4 / 4
4話 霊感
しおりを挟む
一月五日、午前九時二十分。
ぼんやりと霞んだ空からは、ホコリのような雪がチラチラと舞い落ちて、アスファルトにたどり着くより早く風にさらわれて消えていく。三が日が明けたばかりの街には、どこか寝ぼけたような空気が漂っている。そんななか、ガランとした駐車場に停めたライトバンの運転席に突っ伏して、美里力也は大きく溜息を吐いた。今日の仕事は清掃業務ではないが、万が一他人に見咎められた時の言い訳のため会社の車で来ている。
「なんつーか……今更だが悪かったな、上崎。正月明け早々こんな訳の分からん仕事に付き合わせてよ。気持ち程度だが、割り増しで給料付けとくからカンベンしてくれ」
「あ、いえそんな……大丈夫です、どうせヒマだったので」
隣に座る力也の顔を見られないまま、万里は助手席で縮こまりながらそう答えた。別に力也に対して気を使った訳ではない。大学を卒業して以来、実家には一度も帰っておらず、年末年始を共に過ごせるような友人や恋人もいないのだから、暇なのは事実である。
心と体を壊して仕事を辞めたことを、両親にはまだ話せていない。自分は後ろめたいことから逃げてばかりだな、と万里は思う。今もなお、隣にいる人から目を背けている最中だ。
空模様に似た薄暗い気持ちでうつむく万里を、じっと見つめている気配がある。そしてその人の口から「ふっ」と柔らかい吐息が漏れた。
「お前いいやつだなあ、上崎……真面目だし、文句も言わねえで働くし、あんなヤバいもん見ても引かずに着いてくるしよぉ……やっぱあん時声かけて正解だったわ」
「えっ」
自己嫌悪に苛まれる万里の思いとは裏腹に、力也はしみじみとした口調でそんなことを言う。まさか、あんなことをやらかした自分に、そんな優しい言葉をかけてもらえるなんて、考えもしなかった。
仰天して運転席の方を向いた万里を見返す力也の表情は、不安になるほどいつも通りだった。力也は声も低く目つきも鋭いので、彼のことをあまり知らない人間からすれば不機嫌に見えるだろうが、その実、力也が本気で機嫌を損ねているところを、万里はまだ見たことがない。
「り、力也さん、その……」
「あン?」
「力也さん、なんでそんなに普段通りなんですか……? だって、その、俺……あんな、とんでもないことを……」
力也の目を見ていられなくなって、万里は自分のひざに視線を落とした。その横で力也が「あー……」という微妙な声で呻くのが聞こえる。どうやら答えに困っているらしい。
「いや……まあ、アレだ。流石になんとも思ってないとは言わねえぞ。普通にあの後熱出して寝込んだりしたしな。……けど、別にそのことでお前を責めようとも思ってねえよ」
「そんな、どうして……」
困惑する万里の横で、力也は言葉を探すように視線をさまよわせて、短い眉の上をカリカリと掻いた。
「俺さ、昔スズキさんの下で霊媒師もどきみたいな仕事してたって言っただろ。そん時にいろいろ見たんだよ。ああいう訳の分からんやつに取り憑かれておかしくなる人間を」
そう言って、力也はどこか遠い目で、曇った空を見上げる。
「……大抵はさ、精神とか脳みそとか、そういう所の不調なんだよな。だから医者にかかれば治るんだよ。でもごく稀に、それで済まない人もいる。俺が見た中だと、たとえば……俺が祓い屋もどきを辞めるちょっと前に会った、当時三十代くらいのサラリーマンなんか、すごかったぞ。全身の皮膚という皮膚に唇がついててな」
「唇……?」
「そうだ。ほっぺたとか、手の甲とか、服から見える所全部が……いや、たぶん服から見えない所もだったな。とにかく全身に口が付いてて、それぞれが全然違う声で好き勝手に喋るんだよ。つってもそれは俺にしか見えてなくて、はたから見たらそのサラリーマンがひとりで喋り続けてるような感じだっただろうな。一分ごとに人格が入れ替わる、強烈な多重人格つうか……まあそんな感じだ。元は大人しくて気の優しいタイプだったらしいが、口にすんのも嫌んなるような汚ねえ言葉を吐いてさ、かと思うと、突然女の声で喚いたり、子供の声になって泣いたりする。見た目のキモさと相まって、見てるこっちの方が発狂しそうだったな」
そう言って肩をすくめる力也の口調はいかにも軽いものだったが、その口から語られる内容のおぞましさに、万里はただ困惑することしか出来なかった。それでも何か反応しなくてはと、どうにか頭を回転させる。
「あ、ええと……それで、その人はどうなったんですか」
「あー……俺にはどうしようもねぇつって逃げようとしたら、スズキさんに蹴り飛ばされて、そのサラリーマンと二人きりで閉じ込められてな。そしたらその唇野郎、俺が見える人間だって気づいたのか、こっちに移ってきやがった。サラリーマンの体に付いてた唇が消えたかと思うとよぉ、俺の腕がみるみる腫れてきて、それが真ん中からばっくり割れて、そんでその中から長い舌がベロッとはみ出してきて……やべぇ、自分で言ってて吐きそうになってきた」
顔をしかめながら、力也は作業服越しの腕を痒そうにガリガリと掻きむしった。はたで聞いているだけの万里ですら、全身に鳥肌が立つような凄まじい体験談である。
「……んでまあ、サラリーマンの方はそれきりケロッと良くなって、スズキさんは大金せしめて、俺はその唇が消えるまで一週間くらい寝込んだ。それでさすがにもうやってらんねぇつって、祓い屋もどきは辞めたんだ。つっても、その後も会社立ち上げたり、なんだかんだでスズキさんの手は借りっぱなしだったけどな」
なるほど、と万里は思った。だから力也は、スズキに対して頭が上がらないのだろう。そして、あんな目に遭っても力也が表向き平然としていられる理由も、なんとなく分かった。それほどまでに壮絶な体験を、これまで繰り返してきたということなのだ。
だがしかし、霊的なモノの影響で人格が変わってしまう事例があって、そのせいでしでかした事は罪にならないと力也が考えているのだとしたら、それは大きな間違いだ。
だって、万里があの日やったことは、万里自身が望んだことだ。理性で無理やり蓋をして、表に出てこないよう必死になって隠していただけ。あの化け物が万里に何かしたのだとしたら、ただその蓋を取り去っただけのこと。万里自身の罪がなくなる訳ではない。
膝の上で拳を握った万里の肩をポンと叩いて、力也は軽く笑う。
「まあアレだ、ああいうのに取り憑かれるのは、言っちまえば交通事故みたいなモンだからな。ちょっと運が悪かったと思って、お前も早いとこ忘れちまえ。な?」
「…………っ、力也さん、俺……っ」
「それより上崎。お前はあの家、どう思う?」
万里の言葉を強引に打ち切って、力也は車の外を指さした。その先には、今回スズキに依頼された物件がある。クリーム色の外壁に、薄いレンガ色の屋根が落ち着いた雰囲気を醸し出している、小綺麗な二階建ての家だ。家主が亡くなって以来、買い手がつかずに廃屋と化しているそうだが、そのわりには大して荒れている様子もない。
「ええと……俺には、普通の家にしか見えないです、けど」
「やっぱりそうか。お前は別に、霊的なモンが見える訳じゃないんだもんな」
「あ、はい。前の家のアレも、直接姿を見た訳ではないので……むしろ、なんで突然あんな体験をしたのか、よく分からないです。今までの人生で心霊体験っぽいことなんて、一回もなかったのに……」
「あー……それは、悪い……俺のせいかもしんねぇ。ああいうのは、見えるやつがいるって分かると、調子に乗って暴れ出したりするからな。そのせいで見えないお前にまで影響した可能性はある」
「そういうものなんですか」
「おう……」
力也が申し訳なさそうな顔をするので、逆に万里の方がいたたまれなくなって、必死に言葉を探した。
「あの、えっと……でも前に住んでた人は、たぶんアレのせいで亡くなってて……見えても見えなくても危険な目に遭うんだったら、何かがいることだけでも分かって良かったと思います。見えない感じないモノに襲われるなんて怖すぎますし……」
「……やっぱお前、良いヤツだな」
力也はそう言って笑うと、ようやくシートベルトを外して腰を浮かせた。いよいよあの家の中へ向かうのだ。
車を降りる力也の後を追いかける万里の中で、何度も何度も、同じ言葉が渦巻いている。
そうじゃない。俺は、貴方が思っているような善い人間じゃないんだ、と。それを口にする勇気は、今の万里にはなかった。
*
万里がその家の異変に気づいたのは、力也と並び立って玄関先まで近づいた時のことだった。
既にスズキの方から家の持ち主や管理会社に話は通っているらしく、入口の門扉はあっさり開いた。おそらくは玄関のドアも同じだろうが、力也がドアノブに手をかけようとしたその時……
「り、力也さん……ちょっと待ってください……」
万里は思わず、力也の手を掴んで止めていた。
「どうした?」
「あ、いえ……その、なんていうか、ここ……めちゃくちゃ臭くないですか? なんか、中で野良猫とか死んでるのかも……」
離れた場所から見ていた時は気づかなかったが、この家の敷地に入った途端、それは酷く臭い出した。万里がまだ実家に住んでいた頃、床下からこんな臭いがしていたことがある。おそらくネズミやタヌキが入り込んで死んでいたのだと思う。結局死骸は見つからなかったが、臭いの記憶だけは、今も万里の中にしっかりと刻まれていた。
嫌な思い出に顔をしかめる万里を見返して、なぜか力也は怪訝な顔をする。
「臭い……臭いねぇ。お前それ、ここに入る前は感じたか?」
「え? いえ……」
「……なるほどな」
何かに納得したようにひとつ頷くと、力也は万里の手を振り切って、玄関ドアを勢いよく開けた。
「うわ……っ、ちょ、力也さん……!」
ドアを開けた瞬間に襲ってきた、噎せ返るような臭気に顔を殴られて、万里はたまらず自身の顔を覆った。しかし、力也の方は平然としている。
「なあ上崎。その臭い、どこからしてるか分かるか?」
「ど、こからって……」
体裁を整えるために作業着を身につけてはいるが、今回は清掃の仕事ではないからマスクは着けていない。正直言って今すぐ逃げ出したかったが、力也を置いて帰る訳にもいかなかった。
万里は完全に及び腰のまま、それでも勇気を振り絞って玄関先に立ち、家の中をそっと覗き込んだ。
「…………家の中から、だと思います。だいぶ奥の方……二階、かな」
自信なさげに言って、万里はすぐそこにある階段を指さした。当然ながら廃墟に明かりはなく、階段の奥にはじっとりとした闇がこごっている。何も見えないその場所に、得体の知れない何かが潜んでいる気がして、寒さとは違う理由の鳥肌が立った。
「力也さん、あの……先に警察……保健所? 呼んだ方が良くないですか……? これ絶対なんか死んでますって」
「……いや、たぶんその必要はねぇよ」
万里の訴えをバッサリと切り捨てて、力也は土足のまま室内に上がり込む。そして玄関先から動けない万里の方を振り向いた。
「なあ上崎。その臭い、この前の現場でも感じたか?」
「え、あ、はい……だって、あそこはモロに人が死んでたじゃないですか。だからもう、ドアを開けた瞬間からすごい臭いで……」
「俺はなあ、臭いなんてほとんど感じなかったよ」
「え」
頓狂な声を上げる万里を静かな目で見つめて、力也は薄暗がりのなかで肩をすくめた。
「遺体は早々に運び出されて、換気や消臭も行き届いてたからな。少なくともドア開けた瞬間から感じるほどの悪臭なんてなかったよ。今もそうだ。……言っとくが、別に俺の鼻がイカレてる訳じゃねえぞ? お前朝飯にカレー食ったろ」
「は、え……?」
何を言われているのか一向に理解できず、万里は意味のない言葉を発しながら、その場に立ち尽くした。比喩ではなく鼻が曲がりそうなほどの悪臭に、今もなお襲われているというのに、力也にはまるで感じられないというのか。そんな馬鹿なことがあるか。
混乱する万里に向ける視線に哀れみのような色を滲ませて、力也は自身の頭を搔いた。
「お前は嗅覚で感じるタイプなのかもしんねえな」
「……は」
「霊感だよ。俺は目で見るタイプだけど、お前は鼻で感じ取るのかもな。幽霊ってやつをさ。俺にはまだ何も見えてねえけど、スズキさんが回してくるような物件だ。何かがいるのは間違いない。そう考えると、俺よりお前の霊感の方がよっぽど強力かもしれねえよ」
力也の言葉の後半は、ほとんど万里の耳には届いていなかった。だって、この臭いが霊の存在を証明するものなのだとしたら、実家にいた頃に感じていた臭いの正体は……
「……力也さん。俺もう二度と実家に帰れないかもしれないです」
「は?! いやいや、そこまで悲観すんなよ! 霊感あるなんて言わなきゃ案外バレねえよ。お前だってこの間まで、俺が見える人間だなんて知らなかっただろうが」
万里の言葉をなにやら違う形に受け取ったらしく、力也は慌てて万里をフォローし始めた。やっぱりお人好しな人だな……とぼんやり考える万里の視界の片隅で、何かの影がゆらりと蠢いたような気がした。
ぼんやりと霞んだ空からは、ホコリのような雪がチラチラと舞い落ちて、アスファルトにたどり着くより早く風にさらわれて消えていく。三が日が明けたばかりの街には、どこか寝ぼけたような空気が漂っている。そんななか、ガランとした駐車場に停めたライトバンの運転席に突っ伏して、美里力也は大きく溜息を吐いた。今日の仕事は清掃業務ではないが、万が一他人に見咎められた時の言い訳のため会社の車で来ている。
「なんつーか……今更だが悪かったな、上崎。正月明け早々こんな訳の分からん仕事に付き合わせてよ。気持ち程度だが、割り増しで給料付けとくからカンベンしてくれ」
「あ、いえそんな……大丈夫です、どうせヒマだったので」
隣に座る力也の顔を見られないまま、万里は助手席で縮こまりながらそう答えた。別に力也に対して気を使った訳ではない。大学を卒業して以来、実家には一度も帰っておらず、年末年始を共に過ごせるような友人や恋人もいないのだから、暇なのは事実である。
心と体を壊して仕事を辞めたことを、両親にはまだ話せていない。自分は後ろめたいことから逃げてばかりだな、と万里は思う。今もなお、隣にいる人から目を背けている最中だ。
空模様に似た薄暗い気持ちでうつむく万里を、じっと見つめている気配がある。そしてその人の口から「ふっ」と柔らかい吐息が漏れた。
「お前いいやつだなあ、上崎……真面目だし、文句も言わねえで働くし、あんなヤバいもん見ても引かずに着いてくるしよぉ……やっぱあん時声かけて正解だったわ」
「えっ」
自己嫌悪に苛まれる万里の思いとは裏腹に、力也はしみじみとした口調でそんなことを言う。まさか、あんなことをやらかした自分に、そんな優しい言葉をかけてもらえるなんて、考えもしなかった。
仰天して運転席の方を向いた万里を見返す力也の表情は、不安になるほどいつも通りだった。力也は声も低く目つきも鋭いので、彼のことをあまり知らない人間からすれば不機嫌に見えるだろうが、その実、力也が本気で機嫌を損ねているところを、万里はまだ見たことがない。
「り、力也さん、その……」
「あン?」
「力也さん、なんでそんなに普段通りなんですか……? だって、その、俺……あんな、とんでもないことを……」
力也の目を見ていられなくなって、万里は自分のひざに視線を落とした。その横で力也が「あー……」という微妙な声で呻くのが聞こえる。どうやら答えに困っているらしい。
「いや……まあ、アレだ。流石になんとも思ってないとは言わねえぞ。普通にあの後熱出して寝込んだりしたしな。……けど、別にそのことでお前を責めようとも思ってねえよ」
「そんな、どうして……」
困惑する万里の横で、力也は言葉を探すように視線をさまよわせて、短い眉の上をカリカリと掻いた。
「俺さ、昔スズキさんの下で霊媒師もどきみたいな仕事してたって言っただろ。そん時にいろいろ見たんだよ。ああいう訳の分からんやつに取り憑かれておかしくなる人間を」
そう言って、力也はどこか遠い目で、曇った空を見上げる。
「……大抵はさ、精神とか脳みそとか、そういう所の不調なんだよな。だから医者にかかれば治るんだよ。でもごく稀に、それで済まない人もいる。俺が見た中だと、たとえば……俺が祓い屋もどきを辞めるちょっと前に会った、当時三十代くらいのサラリーマンなんか、すごかったぞ。全身の皮膚という皮膚に唇がついててな」
「唇……?」
「そうだ。ほっぺたとか、手の甲とか、服から見える所全部が……いや、たぶん服から見えない所もだったな。とにかく全身に口が付いてて、それぞれが全然違う声で好き勝手に喋るんだよ。つってもそれは俺にしか見えてなくて、はたから見たらそのサラリーマンがひとりで喋り続けてるような感じだっただろうな。一分ごとに人格が入れ替わる、強烈な多重人格つうか……まあそんな感じだ。元は大人しくて気の優しいタイプだったらしいが、口にすんのも嫌んなるような汚ねえ言葉を吐いてさ、かと思うと、突然女の声で喚いたり、子供の声になって泣いたりする。見た目のキモさと相まって、見てるこっちの方が発狂しそうだったな」
そう言って肩をすくめる力也の口調はいかにも軽いものだったが、その口から語られる内容のおぞましさに、万里はただ困惑することしか出来なかった。それでも何か反応しなくてはと、どうにか頭を回転させる。
「あ、ええと……それで、その人はどうなったんですか」
「あー……俺にはどうしようもねぇつって逃げようとしたら、スズキさんに蹴り飛ばされて、そのサラリーマンと二人きりで閉じ込められてな。そしたらその唇野郎、俺が見える人間だって気づいたのか、こっちに移ってきやがった。サラリーマンの体に付いてた唇が消えたかと思うとよぉ、俺の腕がみるみる腫れてきて、それが真ん中からばっくり割れて、そんでその中から長い舌がベロッとはみ出してきて……やべぇ、自分で言ってて吐きそうになってきた」
顔をしかめながら、力也は作業服越しの腕を痒そうにガリガリと掻きむしった。はたで聞いているだけの万里ですら、全身に鳥肌が立つような凄まじい体験談である。
「……んでまあ、サラリーマンの方はそれきりケロッと良くなって、スズキさんは大金せしめて、俺はその唇が消えるまで一週間くらい寝込んだ。それでさすがにもうやってらんねぇつって、祓い屋もどきは辞めたんだ。つっても、その後も会社立ち上げたり、なんだかんだでスズキさんの手は借りっぱなしだったけどな」
なるほど、と万里は思った。だから力也は、スズキに対して頭が上がらないのだろう。そして、あんな目に遭っても力也が表向き平然としていられる理由も、なんとなく分かった。それほどまでに壮絶な体験を、これまで繰り返してきたということなのだ。
だがしかし、霊的なモノの影響で人格が変わってしまう事例があって、そのせいでしでかした事は罪にならないと力也が考えているのだとしたら、それは大きな間違いだ。
だって、万里があの日やったことは、万里自身が望んだことだ。理性で無理やり蓋をして、表に出てこないよう必死になって隠していただけ。あの化け物が万里に何かしたのだとしたら、ただその蓋を取り去っただけのこと。万里自身の罪がなくなる訳ではない。
膝の上で拳を握った万里の肩をポンと叩いて、力也は軽く笑う。
「まあアレだ、ああいうのに取り憑かれるのは、言っちまえば交通事故みたいなモンだからな。ちょっと運が悪かったと思って、お前も早いとこ忘れちまえ。な?」
「…………っ、力也さん、俺……っ」
「それより上崎。お前はあの家、どう思う?」
万里の言葉を強引に打ち切って、力也は車の外を指さした。その先には、今回スズキに依頼された物件がある。クリーム色の外壁に、薄いレンガ色の屋根が落ち着いた雰囲気を醸し出している、小綺麗な二階建ての家だ。家主が亡くなって以来、買い手がつかずに廃屋と化しているそうだが、そのわりには大して荒れている様子もない。
「ええと……俺には、普通の家にしか見えないです、けど」
「やっぱりそうか。お前は別に、霊的なモンが見える訳じゃないんだもんな」
「あ、はい。前の家のアレも、直接姿を見た訳ではないので……むしろ、なんで突然あんな体験をしたのか、よく分からないです。今までの人生で心霊体験っぽいことなんて、一回もなかったのに……」
「あー……それは、悪い……俺のせいかもしんねぇ。ああいうのは、見えるやつがいるって分かると、調子に乗って暴れ出したりするからな。そのせいで見えないお前にまで影響した可能性はある」
「そういうものなんですか」
「おう……」
力也が申し訳なさそうな顔をするので、逆に万里の方がいたたまれなくなって、必死に言葉を探した。
「あの、えっと……でも前に住んでた人は、たぶんアレのせいで亡くなってて……見えても見えなくても危険な目に遭うんだったら、何かがいることだけでも分かって良かったと思います。見えない感じないモノに襲われるなんて怖すぎますし……」
「……やっぱお前、良いヤツだな」
力也はそう言って笑うと、ようやくシートベルトを外して腰を浮かせた。いよいよあの家の中へ向かうのだ。
車を降りる力也の後を追いかける万里の中で、何度も何度も、同じ言葉が渦巻いている。
そうじゃない。俺は、貴方が思っているような善い人間じゃないんだ、と。それを口にする勇気は、今の万里にはなかった。
*
万里がその家の異変に気づいたのは、力也と並び立って玄関先まで近づいた時のことだった。
既にスズキの方から家の持ち主や管理会社に話は通っているらしく、入口の門扉はあっさり開いた。おそらくは玄関のドアも同じだろうが、力也がドアノブに手をかけようとしたその時……
「り、力也さん……ちょっと待ってください……」
万里は思わず、力也の手を掴んで止めていた。
「どうした?」
「あ、いえ……その、なんていうか、ここ……めちゃくちゃ臭くないですか? なんか、中で野良猫とか死んでるのかも……」
離れた場所から見ていた時は気づかなかったが、この家の敷地に入った途端、それは酷く臭い出した。万里がまだ実家に住んでいた頃、床下からこんな臭いがしていたことがある。おそらくネズミやタヌキが入り込んで死んでいたのだと思う。結局死骸は見つからなかったが、臭いの記憶だけは、今も万里の中にしっかりと刻まれていた。
嫌な思い出に顔をしかめる万里を見返して、なぜか力也は怪訝な顔をする。
「臭い……臭いねぇ。お前それ、ここに入る前は感じたか?」
「え? いえ……」
「……なるほどな」
何かに納得したようにひとつ頷くと、力也は万里の手を振り切って、玄関ドアを勢いよく開けた。
「うわ……っ、ちょ、力也さん……!」
ドアを開けた瞬間に襲ってきた、噎せ返るような臭気に顔を殴られて、万里はたまらず自身の顔を覆った。しかし、力也の方は平然としている。
「なあ上崎。その臭い、どこからしてるか分かるか?」
「ど、こからって……」
体裁を整えるために作業着を身につけてはいるが、今回は清掃の仕事ではないからマスクは着けていない。正直言って今すぐ逃げ出したかったが、力也を置いて帰る訳にもいかなかった。
万里は完全に及び腰のまま、それでも勇気を振り絞って玄関先に立ち、家の中をそっと覗き込んだ。
「…………家の中から、だと思います。だいぶ奥の方……二階、かな」
自信なさげに言って、万里はすぐそこにある階段を指さした。当然ながら廃墟に明かりはなく、階段の奥にはじっとりとした闇がこごっている。何も見えないその場所に、得体の知れない何かが潜んでいる気がして、寒さとは違う理由の鳥肌が立った。
「力也さん、あの……先に警察……保健所? 呼んだ方が良くないですか……? これ絶対なんか死んでますって」
「……いや、たぶんその必要はねぇよ」
万里の訴えをバッサリと切り捨てて、力也は土足のまま室内に上がり込む。そして玄関先から動けない万里の方を振り向いた。
「なあ上崎。その臭い、この前の現場でも感じたか?」
「え、あ、はい……だって、あそこはモロに人が死んでたじゃないですか。だからもう、ドアを開けた瞬間からすごい臭いで……」
「俺はなあ、臭いなんてほとんど感じなかったよ」
「え」
頓狂な声を上げる万里を静かな目で見つめて、力也は薄暗がりのなかで肩をすくめた。
「遺体は早々に運び出されて、換気や消臭も行き届いてたからな。少なくともドア開けた瞬間から感じるほどの悪臭なんてなかったよ。今もそうだ。……言っとくが、別に俺の鼻がイカレてる訳じゃねえぞ? お前朝飯にカレー食ったろ」
「は、え……?」
何を言われているのか一向に理解できず、万里は意味のない言葉を発しながら、その場に立ち尽くした。比喩ではなく鼻が曲がりそうなほどの悪臭に、今もなお襲われているというのに、力也にはまるで感じられないというのか。そんな馬鹿なことがあるか。
混乱する万里に向ける視線に哀れみのような色を滲ませて、力也は自身の頭を搔いた。
「お前は嗅覚で感じるタイプなのかもしんねえな」
「……は」
「霊感だよ。俺は目で見るタイプだけど、お前は鼻で感じ取るのかもな。幽霊ってやつをさ。俺にはまだ何も見えてねえけど、スズキさんが回してくるような物件だ。何かがいるのは間違いない。そう考えると、俺よりお前の霊感の方がよっぽど強力かもしれねえよ」
力也の言葉の後半は、ほとんど万里の耳には届いていなかった。だって、この臭いが霊の存在を証明するものなのだとしたら、実家にいた頃に感じていた臭いの正体は……
「……力也さん。俺もう二度と実家に帰れないかもしれないです」
「は?! いやいや、そこまで悲観すんなよ! 霊感あるなんて言わなきゃ案外バレねえよ。お前だってこの間まで、俺が見える人間だなんて知らなかっただろうが」
万里の言葉をなにやら違う形に受け取ったらしく、力也は慌てて万里をフォローし始めた。やっぱりお人好しな人だな……とぼんやり考える万里の視界の片隅で、何かの影がゆらりと蠢いたような気がした。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
ファントムペイン
粒豆
BL
事故で手足を失ってから、恋人・夜鷹は人が変わってしまった。
理不尽に怒鳴り、暴言を吐くようになった。
主人公の燕は、そんな夜鷹と共に暮らし、世話を焼く。
手足を失い、攻撃的になった夜鷹の世話をするのは決して楽ではなかった……
手足を失った恋人との生活。鬱系BL。
※四肢欠損などの特殊な表現を含みます。
美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない
すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。
実の親子による禁断の関係です。
おすすめのマッサージ屋を紹介したら後輩の様子がおかしい件
ひきこ
BL
名ばかり管理職で疲労困憊の山口は、偶然見つけたマッサージ店で、長年諦めていたどうやっても改善しない体調不良が改善した。
せっかくなので後輩を連れて行ったらどうやら様子がおかしくて、もう行くなって言ってくる。
クールだったはずがいつのまにか世話焼いてしまう年下敬語後輩Dom ×
(自分が世話を焼いてるつもりの)脳筋系天然先輩Sub がわちゃわちゃする話。
『加減を知らない初心者Domがグイグイ懐いてくる』と同じ世界で地続きのお話です。
(全く別の話なのでどちらも単体で読んでいただけます)
https://www.alphapolis.co.jp/novel/21582922/922916390
サブタイトルに◆がついているものは後輩視点です。
同人誌版と同じ表紙に差し替えました。
表紙イラスト:浴槽つぼカルビ様(X@shabuuma11 )ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる