、案の定真っ黒になっていた。
「あーもう、最悪。あんたが話しかけてくるから気が散った」
八つ当たり気味にファリスの脇腹を小突いてやろうとしたが、直前で躱されて、代わりに頭をくしゃりと撫でられる。
「や め ろ! 毎日必死でセットしてんのに!」
「ボサボサ頭でも君は可愛いから大丈夫ですよ」
からかうように笑って、ファリスはひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。軽快に階段を下りる足音が、少しずつ遠ざかっていく。
「なんなんだよ……」
小声でボヤきながら、真っ黒になった人参にフォークを突き刺して、口の中に放り込む。
「…………にがっ」
すっかり焦げてしまったそれは、舌を刺すほど苦くて、飲み込んだ瞬間ツンと涙が滲んだ。
それから数日が過ぎるまでは、俺とファリスの間に特別変わった事は起きなかった。ただなんとなく、あの晩の事はお互い口にしないようにしているのが分かったし、俺も行為の最中はファリスの顔に触れないよう気を遣うようになっていた。ファリスもたぶん、俺がそうやって気を回している事に気づいていたと思う。
そうして、心の底に澱のようなわだかまりを抱えたまま、表面上は穏やかに時間は過ぎ、俺がこの街へ流れ着いてから十日が経った日の事だ。
朝の支度を一通り終えた俺の前に現れたファリスは、土産だと言って、とある物を差し出してきた。俺にとっては、あまりにも特別な物を。
「ファリス、これ……」
「拾った時は壊れていたんですが、修理したら動いたので。君、こういうオルゴールが懐かしいのだと言っていたでしょう?」
懐かしい、だって? そんなの当たり前だ。
なぜなら、ファリスが今手にしているそれは、俺が子供の頃に失くしてしまったあのオルゴールと、まったく同じ物だったのだから。
「これ、どこで拾ったんだ……?」
「君を見つけたのと同じ場所ですよ」
その言葉に、数日前リックと共に訪れた、青空の下にそびえる巨大なゴミ山を思い出す。あの中に、これがあったというのか。
「……チヒロ? あまり気に入りませんでしたか?」
「あっ? ……ああ、いや、そんなことない」
ダイニングチェアに座って惚けていた俺は、慌てて手を伸ばして、目の前のファリスからオルゴールを受け取った。
一瞬動揺してしまったが、あのオルゴールはその辺の店で売っていた、普通の量産品だ。同じ物がたまたま落ちていたって、そう不思議がるほどの事でもない。……いや、本当にそうか?
十年以上前の日本で売っていた物が、今になってこんな異世界で手に入るなんて事が、本当にありえるのだろうか。くそっ、訳が分からなくなってきた。
ごちゃごちゃしてきた頭を整理したくて、俺は手に持ったオルゴールのネジを回してみた。不安な時は、いつもこうしていたから。
ギリギリ……という錆びたような手応えと共に、少しずつネジが巻かれていく。ああ、そうだ。懐かしいこの感触。あの頃何度も何度も繰り返したものと同じだ。
「ほらね、ちゃんと動いたでしょう?」
たどたどしい音で流れ出した『きらきら星』を聞いて、ファリスは嬉しそうに言う。俺の手の中では、赤い小人と青い小人が、手を繋いでくるくると回っている。何もかもが、あの頃と同じ。こうしてただオルゴールを見つめているだけで、ざわついていた心が穏やかになっていくのが分かった。
「ずいぶん気に入ったみたいですね」
熱心にオルゴールを見つめる俺を見て、ファリスは満足そうに頷いた。きっと、俺が以前オルゴールの話をしたから。だからファリスは、わざわざこれを拾って、修理までして持ってきたのだろう。もしかすると、ファリスなりに、ここ数日続いていた気まずさをどうにかしたいという気持ちがあったのかもしれない。
なんにせよ、ひとつ確かなのは、ファリスがこれを、俺の為だけに用意してくれたという事だ。
「……なあ、ファリス」
「なんですか?」
「その、なんだ……あー…………ありが、とう」
俺が盛大に口ごもりながら礼を言った瞬間、ファリスは一時停止ボタンを押されたかのようにピタリと動きを止めた。
「ファリス……?」
また何かの地雷を踏んでしまったのかと身構える。しかしファリスは、俺の声を聞いた途端、ハッとした様子で花びらの先を震わせた。
「あ、すみません。まさか君からお礼を言われるとは思っていなかったものですから」
「あんた俺の事なんだと思ってんの?」
しかし言われてみれば、ここへ来てからファリスに礼を言った記憶はまったく無い。世話になってはいるものの、こいつには度々酷い目に遭わされてもいるのだから、仕方のない話だ。
「そんなに喜んで貰えたなら、修理した甲斐がありますよ」
嬉しそうに言って、ファリスは俺の頭をポンポンと撫でる。
「だからそれやめろって言ってるだろ」
頭の上に乗った手を払い除けて睨んでやっても、相変わらずファリスは何も堪えていないらしく、上機嫌で花びらを揺らしている。一緒に暮らしているうちに、なんとなくこいつの表情も分かるようになってしまった。
「てか、そろそろ店開ける時間だろ。さっさと行けよ」
「はいはい。分かりましたから押さないで」
ファリスの腰をグイグイ押して階段の方へ追い出すと、奴は肩をすくめながらも素直に店へと向かって行った。しかしその足取りはいかにも軽く、後ろ姿を見ているだけで、あいつが明らかに浮かれているのが伝わってくる。
「……なんで、あいつの方が嬉しそうなんだよ」
一人になった俺は、再びオルゴールを見下ろして独り呟いた。
手の中のオルゴールは、いつの間にか動きを止めている。静かになった部屋は寒々しくて、なのに腹の底がじんわり温かいような、おかしな気分だった。
だけど、俺はこの感覚を知っている。子供の頃、ろくに暖房も効いてないアパートの一室で、母さんが俺の誕生日を祝ってくれた時と同じ感覚だ。部屋は寒いし、ケーキはコンビニのやつだし、渡されたプレゼントは欲しくもない安物のミニカーだった。それでも俺にとっては、母さんが俺のために用意してくれたってだけで、他のことなんてどうでもよくなるくらい嬉しいことだったのだ。
オルゴールの音色に触発されて蘇った懐かしい思い出に浸りながら、ふと気づく。どうやら俺は、初めて貰ったファリスからの贈り物に、かなり浮かれているらしいということに。
「……バカじゃねーの」
わざと声に出して呟いてみたが、自覚してしまった気持ちを打ち消すほどの効果はなかった。
バカバカしい。いくら思い入れがある物とはいえ、こんなオモチャなんかで何をはしゃいでいるんだ俺は。今まで世話になった女達の方が、よっぽど良い物をくれただろ。
「…………あー、くそ!!」
オルゴールをテーブルの上に置いて、ファリスに乱された頭をさらにグシャグシャと掻きむしる。あの男とばかり顔を突き合わせているから、こんなおかしな思考に陥るんだ。たまには他の奴と会話した方が良い。
椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がって、部屋の奥にあるクローゼットへと向かう。中に吊るしてある青いストールを取り出しながら、俺は少し考えた。
俺がこの街で知り合いと呼べる相手なんて、数える程もいない。その中で、こういう時話し相手になりそうなのは、やはり靴屋のリックだろう。見た目のことを抜きにすれば一番話しやすいし、なんとなく歳も近いような気がする。
もはや慣れた手つきで顔にストールを巻きながらキッチンへ取って返し、俺はカーテンを開けて窓の外を覗いた。どうやら今日は、リックもリアンと共に店番をしているらしい。道に敷いたボロ布の上には、あの日ゴミ山でリックが拾ったブーツも並んでいる。
時計屋の目の前にいるならちょうどいい。カーテンも開け放したままで、俺は部屋を飛び出した。
この家の構造上、外に出るためには一度店の中を通る必要がある。とはいえファリスが俺の外出を咎めた事は一度もないので、奴の目の前を通る事に何の問題も感じていなかった。
しかし、結論から言えば、俺が今日この家を出る事は叶わなかったのである。
「あ、ほら! ちょうどいいところに居候くんが降りてきたじゃない」
店への扉を開けた途端、どこかで聞いたような甲高い女の声に出迎えられて、俺は目を剥いた。この街で、若そうな女の声をマトモに聞いた覚えなんて、一度しかない。
「あんた、えっと……サラさん?」
「そうよ。ちゃんと覚えててエラいわ」
そう言って、口元に手を当てながらくすくすと笑っているのは、酒場でウエイトレスをしている羊女、サラだった。
「サラさん、こんなとこで何してんすか」
「何って、そんなの決まってるじゃない。お客として来たのよ。うちの柱時計の音が鳴らなくなっちゃったから修理に来て欲しいって、ファリスにお願いしてるの」
「いえ、ですから、今は店を空ける訳にはいかないので、出張修理は出来ないと……」
「だから、そのためにこの子を住ませてるんじゃないの? 居候くんに店番しててもらえばいいじゃない」
俺はこの女の名前を覚えていたが、たぶんこいつは俺の名前を覚えていない。俺を居候くん呼ばわりしながら、羊女は馴れ馴れしくファリスの手を取り、あろうことか、水風船のように膨れた胸を、ファリスの腕にギュウギュウと押し付けだした。
その光景を目にした瞬間、自分で意識するより早く、ストールの下の顔が引き攣るのが分かった。このバカ女、ふわふわしてるのは頭の外側だけにしとけよ。
「サラさん……」
「ねえ、いいじゃない。うちに来てくれたらお茶くらい出すわ」
ファリスが困惑した声を出しても、羊女に引く様子はない。女の態度から断りきれないと悟ったのか、ファリスは諦めたような深い息を吐いた。
「……分かりました。すみません、チヒロ。少し出かけてきますので、その間店をお願いします。修理依頼が入った場合は品物をお預かりして、これに連絡先を書いてもらってください」
そう言って、ファリスはカウンターの端に置いてある紙束と万年筆を指さすと、奥の壁に掛けてあったコートを羽織り、工具箱を手に取った。
「は? おい、ファリス……」
「では、いってきます」
呼び止める俺の声を無視して、ファリスはさっさと店を出て行った。その腕には羊女がベッタリと引っ付いていたが、ファリスにそれを咎める様子はない。
「ふざけんなよ……」
完全にドアが閉まった後で呟いても、誰も何も答えてはくれない。行き場のない苛立ちを感じながら、俺はカウンターチェアへ乱暴に腰を下ろした。
ふざけやがって、あのクソ女。あそこまで強引に家へ連れ込もうとするなんて、絶対に下心アリに決まっている。時計が壊れたというのも本当かどうか怪しいものだ。ファリスの方もそのくらい察しているはずなのにノコノコ着いて行ったってことは、つまりそういう事だろ。結局ヤれそうなら誰でもいいんじゃねえか。ムカつく。
「くそ……っ」
なんで俺が、こんなことでイライラしなくちゃいけないんだ。別にあいつが誰とヤってたってどうでもいいだろ。
だって俺達は、恋人同士でも何でもないんだから。
「…………」
白いカウンターテーブルに、壁に取り付けられた照明の光が反射している。その眩しさに目を細めながら、俺は自分自身の思考に傷ついている事を自覚した。
どうして今になって、虚しいなんて思うんだ。今のファリスとの関係は、俺自身が望んだものでもあったはずだろ。それなのに、今さら俺はどうしたいって言うんだ。
まさか、俺は……ファリスの恋人になりたいんだろうか。
「…………ありえねえ」
ストールの下で呟いて、俺はカウンターに突っ伏した。
恋人だって? あいつは男で、そもそも人間ですらないのに、いくらなんでもバカげてる。
バカげてる、と思うのに。それなのに、心の底で燻っているこの気持ちは何だ。
つるつるに磨きあげられたカウンターの表面はひんやりとして、ストール越しの頬にもじわじわと冷たさが伝わってくる。それを心地良いと感じるのは、たぶん俺の頬が熱く火照っているからだ。その理由は、なんとなく察しがつくような気もするが、今はあまり考えたくなかった。
そのまま、どれくらいそうしていただろうか。店中から響いてくる秒針の音が、耐え難いほどうるさくなってきた頃。不意にドアノブが回る音がして、入り口の扉がゆっくりと開いた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる