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第二章 青色の魔法

3話 使えない魔術師

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  アランが宿の主人と対面した頃、ユリナはクロムウェル邸で客人を迎えていた。正確には迎えたというより、気がついたら入り込んでいた、というほうが正しいかもしれない。
「一体何の御用があっていらしたんですか」
  応接室のソファに腰掛けて、来客用のティーカップを優雅に傾けている男を、ユリナは苦々しい思いで見つめた。しかし、当の本人──ウォルター・カーライルは、涼しい顔で笑うばかりだ。
「何の用とはご挨拶ですね。我らが団長に貴女の補佐を務めるよう指示されたので、早速様子を見に来たのではありませんか」
「確かに、なにか手に余ることがあれば、あなたを頼るようにと言われました。けれど、生憎まだ何も起きていませんわ」
  無愛想に告げた言葉を聞いた途端、ユリナの後ろに控えていたラスタが、恐縮したように首をすくめた。
「申し訳ございません、奥様……騎士団の方がいらっしゃった時は必ずお通しするようにと、旦那様に言付かっておりましたので……」
「ああ、いえ、ごめんなさい。あなたに対して怒っているわけじゃないのよ、ラスタ」
  ラスタはあくまで自分の仕事をしただけだ。その彼女の前で不機嫌を顕にするのは、八つ当たりでしかない。
「ありがとう。あとは私がお話を伺うから、あなたは下がっていいわ」
  そう言ってラスタを下がらせると、ユリナはウォルターの向かいに腰を下ろした。決して隙を見せないように、背筋を伸ばして唇を引き結ぶ。
  目の前で一見優しげに微笑むこの男の事を、ユリナは全くと言っていいほど信用していなかった。だって、以前夜会で話した時も、そして今も、彼の目は一切笑っていないのだから。本心を見せない相手に、心を許せるはずがない。
「ここは相変わらず、良い茶葉を使っていますねぇ」
  のんびりした調子で言いながらも、翡翠ひすいのようなその瞳は油断なくユリナを見据えている。なんだか値踏みされているようで、あまり良い気はしない。
「本当に、ただ様子を見に来られただけなんですか?」
「ええ、そうですよ。貴女は敬愛すべき上官の奥方ですから、ご機嫌を取っておいて損はないかと思いまして」
  などと馬鹿正直に伝えてくる時点で、本当に機嫌を取る気はないのだろう。
  どうやらこの男は、ユリナの前では猫を被らない事に決めたらしい。女扱いするなと言ったのはこちらの方だが、これはこれで腹の立つ態度だ。
  警戒心を剥き出しにするユリナの視線を受け流しつつ、ウォルターは手袋をしたまま器用にティーカップを扱っている。彼も貴族の出だと言うだけあって、手馴れた所作だった。
「そういえば、ウォルター様はずっと手袋を着けていらっしゃるのね」
  先日の夜会でも、その前にウォルターと初めて会った結婚式の日でも、彼が頑なに白い手袋をはめたままだった事を思い出して、ユリナは素直な疑問を口にした。
「ああ……これは失礼。あまり人目に晒したくない事情があるもので」
「人目に晒したくない……もしかして、手袋の下に魔導具を着けておられるんですか」
  軽い気持ちでユリナがその言葉を発した途端、ウォルターの表情が一瞬歪んだ。今までの貼り付けたような笑顔とはまるで違う、険しい表情。おそらくこれが彼の素なのだろう。
「なぜ、そう思うんです」
  露骨に不機嫌そうな声で、ウォルターが訊ねてくる。ずっと余裕ぶっていた彼の仮面を剥がしたかと思うと、ちょっとだけ気分が良かった。
「あなたが魔術師だということは、アラン様から伺っていました。それなのに魔導具らしき装飾品を着けていらっしゃる様子がない……それに、ウォルター様はずいぶん魔術師を嫌っておられるようでしたから、ご自身がそうだということを、あまり知られたくないのかと思ったんです」
「……なるほど」
  ウォルターは眉を寄せたまま、ユリナから視線を外して吐き捨てた。さっきまでの嘘臭い笑顔よりも、こちらの方がよほど人間味がある。
「これは単純な興味からお訊ねするのですけれど、ウォルター様はどうして魔術師である事を隠すのですか? 名誉な事ではありませんか」
「……名誉、ね」
  ユリナの言葉を反芻はんすうするその声には、どこか嘲るような色が滲んでいた。
「生憎ですが、私はその肩書きを名誉な物だとは思いません。なにしろ私は、魔術師としては使えない人間なので」
「使えない……?」
  それは、少々意外な台詞だった。あんなにも自信ありげに王宮の高官に噛み付いてみせた男が、自らをそんな言葉で言い表すとは。しかもウォルターの口調から察するに、単なる自虐でもなさそうだ。
  ウォルターはソファの背もたれに肘をかけ、冷めた瞳でユリナを見返して問う。
「そもそも貴女は、素質さえあれば誰でも魔術師になれるという現状をどう思いますか?」
「どうって……それは、素晴らしい事だと思いますわ。身分に関わらず、能力ある者には平等な機会が与えられるのですから」
  ユリナは正直に答えたつもりだったのだが、ウォルターはあろうことか、それを鼻で笑い飛ばした。
「能力ある者に平等な機会を……なるほど、とても耳触りの良い言葉だ。けれどマダム、それはまやかしですよ。そもそも与えられる能力自体が平等ではないのだから」
「……どういう事ですか、それは」
「言葉通りの意味ですよ。ひと口に魔術師と言っても、皆が皆、ラヴェイルのように分かりやすく強大な魔術を使える訳じゃない。その力が役立つ物だとも限らない。……少なくとも、私が引いたのはとんでもない外れくじだった。そういう話です」
  白けたような口調でウォルターが語る。そんな話は、考えたこともなかった。ユリナのように何の力も持たない者からすれば、魔術師達は皆同じように畏れるべき存在で。けれど本当は、彼らの中にも格差はある。考えてみれば当然の話だ。魔術師達だって人間なのだから。
  ユリナが何も言えないのを見て、ウォルターは少し肩をすくめた。
「『身分に関わらず』という部分にしても、私のようなの魔術師からすれば、随分残酷な話でしたよ。魔術書を読むことすらままならない農家の子供達に比べれば、曲がりなりにも貴族の子としての教育を受けてきた私は、遥かに優位に立っていたはずでした。けれど、多少の知識や地位なんて、何の意味もなかった。なにしろ私には、努力することすら許されなかったのだから」
  その口調は茶化すような色を帯びていて、けれどそれは、彼が何度も何度も繰り返してきた諦めの果てに出た言葉なのだろう。
「……では、ウォルター様が魔術師ではなく剣士になる道を選ばれたのは」
「魔術の才能に恵まれなかったので、代わりに腕っぷしを鍛えることにしたのです。単純でしょう?」
  そう言って笑ったウォルターは、いつものような裏の読めない表情へと戻っていた。
「すみませんね、つまらない話を長々と」
「……いえ、大変興味深いお話でしたわ」
  嘘ではなかった。少なくともユリナの中で、ウォルターは『得体の知れない怖い人』から少し遠ざかったのだから。
  それっきり会話が途切れ、二人の間に若干気まずい沈黙が流れた。ぎこちない時間を埋めるように、窓の外から雨音が響いてくる。
「雨、なかなか止みませんね……」
「そうですね。もう十日近く降り続いているのでしたか」
  そう言って、ウォルターが窓の向こうに視線を送る。憂いを帯びた美形の横顔は、まるで絵画の情景が現実にそのまま現れたかのようだった。
  しかし、ユリナが興味を惹かれるのはいつだって、色鮮やかで美しい絵画よりも、白と黒で書かれた活字の世界の方だ。
「ねえ、ウォルター様。マルレスタで一週間以上も雨が降り続いた例は、ここ五十年で一度も無かったようですよ」
「ほう。なぜそんな事をご存知なんです?」
「以前、屋敷の蔵書の中に、数十年分の気象情報を記録した本を見つけて、一通り読んでみた事があるんです。もちろん、お義母様がご存命の頃の記録ですから、今から二十年以上前の物ですけれど、ここ数日の雨模様を見ていたら、ふと気になって。それで私個人でも、最新の資料を集め直してみたんです」
  ユリナとしては、自分の発見を自慢するつもりで言ったのだが、それを聞いたウォルターは、なぜか苦い物を食べさせられたような顔をした。
「そんなものを収集している先代の奥方も大概ですが、それにわざわざ目を通す貴女もどうかしていますね……気象記録なんて読んで何が楽しいのですか」
  何が楽しいのか……と言われれば、それはもちろん、文字を読むこと自体である。ウォルターには理解出来ないのだろうが、活字中毒の人間は、目の前に文字があると読まずにはいられないのだ。その文字列に意味が有ろうと無かろうと関係ない。
  ましてや義母が存命だった頃は、今より印刷技術も識字率も低く、本そのものの流通が少なかった時代だ。気象記録だろうが、軍学書だろうが、文字の書かれた物を片っ端から集めようとしたのも頷ける。
「はあ……まあ、この家のご婦人方がどんな趣味をお持ちでも結構ですが、確かに妙な話ではありますね。……実を言うと、私も気になってはいたのですよ。先日王都へ赴いた際に知ったのですが、この雨はオース街道周辺の、ごく限られた地域にしか降っていないそうです。むしろ王都の方は晴れ続きで暑いくらいでした。だと言うのに、この地域でだけ、ここ数十年でも類を見ない程の異常気象が続いているとは……」
「……なにか、良くない事の前触れでしょうか」
「さて。教会の者なら神の怒りがどうのと騒ぎ出すところでしょうが、生憎私は目に見える物しか信用していませんので」
  ウォルターらしい発言だ。とはいえユリナとて、納得のいかない事を全部神様のせいにする気はない。もしも、この止まない雨に何か原因があるとするなら。
「ウォルター様。たとえばの話なのですが……そう、たとえば……魔術で雨を降らせる、といった事は可能なのでしょうか」
  ユリナの問いの意味を察したのか、ウォルターは思案するように若干眉を寄せた。
「この雨が魔術師の仕業であると……?」
「ですから、たとえばの話ですわ」
「ふむ……」
  そう呟いて、ウォルターは顎に手を当て、視線を彷徨わせた。一蹴されるかと思ったが、意外にもまともに取り合ってくれるらしい。
「学園の同期にも水を操る魔術師は何人かいましたが、こんなにも長期間、天候を左右するほどの使い手となると……さすがに思い当たりませんね」
「と、いうことは……やはり不可能なのでしょうか」
  明らかに落胆した様子のユリナを見て、ウォルターが苦笑する。
「不可能、と言い切る事はできませんよ。今ではそのほとんどが失われていますが、遥か昔には、現代では想像もつかないような恐ろしい魔術の使い手がいたそうですから。少なくとも、神の奇跡よりは、よほど現実に起こりうる話だ」
  そう言ったウォルターの瞳が、妖しく揺れる。
  神の奇跡を現実に起こせるのなら、それは……その魔術師自身が、神にも等しい存在だという事になりはしないか。
  ユリナは軽く頭を振って、自分の中に浮かんできた考えを追い出した。馬鹿馬鹿しい。ウォルターは、あくまで可能性があると言っただけだ。遥か昔に失われた魔術なんて、そんなのは神話やおとぎ話と同じだ。
  魔術師なんてタグ付けされた家畜と変わらないと、そう吐き捨てた少年の言葉を思い出す。いいや、彼らは家畜でも神でもない、同じ人間だ。そんなのは分かりきった話じゃないか。
  そう。分かりきった話のはずだ。それなのに、何故だろう。
  目の前にいる彼が、また遠ざかっていくような気がしてしまうのは。
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