上 下
1 / 22
序章

魔術師のいる国

しおりを挟む
  星空さえも燃やし尽くさんほどの巨大な火柱が、王宮の中庭を鮮烈な赤に染める。なんの火種も無い場所から、一瞬にして視界を覆うほどの炎の壁を作り出してみせるなんて、魔術とは、なんて理不尽で恐ろしい力なのだろう。
  人智を越えた力で生み出された炎は暴力的なまでに美しく、観る者達の感嘆を欲しいままにしている。けれど観衆の中で一人蒼褪める女性……ユリナだけは、到底感心する気持ちになどなれないでいた。
「アラン様……!」
  炎の向こうから目を離せないまま、夫の名前を必死で呼んだ。
  けれど答えは、返ってこない。


  *


  魔術。無から有を生み出し、どんな深い傷もたちどころに癒し、時には獰猛な獣さえも意のままに操る、奇跡の力。人の理を越えた力を扱う魔術師は、おとぎ話の存在……では無い。

  ここ辺境の小国マルレスタには、古より他国とは比べ物にならないほど多くの魔術師が暮らしている。小さいながら肥沃な大地を持ち、魔術を扱うために必要なマナを大気に多く含む土地柄だからだ。
  そんなマルレスタの暮らしは、今や魔術師達によって支えられていると言っても過言ではなかった。水の流れを操り、植物の成長を促し、夜には街に光を灯す。これまでは自然に頼るしかなかったそれらが、この国では全て人の……魔術師達の手によって管理されているのだ。それゆえに、魔術師は非常に貴重かつ重要な存在であり、それだけで出自に関わらず高い地位を与えられる。そんな彼らは、まさしく選ばれし存在といえるだろう。
  ……とはいえ、それら魔術の素養は産まれ落ちた瞬間に決まるもの。魔術に関する能力をいっさい持たず、ただの貧乏貴族の娘として産まれてきたユリナにとっては、やはりおとぎ話とさして変わらない話だった。

「そんな途方も無い力を使えるって、一体どんな気分なのかしら」
  読み終えた本をぱたりと閉じて、ユリナは遥か高くにある天井を見上げた。ついさっきまで読んでいたのは、炎使いの魔術師が活躍する子供向けの童話だ。けれどこのお話は、実在の人物をモデルにしている。
  王宮に仕える魔術師の一人、ラヴェイル・フレイモア。現在この国に数多いる魔術師の中でも随一の実力を持つという彼は、太陽さえも意のままに操るのだと言われている。無論それは彼を讃えるための比喩表現なのだろうが、彼の力がそれほど強大なのだということには変わりない。
  ……などと知ったような事を言ったものの、そんな偉い人と田舎娘だったユリナが直接関わりを持てるはずもなく、彼女にとってはただ噂に聞きかじっただけの話に過ぎなかった。
  そう、少なくともこれまでは。
  今からほんの半月ほど前、ユリナはマルレスタの南の国境を守護する辺境伯であり、この国の防衛を担う騎士団の長でもある、アラン・クロムウェルの元へと嫁いだ。若くしてそうした重要な立場を任される彼は、父親の代から国王陛下の覚えめでたく、陛下から直接王宮に招かれる事も少なくない。実際、今夜王宮で開かれるという夜会に、ユリナは夫婦揃って招待されている。そこへ行けば、否が応でも出会うだろう。この国最強の魔術師に。
  ぼんやりと思考を巡らせながら、読み終わった本を小脇に抱えて次の本を探しに向かう。
  ここはクロムウェル邸の一室。元々は夫の亡母の書斎であったという部屋だが、大層な読書家であった彼女の蔵書は、彼女が病に倒れるその日まで増え続け、その冊数は四桁に届くほどになった。ユリナは訪れたことは無いが、きっとここの蔵書は、王都にある国立図書館にだって引けを取らないに違いない。
「童話に戦術書に恋愛小説に……かなりの乱読家だったのね、お義母様。ご存命のうちにお話してみたかったわ」
  見上げるほど巨大な本棚の林に囲まれて、ユリナはそっとため息を零した。
  幼い頃から本の虫であったユリナにとって、こうして文字通り書物に埋もれるような生活を送るという事は、物心ついた時からの夢だった。だから、こんなにも夢のような空間を作り上げた亡き義母の事も到底他人には思えない。彼女と出会えていたら、きっと良い家族になれていたと思うのに。
「家族、か……」
  自分で思い浮かべた言葉に少し苦笑する。出会ったばかりの人と家族になるなんて、口で言うほど簡単じゃない。実際、夫になったばかりのとだって、ずっとぎこちない関係が続いているのに。
  小さく息を吐き出して、ユリナは新しく選びとった本を一冊手に取り、そのまま書斎を後にした。ここから王都までは遠い。そろそろ夜会のための支度を整えなくては。
  書斎の扉を開けて、廊下へ歩み出る。掃除の行き届いた廊下には、窓から差し込む春の暖かな日差しが降り注いでいた。どこまでも続いていそうなほど長い廊下は、見る度にため息が零れそうになってしまう。同じ伯爵家でも、うちの実家とは随分な違いだ。
  そもそもこの広大な屋敷を建てた先代当主グランツ……ユリナにとって義父にあたる人物は、もともと平民の産まれだったそうだ。そんな彼が先の戦で挙げた目覚しい戦果が認められ、陛下から直々に爵位を与えられた。この国では能力ある者が身分に関わらず引き立てられることは珍しくないが、やはり魔術師になる以外の方法で評価を得るのは並大抵ではない。その事からも、夫の父が如何に偉大な人物であったのかが窺える。惜しむらくは、そんなにも立派な剣士でさえ、病には勝てなかったという事だ。
  日差しの中を歩きながら、ユリナは亡き義父に思いを馳せる。そう、この家の当主であったグランツ・クロムウェルも、彼の妻の後を追うように、一年ほど前に病で亡くなってしまった。そのため急遽後を継がねばならなくなった嫡男のアランが妻として選んだのが、他でもないユリナだった……というわけだ。
  重要な任と高い地位を与えられていながらも、両親が平民の産まれであるアラン。そして遠くは王族の血を引いているものの、現在は田舎の貧乏伯爵の娘として産まれたユリナ。血筋と権力、それぞれに足りない物をお互いに持ち合わせた二人は、政略結婚の相手としては最適だった。少なくとも、ユリナの実父はそう判断したのだ。
「あっ……」
  廊下の途中にある階段を降りようとして、不意に現れた大きな影にぶつかりそうになり、ユリナは慌てて足を止めた。勢い余ってふらついた肩を優しく受け止めてくれた人影が、少し首を傾げてユリナを見おろす。
「失礼。大丈夫ですか、ユリナさん」
「あ、アラン様……ごめんなさい」
  先日夫になったばかりの人……アランに問われ、ユリナは恐縮して姿勢を正した。ユリナとて女性にしては大柄な方ではあるが、それでもアランの頭は遥か上の方にあり、こうして向かい合うと少々威圧感がある。鷹のような鋭い目つきと熊のような立派な体躯、そして騎士団の長という肩書き。市井の人々には、彼のことを恐れる者も多いというのも頷ける。けれど、この数日彼と一緒に暮らしてみて、それは大きな間違いであるという事もよく分かった。
「ユリナさん、本日の夜会のことですが……」
「ええ、今から支度を整えますわ」
  ユリナの言葉に、アランは目を細めて頷いた。
「では支度が終わる頃に迎えに行きますから」
  そう言葉少なに伝えて、アランはその場を去って行った。この半月の間、彼が怒ったり声を荒らげたところを一度も見たことが無い。恐ろしげな見た目に反して、中身はずいぶん穏やかで優しい人のようだ。
  アランの背中を見送って、ユリナは自室へ向かうため、再び階段を降り始めた。
  幼い頃からの夢を叶えて貰って、こんなに大きな屋敷に住ませて貰って、その上旦那様は、決して怒らない優しい人。なんて贅沢で恵まれた暮らしなのだろう。こんな生活、どこのご令嬢に話したって、きっと羨ましがられるに違いない。
  そう。そのはずなのに。胸の奥に凝るこの靄は、一体なんなのだろう。

  *

  そして数時間後。支度を整えたユリナ達は馬車に乗り、クロムウェル邸がある郊外の街から、遠く離れた王都へとやって来た。
  この国の全ての権威を象徴する王宮と、それを中心として作られた街には、華やかで美しい都会の雰囲気があった。整備された道に、競い合うように建ち並ぶ商家。夜になっても人々が多く行き交うのは、きっとこの街がとても明るいからだろう。ユリナが住んでいたような田舎では夜になると真っ暗になってしまうけれど、王都周辺では魔術の炎で管理された街灯が多く立ち並ぶ。それらは普通のロウソクの光よりも遥かに眩く輝いて、完全に陽の落ちた今も、まるで真昼のように明るく街並みを照らしていた。
「足元に気をつけてください」
  そう言って、アランが手を差し伸べてくれる。その手を取って馬車を降りたユリナは美しいドレスを身につけ、すっかり淑女の装いとなっていた。そのドレスは、結婚前に両親が仕立ててくれた物だった。娘時代に着ていた物より幾分か控えめな装いではあるが、普段のリーズレット家なら逆立ちしても買えないような上質な生地がふんだんに使われている。娘が嫁ぎ先で恥をかかないようにと、無理をして用意してくれたのだ。
  大切なドレスを汚さないように注意しながら地面に降り立ち、ユリナは周囲を見回した。
「見事なものですね……この街の華やかさも、王宮の美しさも」
  ユリナがそう呟くと、隣に立つアランも小さく頷いた。
「この国で働く魔術師達のほとんどが王都に暮らし、人々の生活をより良いものとするためにその力を奮っています。……この街こそが、マルレスタという国の豊かさの全てを体現していると、そう言ってしまっても過言ではないでしょうね」
  そう説明してくれるアランの腕を少しぎこちない仕草で取って、ユリナは向かうべき先に鎮座する宮殿を見上げた。暗い夜空に浮かび上がるように、白く照らし出されたその建物はあまりにも広大で、ここだけでひとつの都市であるかのようだ。クロムウェル邸を初めて訪れた時も「まるでお城みたいだ」と思ったものだが、本物のお城はさらに比べ物にならないほど立派で……ユリナにとっては、かえって息の詰まるような光景だった。

  そうして、夫にエスコートされるままに権威の象徴たる宮殿に足を踏み入れ、辿り着いたのは魔術の間と呼ばれる宮廷最大のサロンだった。その広間では、魔術師の間という名が示す通り、この国の祖たる偉大な魔術師の姿が描かれた巨大な絵画が天井付近に飾られている。ふと視線を上げれば、どこにいても彼女の赤い瞳と目が合うような気がして、どうにも落ち着かない気持ちになる場所だ。
「ふう……」
  口元を手で覆って、ユリナは誰にも気づかれないように小さくため息を零した。灯りを灯された何千というロウソクの熱と、集まった客人達の人いきれに目眩がする。やっぱり社交場は苦手だ。楽団の奏でる見事な音楽も、今は頭痛の元でしかない。
  早くも疲れきったユリナの耳に、ふと異質な音が飛び込んできた。軽快に跳ねるような、いかにも自信に満ち溢れた足音。その音に伏せていた目をあげると、綿毛に似たふわふわの金髪が目に入った。
「ご機嫌麗しゅう、クロムウェル卿。伯爵夫人におかれましては、結婚式でお会いして以来ですね」
  そう言ってやや軽薄そうに笑うのは、役者のように華やかな顔立ちをした年嵩の男性だった。三十半ばくらいで細身ながら引き締まった体つきをしたその人は、たしか騎士団の偉い人で、今はアラン様の部下だったはず。そう、そして名前は……なんだっけ……
「ウォルター。お前も来ていたのか」
  隣のアランが口にした名前に、薄れていた記憶が蘇る。ああそうだ、思い出した。この人はウォルター・カーライル。あまり裕福ではない貴族の三男坊として産まれたが、アランの父グランツに取り立てられて、彼の右腕として活躍してきたという人だ。
「ご無沙汰しております。サー・ウォルター」
  ドレスの裾を軽く引いて、ウォルターに礼を返す。そんなユリナを微笑ましく見おろしたかと思うと、
「リーズレット家のご令嬢はスズランの如くたおやかで控えめな美しさだと、騎士団の若い者達も噂していたものですが……こうして実際にお会いしてみれば、カラーリリーの如き気高い華やかさも併せ持っておられる。こんなにも美しい女性を我らが団長が射止めるとは……いやはや羨ましい限りですね」
  ウォルターは流れるように言葉を紡ぎ、白い手袋を嵌めた手で、恭しくユリナの手を取った。どうでもいいが、スズランもカラーリリーも毒草ではなかったか。
「相変わらずよく回る口だな。山と来る誘いを全て断って独り身を貫いている男が、羨ましいなどとよく言ったものだ」
  ウォルターの笑顔とは真逆の苦い表情でアランが言う。妻の腕を軽く引いて、軽薄な年上の部下から遠ざけようとするアランを見たウォルターが、少し苦笑した。
「いやですねぇ。束縛は美しくないですよ」
「なんとでも言え」
  アランがムスッとした声で返した直後、広間にさざなみのようなざわめきが広がった。
  気づけば豪奢な装飾が施された広間の奥の階段を、付き人を従えながら悠然とした足取りで降りてくる男性がひとり。この場にいる誰よりも煌びやかな衣服に身を包んだその人こそが、マルレスタの若き国王、ソーマ・マラクベルだった。夜をそのまま織り込んだような豊かな黒髪と、太陽を閉じ込めたように燃える赤い瞳は、この広間に描かれた魔術師の姿にそっくりだ。彼自身は魔術師ではないものの、確かに偉大な開拓者の血を引いているのだとひと目でわかる。
  こんなに間近で陛下の御姿を拝見するのは初めてだわ、などと考えながら、ユリナがぼんやりとその姿を見上げていると、なんと国王は迷いのない足取りで、まっすぐこちらへ向かって来るではないか。慌てて姿勢を正したユリナにちらりと視線をやって、アランは右手を胸に当てる騎士団風の礼をした。
「今宵はご招待いただきありがとうございます、陛下」
  恭しく礼をするアランに、国王は快活に笑ってひらひらと手を振った。
「よせよせ、堅苦しい。お前の父には随分世話になった。おれはお前のことも弟のように思っているのだぞ、アラン」
  軽い調子で言って、アランの顔を上げさせる。
  弟。そう、貫禄のある見た目のせいで忘れてしまいそうになるが、実のところアランはまだ二十一の青年である。ユリナよりもひとつ年下だ。
「それよりも、だ。そちらの美しい女性をおれに紹介してくれないのか?」
  にやりと笑う国王に顔を覗き込まれ、ユリナはハッと息を呑んだ。
「ご、ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません、陛下。ユリナ・クロムウェルと申します」
  緊張に舌をもつれさせながら、ユリナは慌ててドレスの裾を引いて頭を下げた。そんな彼女に対して、国王の態度はあくまで気安い。
「はは、そんなに緊張しなくて良い。アランの妻なら貴女もおれの妹のようなものだ」
  そう親しげに笑いかけて、国王は「奥方を大事にしろよ」とアランの肩を叩いた。確かに、こうしていると二人は年の離れた兄弟のようにも見える。臣下というだけではない、ただのひとりの人間として、とても近しい関係なのだろう。
  そうして気安い調子でアランに話しかけていた国王だったが、ふと真面目な顔になって言った。
「グランツの事は本当に残念だったが、お前がこうして妻を娶って、無事に跡を継いでくれて安心したぞ。依然として、我が国の豊かさや、王都で抱えている多数魔術師達に目をつける者は少なくない。そんな状況でマルレスタの国境を任せられる者は、そうはいないからな。……ああ無論、騎士団としての働きにも期待しているぞ。なあウォルター」
「ええもちろん。我々が必ずご期待にお応えすると約束しますよ」
  自分に向けられた視線に応えるように胸に手を当てて、ウォルターがにっこりと微笑む。その胡散臭い笑顔に向かって、不意に尖った声が投げかけられた。
「お言葉ですが陛下。以前から何度も申し上げておりますように、騎士団などという剣を振るうしか能の無い連中は、さっさと解隊してしまうべきです。英雄と讃えられた先代の剣筋は確かに見事なものでしたが、あのように魔術師とも対等に渡り合えるような剣豪など、そうはおりません。そのグランツ殿が亡くなられた今、我々魔術師団さえあれば、彼らの存在は不要です」
  厳しい口調で矢継ぎ早にそう捲し立てたのは、国王の後ろに控えていた付き人の男性だった。その男性はウォルターと同じくらいの年頃で、四角い岩のような顔立ちをしていた。ごわごわして硬そうな赤い前髪から覗くサークレットには、髪と同じ色の宝石が輝いている。
  そんな男性に殺気のこもった眼差しで睨まれたウォルターは、彼とは反対の涼しい顔をしたまま、フンと小さく鼻を鳴らした。
「剣を振るうしか能が無い、ねぇ……剣のひと振りすら持てないひ弱な魔術師殿に何を言われても、こそばゆいだけですが」
  先ほどまでの軽薄そうな笑顔を全く崩さないまま、ウォルターが棘のある口調で返す。
「持てないのではない、持たないのだ! 剣などという前時代の道具は我々魔術師には必要ないからな。貴様のような無能は、そうして一生原始的な戦に明け暮れているがいい、この野蛮人め」
「野蛮なのはどちらですかねぇ。陛下の御前で、客人をそのように口汚く罵るとは……はあ、醜い醜い」
  明らかに馬鹿にした様子でウォルターが肩をすくめる。言われた付き人の男性の方は、今にも爆発寸前といった顔色だ。なんだか分からないが、これはまずいのではないか。ユリナが内心で狼狽えだした時、一触即発の空気を吹き飛ばすような明るい笑い声が響いた。
「ふ、はははははっ! 相変わらず仲が悪いなお前達は! だが今は楽しい宴の席だ、その辺りにしておけ」
  そう言って、国王が険悪な二人の間に割って入る。
「しかしラヴェイルよ、お前の言いたい事も分かるぞ。アランはまだ若い。前途ある青年を危険な前線に送り出すのは気の毒だと、そう言いたいのだろう?」
「は? いや、私はそのような……」
「そうでなくとも前任者が優秀だったからなあ。いくらその息子とはいえ、年若い新人に国境を任せる事を不安に思う者も多いだろう。なあアラン」
  やけに芝居がかった仕草で話しながら、国王がアランの肩に手を回す。何か不穏な気配を察したのかアランが一瞬眉を寄せたが、彼が口を開くより早く、国王が広間中に響く声で言い放った。
「さて、そこでおれから提案だ。アラン、この場でラヴェイルと一戦交えろ」
「………………は?」
  それまで無言で事の成り行きを見守っていたアランが、そこで初めて声をあげた。それもユリナがこれまで聞いた事もない、頓狂な声である。
「英雄の息子というだけではない。お前自身に力があるのだと、この場で証明してみせればいい。そうすれば誰もお前の、そしてお前が率いる騎士団の必要性を疑う事はないだろう。なあラヴェイル」
「……陛下のご用命とあれば」
  当のアランを無視して、周りの男達が勝手に話を固めていく。辺りを見回してみれば、集まった客人達も興味深げにこちらの様子を窺っているのが分かる。アラン本人だけが無表情を貫いているのがもはや恐ろしい。
「我々騎士団の威光を示す良い機会ではありませんか。頑張ってくださいね、アラン団長」
  愉快げに笑うウォルターの言葉に、アランがほんの僅かに口元を歪ませた。「他人事だと思って……」と呟いた声が聞こえたのは、おそらくすぐ傍にいたユリナだけだっただろう。
「では決まりだな。さすがに今この場で、というのは少々危険だ。皆、中庭へ移動してくれ! ……ああそうだ、アランはこれを使うと良い」
  客人達に呼びかけながら、国王は自らが腰に携えていた剣をアランに手渡した。柄や鞘がゴテゴテと装飾された、いかにも儀礼用の剣という様子だが、この場で渡す以上、その刀身まで作り物という事はあるまい。触れれば切れるし、当たり所が悪ければ死ぬ。正真正銘、本物の剣だ。
  もはや断れる雰囲気ではないと判断したのか、諦めた様子でアランは剣を受け取った。そうなると不安になるのはユリナの方だ。だって陛下は、あの付き人の男性をラヴェイルと呼んだ。王宮に仕えるような魔術師で、その名前を持つ人はひとりしかいない。
  おとぎ話にさえ語られる炎の魔術師、ラヴェイル・フレイモアだ。
「アラン様……」
  不安を顕に袖を引く妻を見て、アランは少しだけ目を細めた。
「大丈夫ですよ。何も殺し合うわけじゃない。これはあくまで余興ですから」
  余興という言葉が癇に障ったのか、ラヴェイルの表情がさらに険しくなる。アランは無自覚なのだろうが、これ以上相手を煽ってどうするつもりなのか。もう絶対に大丈夫じゃない。
  顔を青くするユリナに気づく様子もなく、アランは隣で我関せずを決め込んでいたウォルターを振り向いた。
「ウォルター、彼女を頼む」
「はいはい。任されましょう」
  そう言い残してさっさと広間の外へと向かってしまうアランの背中を追う隙もなく、白い手袋に包まれた手がユリナの視界を遮った。
「さて、レディ・クロムウェル。この一時、美しい貴女をエスコートする栄誉を、私に与えてくださいますか?」
  いかにも優しげな笑みを浮かべて、ウォルターが手を差し伸べてくる。それはまるで、絵本に登場する王子様のように優雅で品のある所作だった。
  しかし、そんな絵に描いたような色男の仕草にも、もはやユリナの心は全く動かされない。元はと言えば、この男とラヴェイルが勝手に始めた争いだったのに、なぜアランが巻き込まれなくてはいけないのか。
「サー・ウォルター。わたくし、相手によってころころと態度を変える殿方を信用してはいけないと、故郷の母に言い付かっておりますの」
  差し出された手を無視して毅然とした態度で言い切ると、ウォルターが少し意外そうに翡翠色の瞳を瞬いた。
「これは手厳しい。ですが少なくとも、女性に対しては常に平等に接しているつもりですよ。平等に、敬意を持って、ね」
「なら、わたくしの事は女と思っていただかなくて結構です!」
  ウォルターの横をすり抜けて、既に続々と広間を後にして行く客人達の波に混ざる。みんな勝手だ。ウォルターもラヴェイルも国王も、そしてアランも。端で見ている私の気持ちなんて、誰も想像すらしないのだろう。

  物見高い人々の群れに流されるまま行き着いた先は、宮廷の中庭の中心部だった。所々に花をつけたマロニエの木立に囲まれ、緑の芝生が絨毯のように敷き詰められたそこは、晴れた日の昼間ならピクニックに最適だろう。しかし今は、広場の中央で人相の悪い男が二人、お互いに鋭い眼差しで睨み合っているせいで、ピクニックなどという穏やかな雰囲気にはほど遠い。
「……辞めるなら今のうちですよ、クロムウェル卿。これ以上は私も後に引けません」
  口元を引き攣らせながらも慇懃に告げるラヴェイル。対するアランは、白いレースのジャボに指をかけて、首元を緩めながら事も無げに返す。
「それには及びませんよ。皆さん集まったようですし、早く終わらせてしまいましょう」
  そう言ってアランがちらりと視線をやった先を見てみれば、一際大きなマロニエの木の下に、なにやら愉快げな表情を浮かべる国王の姿があった。もっともらしい事を言っていたが、この方にとっては本当にただの余興でしかないのかもしれない。
「なかなか大事になりましたねぇ」
  呑気な声に振り向いて見れば、いつの間にか追いついて来たらしいウォルターが、そこに立っていた。
「サー・ウォルター……」
「あまり前に出ない方がいいですよ。万が一にでも巻き込まれたら危険です」
  肩をすくめながらウォルターが言う。巻き込まれただけで危険が伴うような事を、今から貴方の上官がやらされようとしているのに何も感じないのか。ユリナがそう詰め寄ろうとした時、
「え……」
  薄暗かった中庭に、突然光が差した。それはまるで、いきなり昼間になったのかと錯覚してしまいそうなほどの眩しさで照り輝いて、芝生の上に濃い影を落としている。驚いたユリナが光の方を振り向くと、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
  周囲からは、感嘆の吐息や驚異に息を呑む気配が伝わってくる。けれどユリナは、ただただ言葉を失って立ち尽くす事しか出来なくなっていた。
  より一層険しい顔つきになったラヴェイルが、天に向かって差し出した指。その人差し指が示す先に、小さな太陽が生まれていた。
  ラヴェイルの指先で、生き物のようにその身を揺らめかせながら脈動する火球は、暴力的なほどに激しい美しさと、見る者の瞳を焼き尽くすほどの眩さを放っている。それはまさしく、太陽以外の何物でもなかった。太陽さえも意のままに操る魔術師だというのは、比喩ではなかったのか。
「さあ、もう後戻りは出来ませんぞ……!」
  気づけばラヴェイルの額を飾る宝石が一際強く輝き、血のように赤い光を放っていた。そして彼が天を指していた手を開いた瞬間、その動きに反応するように、火球が輝きを増した。その直後、光の球の表面が解けるように帯状の形へと変わって、一斉に向いに立つアランに襲いかかる。
「アラン様……!」
  国王に貸し与えられた宝剣に手をかける隙もなく、アランの体が炎に包まれる。足元の青い芝生が一瞬にして消し炭に変わる、青臭く苦い匂いがユリナの鼻をついた。
「降伏するのなら、陛下に拝借した剣を炎の外に投げ捨てなさい! さもなくば炎の壁の中で窒息しますよ!」
  指先をアランの方に向けたまま、ラヴェイルが叫ぶように言う。だが天を衝くほどの巨体な炎柱からは何の答えも返ってこない。ラヴェイルの言葉からして、直に体を焼かれているわけではない。しかし燃え盛る炎に取り囲まれていては同じ事だ。
  こんな……こんなのは、あんまりだ。ただの一方的な見せしめじゃないか。
  耐えきれなくなったユリナは、ラヴェイルを止めるために駆け出そうとした。けれどその直前でウォルターの背中に阻まれてしまう。
「お転婆な方ですねぇ。近づいては危ないと言っているではありませんか」
「サー・ウォルター! そんな事を言っている場合ですか! 今すぐ止めないと……」
  言いかけた言葉を制するように、ウォルターがこちらを振り向く。
「落ち着いてください。わざわざ止めに走らなくとも、どうせ長くは持ちませんよ」
「なにを……」
  ユリナの反駁を掻き消すように、周囲からどよめきがあがった。見れば、星空さえ焼き尽くしてしまいそうだった炎の壁が、若干その火勢を弱めているではないか。余裕そうだったラヴェイルの顔にも、少し汗が滲んでいる。
「どうして……?」
  そのまま手を緩めなければ簡単に制圧できてしまうのに、なぜわざわざ加減するような真似を。
  ユリナの疑問に答えるように、ウォルターがラヴェイルの方へちらりと視線をやった。
「魔術というのは確かに圧倒的な力ですが、何の制限もなく使える訳では無い。『マナ』と呼ばれる魔力の素……いわば魔術を扱うための燃料がなければ発動できません。ラヴェイルが保持している魔力はこの国一番と言われていますが、それでもあれだけの大技を使えば、あっという間に燃料切れを起こすでしょう。……そうですね。あの調子なら……」
  眩い炎を反射して、ウォルターの瞳が一瞬妖しく煌めいた。
「もって、十五秒」
  その言葉とほぼ同時に、アランの周囲を取り巻いていた炎が、まるで砂糖菓子が溶けるように見る間に解けて消えてしまった。その奥から、両腕で顔を庇うようにしていたアランの姿が現れる。若干髪が乱れているものの、見て分かるような怪我は無いようだ。
「アラン様……! 良かった……」
  ほっと息を吐くユリナを見て、ウォルターが少し微笑む。
「確かに見た目には恐ろしい力ですが、底が見えていれば耐えられないという事はありません。まして、まだお若いとはいえ、アラン団長はグランツ前団長に鍛え上げられた一流の剣士。魔術師ごときに後れを取るはずがありません」
「魔術師ごとき、って」
  ユリナの戸惑いが消えないうちに、今度は金属が擦れる鋭い音が響いた。アランが腰に下げていた剣を抜き放ったのだ。
「それで終わりですか。フレイモア卿」
  挑発するような台詞に、ラヴェイルの口元が引き攣る。
「……舐めてもらっては困りますね。私とて、伊達や酔狂で『最強』などと呼ばれている訳では無いのですよ」
  静かな声でそう呟いて、ラヴェイルが再び手を上げる。そうして真っ直ぐにアランを指した指を中心に、三つの火球が生まれた。しかし、今度の物はひとつが握りこぶし程度の大きさしかなく、先程のように人間ひとりを覆うほどの障壁は生み出せなさそうだ。
「ご覧なさい、案の定魔力切れですよ。まあ王宮内の灯りの管理を一任されている上に、あれだけの魔術を使えば当然でしょう。後先を考えずに大技を使いたがるのは彼の悪い癖です」
  ウォルターが呆れた調子で言う。都市部の灯りはラヴェイルの部下であり同じく炎使いの魔術師達が分担して管理しているはずだが、この王宮内の物は、ラヴェイルがほぼひとりで調整している。先程の魔術師の間にあった、何千という蝋燭の炎も、全てこのラヴェイルの魔術で灯しているものなのだ。
「そのうえで、あんな巨大な炎を生み出せたっていうの……?」
  『最強』という、ともすれば安っぽくも聞こえる言葉の本当の意味が、今更ながら実感を伴ってユリナの中に染み込んできた。アランはそんな相手と、あんな細身の剣ひとつで渡り合おうとしている。なぜウォルターがこんなにも楽観的でいられるのか、まるで理解できない。
  先程以上の不安を抱えたユリナが振り向いた先では、まるで意志を持っているかのように揺らめく火の玉が、ふわふわと空を舞っている。
「さて……ここは真っ向勝負といきませんか、クロムウェル伯爵。あまり長引かせては皆さんを退屈させてしまいますからね」
  ラヴェイルが少し掠れた声で言う。それはもしかすると、ウォルターの言うような魔力切れを誤魔化すための発言なのかもしれない。けれど対するアランの顔には、余裕も、そして焦りも見られない。
「もとより私はそのつもりですよ」
  短く答えて、借り物の剣を構え直す。ラヴェイルも、見ている客人達も、もう何も言わなかった。
  ラヴェイルの手元から離れた火の玉が、円を描くように飛び回りながら、徐々に勢いを増してアランの元へと向かう。一つ目の火球がその足元に落下して、僅かに燃え残った芝を火の粉と共に巻き上げた。その寸前でアランが背後に飛び退って舞い上がる火の粉を躱したものの、もうひとつの火球がその背中を捉える方が一瞬速かった。
「アラン様……!」
  思わず夫の名前を呼びながら両手を握り締める。彼の背中が炎に焼かれる様を想像してしまったからだ。
  しかし、その光景は現実にはならなかった。
「嘘……」
  炎が、真っ二つに裂けた。アランが振り向きざまに叩きつけた剣先が火球を切り裂いたのだと気がついたのは、二つに割れた火の玉が、アランの体の脇をすり抜けて夜気に溶けた後の事だった。
  それまで固唾を飲んで見守っていた客人達も、これには感嘆の吐息を洩らす。しかしユリナの隣に立つ男……ウォルターだけは、その表情を緩めない。
「まだですよ」
  ウォルターが囁いたのとほぼ同時に、夜空に火花が弾けた。そうだ、ラヴェイルが生み出した火球は三つ。初めの二つを囮にして、残る一つは既にその死角へと移動していたのだ。
「さすがに、これは避けることも斬ることも出来ないでしょう?」
  ラヴェイルの言葉通り、それはまるで花火のように千々に乱れ飛んで、アランの頭上に降り注いだ。
「……たしかに、全て躱すのは無理そうですが」
  ぼそりと呟くアランの声が聞こえる。
「避けられないなら、受け止めればいい」
  そう言って、アランは一歩もその場を動くことなく、眩しさを避けるように腕を翳しただけの姿勢で、降り注ぐ火の粉を真正面から受け止めてみせた。衣類や髪の焦げる、微かな匂いが鼻をつく。
「……無茶をする」
  少し顔を顰めたラヴェイルに、アランは相変わらずの無表情のまま、顔を庇っていた手を下ろして答えた。
「この身を盾にする事も、我々の役目のうちですから。……それに、あれだけ細分化されてしまった炎では、直に受けたところで延焼もしないし、威力も知れている。分かっていて加減してくださったのでしょう」
「……ふん、どうですかね」
  淡々としたアランの言葉に苦々しい口調で返したラヴェイルの手からは、もう次の炎は生まれない。それを見てとったアランが剣を収めるのを合図にして、豪快な拍手の音が中庭に響いた。
「素晴らしいぞアラン! 我が国が誇る魔術師を相手に一歩も引かぬとは!」
  陽気な声で言いながら、鷹揚に歩み寄ってきた国王がアランの肩に手を回す。といってもアランの方が背が高いため、ぶら下がるような格好だが。
「しかしまだ成長の余地もあるな。お前の父なら、初めの火柱すらも一太刀で切り裂いてみせただろう。今後も励めよ」
「……精進します」
  平坦な声で答えたアランの手から、貸し付けていた宝剣を受け取った国王は、そのままラヴェイルの方へと向き直った。
「お前も見事な働きだった、流石だな。 ついさっき宮殿の灯りがいきなり半分ほど消えてしまったと、メイド達が血相を変えて飛び出して来たがな」
「……半分で済んだだけ良かったと思っていただきたいですね」
  からからと笑う国王の前で、ラヴェイルが顔を顰める。実際かなりの無理を通したのだろう、夜目にも分かるほど、今の彼は死人のような顔色をしていた。
「アラン様!」
  そんな国王やラヴェイルと二三言葉を交わしたアランは、ユリナの姿に気づいたようで真っ直ぐこちらに戻って来た。慌ててその傍に駆け寄るユリナの後ろで、ウォルターが小さく微笑む。
「お疲れ様です、団長。見事なご活躍でした」
「手加減されていたうえに、相手が枷を付けていたようなものだったからな。全力で殺しに来られていたら、初めの火柱で消し炭になっている」
  乱れた前髪を撫で付けながら、アランがため息を吐く。その頬には、ところどころ小さな火傷の跡があった。
「本気の殺し合いなら、彼がちまちまと魔力を集めている間に斬り伏せて終わりでしょう。前衛で剣士に守られねば術のひとつも放てない、そして魔力が尽きれば何も出来ない。一対一の戦いで、魔術師が剣士に敵うはずがありません」
  まだ近くにラヴェイルがいるというのに全く発言を配慮しようとしないウォルターに、アランが厳しい表情で眉を寄せる。
「ウォルター……お前の魔術師嫌いは知っているが、もうその辺りで辞めておけ。これ以上お前とフレイモア卿の諍いに巻き込まれるのは御免だ」
  そう吐き出すアランは、この数時間ですっかりくたびれきってしまったようだ。無理もない、一連の騒動はアランからすれば完全なとばっちりだったのだから。
「ところでアラン様。お袖が……」
  口を挟む機会を窺っていたユリナが、小声で訴えながらアランの袖を軽く引っ張る。彼の手首を覆い隠すように袖口を飾っていたはずの真っ白なレースが、ところどころ焼け焦げて汚らしい落ち葉のような色になってしまっているのだ。
「ああ……先程の火の粉で焼けてしまいましたね。この程度で済んで良かった、というところでしょうが」
  事も無げにそう言って、アランが己の服を確認する。しかしその横で見ているユリナの方は、それどころではなかった。よく見れば袖飾りだけでなく、左の腕から肩にかけて施されていた見事な金糸の刺繍も一部が焼けて解れているではないか。なんてもったいない。
「ねえアラン様……この服の仕立て代、陛下かフレイモア卿に請求できませんの?」
  上目遣いにそう訊ねてみたが、「はしたないですよ」と一蹴されてしまった。彼は何も分かっていない。こういう出費の積み重ねが貧乏に繋がっていくというのに。
  未練がましく袖のレースを見つめているユリナに視線をやって、ウォルターがふと破顔した。
「しっかりした女性に来ていただけて良かったですねぇ。我らが団長は、少々お人好し過ぎるきらいがありますから」
  口元に手を当てて笑うウォルターを、アランが軽く睨む。
「……お人好しで悪かったな」
  そう言ってムッとした表情を見せたアランの横顔は、少しだけ、年相応の青年らしく見えたのだった。
しおりを挟む

処理中です...